(H29年12月24日記載)
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← 故反田一之(平成19年12月23日没)
今月の23日で父が亡くなってから満十年になります。 左の写真は、父が亡くなる一ヶ月半くらい前に雲南市大東町であった天文関係の催しに父が参加したときの写真です。 この催しを主催されたT先生(元高校の理科物理の先生)から、父が亡くなってから少し経って送って頂いたものです。
父は晩年、口癖のように「自分は最後まで教頭留まりで校長にはようならんかったが、教職在職中から天文活動に打ち込み、多くの人達と出会い多くのことを学ぶことができて大変有意義だった」と言っていました。
 筆者が高校一年、父が若干48歳だったころに、父は自費で自宅近くの江ノ川沿いの土手に手作り天文台を建てたことありました。 これが父の天文活動の出発点になりました。 右の画像は当時地元の新聞に掲載された記事です。 左端が父、右端が筆者、間に近所の子供達が写ってます。
これ以後、父は「江津少年自然の家」や「三瓶青年の家」などいろいろなところから天体観察会の指導を頼まれるようになりました。 筆者自身よく覚えているのが、筆者が松江市内に住んでいたころ、ちょうど美保関に隕石が落下した年の翌年の夏だったですが、父が天体観察会の指導で三瓶青年の家へ行ってたおり、偶然にも筆者の高校時代の同級生だったT君(当時、大阪在住)と家族の方達がその夜宿泊しておられ、天体観察会でばったり父と出会われたことがありました。 そして、それからしばらくして筆者が日曜日に実家へ帰ったときに父から、「このあいだ三瓶で、おまえの高校の同級生で上津井から通っていたT君に会った。 大阪の高校で国語の先生をしているそうだ」と聞かされました。 これを聞いて大変なつかしかったです。 と同時に、「T君は高校時代に国語が得意だったんだろうか」とちょっとあっ気にとられました。
ところが、、、、、、それから二十数年後、筆者はT君に再会することになりました。 今年の5月、T君が奥さんとともに当館へ来館されたのには大変驚きました。 高校を卒業して以来の再会だったです。 聞けば、T君は50代初めのころに重い病気になって身体が不自由になられ、その後やむなく教職を辞され、最近になって大阪から実家のある江津市内にUターンされたとのことでした。 現在は同町今田に住んでおられ、ちょうど先々月、筆者が今田の小豆畑へ作業をしに行く途中に八戸川沿いの小道をT君が散歩をしておられるところにさしかかり、しばらくの間、付近に住んでおられる訪問美容をやっておられる方の話や当館のHPの内容、付近にある日桜ロードのことなどを話したりしました。
T君は筆者と名前が同じということもあって、他の同級生達よりもちょっと特別な存在でした。 現在、町内の中学校で数学の先生をしているH君達と毎日三江線の汽車で通学していました。
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美保関隕石に関する出版物(出版元:山陰中央新報社)
表 紙
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25ページ掲載の写真
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1992年12月10日夜9時ごろに松江市美保関町惣津の民家へ隕石が落下してから今年で25年になります。 当時、父はすでに学校を定年退職していて、このころは県内外を車で野宿しながら化石や岩石を採集する漫遊の旅に明け暮れていました。 この隕石の落下は、父にとっては生涯最大のビッグニュースであり、父に大きな活躍の機会を与えてくれたものだったと思います。
右側の写真で、天井を右手で指さしている人が国立科学博物館の館長だった村山定男先生(故人)で、後方左から二番目が父です。 隕石の専門家だけでなく島根・鳥取県内のアマチュア天文家も殺到し、父も隕石落下のニュースを知るとすぐに出かけて行って専門家やアマチュア天文家仲間といっしょになって調査や探索をしたみたいです。 このころ筆者は松江市内の古志原というところに住んでたんですが、昼間は県の外郭団体へ、夜間は高校の定時制へとけっこう忙しい毎日を送っていたせいか正直のところあんまり関心がなかったです。 隕石が落ちた惣津というところは七類港に近く、自分は年間四回くらい隠岐の島へ渡っていたこともあって付近の様子はけっこう知っていたのですが、初めて惣津の落下現場のある民家へ行ってみたのは翌年の冬、一年くらい経ってからでした。 まこと当時の自分は、あんまり隕石とか化石とか博物館とか社会教育とかといったことに興味がなかったです。 今でこそ、、、、、と言うよりも、しかたなしに我が郷土へUターンしてから今日まで個人立の博物館や民間主導の社会教育を大義名分にしてやってきておるわけですが、決して好きでやってきたのではなく、しかたなく意地でやってきたといった感じです。
