日本語を織りつむぐ幻燈の祠
知らぬ間に押し寄せる異界の鼓動……



 夜につぼみであった花が
 朝に一斉に咲くように、
 天の意志は突如訪れる。

 天の意志とは何か。
 君問わば、いざ天を向くがよい。
 ――雨。雨だ。
 雨こそがすなわち天の意志。

 地に息づく個体よ、天に服せ。
 天より滴る雨を一身に受けよ。
 慎ましく、ひたすらに、その一身に受けよ……


「浸蝕の雨」      作) sleepdog


 護堂暁也は床に脱ぎ捨てたシャツに袖を通した。エアコンは効いているのに蒸し暑さが体中を這うようだ。今夜確か雨が来ると言っていた。
 暁也の両親はこの週末、温泉旅行に出かけている。雨降りだと露天風呂は無理だろう。残念がる顔が目に浮かぶ。
 ぐうっと体の筋を伸ばし、何か飲もうとキッチンへ入った。ご飯の炊けた湯気の匂いがしている。もう夜の十時を過ぎた。遅い晩ご飯だ。
「ねぇ、雨が降ってきたみたいよ」
 まだ裸でいる植田未緒が布団にくるまった格好で、暁也を窓辺に呼んだ。そばに座るなり未緒は「ご飯炊けてる?」と聞いた。暁也は「もうできてるだろう」と小さく笑った。
 窓を見れば、未緒の言う通り、雨が降ってきたようだ。雨粒が少しずつ少しずつ窓ガラスを叩き、二人きりの部屋を優しい音で埋めてゆく。ざぁっと、窓の外を車のライトが通り過ぎた。
「え……。何か、今の」
 未緒も同時に異変に気付いたようだった。
 窓ガラスに当たって流れ落ちる雨粒が濃い赤紫色に染まっていた。「何か、色が変じゃない?」未緒は訝しげに眉根を寄せる。窓ガラスが汚れているわけでもないだろうが、気になって暁也は起き上がった。
 ところが、異変は雨の色だけではなかった。見る間に、雨粒が窓ガラスを通り越して室内に降りこんできた。窓はもちろん閉まったままだ。網戸でもない。しかし、まるでそこに窓ガラスがないかのように――赤紫色の雨が、窓辺にある布団の上にぽつぽつと染みを作り、たちまち全体を濡らしてゆく。
 暁也はその場に茫然と立ち、雨の浸入を凝視していた。
「えっ、えっ、何これ?」
 すると、布団に入っていた未緒は叫ぶような悲鳴を上げた。
「冷たい。どんどん冷たくなってく。布団が」
「雨が降りこんでるんだ」
「えっ。暁也、窓閉めて!」
「窓は……ちゃんと閉まってる。でも――」
 雨が、確かに窓ガラスを通過しているのだ。
 未緒は布団の冷たさに耐えられず這い出した。しかし、少しの間濡れたくらいでそれほど一気に冷えるものだろうか。そう思い布団に触ってみると、本当に隅まで冷たかった。
「何なの……」
 未緒は唇を尖らせ、床に転がっていた下着を履いた。その両足がうっすらと赤紫色に染まっている。暁也は不意に背筋が寒くなった。
 窓ガラスを手で触って、そこにあることを確かめる。ガラスはあるのに雨が通過しているとはどういうことなのか。まったく考えが浮かばない。その間に雨粒がいくつか暁也の手に当たり、未緒の足や布団と同じように赤紫色の染みを残した。
 暁也は足元にあった文庫本を手に取り、大きく目を見開いた。雨にぐっしょりと濡れたその本の表紙は、文字の配列がバラバラに乱れて意味を成していなかった。中のページも同じ状態になっていた。
「暁也、暁也――」
 立ち尽くす暁也の服を引っ張って未緒が何か合図した。すでに服を着ている。未緒は天井を指差した。見上げると、白かった天井も、それを忘れるほどに赤紫色に染まりかけていた。
 そして、考える間もなく天井から滔々と雨粒が落ちてきた。

