 
|
| 日本語を織りつむぐ幻燈の祠 |

|
| 「夜叉蟹闘漁伝」 |
日本の地中海とも呼ばれる瀬戸内海に、平良呉島という大きな島がある。古来より美濃氏が治めるその島に五千あまりの民が暮らし、漁を生業にしている。その平良呉島がこのところ恐ろしい噂で持ち切りだった。
港に近い入江に身の丈六尺もの大蟹が出没し、人馬を喰らう被害が続いているという。
元来、平良呉島には蟹を船の守り神と崇め殺生しない習わしがある。ところが、どうやら本土から流れ着いた落人が島の社を棲み家にして、供物をくすねるだけでは足らず、夜な夜な浜辺で小蟹を獲っていたらしい。その恨みか知れず、恩も義もなく大蟹が突如襲ってくるとは島民もさぞ肝を潰したことだろう。当の落人は姿が見えぬ由、大蟹に喰われたろうというのが専らの話だ。
命からがら逃げ延びた者の話では、大蟹は夕闇に紛れて海から這い上がり、赤錆色の甲羅を背負い、小舟ほどもある二足の鋏を袖の如く軽々と振り回すのだという。人を喰らう由縁から「夜叉蟹」の名で恐れられるようになった。
この如何にも由々しき風聞は、たちまち領主、美濃多右衛門の耳に届いた。すぐさま家来を遣わしたが、幾ら待てども戻らない。好物の魚介が食えぬ苛立ちも募り、終いに業を煮やして領主は金切り声を上げた。
「大蟹の首を獲った者に報奨金をつかわすぞ!」
横から家臣が進言する。
「お館様、畏れながら蟹には首がございませぬ」
そうして、お触書きが島の村々に貼り出された。
『夜叉蟹の鋏を落としたる者に、報奨金を与う』
立ち処に、腕の利く猛者どもが、島下を問わず近隣諸国からも、わらわらと集った。けれど一向に夜叉蟹の鋏が美濃の屋敷に届かない。一体どれほどの者が餌食になったか、はたまた逃げ帰ったか判らぬが、とにかく村々の診療所は怪我人で溢れかえった。
夜叉蟹は何も動かずとも向こうから獲物がやって来るので、すっかりそこに居着いてしまい、益々大きくなっている。島民は漁はおろか外にも出られず、すっかり弱り果て、僅かに蓄えた干物などを齧って飢えを凌ぐより他なかった。
夜叉蟹退治の報奨金は度々吊上がったが、朗報は何一つ上がらない。そのうちに、海亀の甲羅で模造した赤錆色の蟹鋏を偽って持ち込む不徳の輩まで出る始末になり、多右衛門は堪らず本土へ家来を遣わした。そうして霊験あらたかな神主を招聘し、家来を率いて浜辺へ向かった。
夜叉蟹は最早白昼からふてぶてしく浜辺に上がり腹を寝かせていた。高名の神主は「いざ参らん」と衆生の前に立ち、古事伝来の印を結びて経文を唱え、遂に丸木の如き大蛇を呼び寄せた。大蛇は夜叉蟹に劣らぬ体?にて猛々しく牙を剥いたが、蟹の鋏がいっ時早くその首を捕え、たちまち三つに切り裂いてしまった。高名の神主は小蟹の如く泡を吹き、その場に崩れ失念したという顛末だ。
夜叉蟹の噂は海を渡って本土に伝わり、やがて京の都にも広まった。
都では口々に島民の不幸を悼んだ。やれ海に潜む悪鬼が蟹となって現れたとか、海で命を落とした漁民の怨念が島民を冷たい海の底へ牽くのだとか、人の口ほどあまたの憶測が巷間で飛び交った。さらに美濃氏の出したお触書の話が続いたので、愈々真の夜叉が出たと色めき立った。
これは、洛東の、賀茂川の端に軒を構える釣堀屋「からふね亭」にも洩れずに聞こえてきた。主人の伊曾吉に話を持ち込んだのは魚屋の小僧である。お遣いに来ておきながら小一時間も糸を垂らしていく腑抜けた小童だ。しかし、その日は妙に気が沈んでいた。
「どっかで勘定でも違うたか」と伊曾吉が訊くと、小僧は被りを振って返した。
