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| 日本語を織りつむぐ幻燈の祠 |

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| 「月と毒虫」 |
久し振りに高校の友人と飲んで、夜の三時を回った。
洗面所で口をすすいでベッドに戻ると、彼が急に真顔で、この前ついに念願叶って、地下鉄の空を飛んだ、という話を始めた。
まったく飲み込めず黙っていると、彼は愛想笑いに変わって、
「そんなに長い時間でなくて、少しの間『ああ今、自分は空中にいる』と体感したんだ」
と言った。早英香(さえか)は深く考えず、聞けるところまでと胸に決めて彼の話に付き合うことにした。
久賀島(くがしま)は今、大阪の高槻市に住んでいる。コンピュータの専門学校を卒業した後、食肉の卸売業社に就職した。けれども上司や先輩の陰湿さに嫌気が差して、一年も経たないうちに辞めてしまった。
久賀島は、高校の頃から大空を自然の力で飛び回る日を夢見て、大学に入ったらバイトをし、貯めたお金でハングライダーでもやってみたいと考えていた。ところが高校最後の夏、友人のバイクを勝手に乗り回して、挙句、農道の交差点付近で郵便ポストに激突し、左足と腰の骨を痛めてしまった。
二ヵ月の入院で完治した怪我だったが、左の太腿に、見るも痛ましいような大きなあざが残った。そしてその後も、神経を集中する度に、そのあざが熱を持ってしくしくと疼き、しばらく軽い神経麻痺の状態になる。自分に与えられた肉体の機能をほんの一部、しかし決定的に自らの手で奪ってしまった。
体と心に残った傷は、久賀島の進む道を変えた。脆弱な人間の肉体について感傷に侵されて、しばらく思い悩み、なかなか他人を寄せつけなかった。やがて久賀島は内面の純粋なまま、まっすぐ心に決めたことのように、その後ぱったりと努力という努力をしなくなった。
病室での長い時間、白い天井ばかり眺めていた久賀島は、その頃友人がたまたま持って来たプロ画家のコンピュータグラフィック画集をかなり気に入って、毎日のように繰り返し見ていた。久賀島は、天井も床も白一色の退屈な世界から逃げ込むかのように、デジタルが創り出す絢爛たる色彩に酔い、退院する頃にはすっかり自分もいつかCG画集を作ると息巻いていた。
久賀島の両親は気が弱く、久賀島が退院祝いにねだった最新のマッキントッシュを買い与えた。大空を自然の力で飛びたい、という久賀島の心に根ざした翼は、この日を境に一旦たたまれて、深い眠りに就いた。
早英香は、久賀島のバイク事故のことを憶えている。彼とはクラスの中でもよく話す間だった。しかしバイク事故の後、久賀島が努力を一切やめてから、ほとんど話す機会がなくなった。そしてそのまま卒業を迎え、早英香は地元の福祉系短大に進み、久賀島との連絡は完全に途絶えた。
久賀島は純粋で優秀な人間だったから、自ら誓った約束通り、専門学校の時にオリジナルCG画集を作った。「今それを持ってる」と言ってカバンから出し、早英香に渡して見せた。
早英香はベッドに寝転がったままで、何気なくページをめくった。話に出た樫葉何とかのCG画など見たこともなく比べようがないが、久賀島の絵の中で一枚、目に止まった絵があった。タイトルに『月と毒虫』とあった。
あざやかな、まんまるのオレンジが真ん中から膨張し、吹雪のように細かい粒子が無造作に噴き散らされている。この粒々が毒虫なのだろうか。しかしよく見ると、左端に小さく青白いまるが浮いていた。これが月か。オレンジは何だろう、こっちが毒虫か。いや、どっちだろう。
顔を上げると、久賀島はいつの間にか冷蔵庫の缶ビールを開けて飲んでいた。早英香が画集を返すと、久賀島は黙ってカバンにしまった。早英香は時間を訊いた。久賀島はまだ四時前と答えた。濃いベージュのカーテンの隙間から、たっぷりと暗闇の世界がのぞいている。
