日本語を織りつむぐ幻燈の祠
知らぬ間に押し寄せる異界の鼓動……



「ブリズベンの恋人」


 冬のはじめ、駅前通りの、信号待ちの向こう側に、新しい彼氏を連れた、妹を見つけた。そのとき私は、親に黙って帰省していた。
 妹は趣味が変わったようだ。
 前の彼氏の顔をはっきり憶えていないが、金髪で、あごがとがっていて、ファー付きのジャケットを着て、加藤晴彦に似ていたような印象がある。よくしゃべり、少し礼儀足らずな男だった。
 いま、妹のとなりの男は、髪が黒い――いや、あれは坊主頭、あごのまわりに髭もあり、血色が悪い。W杯に出られなかった頃の、療養中のジュビロ高原を見ているようだ。キルティングのジャケットの間からのぞくシャツに、真ん中に白抜きで多分「龍」と書いてある。まさか、南米あたりの外国人ではないだろうか。
 二人は信号を待つ間、一言も話さず、それぞれ別々の方向を見ていた。二人が恋人だとわかったのは、男のジャケットのポケットの中で手をつないでいるからだ。妹は近くにあるバス停の行列を横目に見て、男は対向車線の信号を見ていた。
 四時半を回っている。二人はもう十分一緒に過ごして、会話がないのかもしれない。言葉が通じない、というのはこちらの乱暴な想像だ。
 妹は、こんな平日になぜこんなところにいるのだろうか。中古車のディーラーに勤めていると聞いているが、今日は休みか。火曜日とは中途半端な気もするが、それは私の感覚だろうか。


 信号が変わり、私たちは歩き出した。私は進路を少し変え、すれ違う分の距離を取った。どちらかと言うと、私のほうが都合が悪い。妹がもし今も親と普段から話していれば、きっと私を見て驚いた顔をする。説明するのも面倒だし、家に顔を出すことになるのはもっと御免だった。親に会うのは悪くないが、なぜ一人なのかと問われるのがわずらわしい。
 向こうから二人は黙々と歩いてきた。彼氏は正面の信号をまっすぐ見つめている。妹の視線は、横を通りかかった散歩中のダックスフントにつかまっていた。その間に、私は二人の横を通り過ぎた。私が老けて雰囲気が変わったせいか、犬のおかげか、妹は気付かなかったようだ。
 私は交差点を渡ると、正面にある百貨店の地下に入り、頼まれた惣菜とビールを買って、車で帰った。駐車場で携帯電話を確かめると、「今夜はオデンです」というメールが届いている。おでんが片仮名なのが少し意外だったが、いつだったか「ウドン」もそうだったのを思い出し、そういう癖なのだと知った。


 国道を順調に走りながら、急に、スニッカーズがどういう味だったか気になって、コンビニに寄った。ついでに思い出して、コンドームも買う。レジの店員は若い女の子で、要らないけれども靴下も一緒に買った。 もっとも、その取り合わせにあまり意味はない。自身の気分の問題で、その女の子から、私がコンドームだけを買う照れ隠しでスニッカーズを付けた、というふうに受け取られるのが何となく嫌だった。一番ほしいのはスニッカーズなのだ。
 車に戻り、早速スニッカーズをかじった。それからまた国道を走りながら、ビールを一本空けた。
 まわりからは気色悪がられるが、私は学生の時から、甘いものと一緒にビールを飲むことがある。いくら変だと言われても、スナックでおつまみによくチョコレートが出てくる感覚と大差ないと思っている。


