| 「青い柘榴(ざくろ)」 |
超高速で回転する棒があった。真っ白い床の中心に、胸ほどの高さのそれが一本立っている。
狭い部屋だった。名前を呼ばれて入室したはずなのに、室内には誰の姿もない。ただ一本の棒が凄まじい速度で回転しているだけだ。網戸に閉じ込められたアブが唸るような音が絶え間なく響いている。しかし、その光景は孤独というよりもむしろ、この真っ白い部屋と異相なく調和し、屹立した誇らしさすら感じられた。
手に持っていた青々しい柘榴の実をその棒に触れさせると、一瞬にして木っ端微塵に打ち砕かれた。咄嗟に両手で破片を防いだが、口に一粒飛び込んだ。青い実の理不尽な酸っぱさが舌の端に淡くにじむ。
それにしても、柘榴が原型を留めないほどの破壊力を持っているとは。慌てて棒に対し適度な間合いを置く。一人きりの室内で誰も背中を押すわけがないのに、警戒心が体の芯を這い上がった。
浅い呼吸をひとつ、ふたつと置く。
私があと持っているのは日記帳だけだった。柘榴と日記帳で何をしようとしていたのか自分でも解らないが、まさか指を犠牲に差し出すわけにもいかず、今度は日記帳を棒に当ててみた。中綴じはたちまち破れ、突風に煽られたようにページは舞い上がり、すべてが白紙と化した。
棒の周りに、日記帳から飛び出た文字が数え切れないほど散らばっている。いくつか拾い上げようとすると、「る」の多さが目に付いた。小さな驚きがあった。
しかしながら、一時の思いつきによって、長い間ずっと書き続けてきた日記帳が粉砕されてしまうと、元々自分が何を書き綴っていたかが急に恋しくなるものだ。つなぎ合せようにも撹拌されていて全然うまくいかない。ぱっと思い付いた「コンビニ」という言葉ひとつを作り上げるにも、十分以上かかった。そして完成品を眺めてみると、時間をかけた割に、あまりにも意味がない語句だった。
それに、当然この字の中には元々「コンビニ」の一部ではなかった文字も混ざっているだろう。いや、すべて違うということもある。あるいは「ニ」に、実は漢数字の二を間違って入れている可能性だってある。いずれにせよ、元の姿はもう解らないのだ。
手元に並んだこの四つの字は、すべて自分の手書きながら、筆圧や大きさが微妙に違っていた。それは書いた時の感情の違いなのだろう。それぞれに宿っていた想いが離散してしまったと悔やみ、口の中に青い柘榴の酸っぱさが戻ってきた。
柘榴は砕かれても柘榴の一部に変わりない。破片をすべて集めて口に含めば一個食べたことと同じだ。けれども、日記帳に綴ってきた想い出は掻き集めても二度と復元できない。しばらくの間、一人きりで闇雲に沈黙を吸い込んだ。
棒は、超高速で――なおも回転を続けている。
床にまき散らされた字を見ていると、「羹」という字が目に留まった。自分では書けない字だ。何と読むのかも解らない。一番に思い浮かんだのは霧島先生だった。ああ、きっと先生だ。おそらく先生からの葉書きを日記帳に挟んでいたのだ。見れば、機械で印刷された縦長の□もある。郵便番号を書くマスに違いない。
霧島先生のおっとりした笑顔を想い出すうちに、「羹」の字が「芋羊羹」の一部であったと解った。先生がいつも贔屓にしているお店の芋羊羹を毎年決まった時期に贈ってくれるのだ。ほのかな甘みが心を過ぎる。だが、たちまち慙愧の念がそれを追いかけ、油のようにべったりと覆った。虚しさのこだます内耳の奥深くへと、棒の回転音が押し入ってくる。
必死の思いで「霧島」の字を作ったが、いざ手に取った二つの字は、まるきり性質が異なっていた。いや、これは感情の差などでなく、そもそも人格が違うのだ。「霧」は先生の字で、「島」は自分の字だ。それはまさしく、先生からの便りを散逸させてしまった事実を自分で取り繕ったかのようで、いっそう強い悲しみへと揺さぶった。
