日本語を織りつむぐ幻燈の祠
知らぬ間に押し寄せる異界の鼓動……



「ハプキン」


 スチール缶だったから?
 アルミ缶だったら大丈夫だったの?

 なんでこんなことになるの? なんでちゃんとゴミ箱に入らなかったの? なんであっちに転がってっちゃったの? なんでこんなときに自転車で通りかかったりするのよ! ミルクティなんか缶で飲むんじゃなかった……。
 ああ、だめ。もうイヤ。さっきからちっとも動かない。あの黒っぽいのはやっぱり血? ああ、もう、ほんと、それ以上流さないでよ。気持ち悪いから。
 ちょっと、起きてよ。ねぇ、起きなよ! いつまで寝てんの? なんであれくらいで参っちゃうのよ。おかしいって。ほんのちょっとつまずいただけでしょ? ほら、いい加減起きてよ! そしたら気が済むまで謝るからさぁ。ねぇ、ほんとに起きてってば……。
 もう、だめ。どうしたらいいの? やっぱり救急車呼んだほうがいいのかな……。でも、あれだけでっかい音がしたんだから絶対誰か気付くよね。ガッシャーーンて、ほんとすごい音立ててさ。たぶん、もうすぐピーポーピーポーって来るんだ……。そしたら、あたし連れてかれるなぁ、きっと。
 ウソ!!
 そんなのイヤよ! 絶対! 冗談じゃない。こんなことであたしの人生終わっちゃうなんて絶対あり得ない! あたしだって結婚がしたいんだよぉ。
 ――でも、逃げられっこないし。
 もう何なのよ、いったい。バイトで疲れてるんだから見逃してよ……。ねぇ、あたしが何か悪いことした? そりゃまあ、いいことばっかりしてるわけじゃないけど。それにしたってこれはあんまりじゃない?
 琢磨、遅いよぉ……。バカだっていいから、早く戻って来て……。ピロシキとか言うんじゃなかった。ないって。普通ないよ。素直に行くなよ、バカ。
 でも、あいつこれ見たら何て言うかなぁ? よしわかった、俺と一緒に逃げようなんて言わないで、頼むから。あいつと一緒に暮らしたら、刑務所の食事より最低だろうし。そうだよ、食べられる雑草にくわしいとか言ってたもん。あいつがこっちになれば良かったんじゃない? なんて……。
 もう琢磨、変な中学生にからんでたりしないでよ。あいつら携帯持ってるから、この前なんか親まで来たし。車のナンバーまで覚えられて大変だったじゃん。素直に勝負すんなよ、バカ。
 もう。早くこの車、動かさないと。
 寒い……窓、閉めとこう。

     *     *     *

 小夏(こなつ)は煙草を揉み消し、窓越しにもう一度外を見た。うずくまる黒衣。夜空を仰ぎ、カラカラと笑う車輪。黒衣の顔は車中から見えない。
 疎水跡地のうす暗い道。人通りもなく、車の往来からも離れたさびしげな道。窓を閉めるとなおさらに静寂が際立った。
 救急車はまだ来ない。サイレンもない。琢磨も戻って来ない。誰も車に近寄って来ない。車の屋根に枯れ葉がほとりと舞い落ちたくらいだ。
 不意に、住宅の寄り集まる奥底で、犬の遠吠えが始まった。その響きはやたら切なげに聞こえる。最初の鳴き声に連鎖して、あたりの犬が何匹か一斉に吠えだした。思わず肩をすくめる。耳を両手でふさぐ。それでも手の平を通して、無神経な喧騒が鼓膜まで届く。小夏は身を縮めて、ただじっと震えていた。うるさい……うるさい……と口許で繰り返す。痛くなるほど目を閉じて、歯を食いしばり、一心不乱に頭を振る。髪の毛先が、自分の一部と思えぬほど理不尽に手の甲を刺し続けた。
 そのとき、車の後部座席でザザッと奇妙な音がした。無造作に投げ出されたアディダスのスポーツバッグ。しかし犬の鳴き声に妨げられて、小夏の耳には入らなかった。
 やがて、犬たちの得体の知れない警鐘はピークを過ぎて、静謐な固い地面に吸われていく。そして最後の一つまで止んでしまうと、あとには怖いくらい音一つない匂いが残った。鼓膜の痺れはなおも消えない。小夏は灯のない車中で、疲れた頭をぶらんを垂れ下げた。

     *     *     *

 ほんと勘弁して。
 あの鳴き声で、ここらへんの人みんな起きたかな? でも、こんな時間だもん、外には出ないよね普通。だからって……迂闊に出てって見られたら、もう逃げようがないし。ねぇ、琢磨、頼むから早く戻って来て……。なんであたし置いてくの? この先、道が一方通行で遠回りだから、とかほんと勘弁して。
 だめだ、あいつ絶対別の店回ってピロシキ探してるよ。手ぶらで戻れないって顔が浮かぶ。もう、なかったんなら、それでいいから。なんで素直に謝れないの? おっそいよぉ……。だって、あたしもうミルクティ飲み終わってるんだよ?
 あっちは全然起きないし――。
 でも、こんな夜中に自転車乗ってるほうも悪いんじゃない? あれ、そう言えばライト点けてた? 来てたのなんか全然わからなかった。ライト点けてなかったかも……。それに何だったのよ、あの荷物の多さ。買い出しかな。手にも結構持ってたみたいだし、あれならいつ倒れてもしょうがないって。
 あ、もしかして向こうが勝手に一人で倒れて、タイミングが重なっただけじゃない? ……そんなことはないか。缶が転がってく音が何度もしたし。でも。
 自転車って、あんなに簡単に簡単に倒れるもんだった? もっと安全なつくりにしてよ。タイヤ細いんじゃないの? たかが空き缶一個につまずいたくらいで、まったく。誰なの、あんなひょろひょろなデザインにしたのは。
 あの缶にしたってそう。何なのよ、あの太さ。350も要らないんだよね。あの半分でいい。値段も半分になったらもっと売れるって絶対。誰があんなふうに決めたの? 知らないところで勝手に決めて、それでなんであたしに迷惑かかるのよ。
 冗談じゃないって。ほんとに……。