久賀島は、くっとビールをのどに通すと、軽くなった缶をそこら辺に置いて、いよいよ地下鉄の宙に浮いた時の話を始めた。早英香は、始めのうちに話を切って自分も何か飲みたいと思ったが、冷蔵庫が遠くて面倒になり、仕方なくマクラに顔を半分埋めた。
久賀島は卸業の会社を辞めた後、バイトを転々としたが、結局今は専門学校の時の友人に誘われて、京都の四条烏丸にある小さなパソコンスクールで、中高年の会社員や主婦を相手にインストラクターをしている。
通勤には阪急電車を使っていた。最終クラスが夜九時半に終わり、机を整理をして会社を出るとだいたい十時を過ぎる。久賀島は近くの吉野屋で食事して帰ることが多いが、最近お気に入りのラーメン屋にもよく足を運ぶようになった。
「九龍(クーロン)」というその店は、職場の同僚に誘われて行ったのが最初だった。その同僚は、烏丸から阪急で一駅の、大宮駅近くのマンションに暮らしていて、夜二時まで開いている「九龍」を行きつけにしていた。久賀島は普段あまり職場の人間と親しくないが、その同僚とだけは話が合った。
彼女は大学生の頃、鳥人間コンテストに参加した経験がある。さらに、二十歳の誕生日、カナダに住んでいる親戚から突然贈られてきたパラシュートを、今も宝物のように大切に取ってあるという。その話を聞いて、同じ匂いを感じた。女一人で夜中にラーメン屋に寄るあたりも悪くない。最初彼女については榛名(はるな)という姓しか知らなかったが、最近になって織枝(おりえ)という名前を知った。
その夜、久賀島は初めて大宮駅に下りた。三ヶ月間阪急で通勤していたが、大宮駅には一度も下りたことがない。大宮駅も烏丸駅同様、地下にホームがあるので駅前の様子はまったく知らない。
ホームは天井が低く、言葉にならない閉塞感が漂っていた。赤茶けたタイル張りの壁面や黒ずんだコンクリートの床は、烏丸駅よりさらに重厚な空気をはらんでいて、無言で前を行く人々の背中がすべて哀しみに見えた。一つ前に烏丸駅のにぎやかな雰囲気が一歩ずつ床や天井に吸い取られていくようで、久賀島の隣りを威勢よく歩く織枝が浮き立って思えた。通い慣れた場所なのに織枝は赤ら笑みを浮かべて、鼻歌まで聴こえてきた。ゆるやかな波のようなメロディを、久賀島は学生の頃に聴いた憶えがあった。訊くと、織枝は「チェッカーズの『ブルー・ムーン・ストーン』」と答えて、それきり鼻歌は止んだ。
大宮駅のホームに、上がる階段は端に一つしかなかった。
エレベーターがないため、階段に車椅子用のスロープが付いていて、階段の幅は結構広く取られている。しかし不思議なことに、階段を昇っていく人々はみな強い風にさらされていた。髪の毛や服の裾が、傍目にもおかしいと感じるくらい躍り狂っている。
久賀島は、突風の吹き降ろす階段の前に立ち止まり、何気なく上を見た。織枝は先に階段を昇り始めていた。彼女がぐんぐんと歩調を上げたので、久賀島もそれに付いて行った。風を嫌うように俯きながら昇る間、まわりの人間たちの辛抱が異様なほど伝わってきて、久賀島は背筋のあたりが熱くなった。
階段を昇りきると、すっと風が弱まって、しばらく天井の低い廊下が続いた。そして小さな駅務室があり、自動改札を通ると、売店やコインロッカーのある小さなスペースに立った。この時間では駅の売店もシャッターを下ろしていて、自動改札の音だけが白い空間に固く煌煌と響いていた。
地上への出口は三方向にあって、織枝はその一つを目指した。階段の手前には薄汚れたトイレがあり、入口の掲示板に薬物禁止を訴える笑顔の女の子のポスターが貼られていた。そして、織枝に続いていよいよ階段に足をかけると、久賀島は想像に勝る突風に顔面を突き飛ばされそうになった。
うっ、と久賀島は短い悲鳴を上げた。
