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| 日本語を織りつむぐ幻燈の祠 |

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| 「おっきいのちょうだい」 |
手帳を開くと、そこは雪国だった。
もはや完全に手詰まりだった。十二月も半ばになり、世の人々はせわしなく昼も夜も過ごしているというのに、職もなく、やる気もなく、友人もない、恋人もない僕はこの見事な負けっぷりをむしろ潔いとさえ感じていた。実家暮らしで寂しさが紛れるのが唯一の救いだが、小遣いもへたすれば今時の小学生より少ない程度だから出不精にもなった。その時点で僕は闘いの土俵にも上がっていなかったわけだ。
それでも少子化の進む現代日本では、自分の部屋さえあれば何とか小さな城を保てるというものだ。僕には僕の時間があり、僕のペースがあり、僕の待ち方があると主張することはできる。しかし、現実は建て前よりもずっと残酷で、僕は一人っ子でありながら、今この家ではその地位さえないも同然だった。
今月のはじめ、秋田に住むいとこが東京の大学に受験するとかで、こっちの大手予備校に通うため単身引っ越してきた。理屈はよく分からない。東京で何校かまとめて受けるんだとか言う。でも受験本番で電車に迷うといけないから、東京にある程度住み慣れさせるのだろいう。しかも、高校の出席は担任と仲がいいから問題ないとかそんなアバウトさだ。で、埼玉の僕らの家に来た。まったく理屈はよく分からない。親同士がだいぶ前に飲みながら話し合って決めていたことらしく、疑問の余地もなく、とにかく僕の家にいとこが住むことになった。
十八歳の、年頃の女の子である。秋田の親戚の家に行ったことはないから、その子の顔は全然知らなかった。予想外に、いや多少は期待していたけど、白い肌と切れ長の瞳とさらさらした黒髪の美人だった。母親とともに駅に迎えに行き、一目見て僕は合格点を出した。輪郭さえもよく分からない秋田のおじ・おばに「グッジョブ!」の親指を高く捧げた。
仲繭希恵。なかまゆ・きえ、という珍しい名前の女の子が、春までの期間限定で僕らの家族に仲間入りすることになったのだ。僕は真っ白い手帳なんか忘れて、今までにない冬の訪れに少しだけ胸躍らせた。
――が、現実はそうそう甘くないものである。
マンション暮らしで広くない我が家に、子ども部屋はたったひとつしかないのだ。僕は考えが甘かった。この安息の居城が奪われる日が来るなんて夢にも思わなかった。しかし、現実は役立たずの男に対して厳しく、僕は実の両親から立ち退きを求められた。もちろん代償など何もない。受験前の大事な女の子と同じ部屋にはいさせられないと判断されたわけだ。待て、待てって、じゃあ僕はいったいどこへ身を置けばいいんだ。二十三の職なしやる気なしの一人息子より、よその家のかわいい十八の女の子のほうが優先なのか。――答えは明白だった。
家にはあとひとつ、小さな物置部屋があった。せめてそこだけは何とか奪取したい……と移住権を訴えたが、これも空しく打ち破られた。物置部屋には父が母を口説く時に何度も使った想い出のアコーディオンがあるのだ。しかもでかい。そいつを動かすと家庭のバランスが崩れるからという理由で、現状維持の裁決が下った。僕の両親は、家族間で一度決めたことは頑固なまでに守るアメリカ人のような人種だった。
部屋を失った僕がどう扱われたかと言うと、哀れに思った両親がホームセンターで折畳式のソファーベッドを一台買ってくれたのだ。「出世払いね」と母親に釘を刺されつつ、僕はその晩からリヴィングの住人、いや生きる屍と言うべきか、リヴィングデッドと化した。そして、使っていたパソコンもコンポもすべて元僕の部屋に残留させられた。現住人の希恵は昼間、予備校に出かけている間は律儀に鍵を掛けていて、僕はどうしようもない。
一方、希恵はくそ真面目にも程があるくらい勉強熱心で、予備校から帰ってきて、僕の母親の料理をさらっとたいらげると、スタスタと勉強部屋にこもってしまう。冗談を言う暇もない。期待よりもはるかに愛想も素っ気もない子だった。
あてにしてたわけじゃないけどさ! あてにしてたわけじゃないけどさ!