 暁也は、得体の知れない感情に押し潰されそうになりながら、未緒の手を引いて窓辺から離れた。
 ひとまずリモコンを拾ってテレビをつける。どのチャンネルを回しても、赤紫の雨が降っているというニュースはない。ラジオも同じことだった。スイッチを切ると、暁也は不意に何か自分たちだけが世界から切り離されたような錯覚に囚われた。
 あるいはもし夢であるすれば、それは一日にも及ぶあまりにも長すぎる夢だ。手をつねって確かめるのも馬鹿らしいほど、何の狂いもない現実の情景である。――ただひとつ、この雨を除いて。
 心なしか雨足が強くなってきたように感じる。暁也たちは窓辺からさらに距離を取った。だが、天井の染みがどんどん大きくなり、ついに二人の立っている位置まで雨が迫ってきた。
 とにかくこの場にいてはいけない予感がする。未緒の腕を引いて廊下に出ると、
「あっ、まだ靴下履いてない!」と未緒は叫んだ。
「そんなのいいよ!」
 暁也は乱暴に突っぱねたが、未緒の恨むような目を見て諦めた。未緒は一旦室内に引き返し、クローゼットから靴下を持って戻ってきた。
 未緒が腕にすがりつくと、暁也は安堵の笑みをこぼした。やはり二人でいると心強い。しかし、暁也の関心はすぐさま玄関に向けられた。
「ドアが開いてる……?」
 帰ってきた時に鍵をかけたはずだ。同じ鍵は両親しか持っていない。未緒とはずっと一緒にいた。開けるはずもない。なら、なぜ玄関のドアが開けっ放しになっているのか。
 堂々と外の景色が見える。やはり同じ雨が降っている。
 そして雨ばかりでなく、小さな黒い影がバラバラと地面に降ってきていた。外でいったい何が起こっているのか。暁也は未緒を後ろに隠すようにして、玄関までゆっくりと進んだ。外の景色がまざまざと異様な光を帯びて二人の目に飛びこんでくる。
「ひっ!」
 未緒がきつく背中にしがみついた。

 道路は真っ黒になるほど鳥の大群で埋め尽くされていた。このあたりは夏になると百舌の大群がやって来る。今、それが目の前で地面を不気味に這い回っているのだ。さらに、百舌だけでなく鳩やら雀やらカラスやらも混ざっていた。羽根を重ね、互いの背を踏み、騒然と沸き立っている。鳥たちはみな虚ろな目をして雨に濡れていた。
 しかし、これだけ密集しているのに一羽も空へ飛ぼうとしない。その様子は飛ぶ力を失ったようにさえ思えた。暁也たちが廊下から見た無数の影とはまさにこれだった。
 雨が暁也の頬を濡らす。鳥たちの赤い涙のようで気味悪く、慌ててそれを拭った。手の甲が赤紫色に染まる。この色は……落ちないのだろうか。
 ガシャン、ガシャンと物がぶつかる音が鳴った。目を移すと、落下してきた鳥が家のガレージのシャッターに激突していた。驚いたことにシャッターも開きっ放しになっている。そんなはずはない。間違いなく鍵を閉めた。だが、それは現実に開いていた。
 暁也は傘を差し、壁沿いに曲がってガレージへ急行した。
「どこ行くの!」
 未緒も傘を持って暁也に続いた。だが、二人の傘が雨を防いだのはほんの一瞬で、すぐに赤紫色に染まると、雨粒をあっさりと通過させた。雨を通す傘など何の意味もない。二人ともそれを庭に投げ捨てた。

