<下落合国際政治情報部のHPより>
心 の 自 由
マインドコントロールというのは、高度に理論化されたテクニックであり、
標的にされた人物がそこから逃げ出すのは並大抵のことではありません。
むしろ、理性的理論的な思考ができる「知的エリート」が罠にかかりやすいのです。
ロバート・リフトンは、マインドコントロールとは何かと規定する八つの基準を指摘しています。
このようなイデオロギー的全体主義は中国で思想改造が行われた環境のことで、
現在では特定のカルト宗教だけでなく、過激的政治的カルト、セミナーなどの教育カルト、ねずみ講式の商業カルト
などで行われているので注意することが必要です。
ここでは、心の自由が奪われるとはどういうことなのかを考えてみたいと思っています。
リフトンの八つの定義
カルトに特徴的なのは、そのエリート的思考である。
自分たちは他人が知らない真理を知っている、現実が見えている、解決法を知っているという思想である。
その思想は世間一般の基準から見ると馬鹿げた荒唐無稽な話しにみえる。
ところが、知的エリートがこのようなカルトにはまってしまうのは、実はその理論が正しいところにある。
したがって、その特定のイデオロギーが理論的に正しいと思えるようならば、疑ってみる必要がある。
1.環境コントロール milieu control
たいてい、マインドコントロールは、環境をコントロールしておこなわれる。
それまでの環境から遮断し、「新しい価値観」を植え付けるために都合がよい。
2.密かな操作 mystical manipulationまたは仕組まれた自発性 planned spontaneity
実際には上部からの指令に従って動いているのに、自発的な行動にみえる。 そのイデオロギー集団に誘い込む時には、
そのイデオロギーが正しいのだから、だましてもかまわない。
3.純粋性の要求 the demand for purity
純粋と不純、善と悪、正と邪というような二元的価値観をもとめる。
多元的な価値観、つまり、いい面も悪い面もあるというようなものは認めない。
悪は徹底的に悪なのであり、善は徹底的に善であることを強調する。
もちろん、言うまでもなく善とは自分たちが主張するイデオロギーであり、悪とはそれ以外のことである。
そのイデオロギーを理解できる人はレベルが高く、理解できない人はレベルが低いのである。
そして、彼らはこう叫ぶだろう。 「我々は、本当に正しいのだ」 と。
4.告白の儀式 the cult of confession
小グループによる他人からの批判と、自己批判が行われる。 「告白」させ、自己の変革をうながす。
5.聖なる科学 sacred science
イデオロギーが科学的であることを強調する。 研究者の研究成果によって権威づける。
6.特殊用語の詰め込み loading of language
決まり文句とスローガン。 先生の言葉をコピーすることにより、自分も先生になる。 その言葉は単純化され、連呼される。
そのスローガンは正しいと確信をもっているのは当然である。
また、その特殊用語の活用による連体感や、その他 人が使用しない用語を使う「優越感」に浸っている。
どんな複雑な現象でも、単純化された用語によって説明しようとする。
世の全ての事柄は、カルトの宇宙的、完全なる教儀により、いともたやすく解説される。
逆にいえば、もしそれが成立しないと、カルトの権威に傷が付いてしまう。
7.教義の優先 doctrine over person
まず、教義から判断しようとする。 教義から逸脱することは認められない。
あらゆるデータを集めてから判断するのではなく、「教義に合致するデータのみ」を収集する。
教義に合致するデータこそが正しいからである。
教義と反するデータは認めない、無視するか、あるいは重要でないと思い込むようになる。
そのような情報は 「そもそも」聞こえてこないのである。
8.存在権の配分 dispensing of existence
これが一番重要なことだが、そのイデオロギーが正しいがゆえに、
そのイデオロギーに反するものは存在を許されないという論理的帰結である。
したがって、反対者を徹底的に滅ぼそうとするのである。 異なる価値観や歴史観を認めようとしないのがこれである。
そして、これがいきつくところは大量虐殺であることは 言うまでもない。
洗脳との違い
まず、強調したいのはマインドコントロールは洗脳とは違うということであり、
マインドコントロールを受けた本人が気付かないくらい巧妙だということである。
だから、自分は洗脳されてないのだから、(監禁されたりしていない)
マインドコントロールを受けていないのだと確信を持てる人が、実は危ないのである。
また、マインドコントロールはそれ自体
ある程度の教育プログラムを保有している団体では、程度の差こそあれ実施しているのだということである。
