エホバ復元

新世界訳が新約聖書(クリスチャン・ギリシャ語聖書)部分で、エホバのみ名を復元しているのは有名な話です。

この問題は参照資料付き新世界訳聖書の付録「1ニ」の中で詳細に論じられていますが、復元の根拠は多数の中世期ヘブライ語訳新約聖書であり、勿論新世界訳訳者の文脈判断が決め手になっていることが分かります。

諸写本から推定された本文では主や神となっているものを、あえて固有神名に変えるのは余程の慎重さが要求される事柄でしょう。

特に「主」の場合は主エホバと主イエスの両方の使い方があるのですから、もし聖書筆者が主イエスのつもりで「主」と書いたものを「エホバ」と翻訳してしまうと、主イエスの可能性を読者から全く奪い去ってしまうからです。

訳文の本文では単に「主」と訳して、脚注で「エホバの意」と解説するか、
或いは「主[エホバ]」と[ ]付きに訳して、訳者の見解であることを明示するかの配慮をするのが良心的であろうと思います。

実際にそのような(新世界訳ではエホバと訳しているが、聖書筆者は主イエスのつもりであったかも知れない)疑念のあるところを2箇所指摘しておきます。

今後また気になる箇所が出て来るかも知れませんが、今回はとりあえず2箇所だけ取り上げます。

ローマ10:13

「「エホバの名を呼び求める者はみな救われる」のです。」

これはヨエル2:32の引用であると考えられていて、従って問題なくエホバ復元の出来るところと見なされています。

確かに使徒2:17−21でペテロがヨエル2:28−32を引用している場合は文字通りの引用ですが、ローマ10:13のパウロの引用はヨエルのもじりで、パウロはエホバとして預言された聖句の実体が実はイエスを指していたと言いたかったのではないかと思います。

ローマ10章の文脈を見てみましょう。

キリストは律法の終わりであり、こうして信仰を働かせる者はみな義を得るのです。モーセは、律法の義を行った人はそれによって生きる、と書いています。
しかし、信仰の結果である義はこのように語ります。「あなたの心の中で、『誰が天へ上るだろうか』と言っては、つまりキリストを引き下ろそうとしてはならない。また、『だれが底知れぬ深みへ下るだろうか』と[言っては]、つまりキリストを死人の中から引き上げようとしてはならない」。
では、それは何と言うのですか。「その言葉はあなたに近く、あなたの口の中、あなたの心の中にある」。つまり、信仰の「言葉」のことであり、わたしたちが宣べ伝えているものです。

その『あなたの口の中にある言葉』、つまり、イエスは主であるということを公に宣言し、神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら、あなたは救われるのです。

10人は、義のために心で信仰を働かせ、救いのために口で公の宣言をするからです。
11聖書は、「彼に信仰を置く者はだれも失望させられない」と言っています。

12ユダヤ人とギリシャ人の間に差別はないからです。全てのものの上に同じ主がおられ、この方はご自分を呼び求める全てのものに対して豊かなのです。

13「エホバの名を呼び求めるものはみな救われる」のです」。

この部分に関して、ものみの塔77 5/1 p287 読者からの質問は「ローマ10章12節で言及されている「主」はだれのことですか。主イエス・キリストですか、それとも主エホバのことですか」と言う質問を取り上げていますが、
その回答は9-11節の主はイエス・キリストであるが(11節の「彼」はイザヤ28:16引用で、「貴重な隅石」キリストのこと)、13節はヨエルの引用でエホバのことであるから、12節の主がどちらであるかはなんとも言えないというものです。

しかしこのローマ10章の文脈から見て、特に9節で「イエスは主である」と認めることこそが肝要であると強調した後で、パウロが12,13節で今更改めて救い主がエホバであることを指摘するとは思えません。

彼の論点は「旧約聖書の預言は実はイエス・キリストこそが救い主であると言っていたのだよ」と言うことにあります。

エホバが究極の救い主であることはパウロにとっても読者にとっても自明のことであり、彼が強調したかったのはひとえにそれがイエス・キリストを通してもたらされるものであるということであったと思われます。

勿論パウロが「イエス=エホバ」と言う三位一体的思考を示唆していた筈はなく、彼は単に「わたしは道であり、真理であり、命です。わたしを通してでなければ、だれひとり父のもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6)というイエスの役割(立場、地位)を、新たに啓示された真理として、「良いたより」の中心に据えていたに過ぎません。

救い主としてのイエス・キリストの名の強調は、パウロ以前にも使徒4:12でのペテロの発言にも見られます。
「さらに、ほかのだれにも救いはありません。人々の間は与えられ、わたしたちがそれによって救いを得るべき名は、天の下にほかにないからです」

10章8,9節で、元々は「わたし[エホバ]が今日命じているこのおきて」、すなわち律法の意味であった申命記30:11−14中の「言葉」をパウロは「イエスは主である」との告白として適用しています。