 ガレージの屋根はすでに雨を通過させていた。本当にそこに屋根が存在しないかのように見えてくる。そして、車のボディがどんどん濡れていく。
 とりあえず車に乗ってこの雨から離れることができないだろうか。暁也が駆け寄ると、車のドアもまた全部開いていた。疑念は尽きないが、とにかく運転席に座ってエンジンをかけてみる。
 ――動いた。アクセルを踏む。エンジンの回転数が上がる。
 だが、一向に前へ進まない。アクセルを踏んでいるのに、タイヤが地に根を張ったようにまったく動かないのだ。
「暁也! どうしたらいいの?」
 ガレージの入口で未緒が叫んだ。暁也が応じようとした瞬間に、ついに車の屋根も雨を防げなくなり、車内にばぁっと降りこんできた。ドアをはね退け脱兎のごとく外に出る。すると、泣き出しそうな未緒の顔が暁也の脇にしがみついてきた。
「ねぇ、置いてかないでよ!」
 未緒のやわらかく白い肌が少しずつ赤紫色に染まってきていた。屋根も傘も無駄になったせいだ。雨に濡れた鳥たちの悲惨な姿が脳裏をよぎる。何か雨を防ぐ手段はないのか。暁也はガレージ内を見渡した。しかし、カー用品と自転車くらいしかない。
「何かないのかよ……」
 つぶやいた瞬間だった。突然ガレージが真っ暗になった。
「きゃあっ!!」
 照明が全部落ちたのだ。だが、電灯のスイッチは切っていない。ガレージには二人しかいない。車の中にはわずかに明かりが残っている。メーターのランプだろうか。
 何だろう、停電だろうか。いや、落雷があった気配はない。
 視界が奪われると雨音がいっそう鮮鋭に聞こえてきた。それと同時に、胸の中にいる未緒の体温もぎゅっと濃くなった。
「ねぇ……暁也、何がどうなっちゃったの……?」
 暁也もまったく見当が付かない。ひとまずガレージの外の様子を窺うと、夜の闇の濃さがまるで違っていた。家の中も街灯も隣の家も、何もかも明かりが消えている。やはり停電のようだ。二人は明かりになるものを取りに戻ることにした。

 家の中はすっかり闇に覆われて、雨は廊下にまで進行していた。暁也は玄関の物入れを開け、懐中電灯を手に取った。明かりをつけると、黄色い光の筋の中に大量の雨粒が流れていくのが映った。
「よかった」と未緒が横でほほ笑む。
 ところが、懐中電灯の表面はたちまち雨で覆われて、使う間もなく明かりが消えた。手の中で、ひとつの大きな希望が消えて、周りの闇に吸われてしまった。しばらくして未緒が「すん……」と鼻を鳴らした。それきり何も言わない。
 暁也は懐中電灯を床に投げ捨てた。ガラガラと転がってどこかにぶつかる音が聞こえた。
「やっぱり雨だ」
「えっ?」
「雨が原因なんだ。どういう事態か分からないけど、これ以上雨に濡れたら本当に危険な気がする。雨に濡れたものが全部おかしくなってる」
 窓ガラスも屋根もドアも、鳥たちも。傘も車も懐中電灯も。そして停電。これは送電所か、あるいは電線自体がおかしくなったのかもしれない。布団や本もそうだ。考えがうまくまとまらないが、直感的に雨が要因と疑うしかない。
 ぐらり、と未緒の体の芯が揺れた。未緒の体重が背中に寄りかかってくる。暁也は慌てて正面で受け止め、そのまま深く抱き締めた。恐怖か疲れか、あるいは雨のせいか。とにかくここにいては未緒が危ない。もちろん自分の体もいつ倒れるか分からない。
「おいっ、大丈夫か。しんどいか?」
 未緒は、暁也の胸の中で伏せたまま、体を震わせていた。
「答えろよ、未緒!」
「……雨が怖いの」
「ああ、何とか無事な場所に連れてってやるから。なぁ、歩けるか?」
 未緒の足がぐっしょりと濡れていた。変色がさっきよりひどくなっている。
「うん……大丈夫。ちょっと怖くなっただけ。一人で歩けるよ」
「よかった」
 未緒は泣き崩れそうなのを我慢して、暁也の背中に手を回した。
「暁也、一緒にいれくれる――?」
「分かってる」
「絶対だよ……」