その団体が実施しているマインドコントロールがどの程度有害なものかを客観的に観察できる能力が必要なのである。
たとえば、あるテレビ番組が写し出している光景はまさにマインドコントロールの現場そのものだった。
主催者は二つのバナナを取り出して、観衆にどちらがいいですかと問いかけている。
a.形が悪く小さい。値段も高い。
b.形が良く大きい。値段も安い。
実は、その主催者が売り込みたいのはa.のバナナなのだが、誰でもほしがるのは b.のバナナなのである。
あたり前のことだが、a.がほしい人という場面で手を上げる人はいなくて、
b.がほしい人はいますか、という問いかけに手をあげる人がほとんどである。
つまり、いったんここで観衆に、主催者の売り込みたい方の商品を拒否させているのである。
あくまで観衆が自主的に選択させて「強制はない」という雰囲気を作り上げたいからである。
消費者というものは何かを売りつけられようとすると自然に拒否反応がでるものである。
最初にb.のバナナを選ばせた段階で観衆はすでに主催者にコントロールされているのである。
ここで主催者の仕事は半分終わったも同然である。
a.のバナナについての解説がはじまる。 このバナナはある発展途上国の農民が無農薬・有機農法で一生懸命作ったもので、
環境にやさしく、このバナナを買うことによって農民の生活が潤うということを強調する。
ここで生産コストの高いことも説明するのである。
もったいぶって、『こちらが皆さんが選んだほうですが。』という前置きでb.のバナナを解説する。
b.の方は確かに安くてみてくれもよいが、これは大企業が農薬を使って大量生産したもので、環境に悪影響を与え、
雇われた労働者は低賃金にあえいでいる、ということを強調するのである。
ここで、最初の選択の場面に戻るのだが、観衆がどちらを選ぶかは、言うまでもない。
これはマインドコントロールの代表的なパターンなのである。
物品販売をともなうカルトは、だいたいこのパターンだといっていい。
このデモンストレーションには、先にのべた環境コントロール、閉ざされた空間での一方的な情報伝達、
その情報を知ったという満足感の提供がなされた。
また、仕組まれた自発性、純粋性の要求という要素が組み込まれている。
選択させるのは、まさに「告白の儀式」といっていい。
つまりここでは、労働者を苦しめ、環境を破壊する行為に荷担したことを自白させられているのである。
実は、自主的選択をさせていることを装ってはいるが、
現実的にはよほど鈍感でなければ主催者が売り込みたい方の a.のバナナの方しか選択肢はないのである。
聖なる科学、特殊用語の詰め込みという要素もある。 参加者は、単なるバナナの即売会だと思っていたのが、
いつのまにか南北問題、大企業による労働者の搾取という特定のイデオロギー教育を受けていたことになる。
バナナの即売会とばかにしてはいけない。 もしかしたらあなたは、有能な革命戦士に仕立て上げられたかもしれないのである。
勧 誘
では、次にカルトの勧誘テクニックについて考えてみたい。
カルトの勧誘には一定のパターンがあって、ある程度の共通性が指摘できる。
1.コンタクト
コンタクトは知人からだったり、知らない人であったりするが、
これは勧誘されるというよりも、誰かに会いに行くというのがパターンである。 逆にその人がたずねてくるというケースもある。
ただ、たずねて来た場合でも 2.のミーティングに参加することになるのが普通である。
2.ミーティング
コンタクトの段階ではほんのちょっとのつもりで気軽に出かけるが、帰るときには意外に「長時間」になっている。
また、色々な人を紹介されるはずである。
その人たちは決まって高学歴で、誰でも知っているような一流企業につとめているか、あるいは社会的地位が高い人である。
若者の集団の場合は、必ずしもそうでない場合もあるが第一印象はとても良いのが普通である。
明るくさわやかで、家族的かあるいは活気がある。
意外に長時間になってしまうのは、そのミーティングが非常に中座しにくいものであるからである。
スライドや映画、ビデオの上映、講義かあるいは実演会がはじまってしまい、同行者は熱心に聞き入っている。
とても途中では帰りにくい雰囲気なのである。
またそれだけではなく、その説明が非常に興味深いものだからである。
スライドやビデオに登場する団体は、日本ではマイナーだが、国際的なネットワークをもっている。各界で評価されている。
あるいは日本である程度メジャーであり、その組織の海外支部や友好団体が多数紹介される。
その団体の活動が誰でも知っているような国際機関、たとえば国連のようなものに評価されている。
あるいは誰でも知っている著名人が紹介され、その団体のリーダーと会見している場面が写し出される。