久賀島は反射的に織枝の陰に入った。しかし、地上口から大量に流し込まれているかのような風の猛威は一向に衰えない。目指す地上まで大した距離ではない。頭の上では黒い夜空とビルの影が見えていた。ところがそれは膝がねじれそうなほど遠いものだった。顔を上げられず、織枝の黒いローファーが順々に上がって行くのを真剣に見つめながら、久賀島は人生のうちの長い瞬間をこの階段で費やした。
そして、階段の半ばに差し掛かる頃に、久賀島は左足に異様な熱の高まりを感じていた。神経繊維が少しずつ諦めて、互いの手を離していく。
久賀島はこの階段の途中で、左足が燃え尽きて朽ち果てる感覚に襲われた。数秒後には燃え尽きた炭と化して階段を転がり落ちていく、自分の、白い左足が見えた。痺れが膨らみ、強い波動が過ぎ去って、やがて痛みが薄れていく頃には、本当に肉体の一部を失っているかもしれない。久賀島は祈るような想いで、体を支える唯一の右足に全身全霊を込めた。
すると、久賀島の懸命の祈りは、思いも寄らない飛躍をもたらした。
久賀島の右足は、リアルの記憶で残っている最後の場面で、階段を踏み外したのは間違いない。そして狂風にあおられた久賀島の肉体は、宙を舞い、右肩から差し込まれるように激しく転回し、麻痺した左足が大きく振られて天井をかすめた。そして、支えを失った肉体は右肘から地面に落下し、そのまま腰を激しく打った。
古傷に鈍く重たい衝撃が響き、久賀島は苦しい夢魔から醒めたかのように慌てて背筋を起こした。ところが、久賀島が落下した場所は、まだ空中だった。
階段までは、だいぶ距離があった。自分の後ろから、何人か人間が俯いた格好で階段を昇ってくる。彼らは久賀島の空中転回に気付いた様子がまったくない。そして、彼らの頭と天井との間は、思ったよりかなり距離があった。
久賀島は、やはり自分が他の人間より天井に近い場所に居るような感覚を確信した。薄汚れた天井は、手を伸ばせば届きそうな位置にあった。さらに、そこには見たこともない異様な裂け目があった。その細い裂け目は、コンクリートのひび割れとは明らかに違い、動物の皮膚を切り裂いた傷のように、裂け目の縁がずんぐりと盛り上がっていた。
裂け目の中は、深遠な静寂と、美しい透明な闇で満たされていた。そして、透明な闇のすみに、小さな青白い月がチラチラと輝いていた。その白い月の裏から、線の細い虫が顔を出した。
久賀島は、月の虫に、自分の顔を覗かれた瞬間、全身を揺さぶるような震えに襲われて、強く後ろ髪を引かれた。さらに肉体に重さが戻って、まったく別の界面に落下した。鼓膜を叩く激しい騒音が鳴り響き、全身を駆け抜ける激痛と、手の平から伝わるコンクリートの冷たい固い感触。この瞬間に、久賀島はようやく現実の地面に落ちてきた、と知った。
打った右膝を抱えてうずくまった体勢で、階下の人間が一斉に顔を上げる様子を見た。思えば最初の転落では音も痛みも、温度もなかった。久賀島は、頭上から女の声とけたたましい靴音が近付いてくるのを聞きながら、すぐには身を起こすことができずにいた。やがて、女の柔らかい腕に支えられて起き上がり、天井を確かめると、そこにあったはずの裂け目はすでに閉じかかっていて、細い虫だけが、裂け目から外へ、天井に這い出していた。
早英香は、久し振りに会った男の口から繰り返し他の女の名前が出て、少し不愉快に感じていた。駅の階段で転んで人より長く宙を舞ったというだけの話なら、何も織枝を登場させる必要もない。早英香は、久賀島が宙に浮いたことより、織枝の年や格好のほうがよほど気になって仕方なかった。そして、のどの渇きがずっと頭を離れなかった。早英香は部屋の隅の小さな冷蔵庫に目をやったが、下着や服がどこに飛ばされたか分からなくて、布団から出るに出れなかった。今は一瞬でも久賀島に肌をさらすのが嫌だった。
早英香は、自分も何か飲みたいと久賀島にねだったが、彼は聞き入れなかった。久賀島はベッドに腰掛けたまま動かず、どこか上の空で、何か早英香と違うものを感じているようだった。早英香は仕方なく、布団の中で身をよじって、久賀島の飲みかけの缶ビールに手を伸ばしたが、中身はすでに空だった。久賀島は早英香のそんな気配すら気に留めずにいた。