 そのとき、二人の背後で何かの声が起こった。玄関の外だ。
 鳥たちの影が群がる道路を数人が突っ走っていく。みんな手に何か小さな明かりを持っていた。あれは――何だろう。懐中電灯ではない。もっと弱いライトに見えた。
 やがて、外で騒ぐ声がはっきりと聞こえてきた。長身の男が玄関の前を走り過ぎる。
「広場だ! 広場へ急げ! みんなそっちへ行ってる!」
 男が、道に出ていた他の人たちに向かって叫んでいるようだ。広場、広場、という言葉が方々から聞こえた。そして、羽根を踏まれる鳥たちの悲鳴が続いた。
「暁也、今、広場って……」未緒が顔を上げる。
「俺たちもそっちへ行こう。ここにいたって仕方ない」
 しかし、雨を何とか防がなければならない。部屋に戻って何か探すには廊下の闇を越えていく必要がある。何か明かりを――と、暁也は急に思い立ってポケットから携帯電話を取り出した。開くと、液晶画面のライトが点いた。ボディはたちまち雨に濡れたが、ライトは幸い消えなかった。
「ねぇ、どっかに電話できる?」
 未緒が横から唐突に聞いてきた。
「どっかって、どこに?」
「分からないけど、それ、電話はできるの?」
 暁也は旅行中の父親の携帯電話にかけてみた。しかし、発信音が聞こえない。相手の呼び出しも始まらない。通話は不能になっているようだ。暁也は首を横に振った。
 沈む家の中とは対照的に、表では広場、広場、という言葉が盛んに飛び交っている。
 暁也は携帯電話のライトを廊下に向けた。そのとき、最初に照らし出したのは玄関の壁にかかった一枚の大きな油絵だった。母が趣味で描いた静物画だ。水と油――。暁也はこれなら雨を防げるだろうかと考えた。そして、未緒が見守る前で絵を壁から外し、二人の頭の上に掲げた。どこか祈るような気持ちがあった。
 すると、雨が止まった。
 雨は確かに絵の表面に当たっている。絵を打つ音がする。だが、油絵は雨を通さなかった。幸い絵のサイズは二人が入っても十分な大きさだ。
「よし、これなら平気だ。未緒、広場へ急ごう!」
 暁也は携帯電話を未緒に手渡し、両手でしっかりと油絵を支えた。かなりの重さがあるが、これに耐えなければもっと重いものを失うことになる。未緒の目を見て、心に執念の炎が点るのを感じた。