その団体の理論や実践が有名大学の学者に科学的に実証されている。 また、そうした権威者がアドバイザーになっている。
その団体の理論は全く新しく開発されたものか、従来からある理論の正統後継者である。
また、良く知られているものは堕落しているか、あるいは悪徳である。または異端者である。
イベントが終わったあとは討論会、あるいは報告会があり、参加者は口々に発言する。
中には熱心にメモをとったりしている人もいる。
また、これは非常に民主的にみえる。 その団体の会員が、その団体を批判することもしばしばである。
3.感 想
一通り終了したところで、同行者から感想をもとめられるが、もちろん、ここで勧誘された人はとても好印象をもっている。
最初はネガティブな印象をもっていたはずなのが、それが見事に解消されるのである。
そして、だいたいこのような話しがされ、いつの間にか周囲の人も話しに加わっている。
『最初はこの団体はおかしいと思っていたんだけど、実はそうではないことがわかった。』
『わたしは昔は○○だったが、この団体に入って良かった。』
また、そう口々に賞賛している人たちは、決まって理性的であり善人であり魅力的である。
4.敵の存在
また、こうも言われる。
『○○は金儲けだ。』
『○○は堕落している。』
『○○は腐敗している。』
『○○は悪徳である。』
『○○でひどいめにあった人がいる。』
そうしてこう念をおされるのである。
『本当に世の中には酷いのがいるから注意したほうがいい。』
カルトにはこんな人がはまる
海外問題や社会問題などに関心がある「真面目な人」がカルトにはまりやすい。
たとえば、東洋思想に興味がある人は仏教系やヒンズー系カルトにはまりやすいし、西洋思想に興味がある人は政治系、
アメリカにあこがれを持っている人は教育系や商業系カルトにはまりやすい。
またこうしたカルトは、実際に政治的社会的に影響力を行使するほどの実績を持ち、
平和問題、環境問題、貧困問題、教育問題の解決に意外な評価を受けているようにみえることがある。
したがって、カルトを非常識でいかがわしい団体だろうという先入観をもってはいけないのである。
その先入観があるがゆえに、その実態の一面を見ただけで、このカルトは世間が思っているほど悪質ではないのではないかと
錯覚を起こしてしまうのである。
その前に、いかがわしく見えない、その理想は正しいようにみえるというだけで、
これはカルトではないという誤った判断をしてしまう恐れがある。
また、カルトはお金がかからない、強制は一切無いと主張するし、またそれはある意味で事実なのである。
カルトに入ると、
だれにも強制されないのに多額の寄付をして、いつのまにか個人的な生活そのものを奪われ、それだけでなく、
知らない間に人格までもが作り替えられてしまう。のである。
では、何がカルトで、何がカルトでないのか。これを判断する方法はあるのか。
実は、それを見抜くのは、
素 人 に は 事 実 上 不 可 能
だ
といっていい。
・
・
・
たとえば、オウムはほとんど坂本弁護士事件をごまかすことに成功しかかっていたし、
著名な宗教学者や、文化人をも騙すことに成功した。
(ビートたけし・中沢新一他) 地下鉄サリン事件さえ起こさなかったら、永遠に闇に葬られたかもしれないのである。
ただ、これだけは言える。
カルトはマインドコントロールを悪用し、目的は手段を正当化する と考えているということである。
カルトのメンバーは社会規範を守ろうと考えるどころか、むしろ滅ぼしてしまったほうが良いという思想を持っている。
それは法律にふれない程度の悪事である場合や、違法行為さえもふくまれる。
カルトは善悪の決定権を持っているのだから、社会的に悪とみなされる行為でも、それは真剣に善であると信じている。
しかし、彼らの敵である権力との戦いを有利にすすめるために、なるべく合法的な形態を取ろうとし、法を熟知している。
だから、カルトを追い詰めるのは困難なのである。
カルトのメンバーとどんなに議論しても得ることは少ない。 どんなに嘘をあばいても、矛盾を指摘しても無駄である。
・・・・・・・・・・・・・・・矛盾を突かれたなどとは思わず、単なるたわ言を聞いたくらいにしか感じない。・・・・・・・・・・・・・・・
なぜなら、カルトのメンバーにとって、基本的にそのような問題は重要ではない。
対等な人格ではないからであり、とるにたらないものとみなしているからである。
幼稚園児に対する教師としての態度で十分である。
彼らは常に、「教える立場」なのである。
カルトの教義には絶対的に矛盾など存在しないのであり、
それに同意できないものは、愚か者であり、教化されていない者だからである。
だいたい、カルトのメンバーでない人間の発言など重要ではなく、無視してしまってかまわないのである。
実 は 最 初 か ら 聞 い て い な い の だ
だいたい、どうしようもなく救いようのない人間の話しなどまともに聞いていられないのである。