「ねえ、足のあざ、見せて」
やさしい声であざのことを訊くと、久賀島はようやく反応した。
「いやだ」
しかし、早英香は何も言わず強引に左の膝頭をつかんだ。すると反射的に久賀島の体は硬直したが、手の力を緩め、膝頭をしばらく撫でると、そのうちに相手の緊張はほぐれた。早英香は膝を離れ、あざのある辺りに向かって手の平を這わせていった。
やがて指先に伝わる感触が変わった。早英香は変色した肌の部分をまじまじと眺め、そこに軽く唇を当てた。それは確かに人間の肌の感触だったが、肌の持つやわらかく繊細な弾力は失われ、じわじわと浮き沈みする赤黒いくぼみと化していた。早英香は舌の先を当て、貼り付くように唇で包んだ。あざの下にある血流は、皮膚の他の場所より生々しく脈を打ち、まるで息を吹いているかのように熱が湧き上がった。久賀島のあざは、唇では覆いきれないほど広く、早英香はやさしい気持ちで、縁からなぞるように丁寧に舌を巡らせて、あざのすべてを濡らした。
早英香は、男の哀しい呻き声を頭の上で聞いていた。早英香はのどの渇きを忘れ、男のだらしない声を唇でふさぎ、彼自身のあざを確かめたばかりの舌先を強引にねじ込んだ。他人が飲んだビールの匂いがあふれて鼻先に届き、早英香は一瞬胸が悪くなった。けれども、どこか気分が持ち上がり、目の前にいる男の目の奥底を覗き込んだ。
「九龍」では、久賀島より織枝のほうがよく食べ、よく飲んだ。二人はテーブル席に座り、落ち着いた雰囲気で長い時間を過ごした。しかし、腹を満たして店を後にしてもなお、久賀島は大宮駅の階段で起こったことが頭から離れなかった。隣りを歩く女に何度となく話を切り出そうかと思ったが、その度に胸の奥へとしまい込んだ。やがてそれは、久賀島の体内に粘着質のしこりとして残った。
織枝は、ビールが少し回ってきたらしく、たいしておかしくないことでも楽しそうに声に出して笑った。織枝は歩道の縁石の上を好んで歩き、ガードレールが途切れる度に車の前に身を投げ出しそうになるので、久賀島は、彼女の腕をすぐにつかめる間隔で並んで歩いた。訊くと、織枝のマンションは堀川通りを少し下った辺りと知った。銀行や店のシャッターの前を過ぎると、堀川通りの広い道路が横たわり、何台もの車が音もなく並んでいた。
久賀島は、四条堀川の交差点に着くまで、左足の運びに違和感を覚えていたが、大宮駅の階段で落下した時にくじいたせいだと思っていた。しかし見ると、交差点の一際明るい街灯に照らされて、左の靴ひもがほぐれるようにして切れていた。
そのとき信号が青に変わったが、織枝はあまり歩く気がないようで、また別のなつかしいメロディの鼻歌を始めていた。久賀島は気分の良さそうな織枝に背を向け、交差点の植え込みのブロックに腰を下ろし、靴ひもを結び直そうとした。すると織枝が横に座った。織枝は三つ年上だが、そういう感じはしなかった。ごく自然に、恋人のように白い肘を寄せてきた。
それから久賀島は黙々と靴ひもと格闘し、織枝は近くの自動販売機でレモンティを買い、時折久賀島の手元を覗き込みながら、缶の口をなめるように少しずつ飲んだ。それでも織枝はまだ酔いから醒めないようで、膝に載せた靴の破れたひもを見て、がんばるね、とつぶやいた。それは久賀島なのか、靴ひもなのか、どちらとも分からぬ響きだった。
久賀島はいろいろ試したが、結び直した靴ひもは結局どうやっても靴穴を通らなかった。諦めて顔を上げると、すぐそばに織枝の鼻先があった。ラーメンと、ビールと、それを押しのけるレモンティの香りが混ざり合った温かい女の息が、久賀島の冷えた頬に当たった。織枝の目から充血は引いていて、まぶたもはっきりと開いていた。けれどもその瞳の奥には、たっぷりと砂を吸った風のようなうねりが渦を巻いて流れていた。