 油絵を担いで表に出ると、道は往き過ぎる人波で溢れ返っていた。誰も傘を差していない。傘を持っていてもこの雨を防げないと分かったのだろう。
 人々は、足元を彷徨う鳥たちを踏みつけるのさえ構わぬ勢いで、みな同じ方向を目指していた。空には一部の隙もなく黒雲が厚く覆っている。街灯も消え、家の明かりも消え、懐中電灯も消え、みなの手元にある明かりはやはり携帯電話だった。なぜこのライトだけ使えるのか理由は分からない。しかし、この真っ暗の街中で、生きた鳥たちの絨毯の上を走る中、何ひとつ頼れる明かりもないのは無間地獄に等しい。
 暁也も未緒も、鳥の羽根を踏み潰すおぞましい音に、何度も吐き気がこみ上げた。しかしそれでも立ち止まらず、前の人の背中を照らしながら追って行くしかなかった。
 不意に、二人のそばにいた四十過ぎの男女が「俺たちも入れてくれ!」と強引に油絵の下に入ってきた。おそらく夫婦だろう。四人はさすがに狭すぎるが、暁也たちには彼らを追い出す理由はない。雨の恐怖に怯えているのは誰しも同じだ。
 やがて、周りの人たちも便乗して絵の下に入ろうとした。真ん中にいる暁也と未緒は押し潰されそうになって苦悶の顔を浮かべた。暁也は何とか未緒を守ろうとしたが、絵を持っていて両手が塞がっている。絵を左手と頭で支えて右手を自由にしようとしているうちに、最初に入った中年夫婦が他の者たちを押し退け始めた。「来るな!」「無理よ!」と大声で怒鳴り続ける。押し返されて道に転ぶ者さえいた。
 未緒は恐怖に震え、黙りこんでいる。暁也は、自分ではそこまではできないが、しかし彼らのその行為を止めてくれ、と言えない自分のむごさを痛切に感じていた。すでに人波は一心に広場へと向かい、誰も引き返すことなどできない状況だった。
 そのとき、暁也の後ろにいた妻のほうが誰かに胸倉を捕まれ、道に引き倒された。鳥たちの残骸の中に顔から突っ伏す。暁也は咄嗟に声を失った。一方、夫のほうは自分のことに精一杯で気付いていない。すると、妻がいたスペースに、小さな子供を抱えた若い男が飛びこんできた。暁也は恐ろしくなって一人残った夫に声をかけた。
「奥さんが……」
 夫は振り返り、途端に血相を変えた。そこに妻の姿はなく、得体の知れない若い男と目が合ったのだ。
「貴様! 家内をどうしたっ!」
「なにっ?!」
 その男は応戦した。男の胸の中で子供が激しく泣き始める。しかし、この男の仕業なのか、あるいは違うのか、暁也には確証がない。ただこの暗闇を恨むばかりだ。いや、もし見たとしても、この状況でいったい何になるだろうか。男のことはいいから、早く奥さんを助けに行って欲しい。暁也はそれを声に出そうとした。
 だが、その瞬間に、夫は腕を伸ばして若い男に掴みかかった。若い男は驚いた拍子に、ぐらりと体勢を崩した。そして、二人もつれ合うように転倒してしまった。
「あっ!」
 暁也は鋭い声を上げた。ところが、二人分のスペースにまた別の人間が滑りこみ、暁也の背中をぐいっと前に押し出した。
 立ち止まることもできず、そのまま曲がり角を折れてしまうと、もうどちらの影も確かめることはできなかった。暁也は慙愧の念に苛まれ、唇を強く噛んだ。耐え切れず目を瞑ると、周囲の熱気がいっそう濃く匂った。
「暁也。ねぇ、暁也……何かあったの? どっか怪我した?」
 未緒が顔を上げ、暁也の名を呼んだ。未緒は……未緒は自分が守らなければ。雨だけでなく、すべてのものから守らなければ。暁也は眉間の皺をすっとほぐして、首を横に振った。
「大丈夫、どこも怪我してないよ。急ごう――」

 停電によって闇夜に沈む広場には、すでに何百、いや何千という人だかりができていた。
 しかし誰もが、広場に来たものの、何がどうなって自分がこの事態から救われるのか分からずに、あてどなく雨の中を彷徨っていた。円形の広場の中心に無数の携帯電話のライトが多彩な色を放ち、まるで幾千の蛍が七色の銀河を作るかのように揺らめいていた。
 暁也たちも広場には無事着いたものの、ここで何が起こるのか情報がまるで掴めなかった。本当に実体もなく、ただこの場所へ向かわされただけかもしれない。暁也は不安を募らせた。
 雨は依然変わらぬ勢いで降り注ぐ。未緒が携帯電話のライトを右へ左へ動かす度に、赤紫色に染まった人の顔が次々と映し出された。油絵のおかげで保っている暁也たちの白い肌が目立つかもしれない。まさか標的になり、襲撃されはしないだろうか。さきほどの争いの残影が脳裏にこびりついて離れなかった。
 やがて、人だかりの一角が騒然とし始めた。幸い二人はその場所の近くにいた。息を詰め、じっと目を凝らす。未緒の体が緊張するのが肌に伝わってくる。
 あれは公衆トイレだろうか、コンクリートの小さな建物の上に一人の老人が立っている。痩せこけた体に白髪頭が乗っている。白装束を羽織っているが、赤紫色に染まって全身血まみれのように見える。その姿自体が恐怖の象徴のように異様な気迫で包まれていた。
 老人は両手を天に向かって広げ、何度か大きく息を吸った。この雨の中、何を始めるつもりなのか見当も付かない。まさか発狂しているのではないだろうか。暁也たちの周りからも同じような声が聞こえ始めた。未緒が「ねぇ、何か危ないよ……」と囁く。その瞬間、
「あらゆる個体は地に属し、」
 老人の第一声が広場に響き渡った。拡声器も何もない。にもかかわらず、何という大きな声だろう。雨音や無数の話し声に遮られることなく、暁也たちの耳にもまっすぐ届いた。