そんな下らない人間の相手をするよりは、カルトの仕事をしたり、学習したほうがいいではないか。
洗脳とマインドコントロール
洗脳は、もともと中国語である。
朝鮮戦争で捕虜となったアメリカ兵がやってもいない戦争犯罪を告白するという現象を説明するために、
1951年にジャーナリストのエドワード・ハンターが作った用語である。
ベトナムでも湾岸でも、こうした捕虜たちがアメリカ帝国主義を批判したが、
このような証言なるものは元々強制され作られたものとして理解された。
ただし、これを理解できない人もいる。 人は自分に不利な証言をわざわざしないという単純な説明で納得してしまうからである。
ある条件下では、証言そのものを特定のイデオロギーのために作り出すことも可能なのにもかかわらずにである。
洗脳については、虐待、拷問、薬物使用などの強制的なやり方である。
これに対してマインドコントロールは実に巧妙に人格を作り替えてしまう。
たとえば、『我が半生』では、世界で最も偉大な皇帝が、庭師に「作り替えられてしまう過程」が克明に記録されている。
膨大な財産を失って庭師にさせられてしまったのに、彼は革命に感謝さえしてしまうのである。
収容所の生活は快適であり、虐待などないのである。
それでも「人格を作り替える」ことは可能である。
それでもあなたはマインドコントロールは、自分とは無関係と言い切れるだろうか。
カルトとは関係無いと思えるだろうか。 そのような事実は学ぶ必要はないと断言できるだろうか。
『過去を忘れる者はその過去をくりかえす運命にある。』
人民寺院指導者ジョーンズ
カルトメンバーの反応
さて、ここまで読んで、なんとなく不愉快になってしまった人がいる。
過去にかかわった団体がそうか、あるいは現に所属している団体がそうだからである。
わたしは、そんな人が現在考えていることを言い当てることができる。
『でも、○○○は違う。 ○○○は正しい。』
その通り。
○○は違う。○○は正しい。 ○○は実に正しいことを主張している。 たいていの場合、カルトの主張の大半はかなり正しい。
問題なのは、その主張なのではなく、不正にマインドコントロールを使い、不正な手段を正当化することにある。
また、そんな人は次の事実も認めるべきである。
カルトと○○は違う。○○は正しいと主張している。
人民寺院で集団自殺した人たちも、地下鉄でサリンをまいたオウムの信者たちも、ポルポト派も、ナチスも、
同じように正しいことをしたと思っていたのである。
また、そんな人は次のようにも考えている。
『彼らは本当に悪いやつに騙された不幸な人たちだ。彼らのような狂信者をなくすために正しい思想を広めなければならない。』
まったくその通りである。 だから、彼らも同じようにしたのだ。
素晴しきカルト
カルトは素晴しい。
カルトグループに入ると素晴しいパワーが手に入る。 病気が治り、争いごとがなくなり、貧困問題が解決するのである。
わたしは、病気を治してもらった。 騒動が解決した。収入や成績があがった。 友達ができた。 人生がかわった。
カルトのメンバーは口々にそういう。
そういう話しを聞いたときに、それは迷信だとか、非科学的だとか、狂信的だとかいって即座に否定してはいけない。
実は、そのような現象は実際におこる。
現代のカルトは科学的な要素を取り入れているので、なんらかの効果がでてくることは実際にありえる。
マインドコントロール自体が、心理療法として効果があることは科学的に証明されている。
まず、こういう不思議な現象は実際におこるということを知っておく必要がある。 常識的には奇蹟はおこらないと考えがちなので、
理屈では説明できない現象が実際におきることがわかると、そのカルトにはまってしまう可能性がある。
そのような現象はわりとありふれたことなのである。
奇蹟はおこる。
ただ、正規の療法をおこなった方が効果があり、お金もかからないし、安全だというだけのことである。
神秘体験もおこる。
カルトの極限状態は、体内に麻薬に似た物質を発生させる。
実際、カルトは「それ自体に魅力がある」からこそ、はまってしまうのである。
なんらかの原因でカルトから離脱しても、問題そのものが解決するわけではない。
似たようなカルトを渡り歩いたり、自分でカルトをはじめてしまうケースもある。
カルトをやめたあとの心のすき間をうめるために、アジアや中南米を放浪するケースもある。
まさに「カルトは麻薬」なのである。
カルトによって得ていた快楽を、今度は本物の麻薬や女で得ようとするのである。 全共闘世代のアジア放浪者は実に多い。
また、否定されることをカルト勧誘者は待っている。
カルト勧誘者にとって、そのような反応は予定されているのである。 カルト勧誘者は、その最初の否定の一言がほしいのである。
バナナの話しを思い出してほしい。
