悲劇の豪華客船タイタニック号とはまったく別物の――冷海を今なお彷徨う沈没船タイダニック号の話。
公認会計士事務所から戻ったばかりの社長D氏の背中を、経理部資産管理課の課長が呼び止めた。
「社長、大切なお話が」
「ああ。私も君に聞きたい事があるんだ」
D氏は課長を社長室の並びにある応接ルーム3番に通した。ここは音が洩れず、秘書達の耳に入ることもない。D氏は浮かない表情でソファに浅く腰掛け、胸ポケットの中を探ったが、煙草を切らしているようだった。やがて最も若い秘書がコーヒーを2つ置いて、足音を立てずに部屋を辞した。
「タイダニックの謎について、ですが」
「おお、その話だよ」
「沈んだ場所が分からない――という定説は覆せるかもしれません」
「そうか。半年前スナックで話した戯言を、君は本当に調べてきたのか」
D氏は、仕事の速いこの課長に大きな信頼を寄せ、これまで重要なポストに置いて順調に育ててきた。
「ええ。調査経費が若干かかりましたが、これがその報告書です」
課長は真顔で答えながら、分厚い報告書類を封筒から丁寧に取り出した。課長の並ならぬ熱意の傾注が窺えるほど、書面には細かい文字や外国語や海図がびっしりと並んでいる。D氏はそれだけで目が痛くなりそうだった。
「それで?」
「タイダニックは氷山に衝突して沈没したという話ですが、大量の財宝を積んだまま、発見されたというニュースは一度もありません。そして、現在もなおアメリカやヨーロッパの研究者やそのパトロン達が毎年のように探索船を出していますが、いまだに正確な位置は誰も掴んでおりません。――このあたりは、御子息の副社長のほうがお詳しいかと思われますが」
「アレはな」
「ちなみに副社長は今年、ヴァスコ・ダ・ガマの航路をなぞり、南アフリカの喜望峰を回り、インドのカルカッタを目指すご予定と伺っております。いやァ、実にお羨ましい限りです」
「君……、会社に顔を出さない副社長の話などはいい」
D氏が気色を濁すと、課長は非礼を手短かに詫びた。
「で、私の仕入れた情報筋によると、どうも船が衝突した氷山が怪しいようなのです」
「氷山が?」
「ええ。実は、まったく別の目的で、北大西洋の海域を調査しているグループの探索船の探知機に、300メートル以上もの岩のような影が写ったそうです。それが彼らの説では、ヤドカリの形状に似ていると報告されています」
「ヤドカリが、300メートルも?」
「もちろん、あくまでそのグループが鑑定を依頼したオランダの生物学者の推測ですが。しかし、もし実在すれば、まだ誰も手を着けていない大収穫になるかもしれません」
報告書にある英語に似た見慣れない外国語はオランダ語のようだった。D氏は用意周到な調査報告を目の前にし、腕を組み低くうなった。
そして、課長は機を得たりと、いよいよ饒舌を極める。
「つまり、その巨大なヤドカリが背負っている石灰質の物体に、沈んだ船体が折れて挟まっている可能性があるのです。しかしその物体から船体を引き離すと言って、日本の商社がまさか魚雷を撃つわけにもいきません。それに、タイダニックの船体を爆破してしまう危険性もあります。そこで、私に妙案が――」
課長はここで言葉を切り、一旦D氏の顔色を窺った。
D氏の口許に笑みが浮かぶ。
「うむ、まあ最後まで聞こうじゃないか」
すると課長は、D氏に輪をかけて自信のこもった笑みで応えた。
「社長はヤドカリの習性をご存知でしょうか?」
「いいや」
「ヤドカリは一生涯同じ殻で過ごすわけではありません300メートルものヤドカリともなれば、住み替えられる家を探すのは極めて困難でしょう。ご覧ください。北大西洋の海域でヤドカリは相当な距離を動き回っていると思われます」
課長はすかさず海図のページをめくり、タイダニックの船影の目撃例があるポイントの範囲を指でなぞった。D氏は目を細め、それを興味深く見つめる。
「そこで、私が業者に特注して350メートルに及ぶ石灰質の器を作らせました。これを大型貨物船で北大西洋に運び、そこで組み立てて海に沈めます。それから専用の探索船を向こうの港から定期的に出し、ヤドカリが住み替えるのを待ちます」
「だが、そう思い通り行くかな。相手は生き物なんだろ?」
「それは天のみ知る――かもしれません。ですが、もしこの試みが成功すれば、我々は安全で確実に、無傷のままタイダニックのすべてを入手することができます。この財産価値は計り知れません」
そして課長は、自ら報告書を閉じて居住まいを正した。
「先んずれば制す、という言葉を信じ、船やクルーや器の準備はすでに整えております。わたくしの独断行動を是非ともご承認ください。半年のお時間を戴ければ、必ずやご期待に添える結果を持ち帰ります」
D氏は胸を張り、社長らしい毅然とした声調で一言尋ねる。
「で、いくらかかった」
はいと神妙に頷いて、課長は報告書をD氏の手許に差し出した。
「トータルで5億です。内訳はこの報告書の中にございます」
「5億か――」
「しかし、タイダニックの資産価値と比べれば……」
「ここにだね」とD氏は切り返して、課長の言葉を遮った。D氏はコーヒーカップを横にずらし、別の重たげな封筒をテーブルに置いた。公認会計士事務所の名が印字で入った封筒である。
「君のと同じくらい分厚い報告書がある。実は、ある社員の『裏切り』が発覚して、つい先日その調査結果が上がって来た。それを君に伝えておこうと思って呼んだんだ」
「えっ、それは誰ですか?」
D氏はライターに火を付けた。課長が咄嗟に自分の胸元からライターを差し出そうとしたが、D氏はそれを制した。
「私は、たかが社員一人の気ままな周航と自宅の住み替えに5億も払うつもりはない。船乗りの夢は自宅に幾つもあるボトルシップだけにすることだ。君には信頼を置いていただけに、この結果は私にとって非常に――残念だ」
「まさか……」
「この書類はこの場で焼いてしまいたいくらいだが、一応もらっておく。証拠を挙げる手間が幾らか省けた。法廷では覚悟しておきたまえ」
D氏は苦いコーヒーを口に運ぶ。
「しかし、これで君の住み替えの願いはおそらく叶うだろう。もちろん、住み心地はまったく期待できないが――」
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