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| 日本語を織りつむぐ幻燈の祠 |
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「ペンギンの女神」
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挿絵:夜野さん |
知らない人は多いと思うが、ペンギンにはひざがある。僕も初めて人から聞いたときは、一瞬「えっ?」と思った。でも、考えてみればそうだ。ニワトリを見てもフラミンゴを見ても鳥のたぐいには普通ひざがあるわけだし、足の骨が股関節から下へ一本まっすぐ生えているというのも変な話だ。ペンギンだって走って泳ぐわけだから、ひざはある。
そんなことを妙に得意げに語っている僕は今、ペンギンスーツを着た女性の先輩に、なぜかひざまくらをしてもらっていた。
どうしてこんな場面になっているのか、ここまでの経緯がうまく思い出せない。ただ、自分のひざがすごく痛い。けれど、その痛みを我慢してもずっとこうしていたいほど、先輩のひざまくらは温かくてやわらかかった。上を向き、先輩と目が合うと、何か言おうと思ったが、何も言葉が出なかった。先輩も何か言うかと思ったが、何も話しかけてこなかった。ただ、ひざまくらを僕にしてくれているのである。
先輩の名は蓮実菜由(はすみ・なゆ)といった。小柄で童顔で、大学一年生と言ってもおかしくない感じで、アイドルみたいに可愛い顔をしている。職場ではハスミンとか、なゆちゃんとか呼ばれている。もちろん新入社員の僕は、きっちり蓮実さんと呼んでいる。だが心の中では、菜由という名前があまりに可愛すぎて、なゆっちくらいまで崩したいのを何とか百歩譲って、菜由さんと呼んでいることは――内緒だ。
ちなみに、このモノローグはまだ菜由さんのひざの上である。僕は菜由さんが何も言わないのをいいことに、目が覚めたにもかかわらず、そのままここに居座り続けていた。気づけば、菜由さんの右手がなんと僕の油断しきった二の腕に置かれている。手のひらから伝わる菜由さんのぬくもり。こんなことがあるのか。やばい、これは死ぬ予兆かもしれない。死因は膝上死だ。それ以外ない。何と読むかもわからない。
なゆっち――じゃなくて、菜由さんは四つ年上だ。新入社員にとって四歳差はちょっと距離を作ってしまうこともある。僕は国内に数十万人はいると思われる「新人営業」という生き物で、社会慣習的に四月一日から基本的人権は剥奪されている。そして、僕はようやく自分がなぜひざまくらされているか、うっすら感づいてきたが、どうして菜由さんがペンギンスーツを着ていて、僕はジャージ姿なのか、まだ記憶のピースが埋まっていない。
菜由さんとは所属部署が少し違う。僕は首都圏営業二課だが、菜由さんは東日本営業企画部というところだった。僕はいわば陸軍のように厳しい営業部隊だが、菜由さんは販促イベントやセミナーの企画運営を行っていて、電話する声などもとにかく可愛い。座席はとても近くて、というか後ろ隣合わせで、振り向けば菜由さんがいる。そして、外回りから帰ってくればいつも仕事の手を止めて笑顔を振りまいてくれる。
だからと言って最初からよく話したわけではない。いや、このひざまくらがほぼあり得ない状況なのだ。ここまで癒して、いや慰めてもらっている理由が逆に恐くなった。まさか僕はよほどのことをやってしまったのか。酒に酔っているわけではない。こんな格好ではあるが、窓の外は明るく、仕事中のような気もする。そして、ひざが痛い。少し動かそうと思ったが、ビリビリと電撃みたいな痛みが走ったので、それ以上動かさなかった。
菜由さんも僕の気配に気づいたらしく、女神のような瞳で見つめてきた。
「如月くん、起きる?」
難しい質問だった。素直に本音を答えていいのだろうか。
「いえ、まだ……いいですか?」
と思っていたら本音が出ていた。僕の口は、別の人格に支配されているらしい。
「ふふっ。うん、いいよ」
おそらく――僕の膝上死は近い。
ひざの痛みが本物なので、僕もだんだん事の経緯がわかってきた。今回は水族館とタイアップして親子向けのキャンペーンをやっていて、僕と菜由さんと二人で担当していたのだ。本来は営業企画部で運営するものだが、勉強のために僕も応援で行くように言われたのだった。