カルトのマニュアルは、否定されることを前提として成立している。 肯定させることは難しいが、否定させることは簡単である。
そうした常識的な行動原理を計算してマニュアルは作成されている。
試しに、わたしは病気を治してもらったという人がいたら、『知ってますよ。治るんでしょう。』といってみると面白い。
勧誘者は目の前で何が起こったか理解できないような困った顔をするはずである。
カルト勧誘者はすべてマニュアル通りに行動することを要求されているので、マニュアルに書いていないことには対処できない。
病気が治る、ということに肯定されたらどうするか、ということはマニュアルには書いていないのである。
また、バナナの話しの場合には、わざと高い方を選択すると良い。 これも相当困るはずである。
田舎の両親が同じものをただで送ってくれるのでといえばよい。
カルトに勧誘されたなと思ったら、自分が思ったことと違う返事をすると、マインドコントロールにはかからない。
あなたは神を信じますか、と聞かれたら信じてます、というべきである。
あなたは幸せになりたいですか・・・テレビの不幸な主人公のような人生を楽しんで生きたいです。
人生を変えてみたいですか・・・ぜんぜん。今の人生に満足してますから。
リッチな生活をしたいですか・・・いいえ、お金なんか墓までもっていけないでしょ。
催眠術と暗示
実際、カルトは非科学的なのではなく、かなりの部分が科学的である。
たとえば、前の書き込みでは、わたしは病気を治してもらったという人がいた、『知ってますよ。治るんでしょう。』
といってみると面白いと書いたが、これを、『それは暗示だ。』とか、『それは催眠術です。』といってしまうのは非常にまずい。
というのは、そのような常識的な考え方については、すでにマニュアルには回答がある。
たぶん、そのカルト勧誘者はこう答えるだろう。
・・・あなたもご存じのように、暗示というのはかくかくしかじかというもので、催眠術というのはほりゃららというものです。
ところが、あなたも体験してみるとわかると思いますが、私たちの○○はこのような方法は一切つかいません。
だから、わたしたちの○○は、暗示でもなければ催眠術でもないのです。・・・
たいていの知識人といわれる人でも、該当する分野の専門的知識の無い人は、このような説明に科学的な反論をするのは困難である。
知識人と呼ばれる人は、自分のもっている科学的常識を信用してしまうので、その知識から導かれた結論、たとえば、
確かにこれは暗示でもなければ催眠術でもない、というものに確信をもってしまうという盲点がある。
だから知的エリートというのはカルトにはまりやすいのである。
これが普通の人なら直観的に これはおかしいという判断をするだろうし、またそうした直感は正解なのである。
これを思い出してほしい。
『最初はこの団体はおかしいと思っていたんだけど、実はそうではないことがわかった。』
というように、
いかがわしい団体の主張というのは、やはりたいていの人は、おかしいと思うのである。
実は、カルトは暗示も催眠術も使うのだが、常識的なものとは違うのである。 暗示や催眠術というのは、
基本的に本人に、これからそのような術を使うということを告知するし、またそうしないのはアンフェアである。
ところが、カルトはそれを本人に認識できない方法で使うので、これは暗示とか催眠術ではないと錯誤してしまう。
催眠術というのは、トランス状態に導くのだが、カルトは常識的なものとは違う方法でトランス状態を作り出してしまう。
また、そうしたトランス状態では批判能力が減退してしまうので、そんななかで色々な暗示を受け入れやすくなってしまうのである。
人をマインドコントロールの罠にはめるテクニックが確立されているというそういう意味で、
カルトは科学的なのである。
マインドコントロールからの脱出
常識的な反応にはすでに回答が用意されている。 では、彼らにどう応対すればいいのだろうか。
それにはマインドコントロールされない環境を作り出すことが必要である。
彼らに説得される必要がない状況にもっていくべきである。
善悪二元論の世界観に生きる彼らの思想を逆手にとるのである。
彼らの主張したいことをこちらから言ってしまうのである。 といっても、わたしたちは「グル」ではないので、
彼らが何を言いたいのかわかるはずがない。
会話の主導権を握るゲームをはじめる。
〈宗教編〉
・・・病気が治るんです。
・・・知ってますよ。なおるんでしょう。
・・・ええ、たしかにこれは暗示だと言う人は多いんですが・・・
・・・ちょっとまってください。わたしは暗示だとはいってません。
いやね、うちのかみさんがあなたと同じことをいっていたんだなあ。
病気がなおるんだ。 あれ、なんてったっけ。とっても不思議な技なんだ。
忘れちゃった。ほら、なんてったけ、あれですよ。あれ。 あれ、とってもいいんだ。あれ、なんでした?