とすれば、パウロが元々のヨエル2:32の「エホバの名」を「イエス・キリストの名」と適用して強調したと言うことは十分に考えられます。

ついでですが、10章9節の「その『あなたの口の中にある言葉』、つまり、イエスは主であるということを公に宣言し」と言う部分は、ギリシャ語本文からは「その言葉、つまり、イエスは主であるということを口の中で公に宣言し」としと訳すことも出来るようです。
事実新世界訳以外の多くの翻訳では、「その言葉」が欠落している系統の写本を採用した本文に基づいて訳しているので、単に「イエスは主であるということを口で公に宣言し(或いは告白し)」と言う訳文になっています。

この方が次の10節との調和が良いと思います。

しかし新世界訳の訳し方だと、『あなたの口の中にある言葉』として申命記30:14が強調されてくるので、いよいよこの預言が実はイエスこそ主であるということを予め指し示していたのだというパウロの論点が、より強調されてしまうという皮肉な結果になっています。

パウロのこのような(元々は他のものを指していた旧約聖書の言葉を、イエス・キリストに適用してしまうという)論法はヘブライ1:6節に良く表れています。

パウロはこう書いています。
「しかし、その初子を人の住む地に再び導き入れる際にはこう言われるのです。「そして神の使いたちはみな彼に敬意をささげよ」」

これは相互参照で見ると、詩篇97:7の引用とされています。
詩篇97:7では敬意をささげる対象「彼」は明らかにエホバを指していますが(洞-1 p824 「敬意をささげる」、同趣旨のものとして塔71 3/15 p189,190 「読者からの質問」も)、パウロは「彼」をイエス・キリストに適用しています。

詩篇97:7は無価値な偶像の神々とその崇拝者たちに裁きが執行される時のことを述べています。
この裁きも究極の裁き主はエホバですが、パウロはそれがイエス・キリストを通してもたらされることを強調したかったのだと思います。

 

コリント第二3:16

6−8および14-16節を書き出します。

実際[神]はわたしたちを新しい契約の奉仕者、つまり書かれた法典ではなく霊の[奉仕者]としてじゅうぶんに資格を得させてくださいました。書かれた法典は死罪に定めますが、霊は生かすのです。
さらに、死をもたらし、文字で石に彫り込まれた法典が栄光のうちに生じ、その結果、イスラエルの子らがモーセの顔を、その顔の栄光ゆえに、すなわち除き去られることになっていた[栄光ゆえに]じっと見つめることが出来なかったのであれば、
霊をもたらすことにはなおいっそうの栄光が伴うはずではありませんか。

14彼らの知力は鈍っていました。同じベールが今日まで、古い契約の朗読の際に取られずに残っているのです。というのは、それはキリストによって除き去られるものだからです。
15実際、今日に至るまで、モーセが読まれるときにはいつも、彼らの心の上にベールが掛けられています。

16しかし、転じてエホバに向かうとき、ベールは取り除かれるのです。

17さて、エホバは霊です。そしてエホバの霊のあるところには自由があります。18そして、わたしたちすべては、ベールをしていない顔で、エホバの栄光を鏡のように反映させながら、霊なるエホバのなさるとおりに、栄光から栄光へと、同じ像に造り変えられてゆくのです」

ものみの塔05 8/15 p23 15節では「[神のご意思を行うために]転じてエホバに向かうとき、ベールは取り除かれる」と解説しています。

しかしここでパウロは崇拝者の側の心のあり方、態度を強調しているのではなく、この前にある3:6-11で力説しているように、律法の不完全さとそれに対比してのイエス・キリスト(および彼によってもたらされた新しい契約)の優越性を強調しているように思えます。

14節で「それ(ベール)はキリストによって除き去られるものだからです」と言ったすぐ後で、16節で「転じて『主』に向かうとき、ベールは取り除かれるのです」と言っているのですから、16節の『主』は主エホバではなく主イエスと考えるべきではないでしょうか。

16節の『主』が主イエスだとすると、筆者パウロとしては、17節および18節の2回目の『主』も主エホバではなく、主イエスのつもりであった可能性が濃厚です。
3章6節や8節で霊を書かれた法典と対比しているのですから、その方が流れはスムーズです。

この考えはローマ8:2「キリスト・イエスと結びついた命を与える霊、その[霊]の律法があなたを罪と死の律法から自由にしたからです」という記述とも調和しているのではないでしょうか。

又蛇足ですが、「死をもたらし」、「霊をもたらす」と訳されている部分の原語は「死の奉仕の務め(または奉仕)」、「霊の奉仕の務め(または奉仕)」です。
従って7節は「文字で石に彫りこまれた法典における死の奉仕の務めが栄光のうちに生じ」、「霊の奉仕の務めにはなおいっそうの栄光が」となるでしょう。

そうすると4:1の「この奉仕の務め」が霊の奉仕の努めであることがより鮮明になり、理解が助けられると思います。

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