天を指す人差し指の意味を 
ラファエロとボッティチェリは知っていた

レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた絵の中には、「天を指す人差し指」のポーズが出てきます。
『東方三博士の礼拝(マギの礼拝)』、『最後の晩餐』、『聖アンナと聖母子』、『洗礼者ヨハネ』の4点です。
黄色の丸枠内に天を指す人差し指があります。
この「天を指す人差し指」の意味と、ラファエロとボッティチェリは、その意味を知った上で自分の絵に取り入れていたことについて説明します。
ダヴィンチが最後に描いた『洗礼者ヨハネ』は、人差し指を天に向けていますが、本来はイエスに直接向けるべきポーズです。 聖書の中で、洗礼者ヨハネがイエスに向かって「見よ、神の小羊」とイエスと指し示した様子を表現したポーズだからです。 ですから、普通は以下の絵のように、洗礼者ヨハネがイエスに向かって指さすポーズになります。

次に、ダヴィンチが最後に描いた『洗礼者ヨハネ』の絵が、もしもこの世に存在していなかったら?と仮定して、下の3枚の絵を見た場合、「天を指す人差し指」は、どういった意味にとらえられるでしょうか?

『マギの礼拝』では、2つとも手首だけであり、誰の手首かは判りません。
イエスに向けて指されてもいません。
意味不明です。

『最後の晩餐』では、12弟子のトマスの手首として描かれております。
イエスに向けて指されてはいませんので、トマスがイエスに 『裏切り者は一人ですか?』と伺っていると、とらえるのが一般的。
『聖アンナと聖母子と洗礼者ヨハネ』では、絵の中に、洗礼者ヨハネがいるのですが、天を指している手首は聖アンナのものです。
幼子イエスがいるのに、イエスに向けているわけでもありません。
この意味としては、ウィキペディア『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』では、【幼児二人の頭のすぐ近くに描かれたアンナの人差し指は真っすぐ天国を指し示しており、祝福がもともとは天国に由来することを表していると考えられる。】と記載されています。

『マギの礼拝』では誰の手首か不明で、
『最後の晩餐』ではトマスの手首として、
『聖アンナと聖母子と洗礼者ヨハネ』では聖アンナの手首として描かれていて、なおかつイエスを指してもいないので、天を指す人差し指が、洗礼者ヨハネのものだとは、この3枚の絵だけでは判らないのです。
だから、ダ・ヴィンチは「天を指す人差し指」の本当の意味を種明かしするために、最後に『洗礼者ヨハネ』を描いたのです。
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洗礼者ヨハネが中性的に見えるのは? 

ダヴィンチの描く『洗礼者ヨハネ』は、男性でありながら女性にも見える中性的なほほえみを浮かべています。
男にも女にも見えるように中性的に描いたのは、ダヴィンチの性的趣向によるものではなく、男性に女性が、女性に男性がというように、男女の性別を超えた兼任があったことに気づいてもらうためです。
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天を指す人差し指の意味は?

洗礼者ヨハネの「見よ、神の小羊」の応用。
なぜ天を指しているかというと、「十字架にかかる前のイエス」を指すのではなく、十字架にかかったのち、天から再び来られる「再臨するイエス」を指すためだからです。 また絵の中において、イエスを直接的に指すことができない場合に使用するポーズだと自分は解釈しました。この最後の絵によって、天を指す人差し指は、洗礼者ヨハネのポーズだと見ることができるようになったのです。
この解釈をもって、再度3枚の絵を見ていきますが、『東方三博士の礼拝』については長くなるので、
別記事→東方三博士の礼拝をお読みになってください。


『最後の晩餐』の場合、トマスの「裏切り者は一人ですか?」の意味に見えた人差し指は、トマスの首だけの様子と合わせてみて、洗礼者ヨハネが兼任されていることが証明されます。

さらに、ボッティチェリの『聖三位一体』の絵と照らし合わせることによって、イエスの反対隣の人物はマグダラであると推測できるのです。 『洗礼者ヨハネ』が中性的に描かれたことによって、男女の性別を超えた兼任も有りですから、12弟子のヨハネ(男性)に、マグダラのマリア(女性)が兼任してもおかしくないのです。

詳しくは別記事→最後の晩餐をお読みになってください。


次に、『聖アンナと聖母子と洗礼者ヨハネ』の場合です。


後世の人がつけたタイトル通りに見るならば、この絵に描かれているのは聖アンナ・聖母マリア・幼子イエス・洗礼者ヨハネです。しかし、この絵には天を指す人差し指がありますので、自分の解釈からすれば「再臨のイエス」または「直接指すことのできないイエス」がいることになります。

この絵は、幼子イエス→子どものイエス→大人のイエスと、女性(聖母マリア又はマグダラ)。
1枚の絵の中に時間の異なるイエスを3人描いたとみえます。これも異時同図の応用でしょう。
絵の中に3人イエスがいて、直接誰かを指すことができないので、「天を指す人差し指」なわけです。

なぜ時間の異なるイエスを描いたのか?

