彼女の瞳に映るメールボックスには、遠くに暮らす愛しい人の、日常を語る優しい言葉があふれている。
Subject: Chotto kazegimi.
Message: Kinou,ryou no shawar ga kyuuni koshou shita......
――ちょっと風邪ぎみ?
彼女は目で読み上げ、そっと微笑む。ローマ字を読むのもだいぶ慣れてきた。シャワーが故障したくらいで、……夏だって言うのに。
Daijoubu?
と、返信を書き始めた。
* * *
野之坂ミチオは、あさま525号の窓際席に座っていた。
実家に帰るのは正月以来だ。大学に入って2度目の夏休み。名古屋から群馬まで帰る道のりは遠い。ごちゃごちゃと混雑した東京駅で乗り換えないといけない。お盆をずらして来たのにも関わらず、上越新幹線の車内はわりと混んでいる。
大宮駅を通過したあたりで、メールが届きポケットが震えた。
――えー、ういろうなの?
何でもいいだろう、とミチオは口をとがらす。気を使う相手でもないが、メールでは一応謝っておく。
青い田んぼと墨色の工場がただ行き過ぎる、そんな窓辺にまた視線を戻した。
会いたくて、会いたくて仕方ない女の子がいる。
コオロギ。
と、ミチオは呼んでいる。彼女とは同じ高校だった。大学は、ミチオは名古屋に、彼女は東京に、と別々になった。
最初は苗字にさん付けして呼んでいたが、ある休み時間に、飼ったことのあるペットの話をしていて、彼女は「コオロギしかない」と言った。「コオロギってペットかよ」と皆の笑いを誘い、その日から何となく「コオロギ」が愛称になった。彼女は目が大きくて、ちょうど夏休み明けでよく日に焼けていたせいもある。
いま考えるとひどい話だが、彼女もわりと普通によろこんでいた気がする。
そういう子なんだ――。
気兼ねなく、受け入れてくれる。他意もない、僕らのバカ話を。
だから会いたい。会って話したい。いろんなことを、たくさん。
そんな想いが募って電話をしたら、彼女も夏に帰省するというので、ミチオは帰る日をそれに合わせて決めた。
ミチオは、まだ童貞だ。周りにはそれを隠している。
最初こういうものは、自然のなりゆきのままに、と思っていたのが――甘かった。自分をかっこいいとは思わないが、いつの間にか逃したチャンスもあった気がする。大学二年はやっぱり遅い。けれども、せこせこ小細工するのは性に合わない。
この夏、本気で狙って砕けた痛みから、余計そんな気持ちに戻りつつある。
サークルの新入生で、気に入った女の子がいた。下宿生と聞いて安心し、大学生にもなって自転車に乗れないと聞いて、明らかに心が動いた。それから、あれこれ手を尽くして頑張ったが、その想いは夏休みを前にして破れた。
結局、一年上のあまり目立たない先輩が、他を出し抜いて見事に持っていったのだ。聞くところでは、先輩が彼女の自転車の練習に丸一日付き合って、彼女はちゃんと乗れるようになったらしい。「何だそりゃ、あいつは父親か」
ミチオは悔しくて、やり切れなくて――簡単に言うと、引きずっている。
でも、コオロギに会いたいのは、別にやましい気持ちではない。
誰の目も気にせず、見栄を張らず、背伸びをせず、ただこのモヤモヤを胸の外に出したい。話したい。聞いてほしい。笑ってほしい。
それだけだ。――それだけでいいんだ。
ミチオは実家で一晩過ごし、翌日の昼、コオロギとの約束に出かけた。親に車の鍵を借りる時、あれやこれやと子どもみたいな注意をされた。ガレージから車を出そうとすると、家の自転車が邪魔をしていて、ミチオは何となしに荒っぽくそれをどかした。
駅前に車を止め煙草を吸っていると、コオロギは時間通りに改札をくぐり、ミチオを見つけて小走りに駆けて来た。タンクトップとパンツルックにスニーカー。雰囲気は昔と変わらないが、少し大人びた印象を受ける。タンクトップの下に黒のキャミソールを着て、うっすらと化粧をしている。