     *     *     *

 空き缶はどこへ転がっただろうか。缶には口紅も唾液も付いている。
 小夏は拾いに行こうか迷ったが、車を出る決心はやはりつかなかった。運良く排水溝に落ちてはいないかと期待がふっとよぎり、小夏は窓の外を見た。しかしそこには、缶の行方など真っ青に吹っ飛ぶような情景がすでに輪転を始めていた。
 倒れた黒衣の周りを、四体の黒衣が慌ただしく取り囲んでいる。少しずつ立ち位置を変えて交替に倒れた黒衣の裾をめくったり、体に手を置いたりしている。どの黒い頭衣もひさしに遮られて顔の中身は窺い知れない。長い袖に隠れて手も見えない。倒れた黒衣を囲む四体の黒衣が伸びたり縮んだりする光景は、まるですさまじい量の砂鉄が勃々と地面から噴き上げているようだった。
 動く黒衣の一体がふと立ち止まって手を上げると、背後にある家の屋根の向こうから、紫色の巨人が顔をのぞかせた。普通の二階家。明かりはすべて消えていて、家中はおそらく寝静まっている。紫の巨人に顔はなく、その代わりに六つか七つかの光の珠が体内を脈々と巡っていた。後ろにはその輪郭を切り取って、大きな星空が見渡す隅々まで浮かび巨体に覆いかぶさっている。
 小夏は窓をわずかに開けた。理由はよく自覚していない。とにかく、外の状況が何も伝わってこない孤独な車内が絶望的に息苦しかったのだ。
 紫の巨人は屋根から身を乗り出した。しかし、動いても音一つしない。むしろ黒衣達の衣擦れの冷たい音で耳につく。やがて、彼らは倒れた黒衣の四隅を持ち上げて、夜の闇にふわりと浮いた。瞬間にはそう見えたが、どうやらそうでなかった。紫の巨人の手が道路まで下りてきて、彼らはそれを伝って巨人の腕を一気に駆け上がったのだ。肩まで上がると、二手に分かれて巨人の耳から中に吸い込まれた。本当に耳かは確かめようがない。いずれにしても五体の黒衣は、巨人の頭の側面からすべて姿を消してしまった。
 残ったのは紫の巨人だけである。小夏のいる車をじっと見下ろしている。目はないので視線は分からない。ただ、その狙いは考える隙などなく、向こうから乱暴にやって来た。
 巨人は跳躍した。二階家の背後から跳び上がり、道路の真ん中――車の前に踊り出た。着地した足音が聞こえない。街灯に照らされた輪郭はいくら巨大であっても、重量感はまるでなく、葡萄味の巨大なマシュマロ人形のようにさえ見える。紫の巨人は丸々とした左腕を伸ばして車のボンネットを掴み、小夏が息を飲む間に、力尽くで鍵を壊して持ち上げてしまった。そして同じく丸太のような右腕を中に突っ込み、その態勢で一旦止まった。
 車が壊される、と小夏は背筋で直感し、急いでドアを開けようとした。しかしまったく開かない。ロックは解除したのに、いくら体重で押しても外へ開かない。窓はほんのわずか開けてあった。祈るようにパワーウィンドウのボタンを押したが、やはり窓も開かない。電気は通じているようだが、異物を吸い込んだ掃除機みたいな苦悶の音を立て、まったく動かないのだ。
 繰り返しガタガタドンドンやっている小夏の背後で、後部座席のバッグがまた不穏な音を立てて呼応した。ただ、強く張り詰めた小夏の神経は、ドアが開かない焦りにひたすら埋め尽くされていた。
 唇を噛み車の前に目をやると、紫の巨人がまだ同じ態勢でいる。さっきと違うのは体内の光の珠だ。頭や左腕や足のほうから無数の珠が中央に向かって集まり、胸から右肩へ流れて、右腕の先端めがけて突き進んでくる。爆破されるのか、と根拠もなく浮かんだ疑いが車内の空気を圧迫した。依然ドアは頑ななまでに小夏の抵抗を拒絶し続ける。
 すると、ふんわりと憶えのある甘い香りがふくらんだ。同時に強い煙草の匂いと混ざって一気に車内に充満する。胸の悪くなりそうな気分。目が滲む。そして一瞬の不意を打ち破り、大量の白っぽい液体が噴き上がった。エアコンの通気孔だ。車の外から流れ込んできた――
 ミルクティ。
 濃厚な香りと強烈な熱気が力一杯流れ込む。窓ガラスが一気に曇る。ひるんだ瞬間、小夏の左の通気孔からもミルクティが噴き出した。左半身を粘着質の熱水が襲う。小夏は悲鳴を上げ、迷う暇すらなく後部座席に駆け込んだ。しかし、後方もシート中央の頭上からミルクティが溢れ出している。小夏は何とか唯一の逃げ場を見つけ、身を捻って助手席の後ろに飛び込んだ。小夏は真っ先にドアの鍵を外したが、やはりここのドアも窓も開かない。液体に濡れた気持ち悪さと胸を灼く熱さから、カットソーを脱いで下着姿になった。
 重苦しい溜め息が一つ洩れる。小夏は天井を仰いだ。
 ミルクティは濛々と湯気を上げながら勢い止まず流れ込んでくる。小夏は火傷を恐れて精一杯窓際に体を貼り付け、両足をシートの上に乗せ、窮屈な体勢のまま、その浸食をじっと眺めた。床は見る間に白く濁り、黒いマットの色が見えなくなった。甘い匂いは一層濃度を重ね、車内は強烈な蒸し風呂と化していく。たちまち足元の空間は埋め尽くされ、どろどろと揺れ動くミルクティの波の端が、小夏の靴先を咥えようと窺っている。その飛沫の熱さが、小夏を絶望の渕に誘った。
 甘い湯気に支配された世界。このまますべてが進めば、小夏は間違いなく溺れ死ぬ。慰みのつもりか、ふと外の様子が知りたくなり、窓ガラスの曇りを手で払った。そこに、ざわざわと黒いものがガラスの外側を這い上がってきている。その隙間から、街灯に引き伸ばされた巨人の影と、その影の中から砂鉄のように湧き上がる黒い糸玉の姿を見た。
 視野を移すと、さっきまで小夏が座っていた助手席のドアの下にも別の黒い糸玉が蠢いていた。黒糸がドアにぺったりと貼りつき、タイヤにまで執拗に絡みついている。最初に見た時、動く黒衣は四体いた。きっと反対側も同じ状態だ、と小夏は直観した。
 後部座席の窓から、紫の巨人の右足だけが見える。右足の光の珠は間断なく吸い上げられていく。その先に辿り着くのは、小夏の怯える四角い小さなスチール製の世界。だがそこに、解放を許すプルタブはない。