そこまでは思い出したが、確か僕がペンギンスーツを着てパフォーマンスをするはずだった。けれど、肝心のペンギンスーツは菜由さんががっつりと着ていた。しかもやたら似合っている。その菜由さんが仕事を離れているということは、今日はもう終わったのだろうか。なら、僕はどうして寝ているのか。ここは水族館には見えない。机とパイプイスが隅に寄せてあり、会議室か控え室のように見えた。そこに大きな青いふかふかのペンギンがいる。床は何となく見覚えのあるグレーのカーペット。
「如月くん、気分はどう?」
これも難しい質問だった。素直に本音を
「気持ちいいです」
迷う間もなく本音が出ていた。僕の口は、別の人格に支配されている。もう確定だ。
「ふふっ。なに言ってるの?」
菜由さんが目をパチクリしている。こんなアングルで可愛らしいまばたきを眺めていられて、僕は天罰を受けないだろうか。いや、もう受けた後なのかもしれない。そう考えると納得が行く。
僕は昔から欲張ると破滅するタイプだった。モテ期というのがあるという都市伝説を信じて止まないが、大学二年生のとき、確かに僕はとんでもない状態だった。わずか数ヶ月くらいの間に、先輩と、同級生と、後輩からアプローチを受けていた。調子に乗った言い方を許されるならば、僕は選ばれる民の立場でなく、選ぶ神の側になった心地だった。
後にも先にもモテ期と言えるのはこのときだけで、予想通り悪魔が囁いて、予想通り悪魔に裏切られた。よく出来た悪魔だ。僕はあわよくば試しに全員と付き合ってから本命を選びたいと思っていたら、すべて何もなく終わった。今から振り返れば、誰か一人とキスくらいしておけばよかったと思うが、三人とも付かず離れずの距離で吟味をしている間に、それぞれ別の彼氏を作ってしまって、僕は置いてけぼりを食ったのだ。そして、こんなことを菜由さんのひざまくらで回想している僕は、いっぺん奈落に落ちたほうがよいと思うほどの愚か者である。
「如月くん、ジャージ似合うね」
これは予想外の方向からの質問だった。というか、さっきから質問は全部菜由さんからだ。これはどうなっているんだ。ひざまくらで話しかけられる状況が、これほど心臓に悪いなんて。モテ期を闘い抜いた先人たちは、誰もこれを教えてくれなかった。
「ジャージは久し振りに着ました」
「スポーツやってたの?」
アクセルを踏まれると、僕はハンドルを横に切りたくなる。
「いや、大学は茶道部でした」
「えっ? お茶やってたの? 男の子なのに?」
男の子という響きが胸を打ち抜く。
「……すいません、嘘です」
「えー。ちょっと、何で嘘つくの?」
ダメだ、菜由さん、それ以上は惚れる惚れるほれるホレル。ひざまくらしてもらってるとき、心臓の鼓動って相手に伝わるんだろうか。いや、それは考えすぎか。中学生か。中学生でも考えないか。
ふう、と菜由さんはひとつ息をついた。僕は浅はかな思考を読まれたんじゃないかと思ってギクリとした。何しろ顔がこんなに近いのだ。菜由さんのついた息が僕のおでこに当たるのだ。
「ほんとは何なの?」
あれ――ちょっと怒ってる?
「テニスサークルです」
「あ、そうなんだ」
「いや、なんか普通だからちょっと言いにくくて……」
変な理由だった。実は、高校時代はたいして勉強にも力を入れず、かと言ってオシャレに気を使ったわけでもなく、結局彼女がいないまま終わったことを少し後悔した。そして、僕はもてたい一心でテニスサークルに入った。サークルは楽しかったが、後から考えると、就職活動の面接でも、こういう場面でもまったく話題がふくらまないものを選んでしまった、とは思う。
「ううん、そういうのは普通がいいよ」
だが、菜由さんは意外な答えをこぼした。
「蓮実さんは変わったサークルだったんですか?」
「ううん、わたしはサークルとか入ってないんだけど……」
「え、じゃあ、変なサークルってどんなのがあったんですか?」
返答がない。菜由さんは神妙な顔をして、ピタリと黙ってしまった。えっ、僕は何のスイッチを押したんだ?! ペンギンスーツ姿で黙られると、怒涛のように罪悪感が押し寄せてくる。今のはそんなに変な質問だっただろうか?