そのとき、久賀島は初めて年上の女と唇を重ねた。織枝は、顔を離してもなお黙っていたが、小さな肩がより一層小さくなったように思えた。
久賀島は、片方の靴ひもがちぎれたまま、織枝のマンションに足を向けた。職場の同僚ということもあって、ぎりぎりまで気持ちに遠慮も残っていた。ただ、織枝がそばにいると、心の安らぎがあった。
部屋には何もないと言うので、久賀島は途中で缶ビールを三本買った。そのうち一本はマンションに着くまでに半分以上飲んでしまった。
織枝の部屋は七階にあり、中は女性の部屋にしてはシンプルで、目に付いたものと言えば、部屋の隅にある紺色の小さな棚くらいだった。他に彩りのあるもの、雑貨や本などの類いはまるですべて持ち去られたかのように、何一つ見当たらない。久賀島は、織枝に勧められたソファに座り、テーブルの上に缶を三つ並べて、まず一本を飲み干した。
織枝は上着をクローゼットにしまって、しばらくそこに立ったまま黙って久賀島の顔を見ていたが、久賀島が二本目のビールに手を伸ばすと、そんなにのどが渇くの、と唐突に訊いてきた。彼女の深刻な顔付きが久賀島には意外だったが、ラーメンを食べたからだろう、と適当に返した。
しかし実際、久賀島ののどは、砂漠の真ん中に放り出されたカタツムリのように干上がって、乾いた熱い風に吹きさらされていた。急いで流し込んだビールも、焼け石に弾かれるように蒸気と消えていく。久賀島はこの烈しい感熱を酔いのせいと思って放っておいたが、どうやら本物らしいという感覚にまで来ていた。
織枝は、自分用に冷えた緑茶をグラスに注いで、また久賀島の顔を見た。織枝の瞳には、交差点で唇を重ねた時とはまるで違う穏やかな潤いがあった。二人は、少しの間お互いのことを考えて、それからこの部屋について言葉少なに話した。
織枝は、部屋の中の物の少なさについて、自分でもさすがにもったいないと思うくらい、今週使うと分かっているもの以外はだいたい捨ててしまう性格だと説明した。そして、旅が好きで、一年のうち二割しか家に戻らないフリーカメラマンの兄がいる、という話を出した。その兄が余計なものを一切貯めない性格で、自分が学生時代に一年半ほど一緒に暮らした時に、その性格がうつったと織枝は続けた。その頃、織枝の兄は、経済面で面倒見のよい親戚の出資に甘えて独立したばかりで、大学で簿記を修めた織枝も一時期だけ兄の事務所を手伝ったという。
久賀島は、終わりの見えないのどの渇きに気を詰まらせながらも、いつもより何倍も話をする織枝のやさしい瞳を眺めていた。すぐに二本目のビールを空けてしまったが、三本目に手を出す欲求は何とか押し留めていた。このままのどの渇きが収まらなければ、三本目が底をついた時に、そこから本当の砂漠の放浪が待っている。久賀島は舌の根をしぼって唾液を集め、丹念に口の中を撫でていた。
織枝は兄の話をひとしきり終えると、最後にぽそりと、自分も自由な旅に出たい、とこぼした。久賀島はその想いを受け止められるような言葉が自分の中に見つからなかった。それで久賀島は軽く頷き、自分が行ったことのある印象深い土地のことをいくつか話した。
織枝はその間、他意のない瞳で久賀島の顔をじっと見つめていた。織枝は地味な顔立ちで、髪は首を隠す程度で、声の調子も控えめで、会社を出てからもう何時間も一緒にいるが、少しも飽きの来ない雰囲気を持っていた。情動の波はゆるやかで、二人になると話がはずみ、自分と向き合っている相手の小さな動作や何気ない言葉に敏感のようで、物事をあまり真正面で受け止めない、自然な風合いが彼女の肉体を包んでいた。
織枝は立ち上がり、オーディオのスイッチを入れた。けれどもボリュームが小さすぎて、どんな曲が流れているのか、久賀島には最後まで分からなかった。
しばらくして、織枝は冷蔵庫から緑茶のお替わりを持ってくると、久賀島の横に座り、自分が一週間前に見たおかしな夢の話を始めた。久賀島は、聞けるところまでと胸に決めて、彼女の話に付き合うことにした。
