いま誰かに言いたいことがあるとして、本当にそれを口に出して言っている割合は、およそ一割に満たない。頭の中で、もやもやと反芻しているのは考えと呼べるものではなく、言葉に置き換えない限り実体はないが、置き換えられる言葉も所詮限られている。同じアプローチの繰り返し。結論が出ないことの安心感。
そして、東京は珍しい雪の夜だった。
とにかく最初はかっこつけること。それから、かっこつけたのを少しだけ崩して弱さをみせること。見たことないもの、食べたことないものに誘い出すこと。飽きさせないこと。タイミングを見て呼び名を変えること。間を置いて少し考えさせること。時計を見させないこと。どれもこれも同じこと。そうやって真冬の夜は深まりながら、終電近くの電車が滑りこむホームには、うっすらと白い雪が降り積もる。
「どこへ行かれますか?」
駅員がそんなふうに尋ねてくるわけもない。怪訝に思って振り返る。すると、そこに鶏の頭をした男が立っていた。思いがけない寒さによってトサカはしおれ、クチバシから漏れる息も生白い。灰色のコートの下に黒いスーツを着ている。ネクタイも黒い。頭部だけが新雪のように真っ白く、すべすべと光っていた。
「あなたこそ」
「友人が鰐に丸飲みされましてね。これから通夜なんです。朝にはみんな持ち場に帰らないといけませんから、ほんと急な召集ですよ。こんな雪の夜にねぇ」
鶏男の声は少し音程が高く、中性的な印象を受けた。
後ろでは、酔っ払った中年男がベンチに座り込み、ひじを抱えて何やら泣いている。その後ろをカッカッカッと甲高いハイヒールの音が鳴り、長い髪の女が走っていく。その向こうでゴトンと鈍い音がし、自販機から出た缶コーヒーを熱くて下に落とす人の姿。
「君も行きませんか?」
「通夜に?」
「そうです。どうせ暇なんでしょ?」
黒いネクタイは、会社員の習性として一応カバンに入っていた。入っていたが、なぜ見ず知らずの――鶏の通夜に参列しなければならないのか。どうせ暇だろう、と言って友人の通夜に誘ってくる鶏がいるものか。だいたい鰐が
「鰐は」
「はい?」白いほほが少しピクンと動く。
「鰐は捕まったのか?」
「知りません。そんなものが恐くて友人の通夜なんかに足を運べますか。どうですか?」
どうですか……と聞かれて返答に詰まった。
「悪いけど、煙草を一本吸わせてくれるかな」
「構いませんが、何かさびしくなるようなことがありましたか?」
まったく余計なお世話だ。鶏頭に背を向け、少し離れた喫煙スペースまで歩いていき、ポケットから出した煙草を一本ふかした。小さな赤い色が流れる雪にささやかな抵抗を見せる。風がないのは幸いだが、時計を見ても時間は一向に進まない。どの針も死にそうに止まりかけて、小刻みに震えていた。他のホームには電車が何本も来ているが、いま電車を待っているホームだけまったく何も来ないのだ。
あの鶏男はいつから背後にいたんだろうか。振り向いてみれば、ベンチでうずくまっていたはずの中年男の姿は消え、鶏男ひとりだけがポツンと立って、こちらの様子を見ていた。
「私は女です」
そう言って突然、鶏男は赤いトサカを頭から外した。外したトサカをポケットにしまい、なおもこっちを見続ける。嘘だ。嘘つけ、ネクタイをしてるじゃないか。
煙草を半分ほどまで吸い、いつもならここで消すところだが、今夜はもう少し粘った。
「友人も女でした。まだ男も知らない女でした。けれども鰐に丸飲みにされました」
この距離感だから、こうも抜け抜けと関係ない告白を聞かなければならないのか。憐れみの言葉も出ないばかりか、向こうに戻る気すら失せてくる。もう一本吸うか。何も答えぬまま、最初の煙草を灰皿で揉み消す。指が凍えて吸殻が下に落ちてしまったが、それは拾わず足で踏み、二本目をくわえた。火をつける。
「――鰐が憎いか」
「いえ、男が憎いです。なぜあの子にもっと早く男を教えてあげるやつがいなかったかと、そればかりを恨みます」
火をつけ直す。
「……魅力がなかったのか」
「あの子が好きになったやつを、私がすべて奪ったからでしょう」
支離滅裂だった。しかし、こうまで言われると、鰐に丸飲みされた鶏の不幸に少しだけ同情の気持ちが湧いてきた。死ぬ間際、そいつは誰を憎んだのか。あるいは憎まなかったのか。潰した一本目の吸殻を一応拾って灰皿に入れ、二本目は少し吸っただけで揉み消した。焼香の匂いを思い浮かべると、もう今夜はこれ以上煙草は吸いたくない。少し風が出てきて、ホームの中に雪が舞うように流れこむ。
いずれにせよ、行き先を決めないと、この時計は再び動き出さないのだろう。何となく、それが分かった。
「わかった、通夜に行こう」
「そうですか。これであの子に少しは恩返しができます」
「……ただ、参列者は同類ばかりだろう。このまま行っても不自然はないか?」
「これをかぶってください」
雄の鶏の頭を渡された。中はくり抜かれ、皮だけが剥製のように固められている。立派なトサカが立っていて、これだけを見ると鮮やかな紅白のおめでたい縁起物にも見える。かぶってみると、獣の臭いはせず意外に清潔なものだった。視界は少し狭くなった。
クスクス、と目の前の鶏女が笑い、それが合図だったかのように、アナウンスもなく、待ちわびた電車がホームに滑りこんでくる。時計の針も緊張から解放されたようにまた動き出した。
車両には喪服に身を包んだ鶏たちが大勢乗っていた。誰ひとり鳴き声を立てず、静かに外の夜を眺めている。電車が走り出すと、誘ってきた鶏女はいつの間にか乗客に紛れ、もうどれがどれだか分からなくなってしまった。せめて下りる駅を教わっておくべきだったが、この鶏たちが下りる駅に従えばいいだろうか……。
次の駅でも、その次の駅でも、二三人ずつ鶏頭の男や女が乗ってくる。何となく鶏たちに混ざるのを避けてドアのそばに身を置いた。雪はまだ止むこともなく、外を眺めると、こんな夜中に火葬場の煙突から煙がもうもうと噴き出しているのが見えた。
妙なことに、煙突の根本には茶色いフィルターが巻かれていて、いつも吸っている煙草の銘柄と同じだった。東京の雪と思っていたものは、もしかすると冷えた灰だったのかもしれない。遠くで、半分ほど燃え尽きた煙突が吸殻となって地面に倒れていく影がぼんやりと分かった。
「そろそろかな」
乗客の誰かがつぶやく。思い出に、駅名でも確かめようと窓の外に目を凝らす。――畜生め。巨大な鰐が大きな口を開けて電車の先頭車両を飲み込んでいくのが見えた。
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