     *     *     *

 熱い。
 熱い、熱い、熱い。喉が熱いよぉ。
 助けて。琢磨、助けて。お願い、誰か出して、琢磨……。
 やばい。死ぬよ。死ぬ、殺される、溺れる。
 どうしよう。ドアは絶対開かない。じゃあ何? ねぇ、琢磨。この車、屋根とか開かないの? ――いや開かない、知ってる。そんな車じゃないもの。
 どうしよう、死ぬのを待つなんて絶対イヤ。穴なんか一人じゃふさげないし。一人じゃなくても無理だよ。だったら、何があるの? 誰か教えて。このままじゃ、あたし本当に死んじゃう。まだ捕まったほうがマシだった。今から、今からでも出て行ってきちんと謝れば済む? 済んだりする?
 だったら、出してよ! ドアを開けてよ!
 開けてよ。お願いだから開けて。ここ熱いの……。本当に熱いんだから!
 なんで何も届かないの? あいつは――あいつらは何がしたいの? あたし、謝るってこれだけ言ってるじゃない。ダメなら、じゃあ何すればいいの? それを言ってよ。とにかくミルクティを止めて! もう許して!
 いくら言ってもダメだ。最初っからこっちの声が届いてれば、こんな状況なんて絶対ならないよ。
 やっぱりドア、窓、これしかない。開かないなら、そうだ、破ればいいんだ。窓ガラスを割ろう。危ないけど死ぬよりマシ。何かないかな、ガラスを割れそうなもの。
 ――あ、琢磨、草野球やってた。バットとか……置いてないか。ない。見つからない。ボールはどうなんだろう、ガラスに思い切りぶつければ、もしかして。いけそうな気がする。割れたら外に出てる。急がないと。早く、どっかない?
 え、あのバッグ。普段あいつが使ってるやつじゃない。だいたいさっきカバン持って出てったし。それならあれは車に置きっ放し? なんかスポーツ用みたい。汚れてる。え、もしかして草野球の? もしかして、もしかして、ボール入ってる?
 琢磨、お願い。助けて――