「親爺、瀬戸内の島にえらいもんが出よった。小足八足、大足二足、色紅にして両眼天に輝く日月の如し。寝れば畳十枚に及ぶんやて」
「そら、全部で何人おんねん」
「大蟹一匹や」
「蟹か。そしたら、うちは遠慮しとくさかい、堪忍な。あれは糸を切るし、釣堀には何の役にも立たへん。そんでまた食うのも面倒でかなんわい」
「阿呆やな親爺、十畳の蟹のどこが売りもんや。何でも人が喰われてるとか」
「蟹にか。そら、けったいな」
「俺の家、その島でな、このところ何の便りもあらへん。もう……みんな蟹の腹ん中かな」
「ほんまに。そら、大ごとや」
「親爺、これはほんまの夜叉やで」と、小僧は五十も離れた伊曾吉を睨み付ける。
「童、家が心配か」
「帰るゆうても、銭もないし、暇もないし」
夕暮れ――すっかり萎れた小僧が帰った後、他の客にも聞いてみると、誰も彼もがこの恐ろしい噂を耳に入れていた。
その晩、伊曾吉は家の二階に上がり、二人の男を尋ねた。二階には漁師の兄弟が居候している。本人たちは兄弟と云っているが、顔形は全く別物で、血が繋がっているかどうかも怪しい。
兄の名は真梶木。竿釣りの名人で、針を投げる狙いどころは一級品。長躯の天辺に鰹節のような浅黒い面長の顔がちょんと載っている。
一方、弟は女梶木、こちらは投網の名人。小さい体に強靭な腰を持ち、根競べなら魚の群れに負けない。重箱のような角張った顔に、鼠の如き小さな黒目が付いている。
梶木兄弟は元々明石に生まれた、流れの漁師である。畿内を中心に諸国を行脚し、行く先々で釣った魚を市場の前に堂々と広げて売り捌くもので、漁場荒らしとしてかなり悪名高い。このところ顔が知られて表を歩き難くなり、飲み屋で席が隣り合った縁で釣堀屋「からふね亭」の二階に住みつくようになった。
もう三月も経つだろうか。二人は釣堀屋を手伝う気など毛頭なく、ただ店に持ち込まれる客の竿や網を修繕して小銭を稼いでいる。時折、近場の川や湖に出掛けては魚を釣り、魚屋に卸してそこそこ金を手にするが、いつもその日のうちにきれいさっぱり飲み干してしまう有様だ。
伊曾吉は安い芋焼酎を抱えながら、瀬戸内の夜叉蟹の話を二人の前に広げてみた。
「なんぞ、平家の呪いか。そういや、むかし門司に渡る時、漁場の連中から胡散臭い話を聞いたなあ。坊主の耳をちょん切る蟹やったっけ」
真梶木は大きな肩を揺すって笑う。
「阿呆抜かせ。琵琶法師の謡曲に身の丈六尺の蟹なんぞ出えへん」
自分の網を丹念に繕いながら、女梶木は軽く鼻先であしらう。今日頼まれた客の網は尻の後ろにうず高く積んだままだ。
伊曾吉は二人の椀に並々と焼酎を注ぐ。
「夜叉蟹を退治できるかい、あんたら」
兄弟は訝しげに首を傾げる。伊曾吉は額に汚ない皺を寄せて云った。
「船は儂が用意する」
それから、島の領主が出した報奨金が今や夜叉蟹の体よりも膨れ上がっている話を二人に投げ掛けた。真梶木は下卑た笑みを浮かべ、焼酎を腹の底まで一気に流し込む。
「本気か、爺さん」
「報奨金は三分する。ほんで、儂の取り分は、おぬし等の向こう三年分の家賃で、どうや」
すかさず女梶木が噛み付いてくる。
「おい、家賃なんぞ最初っから貰うと云うとらんかったで、親爺。あんたもええ歳やろ。三途の川に渡航の銭は要らんよ」
「金でのうて。ただ、ちぃと銭を用立てしてやりたい者がおってな」
伊曾吉は魚屋の小僧の名は伏せた。梶木兄弟は、親子の縁や義理人情の話を煙たがる。幼少の時分、二人が親に捨てられ流浪したあたりに拠ると伊曾吉は察している。
「ふん。そら、船を出す出さんは爺さんの勝手や」と真梶木は無下に返す。が、酒気に染まった面は柔和だ。