群れから少し離れて、草原のように広々とした、まぶしい麦畑の中で、午後の風を待っている紅色のうさぎが見えた。しかし午後の風が吹いてきた時、紅色のうさぎはもうそこにいなかった。
麦畑のはるか彼方、こんもりとした深い森の入口に、白や茶色のうさぎの群れが見えた。紅色のうさぎがその中に戻ったのかどうか、遠くから眺める限りでは分からなかった。
やがて、一匹の黒いうさぎが鼻を立て、敏感に風の匂いの変化を察知し、それを群れに知らせた。すると、うさぎの群れは森の中や、あるいはいくつかの穴の中へとすべて姿を消してしまった。
風の匂いは午後になって確かに変わった。麦の穂は先端から白く枯れはじめ、吹きつける強い風によって、枯れた穂から粉塵と化し宙へ散っていく。大きな風のうねりがいくつもの方向から次々と押し寄せて、粉塵が白煙のように空一面に舞い上がり、根まで枯れた場所の地肌が露わになって、瞬く間にそれが広がっていった。
そして、地面も燃え尽きた炭のように白く干上がり、ひび割れが網の目に走り、その隙間から小さな黒い影が点々と染み出るように湧き始めた。それらは何かの意思を持つと一斉に走り出し、一点を先頭に寄り集まって、群れを成し、干からびた大地の上を濛々と土煙を立てて流れ始めた。
おびただしい数のその一粒一粒は、黒い甲羅に群青のビー玉のような目を二つ光らせた小さな虫だった。しかし、虫のわりに頭が細くて、地面から体が離れるほど足が長く、針金のように細くて鋭い尾を持っていた。線の細い虫の群れの動きは思いのほか速く、午後の狂風が、彼らの活動にこれ以上ない後押しをしていた。そして、虫たちは乾いた地面を埋め尽くす勢いで広がり、うさぎの群れが逃げ込んだ森を目指して突進していった。
強烈な午後の風が麦畑を干上がらせ、風を追う虫の群れの先頭が森の入口を陥れたとき、森全体が大きく揺らいだ。次の瞬間、けたたましい羽音と鳴き声が森中から湧き起こり、おびただしい数の鳥たちが森から羽ばたき、空一面に広がった。そして鳥たちは一斉に声を揃え、森に押し寄せる黒々しい虫の大群に向かって飛びかかっていった。
それはまさに、森の生命を懸けた果てしない闘争の始まりの瞬間であった。
大きな鳥たちは揚々と滑空して、次から次へと虫を捕らえてのどへ押し込んだ。一方、空を飛べない虫たちは、自分の前を走るものの背に昇り、またその後ろの虫がその背中に駆け上がり、たちまち巨大な黒い腕が地面から生えたかのように高々と盛り上がった。
すると午後の風が躍るように吹き込んで、虫たちを舞い上げ、空中に高く飛び散った彼らはその針金のような尾を鳥たちめがけて突き立てた。風という風がすべて厳しく鳥たちに吹きつけて、鳥たちのわめき声が、空いっぱいに一層烈しく膨れ上がった。
風が小止むと、その間にまた虫たちは一気に天辺まで組み上がり、幾本もの黒い腕と化し、次の風の到来によって空中を制圧しようばかりに天高く四方八方に飛び散った。
さらに風は風で、虫の群れとは別に意思を持ったかのように、ぐんぐんとうねりの度合を高めて、しなやかな鞭のように森の木々を打った。森の入口に立つ木々は、圧倒的な風の力に屈してへしゃげ、割れた木肌のひびから白い煙が立ち昇り始めた。一方、鳥たちも度重なる虫たちの来襲に屈して、いつの間にか四方へ散り去って、空は次第に本来の色を失っていった。
鳥たちを失った森は無力で、午後の風の、思うがままに打ちしだかれていた。やがて森の入口で、立ち枯れした木々が身を当て、こすれた弾みで火花が散り、それが火種となって火が起こった。そして、それは息もつかせぬ速さで周辺へ広がっていった。午後の風は火をあおり、虫たちは体に燃え移った火種を運んで、次から次へと枯れた木々に移していった。
麦畑に湧き出した黒い虫の群れが森の中へすべて吸い込まれ、後に残った白い大地に、一人の男が立っていた。
