日本語を織りつむぐ幻燈の祠
知らぬ間に押し寄せる異界の鼓動……



「小さな小さな秘密の泉」


 私の近所には、不親切な自販機があった。
 それがちょっとした秘密の泉だったなんて、私が知ったのはかなり後の話だ。世界でただ一人、あの古ぼけた親爺だけがそのカラクリを知っていたのだ。それは、親爺のくせに鮮やかな完全犯罪だった――。


 不親切な自販機とは言うが、そこに入っている商品に不満はない。炭酸飲料からお茶までひと通り揃っている、ごく普通の自販機だ。
 何が困るかと言うと、お釣り返却のレバーを押すと必ず大量の10円玉が出てくるのだ。ちょうど120円入れれば問題ないのだが、知らないで迂闊に200円なんか入れると、確実に茶色いのが8枚バラバラと降ってくる。
 いつもそんな状態だった。
 でも、裏路地のたった1台の自販機に対する苦情なんて、誰もいちいち業者に言いやしない。10円玉が大量に出てきたって、仕方ないと財布に入れて帰るだけだ。

 ある土曜日の夕方、5時くらいだったろうか。いつもはそんな場所を通る時間 じゃないが、ちょっとした用事の帰りでそこを歩いていた。
 不親切な自販機の前で、作業服を着た業者の人が補充をしている。ちょうど作業を終え、カバーを閉めるところだった。私は何となく立ち止まった。
「すいません、この自販機なんですが――」
 別に文句を言おうと思ったわけじゃない。この自販機の不親切さに気付いているか知りたかったのだ。
 私は10円玉ばかり返ってくると説明すると、作業員はおかしな顔をした。
「お釣りはきちんと補充してますよ」
 嘘のない表情だった。こんな些細なことを誤魔化す理由もないだろう。
「どれくらいのペースで補充してるんですか?」
「週に1回。土曜日のこの時間です」
 作業員は律儀に答えてくれたが、私をちょっと神経質な人間に見ている気配があった。なぜか私は「すいません」と言って頭を下げた。
 作業員はカギをかけ、時計を気にして、さっさと車で去って行った。

 軽く緊張したせいだろうか、のどに渇きを覚えて財布を取り出した。今日、電車の券売機で大量に出てきた10円玉がそっくりそのまま残っている。私は自販機の作業員の態度に気持ちがくさくさして、空しさを噛むように10円玉を1個入れた。
 ふと、家にペットボトルでお茶があるのを思い出す。
 改めて財布の中身を見れば、10円玉も12枚あるわけじゃない。気を取り直して、返却レバーを押した。
 コトン。
 出てきたのは――50円玉だった。
 私の前に買った人が忘れていったのだろうか。しかし、私が入れた10円玉は戻って来ない。もう一度二度レバーを押しても空振りだった。
 珍しい、こんな故障もあるのか。

 待てよ。故障しているなら、誰か先に気が付くんじゃないか……?
 「故障の場合はこちらまで」と業者の電話番号が書いてある。
 私が第一号なのだろうか……? だったら私が電話するべきか。

 突然、ガラリと戸が開いた。
 自販機のすぐ横から、丸襟シャツの気安い格好をした中年の親爺が顔を出した。目が合った。――いや、そんな生やさしいものじゃなく、親爺は目をいっぱいに開いて私の顔をまじまじと凝視している。
「何ですか?」
 親爺はいきなりそう言った。ジュースを買いに来ている人間に対し、それはないだろう。私は苦手な相手だと直感し、小銭は取らず足早にその場を立ち去った。
 不親切な自販機から出てきた50円玉は別の誰かが持って行くだろう。日頃のお返しのつもりなのか、などとつまらないことを考えて、少し笑った。

 曲がり角まで来て、ふとさっきの親爺の態度が引っかかった。まるで追い払うようだった。何もイタズラしていたわけじゃない。返却口をあさっているように見えたのだろうか。
 チャリ。
 小銭の音がして、私は振り返る。一歩身を引いて電信柱の陰に入った。
 先程の親爺がまだそこにいて、自販機の前に立ち、おかしな動作を繰り返している。
 10円玉を1つ入れて、すぐに返却レバーを押す。チャリ。
 10円玉をまた1つ入れて、すぐに返却レバーを押す。チャリ。
 4枚目、5枚目、6枚目……と次々に入れていき、最終的に20枚まで数えた。全部で2分くらいはかかっただろうか。私も暇だったし、親爺も夢中だったようだ。
 途中で自転車が1台通りかかったが、くたびれた鈍い親爺がこんな簡単な機械にさえ手間取っているようにしか見えなかっただろう。しかしこの親爺はなかなか賢い。
 そして親爺は返却口に手を突っ込み、銀色の硬貨の山を取り出した。あれがすべて50円玉であれば、20枚で1000円になる。ポケットから小銭入れを出して、馴れた手つきで硬貨全部を詰め込むと、私のいる場所とは逆方向に歩いて行った。

 私は確かに秘密を見てしまった。故障発見の第一号は私でなかったのだ。
 これは言うべきだろうか。――しかし、いったい誰に? 警察か、業者か。
 待てよ。そもそも、これは犯罪なのか? 私には他の誰かに説明する自信がない。……面倒は嫌だ。たかだか200円が1000円に化けたくらいだ。
 律儀で愛想のない業者の男の顔が浮かんで消えていく。……
 私は胡乱な思いを抱えたまま、ひっそりと家路についた。

 ふと考える。親爺が20枚で終わりにしたのは何故なんだろう。やろうと思えばもっと出るんじゃないか。
 あの場に留まっている時間が気持ちとして2分が限界なのか。業者の補充がその枚数なのかもしれない。――だが、私には確かめようがなかった。


 かなり後になって耳に挟んだ話だが、その場所から近い小さな書店で、毎週土曜日の夕方に決まって一人の中年男が50円玉を20枚持って両替に現われていたらしい。書店のバイトの女の子は、どんな面倒なお客にも嫌な顔ひとつせず、気立てが良い。親爺が選んだ理由も頷ける。
 しかし近所とは言え、その場にばったり遭遇しない限り、小さな書店のフシギな出来事など私の耳に入ってくるわけもなかった。

 親爺はきっと業者の車の音を合図にしていたのだろう。
 もしかしたらあの時、私は“ライバル”と思われたのかもしれない。親爺が私を睨みつけるあの真っ赤な顔が今でも脳裏に焼き付いている。

 それから数ヵ月経ち、いつの間にか自販機の故障も治っていた。
 親爺が原因とは聞かないから、単に業者が点検して故障が見つかり、修理しただけかもしれない。そんなに長く放置もされまい。これでもう10円玉が50円玉に化けることはない。
 とにかく、裏路地のたった1台の自販機に対する苦情なんて、きっと誰も業者に言いやしない。50円玉がすっかり消えていたって、ちょっとブツブツこぼして帰るだけだ。
 それは小さいけれど誰にも気付かれない鮮やかな完全犯罪だった――。

 裏路地の、小さな宝の泉は涸れてしまった。
 あの親爺はどうしているだろうか。
 ……今でもそれなりに元気でやってるといいけれど。

(おわり)


<あとがき>
本作品は、創元推理文庫刊「競作・五十円玉二十枚の謎」(著:若竹七海他)をモチーフにしております。ただし、一部作者による創意が含まれております。ご了承ください。



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