日本語を織りつむぐ幻燈の祠
知らぬ間に押し寄せる異界の鼓動……



「ガラスの鳥に囲まれて」

作)青砥十(sleepdog)


 その日、誰にも話せないような初夢を見た。
 深緑色の細い影はガールフレンドのよく着ているカットソーだった。胸元に羽のような白いフリルをあしらった、彼女の冬のお気に入り。古めかしい喫茶店の窓辺の席で、彼女と僕は仲良く向かい合っていた。外は凍えるような昼下がり。彼女は手榴弾みたいな特大イチゴが載ったパフェをぱくぱくとほおばり、僕は味気ない黒のレコード盤をちびちびと齧っていた。喫茶店には最初から僕と彼女の二人しかいない。半分欠けたレコード盤を皿に置き、カバンの中身に手を伸ばす。そして、これから大切なことを切り出そうとした瞬間、彼女のルビー色の瞳は僕をかわし、怯えと憂いに染まった。聞けば、窓の外に追っ手の姿を見たと言う。彼女は午後の紅茶を午前に飲んだという罪で追われていたのだ。僕は理不尽だと慰め憤ったが、彼女自身はそれに納得しているようで、深く詮索はしなかった。
 ムクドリの姉妹が窓を叩き、僕をテラスへと呼ぶ。一人の老兵から手紙を預かってきたと言うのだ。身に覚えがなかったが、あまりにしつこく騒ぐので、僕はコートを引っ掛け彼女を残してテラスに出た。寒いが、なかなか眺めのいい場所だ。僕たちが入店したのは確か一階だったはずが、外の景色は十階くらいの高さになっている。ムクドリの姉が笑う。今年は酉年よ。城だって動くのよ。喫茶店が飛ぶくらい何でもないわ。ムクドリの妹が笑う。あたしたちもそのほうが楽なの。地面は猫たちが占領してしまったから。ね、姉さん。
 妹の言葉が頭に引っ掛かり、僕は手すりを掴んで下を眺めた。すると、そこは猫の海だった。何千万匹という猫が見渡す限りの広大な地面をすべて覆い尽くしていた。そんな急激に繁殖するものじゃない。僕は慌てて彼女を呼んだ。イチゴパフェの三杯目がちょうどに空になる寸前だった。彼女はものすごい速度で食べ、ものすごく憂鬱な顔で僕に手を振る。そうしてガラス越しに、こめかみが痛い、と言った。窓ガラスで声が聞こえないから、僕は彼女の声を思い出し、くちびるの動きにそう当てはめた。
 ムクドリの姉が笑う。恋人はのん気なものね。十二支はもうじきすべて乗っ取られるわ。主戦派の寅や辰や戌でさえこれだけの数の猫には敵わないもの。今年はもう酉年が始まっちゃったけど、来年から猫年がずっと続くわ。色の違う猫が十二匹選ばれるのよ。うんざりよね。ムクドリの妹が笑う。手紙をくれた老兵はこれを予言していたわ。だから、あなたにこれを託したの。ね、姉さん。そしてついに僕はその手紙を妹から受け取った。姉妹は役目を終えると、抜けるように青く高い冬空に翼を広げ、飛び去っていった。
 手紙をしげしげと観察する。差出人の名前はない。宛名は「猫でない者へ」とだけあった。なるほど僕は猫でない。ムクドリは確かに役目を果たしたわけだが、この手紙は僕が受け取って良かったのかと迷った。僕は何千万という猫を追い払う力はないし、そんな指導力もない。もし宛先が人違いだったら――と疑いつつ、僕は丁寧に手紙の封を切った。古いインクの匂いが漂い、角張った達者な文字が僕の目をぴたりと捕えた。

   海へ追いやれ。海へ追いやれば、みんな残らず鳥になる。

 僕は驚き、呼吸を忘れて続きを読む。

俺たちの守り続けたかつおぶしは明朝にも陥落するだろう。食糧も弾丸も便箋もじきに底をつく。威信にかけて守り抜く、そう誓って削り箱に散っていった仲間たちに何と詫びたらいいのだろうか。夕凪の時を逃すな。船に頼るな。かがり火を焚け。海へ追いやれ。海へ追いやれば、