 彼女の部屋に帰ると、まだ台所に鍋すら出ていなかった。彼女はホットカーペットに寝転んで、私のノートパソコンをいじっていた。
「おでんはいつできるの?」
 訊くと、彼女は「今から買いに行く」と答える。
「コンビニ?」
「スーパー」
 私は、ビールを一本テーブルに置いて、残りを冷蔵庫にしまった。代わりに粕漬けを取り出して、タッパのままテーブルへ持っていく。テレビをつけると、六時のニュースが始まったところで、最初にいきなり厚生労働大臣の顔が大写しになった。何か薬害訴訟でもあったかと思ったが、雇用対策の法案を国会に提出した、とかいう内容だった。そうか、この人が日本の労働問題を担当しているのか、と思うと、ちょっとした驚きがあった。
 彼女は、私が粕漬けをかじっていると、起きてきてビールを横取りした。ホットカーペットの上でカラカラになった喉に、冷たい炭酸が気持ち良くしみ込んでいくようだ。私は、ビールを半分も減らしてくれた彼女の口にキスをする。
 彼女は思わず顔をしかめる。そう言えば彼女は、粕漬けの匂いが苦手だった。
 それから彼女は、私が買ってきた惣菜の中から小芋の煮付けを少しつまんで、私が先月買ってあげたコートを着て、私が譲った自転車でスーパーに出かけた。自転車は男用だから、彼女の体に合わない。少し距離があるから車を使えばいいと勧めたが、彼女は「さっきビール飲んだから」と答えた。酔う量でもないのだが、とにかく彼女はちょっとした距離に車を使おうとしない。律儀なくらい自転車で行動する。
 私は、粕漬けをほどほどにして、ビールも一本だけにした。それから頼まれた通り、玉子を四個ゆでた。黄色い手鍋の中で、白い玉子が気泡にもまれてブルブルと震えている。


 私には妻子がある。妻は五つ下、娘は七つ、息子はまだ三つ。家族はまだ大阪にいる。
 私は三年前、四つ橋筋沿い、土佐堀端の江戸堀というところに、3DKのマンションを買った。ベランダに立てば、大蛇のように黒く太い影が宙に横たわる阪神高速、その背景にネオンまがまがしいミナミの街並を臨み、廊下に出れば、キタのビルの隙間に遠く千里山がのぞき、ぬるい川風がお堀の水面をなでるように通る。土佐堀を挟んだ向かい側には、イカリソースの巨大なオレンジ色のネオンが光っている。お堀とソース――その大阪らしい取り合わせが悪くない、こんな景色をしばらく見慣れて過ごした。
 その頃家には、やっと立って歩き始めたくらいの娘と、妻がいた。妻は最初、庭付きの一軒屋がほしいと言って少々ごねたが、私がしぶとく妻を毎週マンション探しに連れていくと、だんだん条件を見比べるようになってきた。そのうち、この前はこういう立地でこういう設備でこれくらいの値段だったかとか、収納スペースはどこにどれだけあるかなど、不動産屋を相手に腰を据えてこんこんと話し合うまでになった。最終的に候補が三つに絞られるまで、娘を寝かした後、夜通し二人であれこれ話し合った。
 一つは南森町、一つは都島、そして江戸堀が残った。南森町は新築で一番きれいなマンションだったが、正面がパチンコ店だった。空いている部屋は三階より下ばかりで、実際に店内のアナウンスが切れ切れに聞こえた。都島は、まわりが静かで部屋の広さも十分だったが、通勤に使う環状線のラッシュは死ぬ思いであった。江戸堀は、コンビニが少し遠いが、四つ橋線はそれほど混むことはなかった。それと、イカリソースのオレンジ色のネオンが映る土佐堀を、妻と娘が気に入った。
 今は娘も小学校に通い、その後生まれた息子も保育園に入り、妻はまたちょっとした仕事を探してきたようだ。私からの仕送りは生活費と養育費にあてて、自分の小遣いを稼いでいる。時々電話をすると、夜に会社の人と外で食事をしていることもあった。その間子どもたちはどうしているのか訊くと、妻はとぼけたように言葉を濁した。