コオロギは太陽の下に出ると、つばの広い帽子をかぶった。
「言った通り、車で来たよ」
「えー、やったー。どこどこ?」
大きな目をきらきらさせて、ミチオの顔を覗きこむ。
親の車だから別に威張れるわけでもない。でも、うれしかった。
まず学校に行こうと言うと、コオロギは笑顔で頷いた。
駅前で見た時は特別何も感じなかったが、助手席に座り、帽子を取って、栗色の髪が日に焼けたまるい肩の素肌に垂れた時、ミチオは言葉もなく、ただその横顔を見つめていた。
恥ずかしくなって、ラジオやエアコンのスイッチを何となくいじる。
「名古屋はどう?」
「えっ、いいとこだよ。俺の学校は、ちょっと中心部から離れてるけど」
と返して、ミチオは学校や一人暮らしのことを少し喋った。コオロギは一つ一つ楽しげに相槌をしたが、晩ご飯も学食で済ます時が多いと話した後に、
「ミッチは、彼女はできた?」
と突然訊いていた。ミッチというのは、ミチオの愛称だった。
「えー、いやー、まだ……だな。この前、惜しいとこまでは行ったんだけどね」
「惜しいとこまでって?」
何をどこまで答えればいいのか。ミチオは何となくこの話題から離れたくて、
「告ったら、やっぱり友達のまんまでいましょうって、言われちゃった」
それは、適当に思いついた嘘だった。
「友達のまんまか、――そういうの、あんまりだよね」
「えっ。うん、まあね……」
あんまり、という言葉がコオロギの口から出たのが、正直ミチオには解らなかった。これまでずっと、誰とでも、友達のまんまだったじゃないか。
――ずっと、友達でいようね。
こんなドラマでしか聞かないような台詞を、卒業式の近づく頃、臆面もなくみんなに言って回っていた。単に連絡を取り続けよう、という意味だったのだろうか。
ミチオが言葉に詰まると、コオロギは話題を換えてしまい、そのあたりのことを何も確かめずに、宙ぶらりんに途切れた。
学校に着いてすぐ、コオロギは玄関で足を止めた。
ミチオは職員室に挨拶するつもりでいたが、コオロギは二人一緒に行くのは照れると言った。わたしは東京だし、近いからまた別の日に来るというので、ミチオはそこに待たせて二階へと上がった。
三年のクラス担任には前もって伝えておいたので、先生は来て仕事をしていた。日に焼けた卵形の顔。頭髪が薄くなり、頬髭が濃くて、まるっきり椰子の実のようだ。
先生はコーヒーを入れると言って腰を浮かせた。ミチオは遠慮しようと思ったが、卒業生になって初めて飲む、職員室のコーヒーの味というものが気になって、断るのを止めた。
元気でやってるか、学校はどうだ。――はい元気です、楽しくやってます。という代わり映えのないやりとり。職員室の古い紙の匂い、セロテープで汚れた壁、プリントに埋もれたでかいパソコン。そういう垢抜けないものに包まれて呼吸する、居心地を確かめる。
話の最後に、先生は「OBブック」と書かれたノートの束を机の抽斗から取り出した。自分の年度のものを手に取りペラペラめくると、懐かしい名前が次々に飛びこんでくる。友達や彼女と撮ったプリクラを貼っているやつもいる。
ミチオはじっくり読みたかったが、玄関に待たせているコオロギを思って、ペンを取り手短に済ませた。書きながら、ふと、思う……。
何日かしたら、コオロギもこれを開くのだろうか。
それなら、コオロギの後に書きたかった。
――あの子はどんなことを書くんだろう。
玄関に戻ると、コオロギは靴を脱いで上がり、廊下の壁の落書きを眺めていた。コオロギが、ミチオの足音のほうに振り向く。
「壁のペンキ」
「うん?」
「最近、塗り替えたみたいで、わたしたちが書いたの、消えちゃってる」
「あれ、卒業式の日だよな。みんな、何て書いたっけ」
――何て書いたっけ?