菜由さんは僕の腕に手を置いたまま、再び口を開いた。
「わたし、弟が一人いるの。年は如月くんの一個下なんだけどね」
初めて聞いた。そして唐突だった。
「そうなんですか」
「性格が全然違って、変わったことに何でもチャレンジするタイプなんだよね。バンジージャンプやったりとか、すごい岩壁を登ったりとか、自転車で日本一周とか、無人島で一ヶ月過ごしたりとか」
「それはすごいですね」
「そしたら、とうとう、ベトナムの地雷撤去のボランティアに行くって言い出したの」
それが大学のサークルだったのだろうか。それともNPO団体か。テレビで自分探しとかとたまに報道される若者たちのイメージが浮かぶ。
「地雷撤去ですか……」
「マンモス大学だから、そんな団体もたくさんあるんだよね」
菜由さんは寂しげな目をしている。こんな空気になるとは予想していなかった。
「下手したら死ぬじゃない」
「……危険ですね」
これは、まさかとんでもない方向に流れているのではないだろうか。僕はひざの上にいていいのか。
「弟は止めても聞かないから本当に行ったんだけど、一ヶ月足らずで帰国したの」
「大丈夫だったんですか?」
菜由さんは険しい表情を少しだけほぐした。
「結局、現地で地雷撤去はほとんどしなかったみたいなんだけど、病原菌をたくさんもらって帰ってきたの。まだずっと入院してる」
「……大変でしたね」
「……ほんとだよ」
やっぱり怒っている。しかも、たぶん僕に怒っている。いつまでもひざの上から降りないからか? それとも入院中の弟に向けられない怒りを、同じ年頃の僕にぶつけているのだろうか。菜由さんは思い詰めた顔で、僕の髪をゆっくりと撫でた。
「如月くんにひとこと言っていい?」
「はい」
「心配したって話!!」
青く平たい手で、思いきりポフッと頭を叩かれた。
要するに、単純な話だった。今日は土曜日。僕は、明日のイベントの打ち合わせで、菜由さんと会議室を借りていたのだ。実は、営業の先輩たちに、せっかく子供向けのイベントの応援に行くんだから、客寄せになるような派手なパフォーマンスでもやったら、と冗談混じりにリクエストされていた。僕は菜由さんにそのまま提案して、衣装をレンタルしましょうとか、ダンスの練習に付き合ってほしい、とお願いしたのだ。
で、僕はジャージ姿でバク転に挑んで、見事に回転が足らず、床にひざを打ち、さらによろけて壁に頭を打ったのだ。菜由さんが一部始終をそう話してくれた。気を失ったのはほんの一瞬らしいが、記憶は半日くらい消えていた。申し訳なくって頭をひざから降ろそうとすると、菜由さんは笑って、
「ふふっ。せっかくだから、もうちょっといていいよ」
と言ってくれた。
土曜日の会社はいつもと違って静かだった。僕は菜由さんの言葉に甘えて、大きなペンギンのひざまくらにずっとお世話になっていた。ただ、僕が失神した瞬間はきっと血の気が引いただろうなと思うと、本当に申し訳なかった。菜由さんは一回頭を叩いた後は、もう僕を責めなかった。そして、ひざの痛みも少しずつ鎮まってきていた。
「如月くん、アレやれコレやれって言われても、あんまり間に受けなくていいんだよ」
「はい、すいません……」
「何でもやるより、普通のことをきちんと、ね」
「はい、そうですよね……」
菜由さんの優しい声でゆっくり諭されると、胸がズキズキする。
「如月くん――気持ちいい?」
語尾が少し弾んで聞こえた。
「え……あ、はい」
「ふふっ」
また笑った。菜由さんは、痛いのが飛んでいく子供のおまじないみたいに、ペンギンの手で、僕の頭を静かに撫でてくれる。
「ひざまくらが好きなの?」
「え?」
「だって床に倒れたときに、わたしの足を触って、ずっと、ひざ、ひざ……て言ってたよ」
それはたぶんひざが痛いと訴えていたのだろうが、なぜ菜由さんはひざまくらという発想に転換をしてくれたのか。恥ずかしくて菜由さんの顔を見上げられない。
「ひざは……好きです」
「ふうん」
僕はこの優しさに包まれて死んでしまいたい。
「このサイズ、わたしに着せたかったの?」
「え?」
ネット注文でペンギンスーツをレンタルしたのは僕だ。そう言えばサイズはよく確かめなかった。
「如月くんが着てみたら足首が丸見えだったよね。ふふっ。ちょっともったいないから着たけど、わたし、こんなの初めてだよ?」
記憶が飛んでいるから思い出せない。たぶん僕が頭を下げて着てもらったんだろう。
「すいません、あの……嫌ですか?」
すると、菜由さんはひとつ呼吸を置いた。
「――如月くんは何を着るの?」
「え?」
「わたしだけはイヤ」
顔を見ると、楽しそうな目をしていた。
「ちょっと高いけど、夕方までに持ってきてくれるレンタル屋があるから、電話してあげる。イルカでいい? 嫌なら希望を言いなさい」
「あっ、はい、イルカでいいです!」
菜由さんはにっこり微笑んだ。
「じゃ、そろそろ降りて。お昼行こう? しびれてきちゃった」
「あっ、え? 揉んだほうがいいですか?」
「ふふっ。バカじゃないの?」
青く平たい手で、また思いきりポフッと頭を叩かれた。
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| (おわり)
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