・・・まま、まん・・・とらですか・・
・・・そう、それ。まんとら。
実はね。うちのかみさんの友達が、そのまんとらをやるんです。あれはとってもいいんですよ。
それでね、ちょうどその友達にそれをやってもらおうと思っていたところなんですよ。
・・・そうですか失礼しました。
〈バナナ編〉
・・・このふたつのバナナのどちらを選びますか。
・・・こっちですね。(高い方を指差す。)
・・・どうして・・
・・・いや実はね、わたしゃイタリア系の移民なんですよ。となり街にはアジア系移民が多かった。
アジア系の友達は多かった。それで、台湾だかフィリピンだかの移民の友達と一緒にバナナを食べたんだけど、
これがうまかったんだ。だからね、わたしはバナナにはちょっとうるさいんです。
これが、そう、こんな形をしていた。このバナナはうまいはずだ。ところでこれはどっちですか。
・・・フィリピンですが・・・
・・・そう、そいつはフィリピン系の移民だったなあ。
そいつが言うにはね、このバナナには秘密があるっていうんですよ。あれ、なんだっけなあ、難しくて忘れちゃったよ。
でもね、その秘密のためにバナナがうまくなるといっていた。あれ、なんでした?
・・・有機農法ですか。
・・それそれ、それ以来ね、わたしはバナナはこういうやつを選んでいるんです。なにしろ、わたしはバナナが好きだから、
家にはバナナをたくさんためこんでいるんですよ。
・・・そうですか、失礼しました。
カルトの体質
まともな団体かそうでないかを判断するのは難しい。
まず、いかがわしい団体に関係している人でも、
この文書を読んでもどこか別世界で起こっているような出来事にしか考えられないはずである。
その団体は正しいからである。
カルト内部の人間は、その団体がカルトであることは認識できない。
これは非常にやっかいな問題で、世間一般から見ていかがわしい団体でも、それは
悪が作り上げた勝手なイメージであり、
そうやって悪口を言われることは あらかじめ「予定」されている。
悪口を言われるほど、自分たちのイデオロギーが正しいことの証明になるわけであり、彼らのエリート意識をかきたてるだけである。
世間 ・マスコミから総攻撃されようとも 「本物だから叩かれるんだ」 という切り札?がある。
なにしろ、彼らの歴史は受難の歴史なのである。
頭ごなしに間違っていると批判したところで、そういう批判には耐えられるようになっている。
彼らのイデオロギーが正しいと仮定して論議をすすめると、打開の糸口になるかもしれない。
「あなたの団体は正しいのなら、こういうことはしないのではないか」という方向で議論する。
まず、まともな団体は情報統制をおこなわない。
これに対して、カルトは、「本当にこちら側が知りたいことにまるで答えてくれない」という特徴がある。
さらに、メンバーに伝えられる情報も統制しようとする。
勧誘の時点では、それが勧誘であることに気付かせない。 内容がわかりづらい。 あるいは偽装する。
たとえば、偽装団体である。 ある団体の下部組織で、主要メンバーから運営方針までコントロールを受けているのに、
当方は○○とは一切関係がありません、という。
こういう団体に限って、○○と関係があるんでしょう、というと必死になって否定するはずである。
これはかなり手がこんでいて、団体のメンバーであることは公表させないようにして、
一見して関係がわかりずらい下部組織のメンバーであることは言ってもよいことがある。
個人的見解は明かさないのが普通であるが、これは個人的立場というものが存在できないからである。
また、メンバーが外部の情報にふれさせないようにする。
これは意図的にそうする場合、たとえば○○は見るな、という指示をすることもあるが、
とにかくなにかやることが多いので、「結果的に情報不足」にさせる。
カルトのメンバーは世間でなにがおこっているのか知らされないし、現に知らない。 知りたいとも思わせない。
とにかく、カルトのメンバーは一見して情報をすごく持っているようにみえるが、実際にはそれはかなり限定されたものである。
その団体のイデオロギーが本当に正しいのなら、
類似した他の団体のメンバーとの接触や、元のメンバーとの接触もしていいはずであるが、
そのようなことは認めない。