 みんな残らず鳥になる。僕はインクの切れたらしい痕跡を指でなぞり、心静かに復唱した。手紙に消印はなかった。ムクドリの姉妹が直接ここまで運んできたのだろう。今は昼下がり、朝は一度来た。つまり、もうすでに世界のどこかでかつおぶしが陥落したらしい。それが悲しいことなのかいまいち気持ちが定まらないが、老兵の託した手紙は僕のところに届いてしまった。託したというのは真意かどうか分からない。これは老兵がただ己を鼓舞するために綴った言葉のようにも思える。もっと言えば、大量の猫との関連性も分からない。猫との接点はかつおぶしだけに過ぎないのだ。これ以上考えても仕方ない。断片的で骨の強いその手紙はゴワゴワと丸くつぶされ、僕の胸に濃密なもやもやだけを残して、テラスから明るい空を飛んだ。やがて手紙は猫を恐れて鳥になり、その翼からひらりと落ちた一枚の羽は戸惑う僕を彼女のほうへ振り向かせた。
 彼女はテーブルに空のパフェグラスを六つも並べ、何か熱心に手紙を書いている。彼女が手紙を書くのは珍しい。僕は寒くなって店の中に戻ろうとしたが、窓の丸ノブに触れるところりと外れて転がり、テラスの柵の間から落ち、猫を恐れて鳥になった。また一枚の羽が僕のほほをかすめ、僕の目を彼女の姿へと導く。潮の香りが風に混じってきた。海が近づいているのだ。テラスに置かれた趣味のいい鉢植えも、テーブルもイスもパラソルも、エアコンの室外機も、腰丈ほどの小ぶりな物置も、ころりころりと風に転がり、柵を乗り越え、猫を恐れて鳥になる。夕凪が近いのだ。だからみんな急ぐのだ。
 鳥たちが去り際に落とすいくつもの羽が僕の体を一瞬包み、振り向けばやはり彼女が手紙を書いている。ようやく僕の様子に気づき彼女は顔を上げたが、六つのパフェグラスがラインダンスのように斜めに踊り、二人の視線をさえぎった。彼女の座るテーブルが大きく傾いだのだ。それは室内が傾いだのでなく、空飛ぶ喫茶店自体が岬の灯台を避けようと大きく右に舵を取ったのだ。大丈夫かと僕は窓辺で叫ぶ。ノブはさっき消えてしまって、僕はもう店の中に戻れない。そしてこの店はもうすぐ海に出てしまう。しかし、彼女のうなずく仕草はやきもきするほど曖昧で、僕はもう一度力を込めて叫んだ。
 足下で、鼓膜が割れるような太い霧笛が鳴り響き、ベランダの真下から突然巨大な客船が姿を現わした。船にたくさんの飛べない鳥たちが乗っている。甲板へ飛び移れる距離ではあったが、迷った瞬間、老兵の手紙の言葉によって僕の頭は掻き乱された。やがて再び巨大な霧笛の音が空を染め、僕は痺れたように腰から崩れた。客船は向きを変え、僕たちのいる喫茶店を追い越してどんどん離れていく。船尾のデッキに並ぶ飛べない鳥たちが銀玉のような目で僕たちを見送る。なぜか少しだけ目頭が熱くなった。身を襲う冷たい風に吹かれ、こぼれ散る涙の一粒さえも猫を恐れて小さな鳥になっていく。
 僕は這うように立ち上がり、窓ガラスを睨んだ。こうなったら体当たりをしてでも割ってやる。腰を落とし、右肩を前に突き出して、踏み切る覚悟を決めた。だがその瞬間、室内の彼女が首を横に振り、悲痛な色を瞳いっぱいに浮かべた。拒絶された僕は唖然と立ち尽くした。彼女は書いていた手紙を器用に折り畳み、紙飛行機にして振りかぶる。紙飛行機の先っぽにパフェのさくらんぼの種を一粒はさみ、彼女の体が美しいフォルムを描き、その指先が滑り出す――次の瞬間、窓ガラスにくもの巣のような亀裂が走り、内側からこっぱみじんに砕け散った。湖面に張った薄氷が破れる一瞬を魚になって見ているような光景だった。
 彼女は破れた窓から飛び出し、一直線に僕の胸に抱きついてきた。僕は両手でしっかりと抱き止め、そのやわらかい感触を何もかも忘れて確かめる。満足げに微笑む彼女の瞳には、さっきわずかに覗かせた悲痛な色はもうなかった。少しだけ何か言いたげなくちびるに僕はためらいもなくキスをした。小さな吐息からは温かく濡れたバニラの匂いがした。
 くちびるを離す。それから僕はこんな時に、彼女に対して心から結婚の意志を伝えた。驚いたような瞳で僕を見上げる。しかし、今日最初から言おうと思ってずっと胸を焦がしていたことなのだ。
 夕凪の時がいよいよ迫る。風がなくなればこの喫茶店はどうなるか分からない。飛べない鳥たちを運ぶ船はもう手の届かない場所まで離れてしまった。だが、船に頼るな、かがり火を焚け――老兵の言葉が冴え冴えと脳裏に蘇る。僕はコートを脱いで太い棒のように丸め、ライターの火でそれを燃やした。火の粉が真っ赤な小鳥に変わる。そして、二人の足許に散らばったガラスの破片も外へ流され、次から次にガラスの鳥に姿を変えていく。テラスの下には空より深い海の青が広々と澄み渡っていた。僕たちはいよいよ海に出たのだ。二人の乗る喫茶店は空飛ぶスピードを少しゆるめ、夕暮れ色の潮風のあおりを愉しむように旋回していく。
 さっき通り越した灯台に黄金色の灯がともり、ぐるりぐるりと一帯を照らし始めた。海岸線には泳げない猫の群れが羨ましげに大空を見上げている。光の帯を照り返す何千万という猫の目は地上に渦巻く高波のように震えて揺れた。
 もうすぐ風がどこかに潜む頃だろう。僕は彼女を抱きしめて、ただじっと返事を待つ。これが夢だということも、レコード盤を齧った時点で分かっている。けれども、僕を動かす精神は僕そのものであることに今は確かな自信が持てる。老兵からの手紙がやっぱりただの間違いでも、それはそれで構わない。起きたらトーストを焼き、歯を磨き、大事な指輪をカバンに入れて、約束の喫茶店に行くということだ。誰にも話せない夢を見た。その気恥ずかしさを胸にしまい、僕はテラスで彼女を抱いたまま、目覚めるために瞳を閉じた。

(おわり)




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