「俺等は金だ」
兄に続いて、女梶木も焼酎を旨そうに飲み干した。「家賃の話やけど、向こう三年この家に居るとは誰も云うてへん。俺等がここを出てく時は、きっちり返してもらうで」
「ええ、かまへん」
「ほな、手ぇ貸そか」
真梶木は赤ら顔で、伊曾吉の鼻先に空の椀を差し出した。
それから日を置かず、伊曾吉はさっさと旅支度を済ませ、店を家内に任せた。そして旅立ちの朝、伊曾吉はお天道様より早く目醒めた。梶木兄弟は日を間違えていたのか、琵琶湖へ釣りに出掛けようとする処を慌てて捕え、摂津の港に向けて一路急いだ。
家を発つ前、女梶木は伊曾吉に大きな甕を二つ貸してくれと云ってきた。用途を尋ねると、女梶木は口を尖らせ面倒臭げに返した。
「一つは酒、一つは水」
「何するんや、それで」
「酒は船で呑む。水は蟹退治の他にあるか。あんたも釣師の端くれやろ」
端くれだが、伊曾吉は生涯で鯵より大きな魚を釣った事がない。伊曾吉は云われる通り、二つの甕を用立てた。
一行は港の宿場で夜明を待った。梶木兄弟は市場に寄り、生きた河豚を十匹も買ってきた。二人は、肉は捌いて鍋に放り込み、皮や肝は捨てずに袋に詰めた。「前祝いや」と二人は早くも報奨金を貰う気でおり、伊曾吉は呆れながらも夜更けまで酒盛りに付き合った。
あくる朝、威勢のいい船頭と共に瀬戸内の海に船を繰り出した。胸の透くような晴天である。この風光明媚な内海に人喰いの大蟹が出るとは夢にも思わぬ。だが、夜叉蟹の狂聞は港の其処彼処でも盛んに飛び交っていた。
波は穏やかながら、海の船に慣れぬ伊曾吉は、猫の昼寝より酷いくらい愚駄愚駄に酔い潰れた。梶木兄弟は揺れの少ない場所を知るようだが、伊曾吉は薄れる意識の中で舳先に必死にしがみつき、胃袋まで吐き出しそうな思いで始終呻いていた。
やがて潮の流れが変わり、雲は高みを泳ぎ、透き渡る群青の空の下に、茶碗を逆さにしたような鳶色の島影が現れた。船頭は得意気に鼻頭をこすり、上々な調子で「平良呉島が見えたぁ」と声を張り上げた。
島に臨み、伊曾吉は阿鼻叫喚の地獄絵を浮かべ、念入りに数珠を揉む。横には梶木兄弟が並び立ち、迫る島影を飄々と眺めている。足元には酒を入れた甕が空になって転がっていた。
船は夜叉蟹が出るという港から少し離れた岬の裏に泊めた。まず船頭が桟橋へ飛び移り、縄を括りつけて船を固定した。伊曾吉は、釣り上げられた鮟鱇のように無惨な格好で真梶木の肩に担がれ、平良呉島の地面を踏んだ。
一行は船頭を道案内に立て、夜叉蟹の出る浜辺を真っ直ぐ目指した。道すがら、真梶木は肩慣らしに磯釣りがしたい、女梶木は木陰で昼寝がしたい、と口々に勝手なことを云い張ったが、伊曾吉は耳を貸さず先を急いだ。
岬から浜辺までは遠くない。弓なりに下る松林が途切れると、黒い砂浜が広がっている。一行は途中立札に出くわした。どちらも新しく、潮風にあまり晒されていない。
『この先、大蟹出ず。無用に立入るなかれ』
『夜叉蟹の鋏を落としたる者に、報奨金を与う』
道で行き交う人影も疎らだったが、立札の向こうは輪を掛けて人の気配がない。
「みんな、とっとことっとこ喰われたか」
真梶木が不謹慎な軽口を叩く。しかし立札は、ここが命の別れ道、弱き者は去れ、剛き者は往け、と無言で一行に迫る。
船頭はこの場所で案内を終え、船に戻って行った。
立札を過ぎると、梶木兄弟は愈々鹿爪らしい面持ちに変わり、銘々の道具を胸元に構えた。伊曾吉はふと在らぬ余念がよぎる。真梶木の竿は確かに正確だ。女梶木の網は確かに丈夫だ。されど相手は二足の大鋏を自在に振るう化け物。糸など造作もなく切り破かれてしまわないか。