男は年期の入った大きなカメラを構え、森の中で暴れ狂う午後の風と虫の群れをとらえて、熱心にシャッターを切っていた。肌はよく日に焼けて、髪はちじれ、小さな革のバッグを腰に巻きつけて、カメラを構えながら一歩ずつ森へと近付いていく。どこからやって来たとも分からぬ彼の足跡が、ひび割れた白い大地にくっきりと一筋残されている。
男は兄だった。しばらく見ていない兄の姿が、少し老いた虚像となって枯れた麦畑を歩いていた。彼は不意にカメラを下ろし、声を張り上げて、狂った風の後ろ姿に何かを強く呼びかけた。
しかし午後の風は、広大な森を吹き散らそうという異様な熱気に没入して、男の声はどこにも届かなかった。背中に火種を帯びた虫の群れは、中には力尽きて灰と化すものもあったが、それでもなお満たされない胃袋を抱えたかのように、森の果てを目指して、奥へ奥へと猛烈な勢いで突き進んでいった。
早英香は天井を見上げていた。
久賀島は、まだ何か出すつもりなのか、カバンの中をずっと探っている。裸のまま、あまりにそれに没頭しているので、早英香は彼の後ろを回り、気の抜けたビールをのどに流し込んだ。
「最初さ、地下鉄の空を飛んだって言ったよね」
「うん」
久賀島は背中を向けたまま、おそらく上の空で答えた。
「でも、地下鉄の空じゃないよね。厳密に言うと」
早英香は体を起こして、布団にくるまった。
「いいや、地下鉄の空だよ。ちゃんと空だよ。外に出る前だから」
「そう」
窓の外に気付くと、厚いベージュのカーテンの外に、朝の淡い色がにじんでいた。
「ねえ、天井の穴から出てきたのは毒虫なの?」
こう訊くと、久賀島はふと手を止めて振り返り、早英香の顔をまじまじと見つめた。早英香は少し気味が悪くなり、黙ったまま布団を少し深くかぶった。久賀島は無言で、早英香が足元に置いた缶ビールに手を伸ばした。口に運ばず握ったまま、時間が過ぎた。
「何で、虫に毒があると思ったの?」
久賀島は訊き返してきた。
「えっ、だって『月と毒虫』っていう作品があったから。さっきのやつに」
「そうか。よく見てるな」
早英香は、それから久賀島がどういう言葉を続けてくるか少し怖れたが、久賀島は一旦口を閉じ、ビールをテーブルに置いた。結局持っただけで口をつけなかった。きっと手で確かめた感触がぬるかったのだろう。
「織枝さんとは、その後どうなったの?」
「彼女は、来月あたり、そろそろ身の振り方を決める、と言ってる」
久賀島はさらりと返した。
「え、会社、辞めるとか?」
「さあ。とにかく、お兄さんを追って、どこかへ行くらしい」
どこかってどこだろう、燃え尽きた麦畑だろうか、と早英香は気になって、ひどく干からびた平らな風景を思い浮かべた。けれども、これ以上織枝のことを訊くのは気が引けた。話の限り、彼女に対する久賀島の執心はほとんど感じられない。どこか名もない砂漠で生まれた女の話を聞かされた、そういう感覚に近いかもしれない。
それから、だいぶ、何もお互い考えない沈黙があった。
早英香は、唇のあたりに、眠気だか酔いだか痺れだか分からないものがあって、ずっと言葉を忘れて、久賀島の膝の大きなあざを見つめていた。やがて、久賀島は再びビールを手に持ち、一旦ベッドを離れた。早英香の耳に、彼が洗面台で液体を流す音が聞こえた。流すくらいなら、ぬるくても飲みたかった。
「この痣はさ、」
久賀島は唐突に言った。顔を上げると、洗面所から戻ってくる途中だった。ビールの缶を持っていなかった。洗面所に置いてきたのだろうか。
「事故じゃなくて、違うものにやられたんじゃないか、と思う」
「違うものって?」
すると、久賀島は笑った。
「毒虫」
早英香は胸の中で、ドクムシ、と反芻した。
「死には至らない、かすかな毒を持ってるんだ。それは月が出ている間だけ、神経の一部を麻痺させる」
「月が出ている間だけ? どうして?」
「月から来たからだよ」
「何で、月から来たの?」
「焼けて、住み心地が悪くなったとか、どうせそんな小さい理由だろう」
