かつて士農工商と言われた時代がある。だが、士がそう言ったときはすでに農は工商より高くはなかった。
河津耕造の住む地方の最高学府には法、農、工、商の学部がすべてあるが、農学部の偏差値はやはり低い。この冬、家計の苦しい父に懇願され、耕造はやむなく農学部を受験した。合格通知には奨学金給付の書状の他に生協カタログも入っていたが、耕造は古くて最も家賃の安い学生寮を選んだ。震度六が来れば倒壊するような木造建築の和式四畳半、家賃月二千円である。
生活費を極限まで抑えたのは、農学部に入るからには自らの水田を持たねばならないと考えたからだ。だが、寮の庭は共有地で開墾は無理だ。ではどうするか。入学式と入寮式を終え、一ヶ月普通の生活を送る間に、耕造は計画を固め、隣室の学生にとある相談を持ちかけた。それは、間にある襖を外し、二部屋の畳と床板をすべて剥がし、土を入れ、部屋を水田にする計画だ。屋根は開閉式に改造し、陽光を十分確保する。隣室の法学部生、
宇佐美三雄は素晴らしく、いや恐ろしく理解のある先輩だった。
宇佐は、誰もが羨む端整な容姿で、爽やかで厭味のない人柄で、なぜこのボロ屋に住んでいるか不明だったが、答えは簡単だった。多数のバイトを掛け持ちしており、睡眠は深夜の警備バイト時間に取っていて、寮は物置あるいは郵便受けという用途だけだったのだ。耕造は大層な嘆願書を差し出したのに、「うん、任せるよ。いい米作ってね」の一言で済んだ。翌日には彼の荷物はすべてどこかに消えていた。いい男は仕事も早いと舌を巻く。
その日のうちに、在学六年目の寮長を説得にかかったが、これも「ちゃんと米が採れるなら」という条件で許可が下り、他の寮生の部屋での寝食も許された。寮長は彼が勝手に名付けた『九畳田プロジェクト始動のお知らせ。十月に収穫祭を予定』というチラシを作り、寮生たちの郵便受けに差してくれた。部屋の前になぜか防虫剤やバケツといった寄付品がいくつも届いた。
耕造は奨学金を崩し、稲作の本を買い、工具と耕具と苗を買い、チェーンソーで床板や屋根を裁断し、リヤカーで土を運び、水田をこしらえた。余った金で合鴨も買おうか迷ったが、さすがに他の寮生に騒音をもたらすため、それは躊躇った。田植えが終わると、寮長が開墾式をすると号令し、神主の息子である友人を呼び、豊作祈願を無料でしてもらった。さらに木片と寮生を庭に集め焚き火を行い、安酒を飲み、校歌を唄いながら天に祈っ
た。宇佐もその日はバイトを休み一緒に騒ぎ祝ってくれた。
苗はすぐにあえなく腐った。
素人の浅知恵とは本当に呆気ないものだ。理論も実践も多分あれこれ間違っていたのだろう。鴨を飼わなかったからとは思わない。ただ、この程度で折れてはいけない。このままでは寮に羽虫が増えただけに終わってしまう。
「二期で当たるかどうかが真価だ。駄目だったら次は3Dで作ろう!」と寮長が激励してくれたので、耕造は早速苗を買い直した。さらに排水溝を作り、水捌けが良くなるようにした。だが、ここで資金が底を尽きた。実家からのわずかな仕送りも絶えた。備蓄食糧も消えた。
忙しい宇佐を何とかキャンパス内で捕まえてバイトの相談をすると、賄いつきのベトナム料理店を紹介してくれた。宇佐も半年前からそこでバイトしているという。料理も美味いし時給もすごく良い、と実に頼もしい店だ。
『ベストフォー』
もっとエスニックな店名かと想像していたら、高校球児の合言葉みたいな名前だった。繁華街にあるが、路地裏のひっそり隠れた場所にあり、店の看板も三回見落とすくらい小さかった。黒く分厚い木のドアを開けると、独特なスパイスや香草の臭いが漂っていて、驚くほど美人な女性が迎えてくれた。年は二十代半ばだろうか。面接に来たと話すと、これが店長の生野マキハルという人だった。
上品なブルーのアオザイに身を包み、スタイルは見事の一言で、まっすぐの綺麗な長い髪を中分けでサイドに下ろしている。そして驚くべきは時給が――千二百六十九円。二時間で家賃を超える。「フロッグの語呂なの。かわいいでしょ」とマキハルは微笑む。時給にかわいいという概念があるとは知らなかったが、宇佐の紹介ということで即採用になった。
厨房に通され、耕造は思わずたじろいだ。白いコック服の料理人が一人いたが、なぜか頭にすっぽりと黒い覆面をかぶっている。まるで黒子のようだ。「はじめまして、鳥羽です」と向こうから先に挨拶されたが、これまた驚くほど惚れ惚れする美声だった。覆面のことを聞くと、昔は劇団員をやっていたが、事故で顔を怪我して跡が残ってしまったと説明された。耕造は大学生だと言うと、専門を聞かれたので一瞬迷った。二期が腐ったら3
D農法に変わるかもしれない。
「新しい自宅農法の研究です」と答えた。
