『最後の晩餐』の場合、トマスの「裏切り者は一人ですか?」の意味に見えた人差し指は、トマスの首だけの様子と合わせてみて、洗礼者ヨハネが兼任されていることが証明されます。
さらに、ボッティチェリの
『聖三位一体』の絵と照らし合わせることによって、イエスの反対隣の人物はマグダラであると推測できるのです。
『洗礼者ヨハネ』が中性的に描かれたことによって、男女の性別を超えた兼任も有りですから、12弟子のヨハネ(男性)に、マグダラのマリア(女性)が兼任してもおかしくないのです。
詳しくは別記事→最後の晩餐をお読みになってください。
次に、
『聖アンナと聖母子と洗礼者ヨハネ』の場合です。
後世の人がつけたタイトル通りに見るならば、この絵に描かれているのは聖アンナ・聖母マリア・幼子イエス・洗礼者ヨハネです。しかし、この絵には天を指す人差し指がありますので、自分の解釈からすれば「再臨のイエス」または「直接指すことのできないイエス」がいることになります。
この絵は、
幼子イエス→子どものイエス→大人のイエスと、女性(聖母マリア又はマグダラ)。
1枚の絵の中に時間の異なるイエスを3人描いたとみえます。これも異時同図の応用でしょう。
絵の中に3人イエスがいて、直接誰かを指すことができないので、「天を指す人差し指」なわけです。
なぜ時間の異なるイエスを描いたのか?
他の絵にヒントがあります。ダヴィンチの絵は、その弟子たちが類似品を描くことがよくありますが、レオナルド派で
『糸車の聖母』というタイトルがつけられた作品が数点あります。残念ながら、ダヴィンチ本人による
『糸車の聖母』は、まだ見つかっていません。
『糸車の聖母』の幼子イエスが持つ棒は、洗礼者ヨハネの十字架の杖にも似ていますが、幼子の右手近くにも横棒がありますので、十字架ではなく糸車の部品の棒なのですが、幼子の視線はまるで十字架にかかる未来を見つめているようでもあります。
クルクルと回転する『糸車の棒』は、幼子イエスが子どもになり、大人になり、十字架にかかったあとも、クルッと回って再び還って糸をつむぐ、
幼子イエス→子どものイエス→大人のイエス→幼子イエス→子どものイエス→大人のイエス・・・と、イエスの再臨を願うダヴィンチの表現だったと思うのです。
『聖アンナと聖母子と洗礼者ヨハネ』も同様、また天から還ってくるという表現です。
なぜ、幼子イエス→子どものイエス→大人のイエスの3つの年代になっているかというと、聖書に描かれているイエスが、産まれたころのイエス、12歳の頃のイエス、大人になってからのイエスと、主に3つの年代のイエスが書かれているからでしょう。
天を指す人差し指は、
「十字架にかかる前のイエス」を指すのではなく、十字架にかかったのち、天から再び来られる「再臨するイエス」を指すため。 また絵の中において、イエスを直接的に指すことができない場合に使用するポーズです。 ラファエロとボッティチェリは、その意味を知って自分の絵に取り入れていました。
ラファエロが描いた『天を指す人差し指』とイエス
『アテナイの学堂』は、バチカン宮殿内の署名の間にある壁画です。この絵は、古代ギリシアの哲学者たちを描いたものです。
黄色の枠で囲ってあるのが重要人物。
中央にいるのが、
プラトンですがダヴィンチが兼任されています。向かって右端方向で顔をこちらに向けているのがラファエロです。ラファエロは古代ギリシアの画家アペレスとして描かれているそうです。
この絵でも、
ある人物に別の人物を兼任させる描き方をラファエロは示しています。
この絵で注目して欲しいのが、天を指す人差し指をしているダヴィンチと、ラファエロのように顔をこちらに向けている等間隔の左側の3人です。 彼らが直接指すことのできないイエスです。
『聖アンナと聖母子と洗礼者ヨハネ』と同じ、
幼子イエス→子どものイエス→大人のイエスの組み合わせの時間の異なるイエス。
根拠は、ラファエロと対になるような線上での3人の並び方と視線にあります。
白い服を着た人物については、ヒュパティア、ラファエロの愛人マルゲリータとも言われています。どちらにしても、プラトンにダヴィンチが兼任されていたように、白い服の人物にはイエスが兼任されているということです。
ボッティチェリが描いた『天を指す人差し指』とイエス
古代ギリシアの画家アペレスが描いたとされる絵をボッティチェリが再現したものが
『ラ・カルンニア(アペレスの誹謗)』です。
描かれている10人は、
無実・不正・誹謗といった10の意味が擬人化されています。
無実の男性が
誹謗に髪をつかまれ、
不正の王の前に引きづられています。
(※この絵はイエスとは何の関係もないテーマの絵です。)
この絵で注目して欲しいのが、
真実の女性が天を指す人差し指をしていることです。
無実の男性の手のポーズは、ヴェロッキオの
『キリストの洗礼』のイエスと同じです。(
『キリストの洗礼』は、ダヴィンチが天使の一人を描いた絵です。) そして、
無実の足の組み方は、イエスが十字架につけられるときの組み方を想起させるものです。 これらの観点から、
無実に
イエスが兼任されていると言えるのです。
ラファエロの『アテナイの学堂』、ボッティチェリの『ラ・カルンニア(アペレスの誹謗)』を見れば、二人はダヴィンチの天を指す人差し指の意味を知っていたことが判るわけです。