  あらゆる個体は地に属し、
  地は、また天に服する。

  天は地のすべてを愛し、
  愛する故に、時を選んで塗り変える。

  天の意志とは何か。
  君問わば、いざ天を向くがよい。

 暁也は油絵を少し傾けた。赤紫色の粒子が網膜めがけて迫ってきた。
「――雨。」老人は朗々と謳い続ける。

  雨だ。
  雨こそがすなわち天の意志。

  個体よ、天に服せ。雨を一身に受けよ。
  この雨は個体を浸蝕し、主たる機能から消し流す。
  失えば、いかなる個体も天に抗うことはない。
  ついには天の意志が、地を覆い尽くすのだ。

  個体よ、雨に服せ。逃れる術はない。
  浸蝕の雨が訪れてしまったのだ!

 謳い終えると老人はその場にうずくまった。
 聴衆は騒然とし、いっそう混迷の度を深めた。預言と言うのかはっきりしないが――しかし、この老人の言葉を聞いたところで誰が助かったわけでもない。雨は今なお降り続けている。止む気配もまるでない。
 人々は、屋根の上の老人に向かって口々に怒りや嘆きや失望をぶつけ、この一角から散り始めた。だが、何を期待できると言うのか。雨が屋根という屋根を通過する以上、安全な場所がどこにあると言えるだろうか。
 一方、暁也たちはまだその場を離れずにいた。老人が最後に言い放った「浸蝕の雨」という言葉が尾を引いていたのだ。個体を浸蝕し、主たる機能を消し流す――雨。老人の言葉は本当だろうか。屋根や窓ガラスが雨を防ぐ力を失い、鳥たちが地上に落下し、電線が不通になり、懐中電灯の明かりが消えた。こういった現象のすべてが雨によって機能を失ったからだというのか。この赤紫色の雨が、天の意志だと言うのか。
 黙りこくった暁也を腕を未緒が心配そうに揺すった。黙った時間が長かったのだ。
「ごめん」
「ねぇ、これからどうしよう」
「それを考えてるんだ」
 雨から逃れられる場所は、今はこの油絵の下しかない。重さのせいか、指先がだんだん痺れてきた。何とか、落ち着いて休める場所はないのだろうか。暁也は人の姿が少しずつ減り始めた広場を見渡し、深い溜め息をついた。
「なるほど、画板か――」
 突然背後から低い声が向けられた。振り返ると、さきほどの老人が少し離れた場所に立ち、赤く鬱血した眼球でじっと二人を見つめていた。
「君らはなかなか聡明だ」
「何がです」
 暁也は少し距離を置いて、その老人に反応した。
「『画板』なら確かに雨を通すまい。まさか――この雨を知っておったか」
「いえ……」
 暁也は首を横に振った。それ以上何を答えたらいいか分からない。
「しかし、人より少し長く生き延びたとしても、この雨の下に残るのは脱け殻ばかり。喜びなど何も生まれはしまい」
 生き延びる、という老人の言葉が暁也の鼓動を高ぶらせた。このまま雨を浴び続ければ、いったい何が起こるのか。鳥たちの様子から想像するだけで体の芯が冷たくなる。暁也はすがるような顔で老人に詰め寄った。
「あなたは、この雨を逃れる術を知らないんですか? 本当に知らないんですか?」
 すると老人は右手をかざし、暁也の歩みをすっと留めた。
「私は詩人だ。人を救う力はない」
 詩人。思いも寄らぬ答えだった。老人は訥々とした口調で続ける。
「雨に濡れれば、やがて詩を語れぬ身になるばかり。それは消滅と同じこと。この雨が何たるかを来世に語り継ぐことはできない。書に記せば文字は乱され、音に残せば変調をきたす。つまり、『浸蝕の雨』は記録には残らないのだ」