ミチオは不意に懐かしさが胸にこみ上げ、やっぱりいますぐ二階に戻り、OBブックをじっくり読みたい衝動に駆られた。コオロギに正直に言おうか。でもそれじゃあ、子どもと一緒だ。
「ミッチのはねぇ、ごめん、忘れちゃった」
「えっ、うん……」
ミチオが苦い顔をすると、コオロギは笑った。
窓の外は夏色の熱に白く輝き、人影のない廊下に彼女の笑い声はよく響いた。
二人は学校を後にして、近くを車でうろうろした。
帰りがけによく通ったパン屋がなくなって宅配ピザ屋になっていたり、児童公園のプラネタリウムが閉館になっていたり、置いてきた時間の流れを少しずつ埋めるようにして、午後の時間をゆうゆうと過ごした。
やがて、夕焼けが空を焦がしていく。
ミチオが利根川の土手を歩こうと持ちかけると、コオロギは跳ねるようにきゃあきゃあと騒いだ。川辺を目指し国道17号線に乗って、湘南でもないのに、サザンのアルバムをかけると車の中は嘘みたいに盛り上がった。
途中、コンビニで小さな花火セットを買った。この時、一緒に飲み物も買えばよかったのだが、二人とも騒いでそこまでとても気が回らない。
夕陽に追い立てられるように、二人して車に走って戻った。
利根川は広く、青々とした芝生が一面、茜色に染まっている。緑色の鉄橋の向こうに、大きなまるい夕陽がほわぁんと浮かんでいる。久し振りに来た気がする。
たっぷりと流れる水面をなでる、湿ったゆるい川風。草の匂いと、土の匂いと、コオロギは帽子を被らずに、誘われるように川べりに立った。
「うわー、利根川だぁ。きれい――」
ミチオは車のドアを閉める。花火の袋を手に提げ、コオロギの横に並ぶ。
自分を見下ろすでっかい夕陽が頭の中でじんわりと揺れる。
輪郭がぼやけ、胸に残った妙な高鳴りが身に迫る。
ミチオはコオロギの背を軽く押し、歩き始めた。
コオロギはよく喋った。学校のこと、友達のこと、バイトのこと。ミチオもそれに合わせて口数が増えた。けれども、お互い恋の話題はあれから進める気配がない。
それは踏み入らない距離なのだろうか、ミチオは少し迷う。自分のことは訊かれれば、いくら話したって構わない。ただ、コオロギのほうは、誰か、いるならいるでいいけど――知らなくたっていい、そんな気もする。
伸びた雑草を踏む感触が、さくりさくりと靴の裏に伝わってくる。ミチオの相槌が少し鈍くなると、コオロギは「そろそろ花火する?」と声をかけてきた。当てのない思案をめぐらすミチオの顔が、彼女には退屈したふうに見えたみたいだ。
土手を少し下りて、テトラポットに接する平らなコンクリートの突き出しを見つけ、そこに座り込んだ。川べりを丹念に塗りつぶす温かい夏の闇に包まれ、一本目の先っぽに火が灯る。
コオロギの驚いた笑顔が、パアアと明るく照らされて、黒い瞳に青い火花が映った。栗色の髪を掻き揚げ、花火の先をくるくると回す。
ミチオも自分のを持って、逃げるコオロギの花火の先を追いかける。花火の爆ぜる音に雑じって、コオロギの笑い声が心地よく耳に沁みる。
夏のど真ん中に、二人は小さな身をとっぷりと浸していた。
花火を半分くらい燃やした頃に、ミチオは喉の渇きを感じた。
訊くとコオロギも、ジュースが飲みたいと答えた。
車を停めた駐車場に自動販売機があったのを思い出した。ミチオはすっと立ち上がり、ちょっと買ってくるからここにいて、と言って土手を駆け上がる。
一人残したコオロギの顔を、ミチオは確かめなかった。
あのとき振り返れば、あの子はどんな顔をしていただろう――。
駐車場にはすぐ着いたが、高いフェンスが張られている。これくらい乗り越えられると手をかけたが、接合が悪くて驚くほど派手な音が甲高く鳴り響いた。しかも駐車場内に利用者が数人いて、視線がミチオのほうに集まった。
ミチオは仕方なく入口まで回ろうと思い、歩き出してみたものの、フェンスがなかなか途切れない。ミチオは途端に、自分の鈍さに頭が熱くなった。今日二度も、しかも今度は暗闇の中にたった一人、女の子を待たせている。焦って駆け出したけれど、結局かなりの距離を走ることになった。
やっとの思いでジュースを買い、休む間もなく走ってコオロギのもとに帰った。
草を踏み散らす足音で、コオロギが振り返る。花火はせず、ただ、小さなまるい背中を白い電灯にぼんやりと照らしていた。