この腹に溜まったぬるいものを、棒の回転音の聞こえない場所で思い切りぶちまけたい。人がいようと構わず叫んだっていい。わびしさの濡れ手に掴まれて、入口に目をやった。
ところが、ドアがあったと思われる場所は――水を浴びせられたような大きい染みになっていた。もはやドアの輪郭はない。慌てて駆け寄ると、金属の取っ手があった場所には小さなサボテンの鉢が横向きに貼り付いていた。鉢に触れると、あっさり壁から剥がれ落ちた。それは手の中にすとん、と収まった。
超高速で回転する棒がある。ただ、それだけだ。ひたすら一定に鳴り続ける音。
青い柘榴と日記帳と先生からの葉書きが失われ、サボテンの鉢だけが手元に残った。サボテンに、失ったものと釣り合う価値があるとはまったく思えなかった。棘は硬く無言で、私の指先を拒む。
そうして、二酸化炭素以外に何も生産されない時間がただ茫々と往き過ぎた。
霧島先生にもう一度逢いたい。逢ってご挨拶とお詫びがしたい。暗闇を散らす先生の優しい言葉に触れたい。……
この部屋から出られないだろうか、と考えて室内を隈なく見渡した。天地四方の真っ白い部屋、中心で猛烈に回転する棒と、ドアの名残りを思わせる大きな染み。飛び散った柘榴と日記帳のかけら。――どれひとつ何の変化も見られない。何の救いも見られない。
部屋の中を少し歩いてみる。壁はどれくらいの厚さなのだろうか。コツコツとノックしてみると、意外に薄そうだった。すると、ちょっとした考えが降ってきた。
まず棒の近くに戻り、サボテンを鉢から引っこ抜いた。乾燥した土が床にこぼれ落ち、その匂いが鼻腔に触れた。サボテンの根というものを生まれて初めて見た気がする。そして、剥き出しのサボテンを床に置き、鉢の中の土を指で掻き出した。鉢をあの棒で粉砕して、刃を作るのだ。
しかし、それは単純なことではない。柘榴や日記帳と違って、鉢の破片が飛べばかなり痛烈なものに違いない。室内に盾になるものがない以上やはり被害は避けられないが、少しでも危険を減らそうと思案した。
上着を脱ぎ、袖口から糸を一本引っ張り出す。ある程度の長さを得て、歯で噛み切った。それを鉢の胴に巻いて、犬の散歩紐のようにした。回転する棒のそばに鉢を置く。そして、棒を挟んで反対側に身を移す。これで砕け散った破片が体に当たる数は最小限になるはずだ。
脱いだ上着を盾の代わりにして、いざ紐を引く態勢に入ったものの、上着一枚だけではクッションの厚みが足りない予感がした。下も抜いで上着と一緒にし、体の前に構える。こうして下着だけになりながら、心の内で合図を数え、紐をすっと引き寄せた。
風船が割れるような甲高い破裂音が部屋いっぱいに響き渡った。まさしくクレー射撃の音だ。
硬い破片が部屋中に走り、足元や肩を鋭い弾道がいくつもかすめた。幸い大した被害はなかったが、撃たれた左くるぶしが赤く腫れ上がり、軽い痺れを訴えていた。
服を着直し、落ち着いたところで立ち上がった。そして、柘榴や文字と混じって床に広がった鉢の破片を見回して、大振りのものをひとつ拾い上げた。
期待通りの収穫があり、ふと、冷静に考え直す。これは単純に床へ落として割れば良かったのではないだろうか。何も服まで脱いで危険を冒す必要はなかったのだ。苦笑いがこぼれた。棒の持つ鮮烈な破壊力を目の当たりにし、誘惑みたいな衝動に駆られたのかもしれない。あまり自覚はなかったが、棒の破壊力への奇妙な信頼と、それを自分の目的を果たす道具としてコントロールしようという気持ちがどこかにあったようにも思える。
ただ、確かに遠回りではあったが、鉢を床に落とすことでは味わえない不思議な充足感があった。
超高速で回転する棒に背を向け、鉢の破片で一心に壁を掘り続けた。材質は知らないが軽石を削るような感触で、粉がこぼれて、溝は着実に大きくなっていく。