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筆者は、ザ・スクエアの「風の少年」という曲が好きである。 だから、この度手作りする天文台の名称には「風の少年天文台」がいいとかってに思っているが、館長は相変わらず「桜江天体観測所」で通すつもりらしい。 しかし、この天文台はボランティア精神にのっとり、桜江の人達ばかりでなく江津市全域やさらにその周辺の人達にも広く利用してもらうことを念頭においている。 だから、特別に「桜江」を強調するのはおかしいと思うのである。
ちょうど昨日、ここで作業に没頭しているとき。多くの子供達がキャーキャー言いながら近くを通りすぎた際に「あら、反田君じゃない?」と、筆者を君呼びで気安く話しかけてくる女の人がいた。 だれじゃ、と思ってふいと顔を上げて見ると、なんと筆者の高校時代の同級生であった。 彼女は江津市内で小学校の教員をしていて、この日は紙すきの体験学習のために「風の国」へやって来たというのである。 新生江津市になって旧江津市の小学生達も多く桜江へやって来るようになったなあ、とつくづく感じることができた。
筆者としては「桜江」とか「江津」とかといった地方自治体的な枠組でものを決めたり考えたりするのは嫌いである。 分け隔てなく多くの人達に自由に利用してもらえるような天文台にしてほしいものだ。
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← 平成17年3月ごろに当館の裏HP「自然館がゆく」に掲載した記事
父は晩年、やはり校長になれなかったことを悔やんでいたみたいです。 しかし、筆者に言わせれば、父は ”校長になれなかった” のではなく ”校長になる希望を途中で捨て、天文活動の方に希望をすり替えてしまった” と言う方が正しいと思います。 当時から校長への昇任試験は大変難しかったらしいです。 父はこの試験を一回だけ受けて、失敗後は全くあきらめてしまいました。 あきらめてしまった原因は、胃癌の手術を受けた後、医者から再発の危険があると告げられたためです。 当時、筆者はすでに都会暮らしをしていたので、このころの父親の状況は詳しくは知りませんが、校長試験の前に胃癌の告知を受け、試験に落ちてしばらくして手術を受けたんじゃないかと思います。 そして、その際に医者から再発の危険があると告げられたと思います。
父は、「自分はもう長く生きられない」ことを自覚し、立身出世の道よりも天文活動に情熱を求め、天文台作りや天文仲間との交流などによって癌の再発に対する恐怖心を紛らしたかったんだろうと思います。 まこと父は「悲運の教頭」でありました。
猪瀬山天体観測所の新聞記事
右の写真は、父が持山の尾根に天文台を手作りで建造したことが新聞に掲載されたときの記事です。 このころも筆者は相変わらず都会暮らしをしていて、東京やら横浜・横須賀あたりをウロウロしてたので、当時の父や実家の状況はほとんど知りませんが、癌の再発の恐怖を感じながらよくこんな凄いことができたものだと、今でも驚き関心します。 やはり、父は天文台作りに心も体も浸透させることで、癌の再発に対する恐怖に必死に耐えていたのだろうと思います。
ところが、、、、、結果論みたいなことを言うようですが、父は以後、75歳で肺癌の手術を受けるまで癌の再発はありませんでした。 52歳のときの胃癌と75歳のときの肺癌は、まずもって因果関係はないそうです。
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← 猪瀬山天体観測所にて(平成元年ごろ)
猪瀬山天体観測所には、県外から20代の女の子もやってきて夜通し天体観察をやっていたみたいです。 筆者はすでに県内に帰っていて、このころは浜田市の国府町というところに住んでいました。 左の写真の女の子はちょっとエラが張っていますが、大変きれいな方です。 しかし、あれからもう30年近く経って、今は、、、、、 スンマセン。
とにかく父は晩年、自分が校長になれなかったことを確かに悔やんでいたことは確かです。 特に、近年「女校長」が目立って多くなっていて、今年だったか去年だったか憶えてないですが、新聞に江津市内のある小学校の女校長の名が出ていて、筆者はこれを見たとたん”はっ”としました。 なんとその校長先生は、筆者の高校時代の同級生で一年生のときに同じクラスだった旧姓Mさんであった。 「あの女の子が校長先生え〜」、十二年くらい前に「風の国」で天体観測所のドームを作っていたときにひょっこり出くわしたあの厚化粧の同級生が、、、、、。 そういえば同じ市内にはもう一人、校長をやっている同級生のS君がいる。 しかし、高校を卒業してもう40年も経ったのである。 だれが校長になろうが、教頭留まりのままだろうが、立身出世の道をとうにあきらめてしまった筆者には関係のないことである。
やっぱり、「机上の秀才は、かならずしも社会の秀才にはなり得ない」、そんな気がします。 机上の秀才は、どっちかというと、出身大学で人の価値を決めたり、年功序列や天下りが当たり前だったりする、たとえば何何省といったようなとこがふさわしいという気がします。 やっぱり、教師は教科指導・生活指導・部活指導の三拍子そろった非常に人間臭い人でなくてはいけないという気がします。
