日本語を織りつむぐ幻燈の祠
知らぬ間に押し寄せる異界の鼓動……



「ミストマン」


 まっ白い巨大なわた雲の上をトントンと歩く亜莉沙の背中に、不思議な影がよぎった。鳥だろうか。亜莉沙は何も気づかない。桜色のニット帽からはみ出したハニーブラウンの毛先をいじり、風の流れも何もない広大な朝の気脈を吸い込んで、ひとつゆっくり伸びをした。大ぶりの花をあしらったベージュのかばんを肩にさげ、お気に入りの赤いミュールで休まず雲を歩いていく。
 亜莉沙はどこへ歩いていくのか。不思議な影はどこまでついて来るのだろう。雲の上にはミストマンの伝説があって、みんなそれを探して行方を消していく。どこへ行くのかわからない。消える間際の最後にただ一本、愛する人から電話があるだけだと言う。

 昼のあたたかさに足を止め、亜莉沙は盛り上がった雲のこぶに腰かけた。両手でこぶをもう少し高く伸ばして背もたれにした。まだお腹は空かない。お腹が空いたのは不思議な影のほうだった。ぷわ。亜莉沙はとっさに身を退いた。投げ出した足の先で雲がうごめき、携帯電話がひとつ中から飛び出してきたのだ。雲の上にちょこんと落ちると、亜莉沙は吸い込まれるように手を伸ばした。指先に触れる。ピピ。
「亜莉沙、亜莉沙だよね!」
 携帯電話がそうしゃべった。亜莉沙がぱっと放り投げると、画面がぼんやり明るくなって、誰かの顔が映し出された。
「うん……。だれ?」
 画面に映る顔に見覚えはない。自分よりちょっと年上の男の人。
「亜莉沙、この雲の丘の先に行く気か?」
「そう。ミストマンがいるって聞いたの」
「ばか、戻れ」
「なんで、どうして?」
「戻らないとその大事なニット帽を燃やすぞ!」
「ダメ! これはダメ!」
「ばかっ、上を向け――!」
 電話の声に怒鳴られて、亜莉沙は高く澄み切った蒼天を見た。明るく強く揺れる光が一点。弓矢だった。矢じりの先にオレンジの大きな炎が灯っている。
 亜莉沙は自分の頭に向けられた炎の凶刃におびえ、のどを震わせた。
「ねぇ! じゃあ、ミストマンはいないの?」
 ピピ。足元で携帯電話がうなる。
「俺が知るもんか」
「なにそれ、あんまりじゃない!」
「ぐじゃぐじゃ言うな。ちゃんと力になってやるよ」
 携帯電話のフタが割れ、まるで二本の胸ひれのように開いた。アンテナはしゅるしゅると何倍にも伸び、しなやかな鞭のように弧を描く。携帯電話は二本のヒレで雲のこぶを切り砕き、雲のかけらを吸い込みふくらんで、亜莉沙を超える背になった。イルカみたいな流線型の銀のフォルムが陽に照らされる。アンテナが蛇のように亜莉沙の手にからんだ。
「これをつかんで、後ろに乗れ」
「待って、どこへ行くの? ミストマンを探すの?」
「……お前はそればっかだな」
「ミストマンなら行方不明の人のことわかってるんでしょ?」
「ばか」
 銀色のイルカは走り出す。亜莉沙は行方の知れない雲間に振り落とされないようにしっかりアンテナを握り、ボディにきつくしがみつく。前方からいくつも迫るこぶを避け、そり返るように天を舞い、気脈の大棚を飛び越えて、銀色の弾丸は軽やかに突き進んだ。

「なんでばかって言うの」
「ミストマンは確かにわかってるけれど、探してなんかくれない。こんな場所でひとりで歩いてる間にお前も行方がわからなくなるぞ」
「でも――探さなきゃいけないの!」
 イルカは一瞬黙った。
「……よせと言ったら?」
 亜莉沙は顔を真っ赤にして、銀色の背に爪を立てた。
「下ろして!!」
 言うが早いか、亜莉沙はアンテナから手を離し、ビルの二階か三階かという高さから雲のクッションを見下ろした。前方には津波のようにせり上がった雲の峰が迫ってくる。
「おい、待てよ、ばかっ!」
 背中に載せていた重みが消えた。慌てて亜莉沙の影を追う。しかし、猛烈なスピードに乗ったイルカは腹から雲のへりに突っ込み、視界は完全に白く遮られた。戻ろうとヒレを必死に動かしても亜莉沙を下ろしたことで力を奪われ、雲のあわいにぐいぐい飲み込まれていく。
「くそっ……もう少しだったのに……!」
 最後の一声をかすかに残してふっつりと姿が消えた。

