| 「パックス・アベニュー」 |
大阪、淀屋橋筋の交差点にベイルートビルはスラリと建っている。
地上二十一階、地下二階の背高なビルは、地下鉄出口を取り込む構造をしていて、近代的な外観がこの一角でよく目立つ。梅田や心斎橋といった繁華街からは少し離れており、遊びや買い物の目的で集まった人たちがわざわざ足を伸ばすことは少ない。
ビルの半分はベイルートグループの会社が占め、残りのフロアには小さな会社の事務所がいくつか収まっている。地下階には飲食店が軒を並べるが、この一帯は勤め人が多く、どの店も土日は判を押したように定休日にする。
しかし、その地下階にあって土日も営業している店がひとつだけあった。それがカフェ『パックス・アベニュー』である。
店長の津路<つじ>は今年で三十六になる。独身だが、女性よりとにかく自分の店に愛着が深い。
津路は三年前まで、ある老舗のレコード会社で働いていた。最後に携わった仕事は、女子中学生五人組の本格的なガールズ・スカバンドである。彼女たちを面接し、本社に書類を通したのも、お互い初対面で緊張しきりの五人を面倒見たのもすべて津路であった。
しかし、プロモーションの方針を巡ってプロデューサーと真っ向から衝突し、積年の鬱積を肩から下ろし、とうとう会社に見切りをつけた。その後、そのスカバンドは無事デビューしたが、CDを四枚出したくらいで、以降すっかり姿を潜めてしまったようだ。
津路は、今でもあの子たち一人一人の顔も名前もよく覚えている。途中で投げ出すのは確かに気が咎めたが、津路は、自分が丹念に組み上げた彼女たちの夢走る未来を預かることが結局叶わなかったのだ。卑屈な思いを続けるよりは、よほど去るほうが潔い。津路は気遣う周りに対し、内心をそう打ち明けた。
折しも、津路は旧来の友人からカフェの経営を手伝ってほしいと持ちかけられていた。そのとき店にはまだ名前がなかった。津路はBGMのチョイスをメインに頼まれたが、友人からついでに気の利いた名前を付けてくれと請われた。それが「パックス・アベニュー」の始まりである。
不思議なもので、名付けた瞬間から我が身のように愛着が湧き、BGMだけでなく店舗全体について日増しに真剣に考えるようになっていった。それが津路の退職に追い風を立て、単なる頼まれ事でなく共同経営者という再出発を選ばせたのだ。
ちなみに「パックス・アベニュー」は、津路オリジナルのネーミングではない。世界の中心に繁栄する通り――この大袈裟な名前は、津路が面倒を見る歌手の出演するラジオ番組に寄せられた一編の詩だった。
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パックス・アベニュー
世界の中心に繁栄する通り。
ひとつの曲にも、ひとつの流行にも必ず終わりが訪れます。
かつてあれほど繁栄したローマ帝国の輝かしい黄金時代
『パックス・ロマーナ』さえ、滅びる憂き目に遭いました。
ひとつが滅びると、その空間を埋める新しいものが繁栄します。
世代は移り代わって、前のものから廃れていきます。
人が通れば、物が通れば――道ができます。
繁栄を望む者の通る道が、
ずっと変わらずどこかにあるのかもしれません。
感覚でそれは見えません。
見えている時は、一歩外から憧れているのです。
やがて時が満ち、運命に誘われるようにみんな同じ通りへ向かい、
いつの間にか通り過ぎ、感覚から消えていく。
そういうのが「パックス・アベニュー」です。
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津路は「感覚でそれは見えない」という一節が何となく気に入った。収録の帰りがけ、そのハガキのコピーをもらって手帳に挟んでおき、月に一度はじっくり読み返した。