伊曾吉が二人の背中に問うと、真梶木が肩を躍らせ高笑いする。
「でっかかろうと、所詮は蟹やで。横にしか歩けんわ」
「秘策があるんか」
訊くと梶木兄弟は顔を見合わせた。女梶木が渋面に薄笑みを浮かべて返す。
「親爺、勝負は直感や。早くに仕掛けたほうが勝つ」
松の葉が騒ぎ、生温い潮風が鼻腔を衝く。血の匂いが雑じっている。
「親爺、ここで待っとけ」
赤錆色の甲羅。
十畳どころか、岩ほどもある。
ぎろり、と白濁の目ん玉が――立った。
眼下の怪異。
真梶木は三歩踏み込み、思い切り竿を振るった。ぴいいっ、と針が鋭く空を切る。しかし夜叉蟹は蝿でも払うかの如く鋏で針先を捕えた。先手必勝は易々と通らない。ぷつっと切られた糸の先が黒い砂上に落ちる。
夜叉蟹の小足が襲撃に反応し幾足か動いたが、射程に姿がないとあって出足はない。白濁の目ん玉だけが忙しく動いている。
「かっ、糞っ垂れめ、ええ針使ぉてるのに」
真梶木は唾を吐き捨て口をへの字に曲げながら、切れた糸を素早く手繰り寄せた。糸の先にもう一度針を括り付ける。
伊曾吉は後方で息を詰めて見守る他ない。真梶木は再び愚直に竿を投げるのか。しかし蟹の鋏は想像以上に速い。先に仕掛けても追い抜かれては勝機を失う。女梶木は――まだ動かない。
おおお、と真梶木が声を上げた。夜叉蟹の小足が再び反応する。
「女梶木、もう一遍右の鋏から行くで!」
「よし、頼むわ」
云うが早いか女梶木は駆け出し、黒い砂浜を滑り降りていく。腰に重い水甕を据え付けたままだ。伊曾吉は眉根を寄せた。死にに行く気か――。案の定、夜叉蟹は近付いてきた人間に向かって警戒心を高めた。
その折、真梶木は同じ位置から二度目の竿を振るった。鉄の針が白銀の流線を描いて滑空する。宙を突ん裂く気配を察知し、右の大鋏が針を掴んだ。その脇に女梶木がすばしっこく回り込んでいる。そして鋏の閉じた刹那を逃さず網を投げた。
女梶木の網は切り揉むように絡み付き、夜叉蟹の右鋏を封じ込めた。夜叉蟹は右鋏を烈しく振って足掻いたが、網には無数の小針が仕込まれている。動くほどに殻に食い込む。鋏など開閉しなければ只の鉄塊も同然だ。
しかし――大鋏はもう一足残っている。
左の鋏で網を切ろうと、夜叉蟹は煩わしい網を持ち主ごと引っ張った。女梶木は真っ赤な面で堪えながら、夜叉蟹の背後に回り込むように走る。力比べをしたら負けると知り、力の向きを横へと流す。
夜叉蟹は機敏に一方の小足を走らせ、態勢を保ったまま女梶木を追う。女梶木は網を強く牽いて、黒く重たい砂に足を掬われそうになるのを器用な健脚で乗り切っている。だが何時まで持つものか。まだ一押しも二押しも足りない。
「左、行くで!」
高見から弟に号令し、おおおっ、と竿を振りかぶる。真梶木は切られた糸を何時の間にか手に戻し、三度目の渾身の投げ込みを放った。今度は真っ直ぐでなく、天を掠めるように高く舞い上がる。竿先を振り下ろすと、息を合わせるように針が急転直下で夜叉蟹の脳天に迫る。先端には分銅が付いている。まさか――その程度で夜叉蟹の殻が割れるはずもあるまい。
空いている左の鋏が天を向いて開いた。
「待ったら来るほど、あまい針と思ったか!」
真梶木は咆哮し、まるで人を斬るか如く渾身の形相で斜めに竿を裁き、分銅の落下する軌道を変えた。針先は左の鋏の横を摺り抜け、その根元の関節に巻き付く。分銅の重しが幾回転にも働き関節にきつく絡まった。
夜叉蟹は両の大鋏を糸に絡め捕られ、
口から憤怒の白泡を噴き上げる。