 ゆであがった玉子を鍋から出して、小皿の上に置く。殻をむいておこうかとも考えたが、熱くて長い間手に持っていられなかった。


 彼女が帰ってきて最初に、台所が温かいことをうれしがった。その様子が、リビングで夕刊に目を落とす私の胸にも届いた。彼女の言葉に裏はないが、私はそのとき何となく新聞の文字が頭に入ってこなかった。
 それからすぐに、台所から大根を切る小気味よい音が聞こえ、私はテーブルの上の新聞を片付けてカセットコンロを用意した。それが済むと、カーペットに寝転がってテレビのリモコンを拾い上げた。カーペットにはまだ彼女の匂いがあった。
 いくつかチャンネルを回すと、みのもんたの顔が写る。そして加藤晴彦のきょとんと口を半開きにした顔が大写しになる。私はそのにぎやかな番組を見なかった。ローカルチャンネルでやっていた温泉紀行を、見る気もなくただ流しておいた。
 夕食の間、彼女は今日あったことを順に話した。私は彼女がするそういう何気ない話が好きだ。
 おでんを半分くらい食べ、缶ビール三本を空けて、四本目を冷蔵庫から持ってきてから、私は突然妹の話を始めた。今日街で会ったこと、となりにいた黒い坊主頭のこと、前に見た茶髪の彼氏のこと。それから私は、よくダシがしみた煮玉子を皿に取って、箸で二つに割った。思ったより鮮やかな黄色がはじけた。
「妹さん、いくつ?」彼女は訊く。
「二十九」
「へえ……、結構離れてるんだ」
「そうかな」
 そう言えば、彼女にも妹がいたことを思い出して、年の差を訊いてみる。彼女は「四つ」と短く答えて、話を私の妹に戻す。
「妹さん、まだ結婚してないんでしょ?」
「ああ」
「結婚するつもりはないの?」
 私はそれについてはっきり答えられなかった。妹と長いこと話していない。私が実家を離れてから、妹と個人的に連絡を取り合ったことはない。親戚の結婚式で顔を合わせても、仕事は続けてるか、という普通の会話を少しするばかりで、家のこと――もっと言えば両親の老後のことを兄妹で話し合ったことはない。どちらが薄情というのではなく、まだ毎日働いている両親についてあれこれ考える意識がなかった。今でも、まあそれでいいと思っている。
 このところ親類の中で、私を先頭にした世代もひと通り結婚を済ませたので、顔を合わせる機会もすっかり減った。年齢的には妹が最後だ。しかし、妹はだいぶ前に自分の口で「よほどのきっかけがないと、結婚する気はない」ともらしていた。「結婚」という言葉を続けて出して、彼女が真面目な顔で相槌を打つ度に、何となく微妙な空気になった。
 私は自分の口を閉じるつもりで、半分に割った玉子を口に詰めこんだ。すると、彼女は私のビールをまた少し横取りして、それから自分の妹の話をはじめた。彼女の妹は、まだ大学二年生、仙台にある医療福祉系の大学に進んで、リハビリテーションの研究をしているらしい。
「すごい勉強熱心だね」とほめると、
「マッサージなら、わたしのほうがずっとうまいよ」と、姉は笑ってごかました。「それでね、大学院に行きたいとかって」
「へえ、勉強続けるんだ」私は平凡な言葉を返した。
「卒業したらババアになってるって、わたし言ったの」
「それで?」
「全然気にしてない。でも、本当のところはね、ゼミの先生のことが気に入ってるみたい。学校の話をするとそればっかり」
 彼女は少しうんざりした表情を浮かべた。「先生、まだ独身だからって勝手に舞い上がって」
「先生、若いんだ」私は自分の年が少し気になった。
「ううん、四十三」彼女は数字をテーブルに置くように答えた。
 それから彼女は少し黙った。この話に興味が失せたのか、妹のことを考えているのか、おでんが煮詰まってきたのを見て、私はコンロの火を止めた。