     *     *     *

 小夏は手を伸ばした。運転席の後ろのシートにアディダスのスポーツバッグが置いてある。
 頭の上では依然、熱いミルクティが勢い良く噴き出している。脱いだカットソーとクッションを重ねてカバー代わりにして、熱水の直撃から身を護りながら、指先で必死にバッグを引き寄せた。期待通りゴロゴロと重たい感触がある。小夏の顔に、ようやく微笑みの色が差した。
 重たいバッグを引き寄せるのに、ミルクティを浴びた指先のベタベタした粘り気が助けてくれた。しかし、あと少しのところで気が緩みクッションがずれ、小夏はミルクティを腕に浴びた。熱さで思わず手を離すと、バッグは流れに押されて足元の湯溜まりに飛び込んだ。熱い飛沫が跳ね上がり、よける一心で小夏はシートに背中を打ちつけた。
 限界を冷酷に告げる虚ろな涙がじわりと浮かんだ。もう泣いてもいいはずだ。
 あきらめるな、琢磨を信じろ、と小夏は胸に誓う。カットソーをもう一度腕に巻く。騰々と渦巻く白濁の湯溜まりを睨みながら、小夏は手を突っ込んだ。
「熱い!」
 しかし叫んだのは小夏でなかった。息が止まる勢いだったが、小夏の手は確かに沈没したバッグを掴んだ。
「早く!」
 熱湯の中から号が飛ぶ。小夏は構わず急ぎ引き上げて、もう落とさないと胸に抱きかかえた。灼熱の塊が腹にずしりと重くのしかかる。元々白かったバッグは見事にミルクティ色に染まっていた。小夏の気のせいか、震えのせいか、バッグが小刻みに震えているように見えた。しかし戸惑っている余裕はない。いよいよシートに熱い荒波が押し寄せてきた。
 小夏はシートの上に中腰になり、頭を天井に勢いでぶつけそうになりながら、バッグのジッパーを開けた。途中何か引っ掛かってうまく開かなかったが、渾身の叫び声を上げながら邪魔者を打ち破り、バッグを全開にした。中に野球のボールはあるかと、万感の願いを込めて覗き込む。
「くそーっ、待たされた!」
 バッグの中からまた声が。そして、中に入っていたのは大きなヤシの実だった。
「うそっ!」
 小夏は自分を疑った。琢磨を疑った。そしてヤシの実を疑った。しかしよく考えれば、野球のボールより重くて強力には違いない。小夏はバスケットボールほどもある毛羽立った茶褐色の塊を両手で掴んだ。助かろうと思えば他に方法は思い浮かばない。
 躊躇う間断すら与えず、ついに高熱のミルクティがバッグを取り囲む。そのとき小夏の手の中で、ヤシの実から白っぽい芽がにゅるにゅると器用に伸びてきた。
「好き放題、使いやがって!」
 ヤシの実はそう言い捨てると、毛むくじゃらの殻を突き破って、中から濃厚な植物の匂いを振り撒きながら、青黒い葉がゾクゾクと飛び出てきた。小夏は半ば痙攣するようにヤシの実から手を離し、ものすごいスピードで成長していくヤシの葉を茫然とただ見つめていた。
 やがてヤシの木の膨張は止まった。後部座席をまるごと弓なりに埋め尽くす格好で止まった。同時に小夏も呼吸を忘れかけていた。頭上まで覆うヤシの葉を湯気が包み、微細な露をその表面に弾く。孤独な暗がりの車内に、ミルクティの熱気とヤシの葉の強烈な香りとが、鼻を外して捨てたくなるほど不調和に混ざり合い、未踏の世界の口を開いていた。
「君は?」
 どこからこの声が出ているのか、小夏の目には見えない。唇を開くと湯気が喉を圧迫した。
「小夏……」
「ココナッツ? 嘘をつけ!」
 もう一度名前を言った。三倍の声は出した。「こなつか」とヤシの木は言った。
「俺はハプキンだ。すまん、身内が迷惑をかけた。始末は俺がつける」
 ヤシの木が名乗った。そして謝った。しかし、もはや小夏の頭には何もまともに入ってこない。ただ、これだけ密接している相手に敵意がないことは動物的直感で受け止めることができた。それでもなお、救われた気持ちには一歩も近付いていない。むしろ小夏にとっては、木になるより実のままのほうが手に扱いやすくて良かったように思える。
 ヤシの枝の先が、ミルクティまみれの小夏の頭をザワザワと撫でる――
「とにかく出るぞ! 風が欲しい。この熱気は俺でも耐えがたい」
 ハプキンは強く言い切ると、二本の長い枝の先を車の天井に当てがって、横一直線に枝先を広げた。小夏のいる場所からは、無数に重なり合う枝葉に遮られ、何をやっているかまったく見えない。その間にもミルクティは躊躇いなく足元を這い上がり、小夏は爪先立ちで必死にこらえていた。
 ジィーーーイーーーイッーー。
 暗闇の葉陰に響く音。耳に馴染みのある音。何かを横向きに引いている。
 息を詰めた瞬間、突然ヤシの木が天井に向かって大きく動いた。起き上がったのか、弓なりの反動か、小夏が慌てて追った視線の先に、白い街灯が差し込んだ。青々しいヤシの枝葉に刻まれて、湯気の中にすがすがしい光の筋が照り映える。
 冷たい外気が首筋を誘う。
 開いた。天井が開いたのだ。先陣を切ってまずヤシの木が夜空目がけて立ち上がり、小夏もザラザラの幹にしがみつくように背筋を伸ばし、車の屋根の上へ這い出た。まるでノコギリで切られたように大きく口を開ける天井。その切り口の縁には、銀色のジッパーの歯が一列に並んでいた。
「ファンタジッパーだ。パーム家の宝さ」
 声の先にはハプキンが見下ろしていた。
「なっ、何が?」
「すごいジッパーだろ。こいつは探してるものに近いバッグの中に飛ぶことだってできるんだ」
 大きく広がったヤシの葉が、冷たい夜風に笑ってなびく。
 小夏もハプキンにつられて立ち上がったが、車の上は思ったより高かった。急激な温度差と脱力感で眩暈がし、小夏は崩れるようにうずくまった。
「みっともない格好だな。服くらい持ってないのか?」
 ううん、と小夏は小刻みに首を振る。けれども胸が詰まって言葉が出ない。すると頭上で葉がこすれ合う音がし、一本の枝が四角い緑色の物を小夏の手に渡してくれた。
「ほら、これでも着てな」
 それは細いヤシの葉で綺麗に編まれたシャツだった。胸のところにマークがプリントされている。足の生えたヤシがカクテルを持って走る絵。その下には英語で小さく「パーティ・パーム・パーク」と書いてある。疲れた肌をチクチクと刺す痛みに耐えながら何とか袖を通すと、粘っこい緑の匂いが胸いっぱいに沁み渡った。
 何か言おうと顔を上げた瞬間に、ハプキンは車の上から跳躍した。路上にそびえる紫の巨人。小夏は車の屋根に座り込んだまま、開口するボンネットの先にその巨大な姿を認めた。
「デラウェア!」
 ハプキンは紫の巨人に向かってそう叫んだ。何の言葉か小夏には分からない。
「探したよ。手間かけやがって」
 すると、紫の巨人の様子が明らかに変わった。体内を流れる光の珠が留まり、肩の力が抜いていく。そして、さらにボンネットの中に突っ込んでいた右腕を抜いた。
「帰るぞ! 休みは終わりだ」
 ハプキンの声は高らかに響いた。

       *

 でかいやつの動きが止まった――。
 もしかして……これ、助かったの……?