 トゥルトゥ。平らな雲のこぶの上に寝そべる亜莉沙の耳元で、またも違う携帯電話が鳴った。いつの間に落ちてきたんだろう。もしかしたら逢いたい人からかもしれない。期待して、反射的に手を伸ばす。
「――亜莉沙、亜莉沙ちゃんね! やった!」
 画面が揺らめき、またぼんやりと知らない人の顔が映った。年上の派手な化粧の女の人。鼻立ちはくっきりとして、切れ長の目には安堵の笑みが浮かんでいた。
「丘の先に行くつもり?」
「そうよ。ミストマンを探してるの」
「お腹空いてない? 美味しいレストランがあるの」
「質問に答えてよ。じゃなきゃ、あたしも――」
「ばかっ、後ろを向きなよ!」
 電話の怒声に身をつまされて、亜莉沙は言われるままに振り返った。まっ白い巨大な象が丸太のような前足で亜莉沙を踏みつぶそうとしている。足がすくんで動けない。象は雲のこぶを集めて出来ていた。踏まれたら雲に飲まれて消えてしまうに違いない。
「ねぇ、寄り道なんかしたくないの!」
「あんたの言い分なんか聞いてる余裕ないわ!」
 電話の声は強硬な態度を変えない。その間に、象は鼻の先から雲を噴き散らし、まわりから次々に象を集めはじめた。重みであたりの雲がずぶずぶと沈んでいく。この象たちはいったい誰が呼んだのか。ここの雲が抜けたらいったいどうなるの。
「早く、この電話を持って走って!」
 亜莉沙が立ち上がったとき、同時に携帯電話がそう叫んだ。引っかくように拾い上げ、こぶを転がり滑り降り、行く先もわからず駆け出した。だが、象の足は予想以上に速かった。知らぬ間に何十匹もが亜莉沙の背後を取り囲み、足元が砂地獄みたいに大きく傾いでいく。
「レストラン行きのディッシュワゴンが見える? あれに乗って!」
 電話の声だけが逃げ道のない亜莉沙を何とか支えていた。
「そこへ行ったら、どうなるの?!」
 視線の先に、よく磨かれたクリーム色のディッシュワゴンが置かれていた。黒ウサギが取っ手を握り、まだかまだかと待ち構えている。亜莉沙は足元を躍らされつつも、夢中で走り、ワゴンの中に飛び込んだ。先頭を行く象の足が神鳴りのように打ち下ろされて、黒ウサギを一撃で踏み消した。雲のかけらがふわふわと舞う。
 見上げれば、象の頭の上に誰かが乗っていた。短い黒髪、日に焼けた肌――
「お願い、やめて!」
 象の上の人影は気持ちいいほどまっ青な空を背負い、クスクスと笑った。
「やめたら、君が探してる人は二度と見つからないよ」
「違う! ――もしそれがあなただったら?」
 人影は何も答えず、ただクスクスと笑い、巨大な象の首を叩いてたきつけた。
「ちょっと、亜莉沙、黙って!」
 横から携帯電話が悲痛な声を上げた。亜莉沙の乗ったディッシュワゴンが動き出す。恐怖に固まり目を凝らすと、ノミみたいに小さな黒ウサギが取っ手にしがみついていた。
「頼む、持ってる携帯電話を貸してくれ!」
 蚊のような声で必死に叫ぶ。亜莉沙が電話を近づけると、ウサギは画面の中に飛び込み、女の左耳の黒いイヤリングに変わった。あっと亜莉沙は息を飲む。その間にディッシュワゴンは猛烈なスピードで雲を切り裂き、どこかへ向かって疾走していく。

「お腹空いてない?」
「うん……」
 亜莉沙は初めて彼女の声に甘えた。ワゴンの床に腰を下ろして、ひとつ大きく息をつく。
「お願い、教えて。さっきのはミストマンだったの……?」
 電話の向こうで少し長い沈黙があった。
「――さあ、どうかしら。雲の中に消しちゃうのは全部ミストマンよ」
「どういうこと?」
 亜莉沙が顔を上げると、ディッシュワゴンは雲で出来たまっ白いレストランにまっすぐ向かっていた。
「おいで、わたしのかわいい亜莉沙……」
 電話が切れた。ワゴンは走る。ティンクティク、ティンク。再び電話が鳴り、なつかしい声と顔が画面に現れた。亜莉沙の瞳に熱いものがぶわっとあふれ出す。最後に一本、愛する人からの――


(おわり)




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