ミチオは遅くなったことを何度も謝った。
コオロギはまた笑う。笑われたのかと思ったが、そうではなかった。
「ありがとね」
リンゴジュースを渡すと、コオロギは急に口をとがらせ、ミチオがもう一方の手に持つ炭酸飲料を指差した。
「わたし、そっちがいい。ねぇ、取っ替えてもいい?」
すっと受け取ると思っていたので、意外だった。――やっぱり、少し機嫌が悪いんだろうと思い、川風が少しさびしく感じられた。
甘ったるいジュースに一度だけ口をつけて、花火の燃えカスを手に持った。
「俺って、ダメだなー」
何となくその言葉が口をついて出る。
コオロギはミチオのほうに顔を向けた。背から受ける電灯が、不思議な陰影を浮き立てる。彼女の瞳と、栗色の髪は、川風に吹かれて水面のように揺れている。
ああ……分かってる、甘えてるんだ。コオロギは、何でも聞いてくれる。
高校までの、自分自身のいろんな部分を話してきた。数え上げればきりがない。ミチオが吐いた空気を、コオロギが胸で吸っている。いやらしい意味でも何でもなく、そういう空気の手触りが、あの頃は確かにあった。
いま、どれほど落ち着かない視線に囲まれて、過ごしているか。
きっと、つまらないことを、隠しているからだろう。
でも、言えない。僕は、よく知りもしない人間に笑われるのが嫌だ。
僕はかっこよくない。気も回らない。けど、そんなのは理由じゃない。
コオロギが、笑ってくれるのはいい。
――もう、話そう。
ミチオはコオロギのそばに少し寄った。
そして、何の前置きもなく、この夏に破れた恋の話を目一杯吐き出した。その女の子がどれくらい好みだったか、どんなことに惹かれ、彼女のために何を考えたか、彼氏になった先輩が普段どれほど冴えない人か、一度だけ女の子と夜明けまでずっと電話したこと、その片思いの結末をサークル内の噂で知ったこと、彼女に言葉で思いを伝えずに終わったこと。
そんな訊かれもしない話を綿々と喋り続け、ミチオは最後に芝生に仰向けになった。夏の星空が、悲しい顔して広がっている。
一気に喋り尽くしたせいで、コオロギは少しの間じっと黙っていた。
ミチオは何だか急に逃げ出したい気持ちになって、弱々しい言葉を出した。
「帰ろっか」
すると、コオロギは「もう少し」と返した。花火をするか、と訊くと、それはもういいと答えた。――こんなやりとりでは、コオロギが何を考えてるか解らない。しかし、ミチオはこれ以上、彼女に向ける適当な言葉が見つからなかった。
川風が、少し涼しくなってきた。
「ミッチはさぁ……負けないでよ」
「えっ?」
体を起こす。コオロギと目が合う。
「ミッチは、気持ちでは負けないじゃん」
「うん、まあ」 ――たぶんそれは、見栄っ張りなだけだ。
「途中で諦めないじゃん。自販機、結構遠かったんでしょ」
「それは、俺の思い違いだし」
「わたし、そういうとこ昔っから好きだから」
好き……。
ミチオの胸の中を、聞き慣れない言葉が駆け回る。
その好きは、どこまでの好きなのか。
僕は、彼女の中の、どの辺に立っているんだろう。真ん中か。外か。僕は、真ん中に……入れるのだろうか。
きっと、何かを踏み越えなければならない。何かとは、何だ。
――この答えは、僕のほうにある。
「ミッチなら大丈夫だよ」
話のつながりではない。コオロギの言ったその一言が、ミチオの中で勝手に何かを後押しした。
甘えよう。
彼女の真ん中の部分に、向き合ってみたい。
ミチオは彼女の背中に手を伸ばし、シャツを掴んだ。彼女は目を丸くして、身を強ばらせる。生まれて始めて出す言葉。顔が真っ赤に染まる。
「キスしていい?」
彼女は大きな目を不安げに揺らめかせ、ひとつ息を飲む。緊張で小鼻がふくらむ。その下にある薄い唇。ミチオはこんな間近の距離で見たのは初めてだった。
「なぁ」
すると、目いっぱいに、懼れの色が浮かんだ。そして咄嗟に、彼女はそれを隠そうと膝を抱え、顔を伏せた。
ミチオは思わず身を乗り出し、その弾みで、掴んでいたシャツをいっそう強く握り締めた。彼女は「うっ」とうめいて、自分のシャツの脇を引っ張って戻す。その仕草に、ミチオは背筋に冷水を浴びたように、体が熱くなった。
――ああ、僕は、僕は……また、なくしてしまう!
