日本語を織りつむぐ幻燈の祠
知らぬ間に押し寄せる異界の鼓動……



「ある科学観測所の十月」


 懐かしい心地がする。緑の多さはまだ昔のままだ。青々と輝く美しい水の景色をじっくりと眺めたあと、望遠鏡から離れ、所長は古ぼけた愛用のマグカップに口をつけた。ここの水も最初はあまり口に合わなかったが、もう長年これしかなかったせいで、すっかり馴れてしまった気がする。
 デスクに戻り、積み上がったファイルにぼんやりと目を通す。電子署名をしなくてはならないファイルの山だ。今日は非常に稀少な日なのに、やはりいつもと同じ仕事をしている。ファイルデータが膨大なので署名はたいてい溜まりがちだが、月末になるとそれが著しい。みんな月次の締めに間に合わせようと束にして持って来る。今月はパーティの準備などもあって余計にあわただしかったのだ。
 ピーッ。網膜認証を経て、基幹システム管理者のロッツが報告書類を抱えて入室してきた。その姿を一目見て、所長は苦笑する。
「おお、そうだ、今日は月末の締め日だが。メインサーバのシステム更新は大丈夫か?」
 問題ないと分かっていながら所長は尋ねる。
「はい、いつもどおり順調です」
 彼はまだ若く、職歴も浅かったが、この地域の通信科学大学院を主席で卒業した逸材だった。そして入所以来いつもどおり実直に返答するのだが、今日は格別それが可笑しい。もともと彼は端正な顔立ちで、つぶらな黒い瞳に幼さと知性を備えた魅力があるようで、異性からの人気も高かった。同期入所の連中がよく嫉妬しているのを耳にする。
 所長は立ち上がり、「それはもらっておこう」と言って手を伸ばし、思いがけず破顔した。カボチャだ。彼が抱えるファイルの束の上で、小さなカボチャが見上げていたのだ。
「トリック・オア・トリート!」
 まるで子供が覚えさせられた台詞みたいに、ロッツは生真面目にそう叫んだ。まさかここでこんなのを彼にやられるとは予想もしなかった。中身と目鼻口をくり抜かれたカボチャが不敵に笑いかける。そう言う彼自身は真っ黒いマントをはおり、ほほを青白くメイクで染めて、吸血鬼に扮していた。今日はこの格好でずっとメインサーバを点検していたのだから、まわりがちやほやするわけだ。
「生憎ここにお菓子はないぞ。俺は甘党じゃないからな」
「いえ、上の方々から“何か”もらって来いと魔女たちにきつく命じられました。もし収穫なしなら僕が火あぶりになります」
 魔女か。ったく、ホウキにもうまく座れない魔女たちが何を騒いでいるのやら。見れば実に抜け目なく、カボチャの額に電子チップが取り付けられている。所長はIDカードをかざして、いくらかのチップを送金した。こんなカボチャを用意したのも、きっと厨房で働く手先が器用な子たちだろう。
 くしゅっ、ロッツはくしゃみをした。所長は腕組みをして笑う。
「お前がうまくやったかどうか、あいつら厨房で噂してるんだな」
「そうかもしゅれませんね」
 今の拍子で吸血鬼の歯が口からずれたようで、彼の滑舌が少し悪くなった。
「しかし、罰が火あぶりとは手ひどいな」
「はい、包丁片手にしゅごまれましゅたからね。いくら冗談でも、女性はおしょろしいです」
 青ざめた吸血鬼のメイクがいっそう彼を気弱に見せる。歯を直そうとしていたが、うまく噛みあわず苦戦していた。
「まあ、俺の嫁もケンカする度にずいぶん恐い顔で脅かされたもんだ」
「お、奥ひゃんは、ふぉ元気でふか?」
 所長の妻は、以前この観測所に勤めていた部下の一人だった。結婚を期に退職してもう何年も経つので、この若い彼が知るはずもない。単なる相槌なのだろう。
「ああ、気ままにやってるよ。二の腕のたるみが気になるとかで、最近ヨガを始めたようだが、いったい何年かかることやら。俺はヨガ教室に騙されてるんじゃないかと言ってやったが」
「しょうなんですか?」
「どうせどこか痩せるたびに、またどこか太くなるんだよ」
 ――故郷から遠く離れた地で所帯を持ったことを所長は少し想った。望遠鏡をのぞきこめば、今日だったら自分の故郷が見えるかもしれない。だとしても、それはもう自分が過ごした時間とは大きくかけ離れてしまっているに違いない。ヒトは動き、考え、貪欲に求めるものだ。もしロマンチズムがなかったら、地図を書くことも、その空白を探求し埋めていくことも考えなかったかもしれない。牛や羊などは餌のある場所を求めて動くが、餌があり余っていればそこから一歩も動かない。草はツタや根を伸ばし広がるが、その場所が枯渇すれば死滅するだけだ。
 だが、ヒトは未開の地を貪欲に求めて動き、そこに適合する食料や家畜を確保し、原住民を隷属させ、地位を保ちつづけてきた。そのロマンチズムには果てがない。民族大移動も、大帝国も、大航海時代も、ナポレオンも、世界大戦も、……そしてこの観測所もまたそれが息づくひとつの集積体なのだ。この地で得たデータを解析し、定期的に本土に送る。そして、それが地図になるのだ。
 所長は自らが従える若い部下の姿をじっと見た。ここの所員はほとんど現地採用だ。そして彼らは実に楽しそうに本土のお祭り事を真似している。
 ――きっと、これでいいのだろう。
「あの、もうすぐ展望室でパーティが始まります。所長も乾杯のご発声にいらしてください」
 どうやら歯は無事に収まったらしい。まるい口に、作り物のまるい牙が白く光る。
「しかし、このまま行ったらつまらないな。俺も変装しよう。さて、時間ギリギリだが何とかならないか……」
 所長は身の回りを見渡す。すると、ロッツが機転を利かせて白いカーテンを指した。
「あれを下ろしましょう。頭からかぶれば幽霊くらいにはなれますよ」
「ははっ、お前もすっかり要領を飲みこんでるなぁ!」
 所長が高笑いすると、ロッツは照れ臭そうに目を細め、触手の一本で大きな頭をかいた。
 二○○五年――その年の十月末日、火星が地球に最も近づいた日のこと。
(おわり)




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