 消滅という一言がまたも心に重く響く。老人は天を向いた。
「こうして雨が降り始め、人より一刻でも早く天の意志を受け止めた詩人が、真実を告げる使命を授かるのだ。そして、最後はその役目を失って、雨の滴に消されてゆくばかり――。見よ、雨の狭間の何と狭いことか……。どこに逃れる道があるのだ」
 何も返せる言葉がない。暁也は、この年老いた詩人の深い目尻の皺に畏怖と悲しみを覚えるばかりだった。顔を曇らせていると、詩人は強い眼光で暁也たちを射抜くように構えた。
「だが、雨は無限のものではない」
「えっ……」
「この雨を生き抜くつもりなら、雨上がりを見届けよ」
「雨上がりを――」
「そうだ」
 そして、それを最後に詩人は黙った。
 呼んでも答えが返ってこない。あまりにも唐突なことだった。恐る恐る未緒が携帯電話のライトで照らすと、彼の全身は赤紫色に染まっていた。未緒は悲鳴を上げて目を伏せた。
 よく見れば、老人の目はかすかに動いているように見える。だが、口は動かない。すなわち――それは彼が詩人でなくなった瞬間だった。
 暁也は味わったことのない感傷に打ち震えた。目の前にいる人間が突如あらゆる感覚を失い、本当に脱け殻になってしまった。命を落としたわけではない。しかし、この詩人を動かしていた決定的な何かが消滅した。この雨に消し流されたのだ。
 暁也のまぶたに涙が溜まってくる。雨の滴ではなく、透明な熱い液体だった。
 涙を拭おうとすると、未緒が不意に携帯電話を閉じた。詩人の哀れな姿が暗闇の中に隠されてしまった。
「どうして、あの人を画板の下に入れなかったのよ!」
「えっ」
 それは思いがけない糾弾だった。未緒の目が闇の中から睨みつける。
「いや……あの人が自分で来なくていい、とやったんだ」
「そんなの関係ないよ。だって、この人死んじゃったじゃない!」
「死んでないよ!」
 生きてはいる。死んでないけれど……もう脱け殻なのだ。もう何も語らない。
「生きてるったって、――もう違うじゃない」
「じゃあ、俺が悪いって言うのかよ!」
「何でわたしに怒るのよ!」
 暁也はその瞬間、喉までこみ上げていた声をぐっと飲みこんだ。なぜ今、未緒と言い争っているのか。――自分では分かっていた。すべては心の弱さなのだ。暁也はあの老人を一人の人間としてでなく、宿命を負った詩人と思っていた。彼の言葉が本物なら、彼は消滅する存在なのだと、心の中で鵜呑みにしていたのかもしれない。だが、未緒に問われた言葉は、暁也の胸を掻き乱すほど痛烈な真実だった。暁也はうな垂れたまま、思いつく言葉を結局すべて飲みこんだ。
 雨の音が孤独な二人を取り囲む。
「暁也――ごめん、言い過ぎた……」
 未緒は慎ましく目を潤ませる。暁也は己に対する呵責と後悔で胸が張り裂けそうだった。
「ごめん。俺が悪かった」
「……ううん」
「動こう。どっか休める場所を探そう。手が痛くなってきた」
 本音だった。休みたい。二人して落ち着ける安全な時間と空間が欲しい。暁也は降りしきる無情の雨が届かぬ場所を願った。未緒も頷き、きゅっと寄り添う。
 ところが、一瞬の安息すらも打ち破るほどの激しい慟哭が空一面に響き渡った。

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