       *

 紫の巨人は立ち尽くしている。ところが、ハプキンの一喝で一度留まった光の珠が、再びふわふわと奇妙な対流を見せ始めた。
 街灯を背にした大きな影の中に、黒い塊が一つ二つと盛り上がり、巨人の足元めがけて走っていく。小夏は思わず膝を立て、身を乗り出した。ハプキンは気付いているか、顔がないヤシの木は一体どこを見ているのか、小夏には悩むだけ時間の無駄だった。
「ハプキン!」
 小夏は叫んでいた。ヤシの葉が動く。一方そのとき、黒い塊は紫の巨人の足先に達し、光の珠をかき分けて頭めがけて一直線に体内を昇っていった。
「黒いのが!」
 声に出した瞬間、突然横から黒い網目が小夏の視界を遮った。腕にも腰にも肩にも耳にも同時に糸が巻き付いて、もがく間さえなく幾重にも絡んでくる。痛みはない。しかしどこも動かせない。歯を食いしばって抵抗しようとした時には、すでに口まで黒い糸の束で覆われていた。呼吸は鼻で何とか保たれたが、この糸が車を襲った黒衣の姿だと思うと、全身が凍りそうになった。
「大丈夫か?」
 ハプキンの声は小夏のほうを向いている。その奥に、他の黒衣たちが再び潜り込んだ紫の巨人。ハプキンが車に駆け寄ってくる。その背後で、紫の巨人が豪腕を天高く振り上げた。音がしない。ハプキンに向けた警告はすべて黒い糸に押さえ込まれて声にならない。ハプキンは走りながら、幹の葉の茂みから何か取り出した。瓶だ。何か黄色く透明な液体が入っている。
 注意を逸らした瞬間に、紫の巨人が大きく前へと体を傾けた。天から降る隕石のように、紫色の巨大な拳がハプキンの背に突き刺さる――。
 小夏は顔を伏せることもできなかった。首筋に絡み付いた呪わしい黒糸がすべてを望まない方向へ運ぶ。小夏は薄目を開けて、ハプキンの姿を確かめた。
 同じ場所に立っている。背中には確かに巨人の拳が届いていたが、ハプキンは何も変化がなかった。激突の衝撃も空気の震動も何もなかった。
「知らないくせに使えるか!」
 ハプキンは巨人の拳を掴んだ。
「おい、聞こえるか? こいつはライトボディだ。重さがない。何も効かないぞ!」
 そう返した瞬間、左腕を光の珠がハプキンめがけて流れ、拳の中からミルクティが噴き出した。ハプキンを高温の白濁した液体が包む。濛々とすさまじい量の湯気が立ち込めた。小夏はハプキンの名を叫んだが、どうやっても黒い糸の束に吸われて消えてしまった。
 ハプキンの幹はよろけて歪んだ。枝葉がざわめき擦れ合って、耳障りな音が一帯に騒然と鳴り渡る。小夏は耳を塞ぐこともできない。ハプキンが崩れる音が清閑の夜道にこだまし、家々の壁に当たって、再びヤシの木の元に返って来た。
 しかし、ハプキンの足根は耐えていた。激しく幹を左右に揺らす。雨のような大量のミルクティがあたりの路面に飛び散った。
「適温でやられるか! 熱帯育ちだぞ、俺は!」
 ハプキンは一歩飛び退いて、すさかず体勢を立て直す。枝葉にダメージを受けた様子はない。小夏の緊張はわずかにほぐれた。ところが小夏の視界の外側から、もう一本の太い腕がハプキンに迫る。ハプキンは軌道を避けるように横に回り込んだ。
 バッ、と黒い星が弾けた。糸だ。左腕の先からは無数の黒糸が蜘蛛の巣のように噴き出して、ハプキンの緑の枝を片っ端から捕えにかかった。ぐうっと低い呻き声が洩れる。次々と絡み付き手繰り寄せる強力な黒糸に、成す術もなくハプキンの枝はしなり、大きな葉が苦しそうに騒ぎ立てる。黒衣と一体化した紫の巨人は、攻撃の手を緩める様子もなく、空いた右腕を再びハプキンの幹に這わせた。
 光の珠が猛烈な勢いで流れ始める。しかし、今度はなかなかミルクティを出さない。一度に出す量を溜めているのかと疑ったが、小夏の鼻腔に今までと違った匂いが夜風を伝ってやって来た。純粋なミルクの匂い。
「……スチームミルクかっ! くそっ、やばい!」
 ハプキンは大声を上げながら幹を激しく揺すったが、糸は頑丈に縛り付けていた。さっきまでと声の調子が違う。緊迫の色が如実に見て取れる。小夏は嫌な胸騒ぎがした。
「おいっ、こなつ!」
 心の霧を一瞬掻き消す呼び声。けれども返事ができない。
「こいつに手を貸してくれ!」
 誰に――というのが喉まで上がった瞬間、枝の根元の密集する茂みから何か丸い物体が落下した。小夏にはそれがヤシの実に見えた。黒糸がすぐに反応して捕えにかかったが、器用に転がりながら振り切って、車の下までやって来た。すると外側がパックリと割れて、サイドミラーを蹴って車の上に飛び乗った。
 それは小さなサイズのハプキンだった。リトルハプキン。
「火はあるか?」
 声も似ていた。少し甲高い。小夏の頭に反射的にアタッシュボードの上に置いたライターが浮かび、何度も頷いた。リトルハプキンはどこにあるかと聞いてきたが、それをどうやっても声に出せない。口は動かない、手も動かない、足で差し示すこともできない。小夏は無力な自分に対し、悔しい気持ちに身を焦がされた。
 リトルハプキンは舌打ちした。
「お前も糸か。くそっ、時間がない。――口だけ自由になればいいか?」
 小夏はすがる思いで頷き返す。すると、リトルハプキンは跳び上がり、葉を何枚か重ねて、それを小夏の口を覆う糸の隙間に差し込んだ。異変に気付いた黒糸が忍び寄り、小さな救世主を捕えようとする。直後、小夏の口を覆う糸が切られた。
 そして小夏は喋る前に、頭を振ってリトルハプキンの体を向こうへ弾き飛ばした。リトルハプキンは尻餅を打ち、「いてっ」と小さな声を洩らした。
「アタッシュボードの上、ライター!」
 それだけ言うのが時間の限界で、小夏の口は再び黒糸で覆われた。苦しいけれど初めのような悲愴感はなかった。一方、リトルハプキンは急いで起き上がり、糸の追撃を器用にかわしながら、例のジッパーで開けた穴から身を滑らせて車の中に潜り込んだ。