――もう一押し。
小止みなく真梶木は松林に向かって走り出し、合わせるように女梶木も再び足を動かした。蟹の体を軸にして二人の漁師が旋回する。両の大鋏は常に反対を向いている。鋏で糸を切れぬばかりか、前に進めぬ蟹は円舞の軸から抜け出せない。
だがしかし、糸で幾ら縛れども本体を倒せはしないのではないか。
「仕上げ、行くで!」
真梶木は太い頑丈な松のそばに辿り着くと、足を止め、持っている竿を枝の間に挟んだ。夜叉蟹と松の大木の間を釣り糸が結ぶ。夜叉蟹はしつこく鋏を引っ張るが、竿はびくともしない。真梶木は竿から手を離し、蟹を見下ろしながら高笑いした。
「ええかっ、化け蟹! この竿は、漁の護神、潮御崎の少彦名命(すくなびこなのみこと)の御神木――御綱柏の木より切り出した。腑抜けた蟹如きが折れる代物と思うな!」
御託は蟹に届くまい。耳があるかも怪しい。
真梶木は景気付けに足をはたく。そして何と云う事か、その場に草鞋を脱ぎ捨て、ぴぃんと張られた糸の上を、夜叉蟹に向かって真っしぐらに走り出した。長躯に似合わぬ軽妙な足使いに伊曾吉は目を剥いた。
そして真梶木は腰に差した匕首(あいくち)を抜く。黒々と光る刃先。
真梶木は、おおおっと声を張り上げ、眼前の大鋏を飛び越えた。その先の、夜叉蟹の肩に着地し、泡を吹く口を目指す。甲羅の棘で足の裏が痛むのか、苦渋の面相を浮かべ噛み締めている。
一方、砂上で踏ん張る女梶木は腰に下げた水甕を手に持ち、空に投げた。
「真梶木、水や!」
暗褐色の水甕が宙を舞う。真梶木は手を伸ばし受け取ると、匕首の柄で蓋を破った。
「ほれ、飲み!」
たっぷりと水の入った甕を引っくり返し、そのまま夜叉蟹の口にぶち込んだ。
真水が口から濁々と流れ込み、
大鋏も小足も動きが鈍り、力が弱まった。糸が緩む。
真水はきつかろう。体内の塩分が外へ染み出る。蟹には鰓がない。
「ほら、口直しやで。こいつで大人しく寝とれ!」
真梶木は、真水を吸って腫れ上がった蟹の口に匕首の黒い刃を突き立てた。刃には河豚の毒がたっぷり塗り付けられている。河豚の毒で蟹は死なぬが、痺れさせ、両の鋏を切り落とす時間を得るには十分だった。
真梶木は、ぽかんと開いた蟹の口を見下ろして云う。
「蟹が小蟹の時が一番美味い。流石になぁ、喰い過ぎやで、この阿呆垂れめ」
その横で、女梶木は浜辺から伊曾吉を呼んだ。
「親爺。そこに置いといた斧、持って来てくれへんかな」
その夜、小舟ほどの紅い大鋏二足が美濃家の屋敷に持ち込まれた。領主は大層喜び、夜叉蟹成敗の報せを島中に伝えさせ、さらに一族郎党や近隣の民を呼び集め盛大な宴を催した。
梶木兄弟と伊曾吉は宴の先に領主より報奨金を授かった。領主は酒の盃を三人に振る舞いながら、夜叉蟹を仕留めた御綱柏の釣り竿を物珍しげに手に取り、これはさぞ旨い魚が掛かろうぞと竿を振る真似を繰り返し歓喜に入った。
「して、蟹の奴めは、何ゆえ真水で弱った」
領主が問うと、家臣の一人が梶木兄弟の取った戦法を主人に説いた。海水に棲む生き物は真水に浸すと、肉が腫れ上がり、終いに破裂するのだと云う。領主は終始頷いて、挙句大きく手を打った。
「いや、流石は本土の漁師。川のないこの島に居ては考えもつかぬわい」
そう云い、釣り竿を真梶木の手に戻させた。
さて、宴の支度が整ったということで、領主に勧められて奥の広間に通されると、美濃家の面々が列する真ん中に赤々と茹で上がった夜叉蟹の鋏が濛々と湯気を立て筵の上に置かれていた。
「怪力の蟹の肉だ。食す機会はそうそうあるまい」と臆面もなく領主は云う。