 私たちの関係は、恋とか愛とかではない。これはお互いはっきりと感じている。言葉を当てるのも難しいが、生活する上で必要なコミュニケーションの相手だと考えている。私には大阪に家庭があるし、彼女はオーストラリアのブリズベンに同い年の婚約者がいる。
 ブリズベンはオーストラリアの東端に位置する。広大な珊瑚礁をはさんで一五〇〇キロほど先にニューカレドニア島がある。そのブリズベンで彼女の婚約者は海洋調査を行っている。私もあまり詳しく知らないが、現地で養殖業を実現する実験を行っているらしい。流通業の大手に勤めて、現地の研究所に派遣されたきり、日本に帰らぬまま二年半以上が過ぎた。時々私のパソコンに彼からメールが来るが、文章がすべて英語なので私にはさっぱりわからない。私もメールの中身を覗き見る気はない。
 私がメールの受信を知らせると、彼女はたとえ何をしていても途中で手を離して、パソコンにかじりつくようにして読んでいる。不意にくすぐられたかのような笑い声がもれる時もある。最初、私は彼女が辞書も使わず英文を読んでいるのを見て驚いたが、それもすっかり慣れてしまった。彼女も会社勤めだから、TOEICくらいはやっているのだろう。
 彼女はメールを読み終えると律儀に保存して、それから私に寄り添ってくる。彼女は、機嫌がよくてメールの内容を話してくれる時もあれば、退屈そうな顔で何も言わずにキスをしてくる時もある。私たちはどちらにしてもセックスをするのだが、婚約者からメールが来るとセックスになるという習慣のおかげで、自宅で英語のメールを受け取ると、私は自然と勃起するようになってしまった。しばらく私は、宛先不明のバックメールにさえ反応していた。


 実のところ、私がその婚約者の代わりかどうかはわからない。彼の年齢も知らないし、どういう性格かも考えられない。若いのか、ある程度年を重ねているのかも彼女に確かめたことがない。私の知る限り、彼は研究熱心で、朝に弱くて、ヘミングウェイが好きで、現地の研究員たちのホームパーティで彼らの子どもたちと触れ合うのがとても楽しみ、という人間だ。私にその役は一つも当てはまらない。だから、彼女が婚約者からのメールを読んで直後に私とセックスをする理由は考えつかない。
 たぶん理屈ではなく、もっと直感的な衝動なのだろう。たとえば、彼女が婚約者のメールを読んでいる間、私がとてもさびしそうにしているかと言えば、そうでもない。テレビを見たり新聞を広げたり、コーヒーを飲んだりしている。彼女がメールを読み終えて、婚約者との時間が過ぎたら「さあ、二人でセックスをしよう」という雰囲気でもない。彼女から私のそばに来て、何というわけでもなくそちらの方向に流れる。このへんが私にはうまく説明できない。ただし、二人がセックスをするということは、彼女は私の存在を受け入れているし、私を求めてくれる。それは私も同じだ。
 少なくとも私にすれば、彼女を妻の代わりと思ったことはない。家庭を離れてみて初めて気づいたが、妻とのコミュニケーションと比べると、根本的に仕組みそのものが違うように思える。妻は人生を支え合うパートナーであり、子どもの養育や、金銭的なことを真剣に相談する相手だが、彼女には今でも照れがあるし、お互い知らないことは結構多い。
 ともあれ、私は彼女といると自然に口数が増える。冗談も言うし、テレビや音楽の話題も出すし、物の考え方について真面目に語る時もある。似合わない見栄を張って、彼女が驚く様子を楽しむこともある。
 こういう私の姿は、会社の人間も妻さえも知らない。それはたぶん彼女の性格が要素として最も大きい。彼女は、私の取りとめもない話を、ひとつひとつスポンジで吸い込むようにふんわりと受け止めて、私の話の世界を彼女の白い胸の中に生み出している。そして、その白い部分に、彼女自身の気持ちが確かに存在することを私は知っている。直感的に、それが伝わるのだ。


 彼女は鍋や食器を片付け、私はカセットコンロと空き缶を片付けた。彼女は少し残ったおでんを小皿に移していた。
 私は、テーブルの上に忘れられたカラシのチューブを指でいじりながら、またテレビをつけた。すると、たまたま最初に写ったサッカー番組で、高原の軌跡をドキュメントしていた。こうしてよく顔を見ると、今日街で妹のとなりに並んでいた男とはかなり印象が違った。高原は清潔感のある表情でインタビューに答えていた。どちらかと言うと、彼が以前在籍したアルゼンチンのチームメイトあたりの中に、あの男と似た雰囲気の選手がいたように思える。
 彼女が洗いものを済ませて戻ってきた。そのとき高原のドキュメントが終わり、私はとりあえずチャンネルを替える。
「替えなくてもいいのに」
 彼女は私に気を遣ってそう言ったが、私はそのとき何か別のことを考えてよく聞いていなかった。