そういうわけで、僕は完全に手詰まりだった。こんな時こそ大好きなマッキーの、至極の名曲「どうしようもない僕に天使が降りてきた」を流して束の間の安らぎに浸りたいのに、それさえも叶わない。もっと言ってしまえば、希恵が来てから、僕は自分の不発弾を処理する場所もネタもすべて封じられているような状態なのだ。これは極めて切実な問題であった。何がどう切実かは日本人口の約半数がきっと同調してくれるだろう。
希望も安らぎもときめきもないまま、年末に向かってまっすぐ時は過ぎていく。これは何かの陰謀だ。思えばそんなアニメもあった。そこまで言うかよ、と一笑に付したものだが、今の僕はまさにそんな心境だ。僕を取り巻くここ数日の事象は、この一台のソファーベッドの上で生まれ、ここで終わる。武器も飢餓もない人間の行動範囲の狭さ。ライフラインの安易さと短絡さ。これが無気力な日本の正体なのだ。若い日本人を無気力にして喜ぶのは中国か韓国くらいのものだろう。希恵のやる気と優位性の欠片でもいいから欲しいくらいだ。神様、サンタ様、もう何様でも構わないから……。
クリスマスが近づき、朝・晩ならずとも昼間から一部がテントを張るようになってきて、僕はいつ禁じ手を解こうか真剣に悩みはじめた。エデンの地――それはトイレだ。本来は別に何をためらうこともない、紙もある、密室性もある、ゆとりもある、家に一人でいる時間もたっぷりある。ただ唯一足りないのは、その最終手段を解禁するための触媒となるネタを買いに行く小遣いだけだった。
風呂場でもトイレでも自分の分身を見つめる度に、場違いの失策をおかしそうな気の迷いに襲われる。さらに言えば、僕をこんな苦行に追い込んだのに、何ひとつときめきを交わすことのない希恵への筋違いな恨みから、僕は分身を手で握ると、必ず希恵の顔が浮かぶようになっているのが悔しかった。同じ家にいながら朝晩の食事時しかすれ違わない希恵の変わり映えしない表情。ツンデレ的チチクリアイの展開を期待した読者に申し訳ないじゃないか! と叫びたくなる気持ちを抑え、僕はしじみの味噌汁をすする。
希恵はきっと本当に受験勉強しか興味がないのだろう。それとも異性に興味がないのか。いや、年上にか。いや、僕にか。まあね。
今更あてになんかしてないよ! 今更……!
生殺しにされる蛇のように、僕はクリスマスに向かって一直線に、毎晩希恵の夢を見るようになった。そして僕は必ず夢のはじめで、希恵にまず一言律儀に断りを入れるのだ。たとえお前がどんな格好をしようとも、僕は男の意地にかけてもここで暴発はしない。なぜならここは神聖なる生活空間、リヴィングであるし、お前は僕から安息の居城を奪った憎き女だからだ。いや、憎んではいないよ。いつすり寄って来てもそれはそれでいいんだ。でも僕は妥協しない。いいか、僕の意地なんてそれくらいつまらないもので、それくらい脆いものなんだ。その所信表明演説を、希恵はいつも上目遣いに黙って聞いている。バカ、そんな目をするな。
希恵はその晩、宇宙にさすらうトレジャーハンターの格好をして現われた。動きやすく軽量化されたヴァイオレットピンクのライフジャケットをまとい、一ヵ月分のエアが濃縮されたタンクを背に取り付け、レーザーナイフとカプセル銃を腰にさげ、どんな重力空間にも対応できるGブーツを装備。おまけに受験生らしい数学のテキストとキャンパスノート。かわいい字でKIEとハンター登録ネームが電子署名されている。
さっきのダンジョンにてこずって弾が切れちゃったの、と恥ずかしげに希恵はペロッと舌を出す。あいにく僕の持ち物はトイレットペーパーの芯と、一台のソファーベッドだけ。これでは希恵のトレジャーハンティングに何の役にも立ちやしない。