また、一方では最近も相変わらず、もろもろの採用試験や昇任試験で人脈を頼った贈収賄や不正な口利き行為が後を絶たない実態を思うと、人の良し悪しを決してその人の社会的地位や経済的身分で判断すべきではないと感じます。 やっぱり、人というものは、その人に長く関わっていないと良し悪しなどわかるものではないです。
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八戸川流域の雲海を見に日桜ロードへ行こう! (桜江町今田〜邑南町日和)
 紅葉時期の先月、「屏風岩から三江線の汽車に手を振る、自然観察会」を実行したかったんですが、やはりプライベートな家庭内の事情があって残念ながらできませんでした。 筆者の高校時代の同級生のT君から「ぜひやってください、応援します」という激励のメールをいただいたんですが、大変申し訳ないです。 家庭内の事情がほとんどない期間を狙って再度挑戦してみたいと思っています。
左の写真は、先月上旬に夜明け間もない早朝の江ノ川の雲海を観察するために屏風岩へ登った時のものです。 しかし、せっかく夜明け前から起きて寒い中大汗かいて登っても屏風岩へたどり着いたころには風が出ていて、すでに下界の景色が見え出していてガッカリでした。
やっぱり、雲海を見るなら車で行けるところが一番楽で危険もなくていいです。 右の写真は先月、桜江町今田から邑南町日和へ通じている「日桜ロード」という農道から写した八戸川流域に発生した雲海を撮ったものです。 筆者の高校時代の同級生のT君が住んでいる地区付近にその入り口があります。 しかし、現在は冬季の閉鎖期間中で、残念ながらこの期間中は行ってみることができません。
邑南町には矢上盆地に発生する雲海を見るのに最適な「雲海ロード」という道路がありますが、この日桜ロードも「雲海ロード」の名に値いする絶好の場所だと思います。 「日桜うん・かい?ロード」という名称にしたらいいんじゃないかとかってに考えてます。
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リニューアルおうぷんを目指して 隕石関係の小展示コーナーを開設
 
太陽系最古の鉱物を含む岩石 「アエンデ隕石」
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最近はもろもろの事情で自然館のことが十分にできないのですが、それでも一日中館のことができることもあって、こういうときを使って集中的に館内外のリニューアルを進めています。
父は生前、当館の隕石コレクションを大変自慢していました。 「近隣の自然史関係の博物館で、これだけの隕石を収蔵しているのは当館だけだ!」、と自負していました。 たしかに、隕石を持っている博物館の多くはギベオン隕石のような鉄隕石などが主体で、当館のように46億年前の原始太陽系円盤の中で太陽とともに生成された物質を含んでいる「アエンデ隕石」といったものや水を含んでいる隕石として有名な「マーチソン隕石」(ただし薄片)などを持っているところはそう多くないと思います。 今月の23日で父が亡くなって満10年が経ち、父の自慢の隕石コレクションをちょっとせまい場所で申し訳ないのですが展示し直しました。
これからも暇を見つけてはコツコツとリニューアルしていこうと思います。
当館は日本一粗末な博物館なのでお金もあんまりありませんが、博物館活動はお金でやるものではなく、創意工夫でやるものだと思います。 また、学校教育と同じように、少しくらい自分を犠牲にしてでも子供達や社会へ役に立とうというものだと思います。 できる限り諸経費を抑えて最大の効果をあげる努力をしていこうと思います。
とにかく、今年一年でも痛感したのが、市内の子供達や教育関係者達よりも市外県外の方達のほうがよっぽど多く当館へやって来られるということでした。 学校関係が夏休みの間当館でやった「薄片観察会」でもやって来られたのは出雲市などの市外の方達ばっかりで、市内からやって来たのは当館で自由研究をやるということを口実にして当館の自作パソコンでゲームをやりたいという不真面目な子供ばっかりだった。 先日、川本町にあるS高校の生徒達が「ふるさと学習」で千丈渓について質問しにやって来られ有意義な学習会をやることができましたが、やっぱり、このようにして当館を活用していただきたいものです。 当館は決してバーチャルミュージアムなどではないです。 身体的な事情のある人や遠方に住んでいる人は別ですが、当館のHPだけを見て当館へ行った気になられてはいけないと思います。 筆者自身、プライベートな事情を抱え、いささか困窮気味ではありますが、しかし、個人立の博物館、民間主導の社会教育は自分の一生を懸けてやるものだと思っています。 公共の利益のために、これからも地道にコツコツやっていきたいです。
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