 次の週末、妹から突然電話がかかってきた。
 なつかしさより先に驚きがあった。妹はいつもと変わらぬ淡々とした口調で、要件はよくわからないが、久し振りに声が聞きたくなった、とかいう意味合いの言葉を最初に口にした。
 それから私は大阪にいるというスタンスでしばらく世間話をした。妹はこの半年くらい会社の帰りが遅くなって、あまり両親と話していないらしいが、それでも私がこっちに帰っていることはやはり言い出せなかった。
 私があまり自分のことを話さずにいると、妹は電話をしてきた本題の部分を切り出した。
「お母さん、来週、検査入院するらしいの」
「何かあったのか?」
 妹の「らしい」という言葉尻が気にかかった。母親本人の口から聞いたわけではないようだ。
「勤め先の定期健診で、すい臓が疾患があるのが分かったみたいで」
「すい臓」
「再検査の結果が出たら、また電話するから。もし悪いほうだったら、お母さんの保険も使うけど、たぶんある程度まとまったお金が必要になると思うし。その時は、お兄ちゃんも一度こっちに呼ぶことになると思う。一応、心積もりだけしておいて」
 妹とは思えない言葉が次から次へと出てくる。母親の再検査にも良くない予感がしたが、妹がそこまで現実的に話すというのは、妹が率先して取り仕切っている背景が見えた。すると、まさか父親にも何かあるのだろうか。そもそも、父親から息子へ電話を入れるような用件ではないか。
「父さんは?」私は訊いた。
「えっ、父さんは健康だよ。母さんの検査は、前にもあった話だから心配ないって言ってる。そういう体質なんだって」
「そうか。まあ、検査結果が出るまで何とも言えないな」
 妹の話振りで、父親の関心の薄さが伝わってきた。妹がおおげさに受け止めてるという、どちらもあるが、もし母親を介護することになれば妹は今の仕事を続けられるか分からない。
 そのとき、先週交差点で見かけて光景が私の脳裏に蘇った。
「お前、結婚は、当分ないのか?」
 話の切り換えが少し唐突で、妹は電話口の向こうで一瞬、言葉につまったような気配を感じた。
「それは、分からない。考えてる相手はいるけど」
「それで、どうなんだ」
「どうって……、彼の会社、今すごい大変で。SARSのせいで中国の工場が閉鎖状態で、仕入れがほとんどストップしてるみたいなの」
 私は胸にふつふつと湧き上がる違和感を整理しようとした。あの血色の悪い坊主頭の男は会社員に見えなかった。私が、何か決定的に勘違いをしているかもしれない。妹によく似た女性を見かけたか、あるいは町を一緒に歩いていた男は、妹が結婚を考えている相手とは別人か、そもそも手をつないでいると見えたのが私の錯覚であったか――。
 妹は話の最後に、再検査の結果が出る時期を告げて、電話を切った。私は受話器を下ろして、妹の顔を思い出そうとした。しかし妹の顔は、私の知るさまざまな女性の目鼻口に邪魔されて、うまく出てこなかった。それどころか、再三、坊主頭の男の眼差しが残像として浮かび上がり、私の胸に重く覆いかぶさった。
 その夜、私は妹や両親の写真をすべて大阪の家に置いてきたことを知った。