ベッドに乗ったまま僕は、力になれなくてごめんねと頭を下げる。すると、ううん、そんなことないよ、と希恵は下から僕の顔を覗き込む。希恵が首元にかけるヴァイオレットピンクのサングラスに僕の情けない顔がぼんやり映る。それくらい今夜の希恵の顔はものすごく近い。このまま唇だって奪えてしまう距離だ。しかし、希恵も僕もそれは決して望まない。なぜなら、希恵は遥か遠方の赤い軍神の惑星に捕らわれた兄を探す旅の途中で、僕は氷の惑星にあるキリタンポ工場で奴隷となった妹を救い出す使命があるからだ。
希恵はその清らかな処女を兄に捧げる胸に決めているし、僕は妹をキリタンポ工場から救出して想いを遂げるつもりでいるからだ。お互いが間違いを犯し、すべてを反故にしてしまうと、希恵がここまで死ぬ気で集めてきたライフソースエッグが壊れてしまうし、次の惑星への渡航パスも塵と化してしまう。だから尚更僕は手を出さないのだ。
しかし、次の惑星には野犬が群れている。やつらはライフソースエッグを狙って見境なく牙を剥き、お前みたいなかわいい子をいかに口説き落とすかしか考えていない。僕がそう忠告すると、希恵はこの星で仕入れた新鮮な催眠バターを見せながら僕に笑いかける。
「犬さんはこれ舐めたらみんな寝ちゃうんでしょ? へーきへーき」
世間知らずの箱入り駆け出しハンターめが、どこへそんなことを教わったんだ。だけど、野犬の星じゃ、星中の野犬が襲ってくる。お前みたいにかわいければ余計だ。そんなバターの量じゃ全然足りないな、僕は冷静に忠告する。
「ふーん」と希恵は僕の小さなソファーベッドによじ昇ってくる。
「何だよ」
「じゃ、もっと」希恵は僕の腰のベルトに手を伸ばす。「おっきいのちょうだい」
悪い夢だった。タチの悪い夢だった。同じような夢をだいぶ昔に、高校時代、失恋したばかりの頃に観た気もするが、それはきっと告白してふられた相手で、今回、顔が希恵に変わっただけのような気がした。冬なのに寝汗をぐっしょりかいていて、どうしようもなく胸の鼓動が大きかった。
時計を見ると、朝飯はおろか夜明けにも早い午前四時。窓の外は真っ暗だ。ただ、確実に白い津波は岬のすぐそばまで来ている。文明を押しつぶす神の怒りと洪水のようだ。ここまま行けば次の夜の夢には間違いなく、僕は希恵に、正確には希恵の夢魔に操を奪われるだろう。きっと僕は中学二年生のあの日以来、人生二度目のドリームショットを果たすことになる。もはや明白な運命だ。僕は希恵の非現実の魅惑に屈するのだ。広大な宇宙空間にトイレットペーパーの芯なんか握りしめ、僕はいったい何にすがろうと言うのだ。
強烈にのどが渇いて、ふらふらと廊下へ歩き出す。考えてみればキッチンはすぐそこだったのに、なぜか廊下の奥の明かりに誘われるように、そこにある洗面所へ足を向けていた。いよいよ終末の時が近いのか、今日は夢の内容を克明に覚えている。何がキリタンポ工場だ。何が催眠バターだ。もともと住んでいた住人を追い出して平気な顔して勉強している小娘じゃないか。あんなガキンチョの――。
廊下の端に着き、ガラッと洗面所の戸を引くと、そこに小さな後ろ姿があった。二人とも驚いた声を上げる。希恵がこんな時間に起きていた。歯を磨くでもなく、ぼうっと鏡を見つめていたような気がするが、聞く余裕もなかった。さっきまで無力な僕に催眠バターだの何だのねだっていた本人だ。いや本人ではないが、顔形はそっくりに夢から写し取られていた。いやこの子を僕の夢が写し取ったのか……。
「水」
僕は何の前置きもなく、ぶっきらぼうに言った。
「えっ」希恵は目を丸くして僕の顔を見る。
「あ、ごめんなさい」
僕が酒に酔っているとでも思ったのだろうか。希恵は覚束ない手で慌ててコップを取り、じゃぶじゃぶと水を注いだ。