 ブシュッ、と前方で異様な音が鳴った。小夏は慌てて、大きいほうのハプキンに目をやる。紫の巨人の手からは、白い湯気がまるで化学工場の煙のように漏れ出している。生温いミルクティとは比較にならない相当の高熱。ハプキンは声も出さずじっと動かない。小夏はもうこれ以上どうしていいか分からないが、とにかく彼の無事を祈る他なかった。
 ごつん、と足元で鈍い音がした。
「サンキュー!」
 ジッパーの裂け目から、リトルハプキンが頭を抱えて顔を出した。その手にはライターをしっかり持っている。小夏はその姿を目に映して、何度も何度も頷いた。
 ブシュッ、ブシュッ、ブシュッ、と紫の巨人の右腕で弾ける泡音の間隔が短くなっていく。リトルハプキンはライターを握って車から軽々と跳躍した。
 しかし、ライターの火で糸を燃やすには時間がかかる。その間にハプキンが大火傷を負いはしないか、と小夏は不安が湧き起こる。もっとバーナーみたいな火力があれば。ハプキンがよろめく姿はもう二度と見たくない。小夏は天を恨むような想いだった。
 ブシュッ、ブブッブブッブブブブッーーーーー。
 恐ろしい音が鳴り響いた。真っ白いスチームミルクがついに噴き出した。熱湯に近い液体を浴びて、ハプキンの葉は黒く変色し始める。ハプキンは無言で耐えている。小夏は目を閉じ、成り行きを見届けることを拒絶してしまった。
 リトルハプキンは根の下まで来ると、黒糸の迎撃をかわし、大きいハプキンの一本の枝に飛びついた。枝が握っている瓶を横から取り出す。フタを開け、中の黄色い液体を黒糸の束に振り撒く。そしてそこにライターの火を差し向けた。
 小夏のまぶたが赤々と染まる。爆発のような衝撃に驚いて目を開けると、ハプキンと巨人の間に真夏の向日葵のような眩しい猛火が巻き起こっていた。紫の巨人は火に怯えて体勢を崩し、二歩三歩と後ずさりする。ハプキンを束縛していた黒糸は一気に焼かれて灰と散り、ハプキンはその場によろめいた。その間にリトルハプキンが枝を伝って飛び上がり、最初出てきた茂みの中に姿を消した。
 ハプキンは足に力を取り戻し、地面を踏みしめて崩れずに立った。
「俺のパーム油はよく燃えるだろ! 仕込みが違うんだよ!」
 言うと同時か、ハプキンは渾身のステップを踏み、虚勢に傾く紫の巨人に体当たりを食らわせた。重さのない巨人は、軽々と吹っ飛ぶ。道に映る巨人の影は、躍るように伸び縮みして車から離れた。そして、小夏を縛り付けていた黒糸は、巨人の影という後ろ盾を失い、急に力が抜けて小夏の背後から消え去った。
 解放された口から、小夏は冷たい空気を胸に吸った。恐怖の色が少し和らぐ。車の上にすとんと腰を落とし、煤に巻かれるハプキンの背中をじっと見つめた。それは確かにヤシの木の幹なのだが、小夏にはそれ以上の存在感が伝わってきた。
 ハプキンは枝を振って葉から水気を払う。白い滴が舞い散って薄闇に消えた。
「くそっ、巻き毛にしやがって!」
 そして、暗い道の奥に息を潜める紫の巨人に正面から向かい合う。
「デラウェア。スチームミルクに時間かかりすぎだ。帰って鍛え直すぞ」
 しかし、紫の巨人は何も反応しなかった。意気消沈したのか、黒衣の呪縛が抜けたのか遠目にはっきりしないが、腰を落とし、肩を丸めて俯いている。
 ハプキンはふうと息を吐き、少し落ち着いた様子に変わった。緊張をほぐすように枝を軽く揺する。紫の巨人が大人しくなったのを確かめると、葉音を鳴らして向きを変え、小夏の待つ車のところまで歩いてきた。芳醇な緑の葉の香りが蘇る。小夏は自然に広がる笑顔のままに、車の上から飛び下りた。ハプキンの足が止まる。
「悪いことしたね。この車、今すぐ何とかするよ」
 ハプキンは優しい声で、運転席のドアを開けミルクティを外へ流し始めた。車内の汚れを巻き込んだ泥水のような液体が地面に降り注ぐ。小夏も見惚れているだけでなく反対の助手席側に回り、ドアを開けて中身を捨てた。飛沫をよける足元に少し気が移った。
「火傷はなかった?」
 車を挟んでハプキンが尋ねる。相手が負っている火傷の跡を見つめながら、ひとまず「大丈夫」と小夏は頷き返した。路上にしゃがみこむ紫の巨人を横目に見る。
「どうして手から――その、ミルクティが出るの?」
「俺のオヤジが教えた」
 その一言でハプキンは答えた。
「えっ」
「本来は、お客さんの前で手から注ぐショーなんだ。こんな大量にぶちまけるものじゃない」
 ハプキンはそう続けた。知りたいことは何も分からないけれど、ハプキンの声は真面目だった。小夏は足元に落ちていくミルクティの波に目をやり、結局それ以上聞く気がすっかり失せてしまった。代わりに黒い影が脳裏に再び持ち上がる。
「あの黒い奴らは何?」
「あれはランチョンマットさ。奴ら、皿の下に敷かれるのを嫌がって逃亡したんだ。短気で陰湿で手癖が悪くて、ちょっと困ってた」
 運転席がきれいになると、ハプキンは後部座席のドアを開け、足元に溜まったミルクティを始末した。小夏もそれに続いた。地面に吸い込まれる生温かい液体。最初に黒衣が転がった、赤い記憶と不意につながる。
「布から……血が出たりする?」
 すると、ハプキンは幹を傾げた。
「血? ――いや、店から持ち逃げしたリキュールだよ、たぶん」
「ねぇ、お店って……? さっきから何度か言ってるけど」
「島の陽気なレストラン『パーティ・パーム・パーク』。オヤジがオーナーで、俺が店長。そうだ、せっかくだから――」
 そう言いながら、ハプキンは懐の茂みを探す。
 ブシュッ、ブシュッ、ブシュッ。
 泡の弾ける音が小夏の耳に聞こえた。振り向くと紫の巨人が起き上がり、こっちを真っ直ぐ向いて構えている。光の珠の流れがおかしい。またも右腕に一点集中していく。右手の先は、背中の後ろに回して隠れている。