久賀島は、鼻を鳴らしながら言い捨てた。
早英香の脳裏に、黒い微粒子の群れがざわざわと舞い始めていた。月から毒虫が来る、降って来る。久賀島はその情景を、ヒカリの筆で点々と描き続ける。彼が描く間に、どんどん毒虫は降り注いでいる。もう、月の森が焼き尽くされたから? 乾いた狂風が吹き荒れて、うさぎたちはどこへ逃げたのだろう。結局、空を飛んだのは、毒虫か、鳥か、うさぎか、それとも彼か? 正面の、久賀島の顔がぐらぐらと歪んで見えた。
「ね、今夜は月が出てたっけ?」
早英香は訊いた。自分で言ってみて、いくらか唐突だった気がする。
「……『ねえ、今夜は月が出てたっけ?』……」
久賀島は質問に答えず、ただ声にして復唱した。早英香は、何か揚げ足を取られるのかと思った。しかし、久賀島はそっと目を細めて、
「理由は分からないが、いい言葉だ。響きがいいね」
そう言った。
早英香の肌には、織枝よりも久賀島の瞳の中に、恐ろしい砂嵐が近付いている気配を感じた。そしてまた、のどに渇きが戻ってきた。ビールが欲しいと言ってみると、久賀島は何の抵抗もなく冷蔵庫から1本出して、ぽんと投げてよこした。缶ビールはベッドの上で鈍く跳ねた。
それから、久賀島は再び熱心にカバンの中を探り始めた。早英香の頭の隅にあった小さな余白が、ビールの泡のように膨らんでグラスの口からあふれ出た。心地良い冷たさが肩を撫で下ろし、沈滞していた時間が、白い首筋からするすると流れていった。早英香は今になってもう一度天井を見上げた。そこには何の裂け目もなかった。
久賀島はカバンから何か小さな箱を取り出し、早英香の鼻先に持ってきた。
「ほら、これだ。見てごらん」
「どれ?」
早英香は久賀島の手の中を覗き込んだ。マッチ箱くらいの小さなガラスケースに、黒いかすかな影が映っていた。まるで標本のように白い綿の中心に置かれて、見た感じでは焦げた米粒かと思った。
「何だと思う?」
すると久賀島は、早英香が何か言い出す前に、のどの奥で短く低く笑った。それから、早英香の目の動きを確かめられる斜め下からこちらを見つめて、言葉を続けた。鼻先に刃物を突き立てるような鋭い語調、けれどもまったく悪意のない声だった。
「毒虫」
久賀島は言い切った。
ドクムシ。これが、ドクムシ。早英香は言葉を忘れ、その黒い小さな、物体か生命かの区別もない異形の姿を、穴が開くほど見つめた。ところが、それはどう見ても焦げた米粒にしか見えなかった。足もなく、触角もなく、羽根もない。目も、口も、何もない。いったいどの辺が毒虫なのか訊きたいと思ったが、久賀島のまったく揺るぎない眼差しに言葉を奪われた。
「死なない毒だ」
自信に満ちた笑みを浮かべ、すっかり白けきった夜を背に負い、久賀島は毒虫の入ったガラスケースのふたを丁寧に開き、早英香に差し出した。早英香は、そういう要求だと受け取って、中身を指先でつまみ、ゆっくりと唇に運んだ。苦く、後味が甘い、焦げた砂糖の味に近い。噛むほどの大きさもなく、知らぬ間にのどの奥に消えた。唾液が口の中にあふれた。涙が少し出た。
早英香を前にして、久賀島はケースを閉じ、それを部屋の床に投げた。その延長で、久賀島はベッドにどさりと寝転がり、早英香も彼と反対方向に体を寝かせた。ただ、ベッドの布の感触が背中に伝わってこない。
天井を見ると、黄色いルームライトの横に、小さな裂け目が開いていた。コーヒーゼリーのような透明な暗闇が見える。まだ何も姿を現わさない。
そして、その裂け目の縁から、小さな黒い水滴が一つ降ってきて、早英香の左の頬を打った。温かく甘い香りがはじけて、ふんわりと肌から消えていった。
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| (おわり)
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