「やっぱ要らない」
「えっ」希恵はコップを持ったまま立ちすくむ。
「希恵はさぁ」僕はいきなり相手を呼び捨てた。頭の重力感覚が狂っている。目の前の希恵は頑丈なGブーツでなく、アザラシのふわふわしたスリッパを履いていた。二匹並んだ真っ白い丸いふくらみが僕の気を変に大きくする。ちくしょう、夢魔の家来め。
「希恵は勉強は楽しいか?」
咄嗟に出てきたのは、どこかのおやじみたいな口振りだった。
「えっ」さっきからそれしか反応しない。この子はこれだけ毎日勉強しているのに、なんて語彙が貧困なんだろうと少し可哀想になる。
「勉強より楽しいもん知ってるか?」
「えっ……」
「もうそれは聞き飽きたよ」
「え――」
「それはさ」僕は勢い余って希恵の小さな双肩に手を置いた。希恵の細い体がびくっと過敏に反応する。しかし何も言ってこない。頼む、僕を見下さないでくれ。僕のようになりたくないなんて思わないでくれ。明日、僕はお前の面影に向かってドリームショットを放つかもしれない。いや、きっとそうだろう。ごめん、許してくれ。
「恋愛だよ」
「ちょっ……」
希恵は絶句する。当たり前すぎる反応だ。僕は夢の中で、希恵に野犬が襲ってくるぞと警告しながら、今こんな時間に野犬と同等の暴言を吐いている。いや、一応身内なんだから、それ以下の劣悪さで受け取られているかもしれない。いい加減、お前の肩に乗せた僕の手を払え。僕の脇をすり抜けて部屋へ戻れ、鍵をかけろ。今の僕は異常なんだ。
それはボルケーノ前夜、ネズミたちが一斉に消え失せるように、お前もここから立ち去ってくれ。ところが見ていると、怯えて険しかった希恵の目がすっとやわらぐように感じた。
「ふられたんですか?」
意外な一言だった。僕は返答に詰まった。
「……そうなんですか?」
十八の小娘の恋愛勘ごときで五つも上の僕を問い詰める気か。小ざかしいにも程がある。今の僕と野犬の間には毛ほどの違いもないぞ。催眠バターもないのに、どうしてさっさと逃げないんだ。
「どうなんですか?」
じっと見つめる希恵の瞳に対して、僕は観念した。
「近いことは近い。でも、違う。結論はまだ出ていない」
「へぇ……」希恵は興味深そうに目を細める。夜中の四時なのにもう少し眠そうな顔をしたらどうだ。
「でも、違うんだよ」
僕は希恵の手からばっとコップを奪い、一気にのどへ冷たい水を流し込む。希恵は驚いて僕の顔を見上げながら、ふぅと小さな溜め息をつく。
「あんなに外出しないのに、どこでどんなふうにやってるんですか?」
「時間だよ」生意気な口を聞くやつだ。
「えっ?」
「場所じゃなくて、時間だよ。相手がいくら冷めてようと、時間が経てば状況は変わる。僕が何もしなくても。相手が何もしなくても」
「ふうん……」
「残念だけどね」
「え、残念なの?」
「ああ、情けない自分にほんとむかつくよ」
希恵の体がぶるっと震えた。暖房も何も入っていない真冬の洗面所だ。これ以上くだらない僕のぼやきに付き合わせると、希恵が風邪を引いてしまいそうだ。僕も水を飲んだせいか気分もすっかり落ち着いた。そして、どうせこのまま僕は明日の晩、ボルケーノを迎えるのだ。一人で笑うしかない。
「部屋に戻れよ」
「あ……うん……あの、ごめんなさい」
しおらしい声で希恵は少し身を引いた。謝られると思わなかった僕は手を下ろし、黙ってその場にうつむいた。
「お部屋使わせてもらってごめんなさい」
「それならどうでもいいよ。勉強がんばれよ。早く寝ろ」
余った水を洗面台に流し、コップをすすいで元に戻す。
振り返ると、ぽろっと希恵の目から涙がこぼれ落ちた。僕は一瞬自分を疑った。確かにぶっきらぼうな態度だが、さっきの言葉に何か決定的に突き刺すようなものがあったのか? 女の子はこんなにも早く泣くものなのか? 焦りで鼓動が急に早くなる。