メッキがはげてしまいそうなことは一切させないのである。
とにかく、カルトの公式イデオロギーや、宣伝、許可されたものしか外部には公表できないし、
また、自分も見ることができないようにされる。
もちろん、これが企業活動や、市民のプライバシーをもっている公的組織などならある程度の秘密があるのは当り前だが、
公的組織や企業などでも、可能な限りの情報公開をすすめるのが望ましいのは言うまでもない。
疑似科学
イデオロギーの普及をめざしているはずの団体が、情報統制をおこなうのはあきらかに矛盾している。
たとえば、カルトの理論や実践が科学的に証明されている、という主張の場合、
それに対する専門家の反対意見についてどのような対応をするのか注目してみると、
その姿勢が全く科学的でなく、疑似科学でしかないことがあきらかになるはずである。
これがまともな団体や研究者との違いになる。
まともな研究者なら、研究結果が思想信条を反映したものに引きづられることがあったとしても、
反対意見の存在そのものを認めないということはないし、研究結果には不利になるようなデータの存在も排除しない。
これがたとえば、憲法学者には自衛隊違憲という見解が主流のようであるが、これが一般的な憲法の解説書である場合、
合憲論の主張はこのようなものであり、政府見解はこのようなものである、ということを知ることができる。
これに対して、たとえば進歩的な学者が自衛隊は違憲なのだから、一般的な憲法の解説書に合憲論を載せる必要はないといいだしたら、
これは、全く学問的な態度ではない。
これは、
反共主義の政治学者が、共産主義は間違っているのだから、共産主義の利点、たとえば経済的格差の是正などに全くふれる必要がない、
といい出したときも同様である。
たとえば、キリスト教の信者であり、聖書の内容が正しいと信じている科学者であっても、
進化論が科学的に正しいと結論づけられるのなら、公的には創造論を否定できるはずである。
キリスト教系の学校が、進化論の存在そのものを生徒の目にふれさせないようにするのは明らかな情報統制であるが、
進化論の存在を認めた上で、宗教教育の一貫として創造論を強調するのも一つの教育的立場ではあろう。
これに対して、疑似科学とは、聖書が正しいという結論が先にあって、創造論を科学的に解明しようという動きである。
また、進化論については、その存在そのものを全く認めないか、
あるいはその否定的側面たとえば、進化の過程が完全に解明されていない、という部分だけを強調する。
なお、これは進化論が正しく、創造論が間違っていると科学者が主張するべきであるというものではない。
科学的に創造論が証明されたのなら、そういう結論でもかまわないのである。
カルトが行う情報統制の一例は、「思考停止」である。
たとえば、カルトの公式イデオロギーに反する意見は発表させない。 あくまでカルト内部で処理しようとする。
これが、ある意味でカルトが民主的な外観を装う原因になっているのだが、カルト内部ではある程度の批判は自由である。
もっとも、批判を全く許さないカルトも存在する。
ただ、これが外観だけでカルトの本質を隠すものであることは、
その批判によってカルトの公式イデオロギーがかわることがないし、外部への発表も許されない点である。
ようするに、形はどうであれ、カルトでは個人的意見が存在する余地がないのである。
カルトの公式イデオロギーと異なる意見をもったとしても、
例の相互批判によって、その意見をもった側が間違っているという結論にいたるか、あるいは無視されるだけのことである。
具体的に言えば、たとえばあるメンバーが公式イデオロギーに対する批判をされて、その答えがマニュアルに無い場合は、
その場で回答するのではなく、まずカルト内部で検討することになる。
そして、そのカルトに都合の良い解釈を付け加えられてから信者に伝えられる。
メンバーは、その結果を回答することになるのだが、ようするに、自分の頭で考える必要もないし、許されないのである。
もし、カルト内部でも解決できないような問題であれば、それは重要ではない、ということになって、無視してしまってよいのである。
ファシズムと終末思想
では、なぜカルトのメンバーはあらゆる自由を奪われてしまうのだろうか。