他の絵にヒントがあります。ダヴィンチの絵は、その弟子たちが類似品を描くことがよくありますが、レオナルド派で『糸車の聖母』というタイトルがつけられた作品が数点あります。残念ながら、ダヴィンチ本人による『糸車の聖母』は、まだ見つかっていません。


『糸車の聖母』
の幼子イエスが持つ棒は、洗礼者ヨハネの十字架の杖にも似ていますが、幼子の右手近くにも横棒がありますので、十字架ではなく糸車の部品の棒なのですが、幼子の視線はまるで十字架にかかる未来を見つめているようでもあります。

クルクルと回転する『糸車の棒』は、幼子イエスが子どもになり、大人になり、十字架にかかったあとも、クルッと回って再び還って糸をつむぐ、幼子イエス→子どものイエス→大人のイエス→幼子イエス→子どものイエス→大人のイエス・・・と、イエスの再臨を願うダヴィンチの表現だったと思うのです。

『聖アンナと聖母子と洗礼者ヨハネ』も同様、また天から還ってくるという表現です。

なぜ、幼子イエス→子どものイエス→大人のイエスの3つの年代になっているかというと、聖書に描かれているイエスが、産まれたころのイエス、12歳の頃のイエス、大人になってからのイエスと、主に3つの年代のイエスが書かれているからでしょう。



天を指す人差し指は、
「十字架にかかる前のイエス」を指すのではなく、十字架にかかったのち、天から再び来られる「再臨するイエス」を指すため。 また絵の中において、イエスを直接的に指すことができない場合に使用するポーズです。 ラファエロとボッティチェリは、その意味を知って自分の絵に取り入れていました。


ラファエロが描いた『天を指す人差し指』とイエス

『アテナイの学堂』は、バチカン宮殿内の署名の間にある壁画です。この絵は、古代ギリシアの哲学者たちを描いたものです。


黄色の枠で囲ってあるのが重要人物。
中央にいるのが、プラトンですがダヴィンチが兼任されています。向かって右端方向で顔をこちらに向けているのがラファエロです。ラファエロは古代ギリシアの画家アペレスとして描かれているそうです。
この絵でも、ある人物に別の人物を兼任させる描き方をラファエロは示しています。

この絵で注目して欲しいのが、天を指す人差し指をしているダヴィンチと、ラファエロのように顔をこちらに向けている等間隔の左側の3人です。 彼らが直接指すことのできないイエスです。
『聖アンナと聖母子と洗礼者ヨハネ』と同じ、幼子イエス→子どものイエス→大人のイエスの組み合わせの時間の異なるイエス。 根拠は、ラファエロと対になるような線上での3人の並び方と視線にあります。
白い服を着た人物については、ヒュパティア、ラファエロの愛人マルゲリータとも言われています。どちらにしても、プラトンにダヴィンチが兼任されていたように、白い服の人物にはイエスが兼任されているということです。




ボッティチェリが描いた『天を指す人差し指』とイエス

古代ギリシアの画家アペレスが描いたとされる絵をボッティチェリが再現したものが『ラ・カルンニア(アペレスの誹謗)』です。



描かれている10人は、無実・不正・誹謗といった10の意味が擬人化されています。
無実の男性が誹謗に髪をつかまれ、不正の王の前に引きづられています。
(※この絵はイエスとは何の関係もないテーマの絵です。)
この絵で注目して欲しいのが、真実の女性が天を指す人差し指をしていることです。



無実の男性の手のポーズは、ヴェロッキオの『キリストの洗礼』のイエスと同じです。(『キリストの洗礼』は、ダヴィンチが天使の一人を描いた絵です。) そして、無実の足の組み方は、イエスが十字架につけられるときの組み方を想起させるものです。 これらの観点から、無実イエスが兼任されていると言えるのです。



ラファエロの『アテナイの学堂』、ボッティチェリの『ラ・カルンニア(アペレスの誹謗)』を見れば、二人はダヴィンチの天を指す人差し指の意味を知っていたことが判るわけです。