慌てて手を離す。汗のにじんだ真っ赤な手の平。
ミチオの手と、コオロギの体のすき間を、そ知らぬ顔で川風が走る。
「ごめん!」
コオロギはまだ下を向いたままだった。ミチオはどんな言葉を続ければいいのか混乱して、でもコオロギの体にはもう触れられなくて、所在ない手が鬱陶しい。仕方なく思い付く最善として、彼女から少し体を離した。
電灯から注ぐ白い光が、小さな肩に垂れた栗色の髪を照らし、音もなく、震える微熱を浮かび上がらせる。
「ミッチ、だめだよ」
涙声がもれる。うずくまった彼女の、真ん中の暗がりから――。
「うん」
「そういうのは、……らしくないよ」
らしくない、とコオロギは言った。そんな言葉、ミチオは初めて聞いた。何を求められ、何をすべきだったのか。もちろん、こんな状況で訊ける訳もない。ミチオはコオロギの気持ちが落ち着くまで、言葉で態度でひたすら謝り続けた。
ただ、直感的に、ミチオは自分が何かと比べられている、という思いがあった。彼女の真ん中に入るためのその答えは、彼女のほうにある。
いま僕は――彼女との距離で、どこに立ってるんだろう。
訊きたいことを、口に出せるだろうか。
コオロギは顔を上げ、「もういいよ」と言って、穏やかな笑みをこぼした。
しかしミチオは、もう何でも話せるという確信が持てなかった。これも自然のなりゆきなのか。
右手をジュースの缶に伸ばす。アルミの缶はびっしりと汗をかいていた。
* * *
車で帰る道すがら、ミチオが意識してオーディオもラジオも控えていると、突然ミスチルが聴きたいとコオロギは言った。ミチオは少し戸惑ったが、一枚だけCDケースに入っていたアルバムは、彼らが2枚目に出した、ラブソングばかり詰まったものだった。ためらい気味に「これでいい?」と訊くと、コオロギは明るい顔で頷いた。
1曲目のアップビートなナンバーを、二人黙って聴き続けた。
2曲目に入る短い間奏の時に、コオロギが口を開いた。
「わたしもさ、彼氏いないけど」
「えっ」
「でも、気になってる人が……いて。だから、ごめんね。さっきは」
さっきは――。
「泣いちゃって」
コオロギが涙を流してまで受け入れられなかったもの。その輪の中に、自分が入っている。
生真面目なんだろう、どっちも。まだ、大人になれきれない。慣れれば何でも受け入れられる訳じゃないが、拒絶は子どもの反応だろう。
僕だって、つまらないことで周りを少し拒絶してる。
気持ちじゃ負けないってのは、体裁では負けてるってことだろう。
「ああ、いや、俺が悪かった。……ちゃんと訊けばよかった」
ミチオは自分で何を言ってるかよく解らない。
「訊けばよかった」
コオロギは、ミチオの言葉尻をとらえ、大きな声でくり返す。
「じゃあ、いま訊いて」
「えっ、うん」
ミチオは交差点を右に折れる途中だったので、適当に相槌を返した。コオロギの言葉の意味がもうひとつ耳にきちんと入ってこなかった。
「その人はね、いまドイツにいるの」
ミチオはまた耳慣れない言葉を、コオロギの口から聞いた。
「ドイツ? ドイツ人なの?」
「ううん、日本人。留学してるの」
それからコオロギは、二人の話を次から次へと吐き出した。時々不思議な間が入り、慌てて相槌を入れる。ミスチルのラブソングが車内を満たし、窓の外は夏の気配をたっぷり含んだ夜が漂う。
ミチオは、流れていく車や通りの斜影を眺めながら、彼女の話に聞き入った。
コオロギが想いを寄せる相手は、サークルの友人だった。
去年の学園祭からだんだん話す時間が増え、最初、向こうから交際を求めてきた。けれども、コオロギは気楽な距離でいたくて、それを断った。彼もそれで納得して、半年間は友達として普通の付き合いが続いた。
二年になり、彼がサマープログラムでドイツ留学を申し込み、それが叶って留学することになった。二人の距離が変わる――コオロギは急に不安になり、彼に対して、いまの気持ちを確かめた。彼はそのとき煮え切らない態度をした。