入口が閉ざされた理由は解らないままだが、とにかく気力が持つまで削り続けるしかなかった。このまま抵抗しなければ、この部屋で餓死するまでの間に何をしているだろうかと考える。散らばった文字を拾い上げて日記の復元を試みるか、あるいはそれはもう過去のこととして、何か思いつくままに小説を組み上げていくか――その二択ぐらいしか思い浮かばなかった。
しかし、何千……いや何万とある文字の中から、求める一字一字を探す作業は気が遠くなるほどだ。おそらく捜索中の空白には、柘榴や鉢の破片を置くだろう。そして虫食い状態のまま、息絶える可能性も十分にある。その瞬間、空白には自分の創意の断片だけが生ぬるく染み込んでいて、神秘的ではあるが、誰も見届ける者がいないことを思うと、その煌めきはむざむざと白い床に吸われていくに違いない。
ただ、ある程度出来上がったものを眺めたとき、誘拐の脅迫文みたいになっているのを想像し、途端に強く嫌気が差した。すべて自分の字なのに(厳密に言えば、霧島先生の字も混ざっているが)、自分の正体を偽っているような形なのだ。激しい自己矛盾に縛られて、やはり本意に立ち戻り、鉢の破片を壁に力一杯突き立てた。
掘り進めていくと、明らかに壁の音が変わった。思ったより早く手応えが返ってきた。もっと心身の極限まで執念深い作業が続くかと考えていたが、その見込みは良いほうに外れた。
もうひとつ頑丈そうな破片を拾って、杭を打つようにもう一方の破片を叩く。辛抱強くそれを繰り返していると、破片が一気に突き進んだ。やった。ついに壁を突き破ったのだ。功労を称え、破片をそっと引き抜く。壁の果てを直感し、体が上気していた。
確かに小さな穴が開いている。
目を凝らすと、穴の向こうに瑠璃色の鮮やかな光が透き通るように浮かんでいた。涼しさを匂わす芳醇の濃い青は、若い柘榴の青とはまったく違い、成熟した包容力を帯びていた。ようやく、ようやく白一色の世界から解放されるのだ。
勢いづいて、再び掘削作業に取り掛かり、いよいよカード一枚分くらいの幅まで縦に穴を広げた。そこで一旦手を止め、部屋の中ほどに戻った。白紙になった日記帳のページを一枚手に取り、必要な文字を拾い集めて紙に並べる。
『ここから出たい』
メッセージは最低限でいいだろう。この部屋から出たいという意志を外にいる誰かに伝えられれば十分だ。きっと事態は動くだろう。出られたら一番に霧島先生を訪ねて行こう。お元気だろうか。手土産はどんなものがいいだろうか――。
ところが、思いも寄らず、壁に向かう途中で文字が紙からこぼれ落ちてしまった。紙と完全に分離しているのだ。バラバラの状態で壁の向こうへ放り投げても、誰かがきちんと文字を組み立ててくれる保証はない。鋭く舌打ちし、恨みをこめて棒を睨む。あと一歩で外界へ接触できるのに、ここまで来て諦める理由はない。
何と言うことはない、文字を紙に留めればいいのだ。引き返し、床に転がったサボテンから棘を抜こうとした。ところが、棘の根っこは思いのほか固かった。さらに、密集した棘に邪魔されて指先がぴりぴりと痛んだ。
回転音が私を呼びつける。――そうか。今こそ、これを使うべきなのだと直感した。
棘の飛散から体を守るため、鉢の時とまったく同じやり方で棒に当てた。案の定、構えた服のクッションに棘がいくつか刺さったが、今度は傷ひとつなかった。ゆっくり顔を起こすと、床にはサボテンの棘や幹や根が粉微塵になって散っていた。
早速、棘を何本か摘まみ上げ、それを使って紙に文字を縫い付けた。自分の字に棘を刺すのはさすがに痛々しい思いだったが、そうする他に方法がない。そしてメッセージカードは完成し、万感を込めて壁の穴に投函した。
改めて、超高速回転する棒を見つめる。別れを惜しむような、微妙な心地だった。
結局、唯一原型を留めていたサボテンまでも粉砕し、白い床はすべて破片としか呼べないものばかりで覆い尽くされている。どこか物悲しいけれど、清々しさもあった。柘榴の香りのせいもあるだろう。