津路は、十年以上勤めたレコード会社でそれなりに堅調な働きをし、それなりの財産を築いた。元々この会社は演歌や民謡が中心で、業界では中堅クラス止まり。演歌では安定的な売上があったが、会社全体の売上の伸びは完全に止まっていた。津路は入社から三年ほどで「現代歌謡部」という名のポピュラーミュージックの部署に転属されたものの、その売上は全社のうちの一割にも満たなかった。
会社は年度初めに年間の事業計画を発表する。それは、この一年間全社をあげて売り込む歌手を数人に絞って販管費を投入し、それ以外にあまり手をかけないという予算配分で、社内でトップレベルのプロデュース力を持つ――つまりは業界に顔の利く一部の社員が特権的に大きな予算をもらう仕組みだった。
その裏で津路は、名もない新人ポップミュージシャンを少ない予算で必死に売り込んでいた。しかし演歌以外では会社のブランドはとことん弱く、番組の出演契約はおろかライブやCDすら満足に実現できない苦境から一向に抜け出せなかった。
津路はそれを七年間耐えた。会社を恨まず、重役を恨まず、上司を恨まず、ただ純粋にチャンスを待ち続けた。けれども指を咥えて時を忍んでいたわけではない。
津路は七年間で一万枚にも及ぶ膨大な量のハガキを書いた。単純に換算すると一日に四枚。他のことに手一杯で一枚も書けなかった日を考慮すると、一日十枚書いた日も数え切れない。
この一万通のハガキは、約二百通りものペンネームによって業界にばら撒かれた。その当時流行の牽引役だったテレビやラジオの番組、ファッションや音楽雑誌の読者投稿コーナーなどに次々と送り込んだ。津路はさらに暇な学生バイトを安値で雇い、録画や録音を頼んで、番組の中で司会者やDJが読み上げた回数を徹底的にチェックした。
そして、自分が案出した最大二百ほどのペンネームから、採用が多かったものを選んで六十ほどに絞り込み、以降その名前でひたすら送り続けた。番組が終了すれば、そのプロデューサーが次に担当する番組を突き止めて、ハガキを改めて送り込んだ。つまり極論を言えば、制作側が「熱心なファン」だと思っていたうちの実に何割かは、津路という一個人だったのである。
津路は、音楽の価値を、その音楽が流れる場面の価値そのものであると信じていた。つまりはそれが津路の行動する哲学だった。
だから、津路は徹底してハガキの中で、推薦する曲に人の胸を捉えるようなエピソードを添えた。曲や歌手に関する御託は並べず、その曲を聴いて「嬉しかった」「切なかった」「勇気づけられた」……そんな物語をひたすら精魂込めて書き上げた。自分のネタが尽きた後、友人の話や勝手な空想を持ち出すこともあったが、そこに圧倒的な真実味を与える才能が津路にはあった。
津路はこの孤独な闘いを七年間続け、成果はようやく五年目にして現われ始めた。もちろん、津路は一時的にどれだけ盛り上がったとしても、流行に終焉があることを自覚している。だから一世代に絞って訴求するのでなく、二つか三つの世代を同じ体験でつないで、異世代の間の会話に登場させてこそ、一過性でない価値が生み出される。津路はこの信念に従ってひたむきに手を動かし体を動かした。
案の定、六年目には津路が世話するミュージシャン達の知名度もセールスも確実にワンランク底上げされた。そして、比例するように津路自身も多忙を極め、その成果は少しずつ社内に認められていった。
津路はそれまで会社に対して反目し、内心を隠していたわけではない。むしろ経営陣に予算の拡大と増員を直訴して、いっ時社内で大きな問題になった。保守的な経営・管理職層は、一介の社員が自分たちの領域に足を踏み入れた不快感で「始末に困る」と執拗に騒ぎ立てた。中でも最も保守的だった人事部の取締役は、「現代歌謡部」に一切新入社員を入れず、いつまでも津路を最低位に置き、当然津路のデスクには毎日新人のする雑務が山のように積み上げられた。
しかし、津路は意地でもこの会社を離れなかった。そこには確固たる目算があったのだ。有能な歌い手なくしてこの戦略は成り立たない。それを最初から強く自覚している。だから、演歌を志しながらも大手レコード会社のオーディションで惜しくも敗れた歌手たちが自然と集まってくるこの中堅会社に、計り知れない『眠れる資源』の可能性を見込んでいた。
