ルイーニは、スイスのルガノのサンタマリア・デッリ・アンジョリ教会に複数の絵を描いていますが、『最後の晩餐』、『キリストの受難と磔刑』の絵は、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院のダヴィンチの『最後の晩餐』を想起させるかのようです。
ただしルイーニの『最後の晩餐』は、ビフォーアフターのごとく、ダヴィンチの『最後の晩餐』がベースになっているとは信じがたいほどの大改造をしていました。
・ユダともう一人(誰か不明)がテーブルのこちら側にいる。
・ユダの足元に猫がいる。
・ペテロの背中の手もない。
・バルトロマイが反対側の端になっている。
・3つの窓を無くした。不自然さを無くすため、部屋の奥行を無くした。
・天を指す人差し指のトマスが、イエスの隣から大ヤコブの後ろになった。トマスには体もある。
・3つに分割されている(3つで1枚の最後の晩餐の絵になる。)
・イエスの愛する弟子が、イエスに寄りかかっている。
・料理が魚ではなく小羊の肉になっている。
※青枠の3人は視線からみると、3人一緒に反対側に移動したように思うのですが、ピンク枠のバルトロマイ以外の二人と、ピリポがどうなっているのかわかりません。
イエス・ヨハネ・ペテロ・大ヤコブ・トマス・ユダ・バルトロマイ以外の人物は、ポーズも変わっていて、ナイフや金袋といったアトリビュート(聖人を示す持ち物)もないので、どう移動したのかは推定だけで確定できません。
もう、ダヴィンチ以前の画家たちの『最後の晩餐』の描き方と、さほど変わらなくなってしまったのですが、それでもルイーニの絵がダヴィンチの絵を元にしたものであると言える根拠は、トマスの天を指す人差し指があるから。
ダヴィンチの『最後の晩餐』の構図を完全否定して、過去の画家たちの構図の方を肯定したのでしょうか?
果たしてそうでしょうか?
上の2枚の絵、ユダの足元に猫がいます。猫は、この時代、悪魔・魔女の使いとされ忌み嫌われていましたので、ユダの側に描くことがあります。
上の右の絵は、猫はユダと一緒にテーブルのこちら側にいますが、光輪がない人物は一人だけなので、それがユダだとはっきりわかります。
下のギルランダイオの絵も、猫がいます。こちらもユダには光輪はありません。
ルイーニの絵は、猫が側にいて袋を持っているのがユダ。この絵の人物は誰も光輪はつけていません。
ダヴィンチの構図を否定して、従来の構図を肯定する意味で変更したのであれば、ユダ以外の人物に光輪もつけるほうが自然です。 なぜ光輪をつけなかったのかが気になるのです。
そして、テーブルのこちら側にユダと対になるような位置に座る人物は、ダヴィンチの絵でいえばだれに該当するのか判別できません。容貌だけでみれば、ピリポよりもアンデレ(ペテロの兄弟)に似てるかな。
過去の構図で、テーブルのこちら側に何人か座らせるものもありますから、二人いても別に変ではないのですが、その場合のテーブルの形状は、横に長いものではなく、ぐるりと周囲を囲める幅のあるテーブルが普通。
ルイーニのは、テーブルの形状が細い長方形であるのに関わらず二人を反対側に座らせた点も気になります。
さらに気になるのは足。ユダでさえ履物があるというのに、もう一人は裸足なのです。
中央の絵の中の七人のうち、裸足なのは一人だけ。 両側の絵は、絵が劣化しているのか足元がよく見えません。一人だけ裸足にさせると目立つはずですので、両側のテーブルの向こう側の人物にも裸足の人がいるかもしれません。
光輪をつけなかった点、長方形のテーブルなのにユダともう一人を反対側に配置した点、その内ユダでない人物が裸足な点、これらは何を意味しているのか?
裸足の弟子というと、最後の晩餐の直前に、イエスが弟子たちの足を洗う場面が結びつくでしょう。
この足を洗う記述は4つの福音書のうち、ダヴィンチが『最後の晩餐』を描く元としたヨハネの福音書にしかありません。
ヨハネ福音書13章1-11節
過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。
イエスが弟子らの足を洗う時に、イエスと受け答えしているのはペテロだけです。他は、『弟子たち』とひとくくりに表現されているだけです。足洗いの場面における主要人物はペテロといえます。だから裸足の人物はペテロを示しているように見えるのです。
裏切り者はユダだけではない。ペテロもイエスを三度知らないと言って裏切っている。ユダとペテロの二人を移動させて、それを示したのがダヴィンチの『最後の晩餐』でした。
ルイーニの絵には、ヨハネの肩に手をかけ、ナイフを持つペテロがいます。ペテロは決してテーブルのこちら側に描くことはできない人物です。 しかし、ユダと対になるように座る人物もペテロに見てほしかったから、彼を裸足にしたと思うのです。
長方形のテーブルのこちら側には猫(悪魔の使い)がいます。猫は、ダヴィンチの絵の時にペテロの背中にあったヘビ(サタン)の代わり。
ユダだけでなく、もう一人の裏切り者にも光輪をつけたくなかったから、全員に光輪をつけなかった。
この解釈が正しければ、ルイーニはダヴィンチの『最後の晩餐』を肯定しているといえます。
否定ではなく、肯定するため
ダヴィンチの絵のバルトロマイには、ダヴィンチ自身を兼任して描いたであろう話は、ダヴィンチの『最後の晩餐』の記事でしました。バルトロマイは、テーブル上の全員の変化を見渡すことのできる人物です。そのバルトロマイ(兼ダヴィンチ)が、反対側(逆)の位置に移動しています。この『逆』というのがヒントだと思うのです。
ルイーニ )3つの窓を無くした。不自然さを無くすため、部屋の奥行を無くした。
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ダヴィンチ)3つの窓に意味があった。不自然さを無くすため、部屋の奥行が必要だった。
ルイーニ )天を指す人差し指のトマスが、イエスの隣から大ヤコブの後ろになった。トマスには体もある。
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ダヴィンチ)天を指す人差し指のトマスが、イエスの隣にいることに意味があった。トマスの体は無いことに意味があった。
ルイーニ )3つに分割されている(3つで1枚の最後の晩餐の絵になる。)
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ダヴィンチ)1枚の最後の晩餐の絵に、複数枚の意味があった。
ルイーニ )イエスの愛する弟子が、イエスに寄りかかっている。
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ダヴィンチ)イエスの愛する弟子が、イエスから離れていることに意味があった。
ルイーニ )料理が魚ではなく小羊の肉になっている。
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ダヴィンチ)料理が小羊の肉ではなく魚に意味があった。
逆説的暗号といったらいいでしょうか。
ルイーニは、ダヴィンチの『最後の晩餐』の構図を否定するためではなく、自分との違いの部分に、ダヴィンチの真の意味があることを伝えたくて、大改造したのだと考えられます。
あらゆるものは、他のあらゆるものと関連する
レオナルド・ダ・ヴィンチの名言より