それでコオロギは意を決して、やっぱり付き合ってほしい、と今度は自分から言ったのだ。
しかし、彼にはすでに彼女がいた。コオロギは彼に対し、何の抗議もしようがない。それでも、たくさんの言葉が喉まで込み上げて、コオロギは部屋で一人泣いた。
その1ヵ月後、彼はドイツに旅立った。
「結局、自分から選んだ距離に、自分から踏み入ろうとしたんだ」
コオロギは膝に置いた帽子を握り締めたまま、じっと目を伏せている。
「どうして」
ミチオは指先でハンドルを苛々と叩く。話の中で、コオロギから告白したということが気持ちの中で一番引っ掛かった。
「うん?」
「どうして、自分から、付き合いたいなんて言ったの」
コオロギは少しの間、黙った。だが、ミチオは無理に問い質すつもりはない。
――彼女だって、引きずってるんじゃないか。
やがて、コオロギは重たい口を開いた。
「わたしのことを好きと言ってくれた人を、つなぎ止めておきたいって思ったの」
それは……分かるけれど。
「自分のズルさに、後悔してるんだぁ」
コオロギは顔を上げ、眉根を寄せた。ミチオのほうに顔は向けない。
「わがままだよ」
ミチオはそう返す。
コオロギのように優しい慰めの言葉は何ひとつ浮かびもしない。でも、こんな話を聞いたら、何か言わなくてはいけない。
「でも、ズルさなんかじゃない。後悔なんてしないほうがいい」
気持ちにまっすぐやったんだ。いいさ。もともと、どっちも器用な真似なんかできないんだ。
何も返ってこないので、ミチオは間が持たなくなって口を開いた。
「まだ好きなの?」
コオロギは少し間を置いて、首を横に振る。
「いまは、わからない。彼女がいるし……」
嘘だ。
何で、僕に嘘をつくんだ。……僕のせいか。
けれども、ミチオはその嘘を本当の言葉のままにした。これは他人が嘘だと咎めることじゃない、自分で一番よく分かってるはずだ。
ただ悲しいのは、嘘で本心を繕うような距離が、彼女との間に生まれてきている、ということだった。一年半の間、もう彼女と同じ空気を吸っていない。
――ずっと、友達でいようね。
彼女の遠くみずみずしい言葉が、再び脳裏によみがえる。
「彼と、連絡は取ってるの?」
ミチオは何気なく尋ねた。それがコオロギの表情をふっと軽くした。
「うん。国際電話は高いから、メールでやりとりしてる」
「へぇ、メールか。そうだよな」
いかにも半端に同調し、パソコンに向かうコオロギの姿を想像する。ディスプレイに映される彼女のうれしそうな顔。ミチオは気が重くなって、そっと目を細めた。
「ただね、」とコオロギは顔を向け、身を乗り出す。「ドイツのパソコンに、日本語の変換機能なんかあるわけないじゃん」
同意を求められてもミチオは知らない。そういうものなんだと思う程度だ。
「なら、どうするの。英語?」
「日本人同士でできるわけないでしょ。だから、ローマ字で書くの」
「めんどくさそうだな」
ミチオは自分のことのように想像して、思わず顔を顰める。
「でも、楽しいの」
コオロギは、うれしそうに笑った。
やっぱり、その距離感が居心地いいんだろうと、ミチオは思う。そこに落ち着いたのなら、彼女は不安を忘れ、自然のままに過ごせるのだろう。
それから、彼女を家に送るまでの道のり、ミチオは、二人がローマ字でどんな話をしたかを延々と聞かされた。退屈なのろけ話に飽き飽きもしたが、そのぶん気持ちもすっきりとした。
交差点で、信号を待つ間に。
笑顔いっぱいで、喋り続けるコオロギの横顔を見つめた。
――会ってよかった。
不思議とそんなものが心に浮かび、胸の中に解けてほんのりと沁みた。
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