この棒は、私がここを出た後もずっと回転し続けるのだろうか。案外一番破壊されるのを望んでいるのは、この棒自身のようにも思えた。それくらい規律正しく同じ速度でこの部屋の秩序を維持しているのだ。最初に感じた誇らしさに、少し違った風合いの無骨さが重なり合う。しかし、それも別れを前提にした感傷なのだろう。すっと薄笑いをこぼしたが、棒は何ひとつ変わらず超然と回転していた。
一息ついた後、また鉢の破片を手にして壁へと戻った。穴を広げる作業を再開する。自力で壁を破れる可能性もないとは言えない。もちろんメッセージカードが誰かの手に渡れば、もっと早く出られるだろうが。それにあの棒をじっと座って見ているより、何か能動的な別のことをしたいという気持ちもあった。
やがて、カードの投函から大した時間も経たないうちに、壁の向こうで物音が聞こえ始めた。もしかしたら部屋の外で何か作業が始まったのかもしれない。期待と緊張が片足ずつに宿る。
静かに穴を覗いてみたが、透き通る瑠璃色の中に何の物影も見つけられなかった。――あせることはない。外界ですぐに反応があっただけ幸運なのだ。手を止め、じっと息を潜める。
すると、縦に広がった壁の穴から、銀色に輝く大きな物体が突然滑り込んできた。円形だ。全貌があらわになると、それは硬貨のような感じがした。そして、銀色の硬貨は床を転がり、その先にある棒に吸い寄せられるようにぶつかった。目の冴えるような火花をまとって砕け散り、何百枚という一回り小さな硬貨へと化した。
それから立て続けに、二枚目、三枚目が穴から入ってきた。同じ軌道をなぞり、棒にぶつかって、何百枚の小さな硬貨に変容する。棒が急に活気づいた分だけ、反動で自分の気持ちが揺らぎそうになる。いったいこれがいつまで続けば解き放たれるのだろうか――。
いっそ、この棒で壁を一気に粉砕できないものか。二歩、三歩と……。
指先が棒に触れる寸前で、体が固まった。危うく棒の誘惑にほだされるところだった。心臓が狭い中を高速で回る。そのせいで、全身の部位をつなぎ止めるものを性急に体が求めた。手のなかにずっと握り締めていた「霧」という先生の達筆な字を、ぎゅっと胸に抱きすくめる。際限なく増殖する硬貨に埋もれてしまってはならない、大切な灯し火。
壁の穴を見る。ああ。ここからでも霧島先生に便りを出せば、もしかしたら届くだろうか……。そうだ、先生は押し花がとても好きだった。足元に転がる青い柘榴のかけらを一粒、もう一粒と拾い、二枚の無垢な紙で挟み、サボテンの棘で丁寧に縫い止める。押し花とは少し違うが、この場所で作れるきっと最良の贈り物だ。
押し花の出来上がりを待つ間に、文字を探そう。何と書こうか。何だかお腹が減ってきた。さっきの芋羊羹の「羹」の字はどこへ行っただろう。芋羊羹のお礼を書きたい。先生に逢いたい。
『あいたい』
四つの字はすぐに見つかった。ただ、……これだけでは気恥ずかしい。もう少し言葉が欲しい。だが、日記帳から飛び出した無気力な文字たちを、意地悪な大量の硬貨が隠し始めた。急がなくては。
ふっと、目に留まった「芋」の字を拾おうとすると、指先にサボテンの棘がちくんと刺さった。そして気を取られた隙に、何百枚という硬貨が目の前に雪崩れ込み、再び「芋」の字を銀色の冷たい混沌に隠してしまった。あれほどたくさん床にあった文字がほとんど見えなくなっていた。
もう、四つの字だけで便りを出すしかないのだろうか。私がどこにいるかも伝えられないのに。
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| (おわり)
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