店にはあと一人バイトがいた。田仁志ミズホという女子中学生だ。いつも黒いニット帽をかぶった茶髪の生意気な少女。一応、店に出るときはちゃんとアオザイに着替える。マキハルの手作りだそうで、体にぴったり合っていてよく似合う。最初会ったときぼうっと眺めていたら、ものすごくきつい眼光で睨み返されたのだが。
ミズホは数ヶ月前、親に趣味を否定され、家出してこの店に転がりこんで来たらしく、それからずっと店に寝泊まりしている。休憩室はミズホが買った腐女子漫画だらけで、忙しい時間帯以外は休憩室にこもって出てこない。だが、宇佐が来るとすぐ顔を出し、くっついて離れない。マキハルはにこやかに二人を見守り、鳥羽は覆面で黙々と機敏に料理を作っていた。
二期の苗がひょろひょろ伸びてきて、バイトにも慣れてきた頃に、仕事終わり、珍しくマキハルに飲みに誘われた。誘いと言っても、閉店後マキハルが店でカクテルを作ってくれて、それを飲むのだった。鳥羽もつまみを作り終え、少し離れた席に腰かけて、覆面のままでビールを飲みはじめた。宇佐は次のバイトに行き、ミズホは風呂に入っている。
マキハルがアオザイ姿で横に座る。顔が近い。花やかな香水が鼻腔にふれる。
「河津くん、彼女はいないの?」
「研究一筋で……」
それは嘘ではない。自分の部屋は床がない。女性を呼べるはずがない。寮内はもう防虫どころでなく、九畳田で収穫できないと壮絶な天誅が下る気がする。
「顔もいまいちですし、お金もないし」
「そうね、宇佐くんはバランスいいけれど、河津くんて顔のパーツが中央に寄ってるね」
深い緑色のカクテルを出された。何を出すかはマキハルの気分なのだ。
「そうですね、若干コンプレックスです」
「ねぇ、美形になりたくない? これ、河津くんみたいな子の美容にちょっとした効果があるの」
そう言って鶏肉の刺身が出てきた。タレをつけて一口食べてみると、脳天がクラクラした。タレの味のせいではない。鶏肉のようで鶏肉ではなかった。
「これ、コノエガエルのお肉なの。実験内容を話すからちょっと地下に来て」
マキハルのやわらかい手に引かれ、ぼんやりする頭で、店の奥の知らない扉が開くのを見た。鳥羽は席から動かなかった。
エレベーターで地下室に下りると、そこには九畳田の百倍の広さがあろうかという巨大な沼が存在した。完全に圧倒された。コンクリートの天井に覆われた三角漏斗のような地下空間。その漏斗の頂点に人工の光源があり、微弱な光が沼全体を照らしている。濁った水面には無数の生き物が蠢いていて、特有の鳴き声をあげていた。
「コノエガエルの養殖研究場なのよ」
マキハルは目を輝かせて話し出す。彼女の父はベトナム人科学者で、母国が世界の覇権を握るために、トノサマガエルを改良して希少種オウサマガエルを開発し、さらに品種改良でコノエガエルを開発中だという。コノエガエルを食べた人間は体が幾分カエル化し、オウサマガエルを食べた人間の命令を何でも聞く効果がある、と言った。
「私は本国でオウサマガエルを食べたの。ねぇ、河津くん、全裸になって」
耕造は半裸になった。脱ぎたくなかったが、体が勝手に動いた。手を見ると水かきが大きくなっている。
「食べたばかりで、効き目はまだ半分てとこね」
でも河津くんにもメリットはあるのよ、と言ってマキハルは手鏡を出し、耕造の顔を映して見せた。中央に寄っていた顔のパーツが両端に少し引っ張られ、ちょうど良い位置になっている。美形になった。ただ、彼女の兵士になった。ジャンプすると予想以上に高く跳び上がった。
少し、心を落ち着かせる。
「あの……質問がいくつかあります」
声はゲコゲコ化せず普通のままだ。
「ん、順番にどうぞ」
「被験者は僕だけですか? 宇佐くんとかは……?」
「食べさせた第一号は鳥羽くん。第二号はきみ。鳥羽くんは初期だったから、顔がカエル化しすぎて、ちょっと悪いことしたな」
覆面の下を想像すると背筋が寒くなった。
「いつまで効果がありますか?」
「それを、実験中」
「――なぜベトナムはこんな生物の開発をしてるんです?」
「それ以外じゃ大国に勝てないもの」
耕造が急に黙りこむと、マキハルは耕造の手を取り、彼女の胸にあてた。すべすべした薄い布の下に温かい胸の弾力がある。お姉さんではあるが、並ぶと案外背が小さくて、それでも勝気な眼差しをしていた。
「私、今の顔好きよ。誰よりもずっとかっこいい」
頬をやさしく撫でられる。ゲコゲコの輪唱が静まった。
「私のために働いてくれる?」
そして――初めてのキスをした。
梅雨に入り、稲はそれなりに青々と育っている。雨雲が割れ、日が差したので、開閉式の屋根を押し上げる。跳躍力はなかなか便利だ。
――革命前夜までは普通に過ごしてね。
あの夜にマキハルが告げた言葉。農が士工商に勝つには、もうこれしかないのかもしれない。同士がどれほど増えるか分からないが、彼女の命令通り、普通に稲作を続けている。
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