しかし、是はあまたの島の民を喰らった蟹の肉だ。喰われたものは仕方なし、是を喰い返さんとは、一体どういう了見か。伊曾吉は流石に面喰らったが、絹のような真白い蟹の身を見ると、安堵の空腹感が頭を揺らし、知らず知らず箸を伸ばしかけていた。すると女梶木は伊曾吉の手を掴み、ぐいと引き戻した。
「親爺、止せ。帰るで」
伊曾吉は残る生涯で二度と見られぬであろう大蟹の味に未練はあったが、梶木兄弟が頑なに宴を辞したので止む無く従った。領主は主役の早退に首を傾げるものの、蟹の分け前が増えるとあってかあっさり承諾し、従者を付けて三人を宿まで送らせた。
明くる朝、美濃の屋敷には寄らず、一行は岬の裏に待たせた船に乗り込んだ。美濃の屋敷から誰も見送りには来ない。成敗したら余情なしかと伊曾吉はさもしい気分で船の舳先に寝そべった。
何にせよ瀬戸内は来た日と同じ見事な晴天である。船は穏やかなる内海に快調に滑り出した。
船頭は、船の尾が指す鳶色の島影を見遣りながら云う。
「今朝方、美濃のお屋敷で大変な騒ぎがありまして」
「騒ぎとは」伊曾吉は眠たげに身を起こす。宴会は昨晩のはず。
「家人、客人、みな当たったそうで。医者も手が足りず、てんてこ舞いです。使用人の話だと化け物の肉を喰った祟りとか。死しても尚恨み深い。蟹の怪は恐ろしいですな」
「ああ」
夜叉蟹の身に河豚の毒が染みていようとはよもや誰も考えまい。すると、横で聞いていた真梶木が唐突に高笑いをした。
「はっ、まったくあの間抜けどもが。爺さん、魚屋の小僧にいい土産話が出来たなぁ」
伊曾吉は目を丸くした。小僧の名を出した憶えがない。相槌に窮すると、真梶木は伊曾吉の頭の上にどかっと腰を下ろして、照る日を背に負いながら声高に続けた。
「爺さんから話をもらう前に、あそこの魚屋の主人から化け蟹のせいで仕入れが滞って困る、退治してくれと云われてな。店の丁稚の小僧からも、島に親がおるんや、と涙ながらに嘆願された」
「はあ、二重の儲けか」伊曾吉は呆れた。が、ともあれ二人のお蔭で人喰い蟹は人々の胃袋に消えた。
女梶木は甕の酒を柄杓で掬い、旨そうに口に運ぶ。
「ほんまに、蟹様々や」
鼠のような目がすっかり赤い。空になった二つの甕に、美濃の屋敷でたっぷり酒を詰めて貰ったのだ。
「ところで、お前さん、よくもあの鋏を飛び越えたな。大した度胸だ」
伊曾吉が想い起こして鼻を鳴らすと、真梶木は訝しげに目を細める。
「爺さん、頭ん中ほんまにスカスカやな。あんなもん猿でも飛べるで」
「猿でも……」伊曾吉は眉根を顰める。
「力で効かん大物相手や、針にも全部毒を仕込むに決まっとるやろ。関節に食い込んだ投針で奴の鋏はもう痺れとってん。いくら跨いでも鋏は絞まらん。度胸も糞も、誰が死ぬような真似をするか」
真梶木は大きな肩を揺すって笑った。
「親爺、早くに仕掛けたほうが勝つんやで」
女梶木は涼しげに鼻を鳴らす。そして、朝から船の横に垂らしていた網を一気に引き上げると、飛魚やら鰯やらが面白いように入っていた。
「さて、昼飯にしよか。親爺、そこに置いてある包丁持って来てくれへんかな」
|
| (おわり)
|

お読みくださいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ作品の感想をお寄せください。お好みのほうからぜひ。
掲示板にコメント
|
|
<<< 戻る
Copyright (C) 2003-2005 sleepdog. All Rights Reserved.
Photo by (c)Tomoyuki.U
|