「ハプキン!」
 小夏は震える喉で、その名を叫んだ。ハプキンは反射的に道の奥を見やる。
「あいつ、ずっと溜めてたのか! くそっ、入れ知恵しやがって……」
 夜空の端が揺れた。紫の巨人は体をひねり、反動をつけて大きく右足を踏み出した。巨大な輪郭が空を覆い、勢いづく双肩で街灯が隠れる。
「こなつ、車に入ってるんだ」
 ハプキンは鋭くそう言い残して、車の前に走り出た。小夏は逃げるように助手席に飛び込んだ。ドアを閉めると、フロントガラスの向こうに、ハプキンの節くれだった背中が暗天を突いて美しく立ち昇っていた。
「デラウェア、店への忠義はその程度かっ! ヤシと思うな、店長と思えっ!」
 怒号が轟く。
 紫の巨人の振りかぶった右腕が一瞬止まった。
 ハプキンは警戒を解く。小夏は車内の甘ったるい空気を嫌ってウィンドウを下ろし、そのまま外に半身を乗り出した。そのとき視界の隅に黒い影が引っ掛かった。いつの間にか巨人の影が車を取り巻いて、大きく前に踏み込んだ足の先から黒衣が飛び出した。その狙いは――ハプキンの足元を瞬時にすり抜け、車の助手席に迫る。ハプキンが足元に気を取られた隙に、紫の巨人の右腕がうなりを上げて振り落とされ、大量のスチームミルクが溢れ出した。
 黒衣を追いかけたハプキンは、そのおかげで直撃を免れた。紫の巨人は右腕を一旦引き、次の一撃をすぐさま用意する。黒衣は二手に分かれ、一方は引き返してハプキンの足に絡み付き、もう一方は助手席のドアを這い上がって行く。小夏は慌てて窓ガラスの隙間に自分のバッグを押し込んで、天井の裂け目から外へ逃げようと腰を浮かした。
 すると、バンッとフロントガラスに何か当たった。
「こなつ!」
 呼ぶ声は――リトルハプキンだった。
「何か、丈夫な袋はあるか?」
「袋?!」
「ふくらむ袋がベストなんだ!」
 小夏は奇跡的に一つ思い当たるものがあった。急いでアタッシュボードを開けて、オレンジ色の箱を手に取る。窓を襲う黒衣は糸状に変わり、バッグの隙間から二本三本と次々に侵入してくる。
「あったよ! どうすればいいの?」
「俺が天井に回る! そっちで渡してくれ!」
 小夏はシートを押しのけ、天井の裂け目から顔を出し、オレンジ色の小箱を放り投げた。ジャンプして屋根に昇って来たリトルハプキンは、それをキャッチして早速中身を取り出した。
「よし。こなつ、頭を引っ込めろ! ファンタジッパーを外す」
 頭を戻した車内には、早くも無数の黒糸が侵入していた。小夏は、空のアディダスのバッグを手に持ち振り回して抵抗する。リトルハプキンはファンタジッパーを一旦閉じて車の屋根からはがすと、それを必死に握り締めたまま、フタの開いたボンネットの中に飛び込んだ。コンプレッサーを見つけ出し、ファンタジッパーを貼り付けて開いた。
 ブシュッ、ブブッブブッブブブブッーーーーー。
 大きな破裂音が鳴り響く。
 そしてついに、紫の巨人の拳が動いた。ハプキン本体の頭上を狙って振り落とされる白い一撃。その直前に、リトルハプキンは見事に跳躍した。手には桃色の丸いゴム風船。ボンネットを強く蹴って前に飛ぶと、体は自然と浮き上がって、丸太のような右腕に辿り着いた。
 すると紫の巨人は大きくバランスを崩し、その拳がハプキン本体に届く前に、地面と別れを告げてしまったのだ。風に引かれて、ふらふらと夜空に浮き上がっていく。リトルハプキンは葉を一本使って、その頼もしいゴム風船を巨人の指先にしっかりと固定した。
 紫の巨人はぐんぐん上昇していく。黒衣達は完全に力を失い、巨人の足先にしがみつこうと束になってよじ登る。リトルハプキンはその束から手早く一本抜き出して、巨人の足の指先に結び、その一端を握ったまま、ようやく地面に飛び下りてきた。
「サンキュー!」
 リトルハプキンは、オレンジ色の小箱を小夏の手に返すと、ステップを踏むように跳ねながら本体の茂みの中に戻った。そして息を吹き返したハプキンは、手にしっかりと黒糸の一端を持っていた。そのはるか上空には、まるで凧のように紫の巨人が漂っていた。
 小夏は、眉間に疲れを滲ませながら、溜め息混じりに車から這い出した。
「ねぇ……いったい、どうなったの?」
 二歩三歩と足早に、ハプキンへ歩み寄る。
「フロンガスだよ。空気より軽いガスで、あいつのライトボディを浮き上がらせた」
「えっ?」
 ハプキンは、得意げにファンタジッパーを小夏に見せる。
「カーエアコンのコンプレッサーから、低温状態のフロンガスを少し取り出したんだ。そいつを君がくれたゴム風船に入れた」
「ゴム風船……」
 小夏はその言葉の響きに、微妙に照れくさい笑顔を浮かべた。
「ほんとに助かった。これ以上巻き毛になったら、正直耐えがたいよ」
 ハプキンは緑の葉をいっぱいに広げて感謝を表した。ほんとに助かったと言いたいのは小夏も同じだった。そして、ハプキンが懐の茂みから何か出す。浅黄色の四角い封筒。走るヤシの木のマーク。「パーティ・パーム・パーク」の印字。
「ぜひ一度おいで。最高のココナッツカクテルをテーブルまで運ぶよ」
「それって、おごり?」
「もちろんっ!」
 小夏の指先にヤシの葉が触れた。ピリッと軽微な刺激が伝う。それは、リトルハプキンが小夏の口を塞ぐ糸を切った時とはまるで違う、やさしい感触。ミルクの跡が白く残っている。よけたわけじゃない、耐えたのだ。熱帯育ちだ、俺は――たとえ今夜の何かもが恐ろしい虚像であったとしても、ハプキンの差し出したその招待状だけは本物であってほしいと願った。
 小夏は借りていたヤシの葉の服を返して、静かにハプキンの後ろ姿を見送った。手には一筋の黒糸、空には浮かんだ紫の巨人、誇り高き緑色の勇者は、薄ぼけた粗い闇の中へ溶けるようにして去って行った。