「おい……」
「同じこと言われた」
泣き声混じりの弱々しい吐息がもれる。
「だ、誰に」
「カレシ……」
「彼氏?」
「うん、同じ予備校の――」
話の流れが速すぎて掴めない。だが、せめて何か声をかけようと必死だった。
「がんばれよって、別にいいじゃねーか。何で今泣いてんだよ」
「別れたの」
「別れた?!」
「もうすぐクリスマスなのにさぁ……」
僕は軽くパニック状態になった。しかし、寒い洗面所でぽろぽろと涙をこぼすこの子のほうがもっといろんなものがこみ上げてるだろう。
いや、だとしてもだ、この子は埼玉に来てまだ三週間だぞ。もう彼氏を作ったのか。それでもう別れちまったのか。しかもクリスマス直前にか。なんだこの恋愛のテンポは。そもそも恋愛なのか。しかもその男はなんて下手な別れ方なんだ。別れる時に女を励まして幸せになれる男なんか絶対にいるわけがねぇ。
暗転する頭の中で、マッチを擦ったかのように、パッとクリスマスの食卓が浮かぶ。
「――ケーキで十分じゃねーか」
「えっ?」
「うち、毎年ホールケーキ買うから、ケーキだけはあるよ」
「ケーキ……?」
なぜケーキ程度で宥めようとしているのか自分でも分からなかった。相手は十八の子だぞ。三週間で付き合ってしかも捨てられちまった女の子だぞ。こんなにかわいいのに。もしかしたら三週間のうちに彼氏の部屋に上がりこんで何回やったかもしれないんだ。ここ一年以上女の子とエッチしないボルケーノ野郎に比べたらずっとクオリティ高いじゃないか。偏差値も上だよ。悲しみもずっと上だよ。こんなにかわいいのに。何回か……いや一回くらいは確実にやったかもしれないのに。今更ケーキがどう響くんだよ。しかも毎年母親が当たり前に買ってくる何の変哲もないクリスマスケーキだ。サンタの人形が乗ってるやつだ。三人じゃ食いきれないから三日間くらい仕方なく食べ続けるやつだ。
でも、やっぱりケーキなんだ。ロウソク立てたホールケーキなんだよ。
「おい、ケーキは嫌いなのか?」
「ううん、嫌いじゃない……」
好きとは別に言わないが、首を振る仕草に少しだけ甘えが見えた。
「じゃ、泣くな。運がなかった。お前をふったそいつはたぶん不幸になる。そう思え。明日事故に遭うから」
「はぁ? 遭わないよ」急に声色が変わり、吐き捨てるように言い返される。
「うるせーな、恋愛より受験が大事だろ」
「……さっき、受験より楽しいのは恋愛だって言ったじゃん」
僕は黙った。濡れた寝汗がさっきの腹の水で冷えていく。いい加減、足元や背筋が寒い。もうこれ以上ここで何かを説き伏せる必要はないと感じた。
「何か言ってよ」希恵は強気な眼差しを向けてくる。
寒さで体が少し震えている希恵を見て、僕は洗面所を足早に出た。追いすがるように希恵が電気を消してついてくる。そして、僕は三週間ぶりに元自分の部屋に入った。ずっとエアコンがついていてさすがに温かい。「えっ」と後ろでお決まりの反応があったが、構うことなく部屋の奥へと突き進む。
シーツが女の子らしい色に張り替えられてたベッド。その下に並ぶ大きなクラフトボックスをひとつ開けて、中から鉄道大百科の一冊を抜き出す。カバーから出てきたのは『おっきいのちょうだい!女子校生 美乳特選隊☆』DVDシリーズだった。しかし目的はそれでなく、DVD付録のダイジェストフォトブックのほうだ。これだけテントが張りつめていれば、こいつで十分だ。ペラペラめくり、疲れた頭で僕はそう確信した。
「ちょっ……」
横で希恵が茫然と立ち尽くしている。
「当たり前だ。ここは僕の部屋だったんだ」
「いや、そうじゃなくて……」