 次の夜、私より先に少し帰宅した彼女が、リビングでテーブルの上に郵便物を広げていた。ほとんどがチラシやDMだが、その中に重要な便りが二通あった。
 一通は、必ず月に一回ブリズベンから送られてくる、海洋調査員からのラブレターだった。彼女は満面の笑みを浮かべ、カーペットに寝転がって読み始めた。
 もう一通は、厚めの茶封筒に、私の三つの息子が保育園のおゆうぎ会で撮ってもらった写真が数枚入っていた。息子はおもちゃの弓を手に持ち、体いっぱい使って舞台の上を跳ね回っていた。保育園の先生から親に配られたもので、夫が単身赴任だからと言って焼き増ししてもらいました、という妻の字によるポストイットが貼り付いていた。しかし、それ以外には何も書かれていない。
「息子さん? 初めて見た」
 声に驚くと、彼女が横に来て私の手もとを覗き込んでいた。
「保育園のおゆうぎだよ」
「ふうん――」
 それは、彼女にしては素っ気ない反応だった。普段、子どもの話をすることは滅多にない。テレビや仕事や友人の話が中心で、子どもを持ったことがない彼女を相手に子育ての話を出す機会がない。だいたい私自身とて、今では子育てに関して銀行振込以外のことをほとんどしていない。
「ねえ」
 彼女は私を呼んで、ブリズベンから空を渡って届いた絵ハガキを見せた。文面を見せられても私は読めないのは、彼女も知っている。他愛のないいじわるだと思ったが、その考えは少し甘かった。
「ここに、来年の三月、彼が日本に帰るって書いてあるの」
「え、帰ってくるの」
 三月と言えば、あと四ヶ月ほどしか間がない。
「そう。」一息ついて、彼女は続けた。「彼ね、お土産にエンゲージ・リングを買って帰るって」
「あっ、結婚するの」
 私は思わず、学生のような間抜けな声を出した。
「うん。その約束だから」
「それは、おめでとう」
「ありがとう」


 その夜から、彼女とのセックスはぴたりとなくなった。
 ブリズベンの婚約者からのメールは毎週届くが、その後ルーティンのようにやっていたことはおろか、彼女が肩を寄せたりキスをしたりといったすべてが二人の生活から消えてしまった。
 彼女は今まで通り、時間がある時には晩ご飯の用意をしてくれたり、休日はたいてい一緒に車で出かけたりした。しかし、これまで当たり前のように見せた甘えやねだりがなくなり、何をしても張り合いが出なくなってしまった。
 私は最初、婚約者がいる女性と暮らすにあたり、彼女の結婚という形で閉じられる結末を十分想定していたはずだった。しかし、彼女に生活のコミュニケーションに必要なパートナーとして求めてきたこと、これはこれで二人で暮らす間はずっと続くと思っていた。今はまだ、彼女と海洋調査員の結婚生活でなく、私と彼女の二人の生活の時間なのだ。何か二人の解釈の違いなのか、それとも彼女の貞操感の変化なのか、私は気持ちの落としどころを探り続けた。


 ある晩、私は夜中に目を覚まし、ふと思い立って、彼女の寝顔をじっくり見つめてみることにした。


 彼女が甘えること、私がそれに受け応えること、この関係をパートナーシップと考えていた。しかし、私はそれにどっぷり依存し、彼女は別に依存していなかった。結局はそういうことじゃないか。私は、彼女に精神的な面で多くのもの――それは安定感、充足感、緊張感、を与えてきた。それは確信している。
 だが、与えられるばかりが依存ではないのだ。与える方が、与えるという優位にある安定感、充足感、緊張感を得る図式にあったということだ。 私は、毎月、妻に子どもの養育費を与えている。しかし返って来たのは、保育園が撮った子どもの写真と、一片のポストイットばかり――。
 それと一体何が違うのか。結局、与える場所に身を移してもなお、優位には立てない。共生でない、ただ闇雲に、依存と代謝をくり返していく水生植物のような生活のリズム。私は、彼女を失ったら、どこに身を移し、誰にどんなコミュニケーションを何を求めるのだろうか。
 彼女は幸せな夢見の笑みを浮かべている。つまみたいほど妬ましくもありながら、しかし私のこころ根は、今この瞬間でも静かに生ぬるい水で浸されている。

(おわり)




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