日本語を織りつむぐ幻燈の祠
知らぬ間に押し寄せる異界の鼓動……



「クラゲの屋根に腰かけて」


 ちょっと寄り道しただけの旅行者さえなつかしさを抱くほど、あたたかい潮の香りに包まれた港町に何百年と変わらぬ夕暮れが訪れたとき、不思議なものが漂着した。象のように大きなクラゲが浜辺の桟橋に流れ着いたのだ。
 すぐに話を聞きつけ、付近の住民がぞろぞろと集まってきた。遠目で見る限り、普通のクラゲの百倍くらいはあるだろうか。年輩の漁師たちですら、さっぱり得体が知れないという顔をしている。あちこちで子供が勝手に近寄ろうとするのを親が引き止めた。
 遥か沖合の空がオレンジ色に輝き、浜辺に並ぶ人々の顔をスウィートポテトのように染めていく。巨大なクラゲは桟橋の下にぷかぷかと浮かんだまま微動だにしない。もともと水中でなければ動けない生きものだ。夜が更けて潮が満ちれば自然と沖に戻されるかもしれない。そうやってぼんやり眺めているうちに騒ぎも収まり、帰途に着く人もちらほら出はじめた。
 そのとき、鼠色の帽子を深くかぶり、赤いタキシードを着た背筋の丸い影が忽然と現れて、桟橋を一人とことこ歩いていった。港では見かけない男だ。帰りかけた人も足を止め、その様子を見守った。
 彼は桟橋の端まで来ると、クラゲのそばで立ち止まった。内ポケットから鈴のついた小さな鍵を取り出して、波の音の狭間に織り込むようにそっと鳴らした。鈴の音が浜風を伝わって長く細く――海に囁きかけるように響いた。
 じゃぶじゃぶと水が撥ね、クラゲがのっそり身を起こす。そして、クラゲの体は見る間に透き通り、その中に小さな明かりが灯った。彼はしゃがみ、クラゲのひだを一枚めくり上げ、ドアの鍵を開け、クラゲの中に入っていった。
 夕陽は水平線にすっかり隠れ、静かな蒼い闇の中をクラゲはもぞもぞ泳ぎ出す。男を乗せたまま沖に向かって進んで行くのだ。通りかかった巡視船のサーチライトが一瞬照らしたが、その後は海の秘密にまぎれるように、クラゲは波間に姿を消した。
 浜辺に残された人々は茫然と立ち尽くし、夜のはじまりを知った。

 男は帽子を脱ぎ、天井に向かって突き出た二つの目玉をあらわにした。タキシードを壁に掛け、古風な鞄をテーブルに置く。腹いっぱいに息を吸えば、絨毯の心地よい匂いがしみわたる。彼は水掻きのついた緑色の手で、グラスにお気に入りのスコッチを注いだ。
 クラゲの中にはバスもトイレもキッチンもある。冷蔵庫には次の港までしばらく漂流するのに十分なだけの食糧が入っている。電話もラジオもある。これらはすべてクラゲの自家発電によるものだ。クラゲは海を泳ぎながら自分でプランクトンを食べ、電気を生み出してくれる。海の上でこれほど便利な乗り物はないだろう。彼は自分が苦心して作ったクラゲの船を少しばかり誇らしく思っていた。
 もちろんベッドや本棚だってある。これらを置いても悠々と手足を伸ばせる広さがある。彼は革張りの赤いソファに身をうずめ、鍵のついた鈴を掲げた。
 鈴の音を合図に、クラゲはすうっと水面まで浮上する。少しの時間だったが、彼には待ち遠しいくらいだった。海上まで着くと、天井が割れてサンルーフのように開いた。波の音と潮の香り。そして、言葉を奪われるばかりの満天の星空だった。
 クラゲの屋根に腰かけて、部屋から持ってきた愛用の釣竿を手入れする。もうじき魚の群れが深まる夜気に誘われて、彼の胃袋を満たしにやって来るだろう。新鮮なオリーブ油を港町で仕入れてきたばかりだ。竿をよくしならせ、狙った場所へひょうと投げると、銀色の針に淡い光が反射して、流れ星みたいに海に潜った。
 もう一度チリンと鈴を鳴らすと、クラゲの部屋の明かりが消えた。彼を包みこむ世界にはもう銀河の輝きしか見えなかった。ここでは陸地では見えないくらい小さな星まですべてが主役だ。それらが彼の行く先を教えてくれるのだ。
 巨大なクラゲの影は波間を縫って、広漠とした夜の海を飽きることなく泳ぎ続ける。穏やかな水面にも、透明なクラゲの屋根にも、彼の目に映る銀河と同じ光景がさやさやと降り注いでいた。
(おわり)




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