「こっちも我慢の限界なんだよ」
「はぁっ?!」
僕は後ろも振り向かず勢いよくドアを閉めて、トイレに向かった。もう何だろうと構わない。後先を考える頭はなかった。とりあえず、この年になってドリームショットで母親に迷惑をかけることは何とか回避し、午前四時半過ぎ、僕はキッチンでもう一杯水を飲み、のどを潤した。
希恵の部屋のドアを見ると、明かりは消えているようだった。
それからクリスマス当日までの三日間、希恵は僕を無視し続けた。軽蔑されている気色ではなかったが、部屋の中に女子校生物が収納されていて良い気はしないだろうし、僕は言い放った「我慢の限界」という言葉をどう受け取ったか分からない。もしかしたら部屋に呼びつけられてこんなの処分してよ、とか冷たく言われることも多少予想したのだが、そんな反応も特になかった。
いや、無視されていた、というのは言い過ぎかもしれない。もともと家では受験勉強に専念していて大した会話もなかったし、あんなふうに問い詰められたり、涙を見せたりしたのが嘘だったんじゃないかと思えるくらいなのだ。
とにかく、あの晩のことは、あの子の中で適当に処分してもらって構わないことだし、あんな結び方では僕が言ったことの一割も受け入れてもらえないだろう。子どもではないから、むしろそれで良かった。ただ、あのとき見せた涙が本物だとして、僕はあの子に対して何も心を支える手立てはなかったし、十八の冬の傷口を無理に押し広げたいとも思わなかった。それだけがこの胸に残る事実だ。
ここ数日テレビは昼も夜も最終回だらけで、僕の心は安らぐどころではなかった。若い二人にどちらも恋人がいない家庭の二十四日は、嘘みたいに何の変わり映えもなく過ぎ、明くる二十五日、母親が買ってきたクリスマスケーキが冷蔵庫に入っていた。買い物帰りの母親が僕に向かって、「希恵ちゃんに何かプレゼントは用意してないの?」と尋ねてきたが、そんなものを捻出する小遣いを持ってないのは承知の上だろうし、適当に生返事をする僕に、母親はそれ以上何も言わなかった。
夕方、父親から帰りが遅くなるという電話が入った。父親が、希恵ちゃんにはプレゼントを買ってあるからと母親に話しているのを、僕は横でぼんやり聞いていた。
その後、希恵が予備校の授業を終えて帰ってくる頃には、フライドチキンと、きのこのクリームシチューが用意できていた。希恵はカバンを置きに行き、母親はシチューを盛り付ける。「ケーキ、もう切っちゃって」という母親の声で、僕はクリスマスケーキのカットに取り掛かった。今年のスポンジは思ったよりやわらかく、苦戦して指先がクリームだらけになっているところへ、希恵が見覚えのない新しいピンクのカーディガンを着てやってきた。
「ねぇ、希恵ちゃん、それって誰かのプレゼント?」
母親も目ざとく見つけ、余計なことを聞く。
「いえ、自分で買いました」
「あんたが買ってあげればいいのよぉ」
そう言って母親は無神経に僕の頭をこづく。うるさい、そんなもの喜ぶもんか。
だが、希恵はむすりとはせず、「ううん、欲しかったのがたまたま安かったんです。サンタさんなんていませんから」と軽く笑った。
それから、イチゴが崩れかけて苦戦している僕の顔を見て、希恵はテーブルの向かい側に座った。
「あたしが切ろうか?」
「……お前はお客さんだろ。気にすんなよ」
「ほんと? じゃあさ」希恵はこの三週間と違う笑顔を見せた。「おっきいのちょうだい」
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| (おわり)
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