ただし現実は、彼らとて年間事業計画の重点プロデュース歌手の選から洩れてしまえば、一年間ろくな仕事が回ってこない。そうしてついに出番を待ち切れず、夢破れて地元へ帰っていく後ろ姿を、津路は幾度となく目の中に熱く留めていた。
そこで、津路は若い歌手たちを中心に熱々と説得を重ねて、ロックやポップスの世界へ引き連れていった。彼らは真実、世に騒がれている安易なアイドルたちを遥かに凌ぐ実力があった。そうして時間をかけて何とかヒットチャート上にたどり着いた彼らのほとんどが、実はかつて演歌からスタートした人間だったのである。
そして八年目の春、津路の提出した稟議書は、自分が育てた何人かの若い歌手の成功実績に支えられて、ついに経営陣を動かした。津路は「現代歌謡部」を解体し新しく作られた「未来事業部」の課長に就任した。部長は東京本社から来た新参者であったが、津路こそがこの新部署の名付け親であり、部員を束ねる実質的なマネージャーであった。
津路は新しい部署を意欲的に売り出し、三年間で順調に軌道に乗せた。そして、今や「未来事業部」は会社全体の売上の二割を担うまでに成長した。単体でも充分観客を魅了できる歌唱力のあるミュージシャンが輩出する会社、というブランドも業界にようやく定着し、いよいよ繁栄の道に乗る気運に満ちている。
ちょうどそういう時期であった、津路が唐突に会社を去ったのは。表向きの理由はガールズ・スカバンドでの一悶着であったが、本音を言えば津路は繁栄の通りにすっかり安住し、その姿を見失ってしまうのを一番恐れたのだ。
津路には新しく繁栄の軌道に乗せようと立ち向かう、まったく別の目標が必要だった。コーヒーが大好きだった友人が突然カフェ開業の話を持って来た時、津路は舗装される前の粗野な道が再び眼前に浮かび上がった気がした。
カフェ「パックス・アベニュー」には今でも、津路が世話をした歌手たちが素朴な格好で時折訪れる。新しいCDを聴かせに来る者、自分の本や写真集を渡してくれる者、海外で見つけた珍しいレコードや海外イベントのプレミアグッズを手土産に持って来る者など――。
彼らは決まって勤め人の姿が消える土日に、こっそりとやってくる。そして必ずカウンター席に座り込む。津路のする世間話は、彼らはとって不思議なほど他に替え難い、とてもなつかしい響きを持っていた。津路にしてみれば、何も不思議などない。それはひとえに、彼らを育て励まし続けた何千、何百という数のファンレターの作者が、あの頃と同じ調子であれこれと語っているからだ。
彼らが土日に来店し何かしら手土産を置いていくのが続くうち、巷間で噂が広まり、それを目当てに人が集まるようになってきた。新参のカフェで当初苦戦したことも過去のものになりつつある。津路にとっては予想しなかった嬉しい誤算だ。少しずつ店の経営にも潤いが生まれてきて、津路は乾田に水が差すような感覚をまた久し振りにじっくりと味わっている。
レジを締めたところでふと目に留まり、店のフライヤーを束から一枚を手に取った。一万通のハガキ書きから始まった、半生の情熱を懸命に注ぎ込んだ道行き。自分の生きる目標を店の名前にして安住したふうに見えるけれども、本当は片足ほども乗っていない。「パックス・アベニュー」には、いつでも一歩外から憧れを抱いている。
きっと憧れだからこそ、本気になれるのだ。津路はそんなふうに思う。
もちろん、まだ繁栄を約束された好循環までは程遠い。しかし津路にとってはむしろ、それが最高に心地良い。ただ……こんな心情は共同経営者の友人には話せないと、津路はカウンターでひとり苦笑いをこぼした。
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| (おわり)
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