     *     *     *

 小夏は身震いをし、急いで車に戻った。ボンネットを閉じ、中に入ってドアを閉めると、突然反対側が開いた。さっと肌が粟立ち、反射的に身構える。もうハプキンはいない。
「悪い、待った? ピロシキ買って来たぞ」
 琢磨だった。コンビニの袋の音と一緒に騒々しく車に入ってくる。
「おいっ、何これ。すごいこぼれてる。うわっ、床まで」
 ミルクティがじっとりと染み込んだシートと床。表面に立ち昇るかすかな湯気が氾濫の傷跡を物語る。そして琢磨はようやく、助手席の暗がりに佇む小夏の姿を確かめた。
「あっ、どうしたの、その格好。服が濡れたわけ?」
 小夏は何も言い返す言葉が見つからなかった。
「……うるさいな。早く、そのジャケット貸してよ」
 琢磨はふと、小夏の手許に目を留めた。しっかりと握り締めるオレンジ色の小箱。琢磨の声の調子が少し変わる。
「お前、そんなもん取り出して。――なに、今すぐやりたいの?」
 琢磨が見たのは、小夏が手にするコンドームの箱だった。箱の口は開いていて、今にも中身が元気に飛び出しそうに見えた。
「バカ!」
 小夏は、琢磨の頬を思い切り引っぱたいた。気持ち良かった。琢磨はよろけてハンドルに手をつき、胡乱な顔付きで小夏の顔色を疑う。
「遅いよ!」
「ああ、ごめん。友達から電話が入ってきて、つい話し込んじゃった」
「ほっとくなよ、バカ。……怖かったんだから」
 小夏は素肌のまま、琢磨のジャケットの袖をぐっと引っ張った。今すぐ脱ぐよ、と琢磨は申し訳なさそうに笑ったが、それを待つ気もあまりなく、キスをした。冷たく渇いた唇が不思議に嬉しくて思わず寄りかかる。琢磨の頭がごつんとガラスに鈍く当たった。
 手の平を琢磨の胸にゆっくり当てると、ジャケットのジッパーの歯が小夏の指先を甘く噛んだ。そして寒気が飛ぶくらい、琢磨の体に強くしがみついた。オレンジ色の小箱が床に転がり、ミルクティがしみてふやけた。

「あのね、ボーナス出たら、連れてってほしいお店があるの」
「どこ?」
「場所はよく分かんない。でも、あったかいところ」
「へぇ、そう」
「……ねぇ、探してって言ったら、絶対探してくれる?」
「おお、探すよ」
「死ぬ気で? ほったらかしにしない?」
「ああ、死ぬ気で。――何てとこ?」
「『パーティ・パーム・パーク』。あたしね、そこの店長におごってもらう約束したの」
 小夏が手に握る招待状に、ヤシの葉の香りがまだ少しだけ残っていた。



(おわり)




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