カルトにあるのは 「絶対的服従と恐怖」だけである。
といっても、
本人にはその自覚がなく、あらゆることを自分で決定でき、非常に満足した人生を送っていると感じている
はずである。
その生き方が、結果的にカルトの指向性と同じであるだけなのだ。
しかし、客観的にはあらゆる行動パターンがリーダーをそのままコピーしたものである。
これは、歩き方から足のくみ方、顔の表情、しゃべり方だけではない、息のすい方まですべて同じになってしまう。
というのは、そのカルトでの成果、たとえば新会員の獲得などのさまざまな活動で期待された効果が出ない場合は、
すべてマニュアルどうりやっていない、いわれた通りにしていない、という個人の責任に転嫁され、
言い訳は一切許されないからである。
成果がでないのは、それは本人の努力が足りない、あるいはやり方が悪い、勉強が足りないということになり、
それ以外の可能性は一切考慮されない。
そうしないと、そのカルトは正しいという前提が崩れてしまうからである。
なんらかの問題が発生した場合は、すべて個人の責任であり、カルトの問題ではない、ということにしておかないと、
都合が悪い のである。
したがって、リーダーのすることを丸ごとコピーすれば目的が実現できると思い込まされ、実際にそうする。
さらに、それに拍車をかけるのは恐怖である。 カルトはあらゆる手段を使って恐怖感を植え付けようとする。
組織に絶対服従して理想を実現しないと、「とんでもない災難」がおこると信じ込ませるのである。
この一例が終末思想である。
現実社会は矛盾だらけで希望がない。
いずれ現体制は破綻する運命にあるのだが、そのときまでに備えておかないと生き残れないという恐怖である。
あるいは、敵が攻撃している、最終戦争がおきるなどというあらゆる恐怖感を動員する。
マインドコントロールの総仕上げは恐怖である。
人に心理的操作をくわえても、最終的には自己保存の法則が働くので、極端なことはできないという説がある。
つまり、自殺や殺人の命令は拒否するということである。
ところが、恐怖という情報をインプットしてしまえば、このようなハードルも越えてしまう。
これは例えば、
ビルの五階から飛び降りるような命令は実行しないが、
その部屋が火事で飛び降りる以外に方法はない、という情報を与えれば飛び降りてしまう、という意味である。
逆にいえば、そのような硬直した体制、「極端な服従や恐怖をあおるようなこと自体」が、
そのカルトが正しくない証明なのである。
精神的サティアン
カルトの重要な部分、「恐怖」についてもう少し掘り下げてみたい。
・ ・ ・
「終末思想」については、それは普遍的なものだという指摘は当然あるだろう。
しかし、カルトがなぜ犯罪的なのかといえば、不当に恐怖を煽りたてて、人を精神的な奴隷にしてしまうところにある。
そこが、まっとうな団体とカルトとの違いなのである。
たとえば、物品販売をともなうカルトの扱う商品は決まっている。 健康や環境に関連する商品である。
ようするに、誰でも健康に暮らしたい、という願望に的をしぼっているのである。
裏を返せば、カルトが提供する商品を購入しなければ、健康どころか、場合によっては生命に危険が及ぶ、
といような恐怖感をあおっているわけである。
そういう意味では、何度も例に出している有機バナナは、精神的サティアンなのである。
オウムの信者は、サリン攻撃を受けているので、オウムの施設から出ては危ない、と思い込まされていた。
それと同じように、市場に出回っている農産物は農薬が大量に使用されているのだから危険だと思い込ませる。
☆サリンと農薬という違いはあるにせよ、その基本的構造は酷似している。
マインドコントロールと恐怖とで人を支配しようとする。 これほど卑劣極まるやり方があるだろうか。
通常の販売ルートでは、手に入らないものだから、定期的にそこから購入しなければならない。
健康という精神的鉄鎖でがんじがらめに縛りつけてしまうのだ。
類似商品を市価より高い値段で売りつけ、資金源にしようとする。 霊感商法とどう違うというのだろうか。
いっぺん聞いてみたいものである。
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