油そそがれた者

協会の出版物には「油そそがれた者」、という言葉が頻繁に出てきます。
そしてそれはいわゆる天的級を指す言葉として用いられています。

では聖書中にそのような用法は見られるのでしょうか。

聖書では油そそがれた者(クリストス)とはすなわちキリストのことです。

新約聖書でこの称号がイエス以外の者に用いられた例は、ヘブライ11:26でモーセに適用されているだけです。

この語が弟子たちに使われている例は一つもありません。
むしろ自らを油そそがれた者=キリストと称する者は偽キリストとして弾劾されています(マタイ24:23、24)。

関係する語として、油そそぐ(クリオー)及び油そそぐこと(クリスマ)があるので調べてみましょう。

油そそぐ(クリオー)は5回出てきますが、4回まではイエスに適用されており、弟子たちに適用されているのは1回のみです。

コリント第二1:21、22
21しかし、あなた方とわたしたちがキリストに属することを保証してくださる方、そしてわたしたちに油を注いでくださった方は神です。
22[神]はまたわたしたちにご自分の証印を押し、来るべきものの印、つまり霊をわたしたちの心の中に与えてくださったのです」

油そそぐこと(クリスマ)は3回出てきますが、うち2回はヨハネ第一2:27です。

ヨハネ第一2:20
「そしてあなた方には聖なる方からの油そそぎがあります。あなた方はみな知識を持っています」

ヨハネ第一2:27
「そしてあなた方についていえば、彼から受けた油そそぎがあなた方のうちにとどまっており、誰かに教えてもらう必要はありません。むしろ、彼からの油そそぎがすべてのことについてあなた方を教えており、またそれが真実であって偽りでないように、そしてそれがあなた方に教えたとおりに、引き続き彼と結ばれていなさい」

これらの用例から見ると、「油そそがれる」とは「証印を押される」「霊を心の中に与えられる」(上記コリント第二1:22等)、「聖霊を受ける」(ヨハネ20:22等)ことと同義であるが、「油そそがれた者」という称号は弟子たちには使われていない(称号としてはキリストたるイエスに専用される語)ということが分かります。

(この「証印を押される」に関しては最近の読者からの質問で面白い見解が発表されていますので、本項の末尾に付記しておきます)

またこれも協会が頻繁に用いる「霊(或いは聖霊)をもって(或いはによって)油そそがれる」という表現も聖書中には一例があるだけです。

「すなわち、ナザレから来たイエスのことで、神がどのように聖霊と力をもってこの方に油そそがれたかということです。この方は善いことを行いながら、また悪魔に虐げられている者すべてをいやしながら、国中を回りました。神が共におられたからです](使徒10:38)
ですが、イエスに適用されています。

一方協会は、聖霊を受けることと、油そそがれることを別個の事柄として考えているようです。

例えば、塔04 5/15 p29の読者からの質問中に、
「神の僕で地的な希望を持つ人は、聖霊で油そそがれているわけではありません。とはいえ、それらの人たちも天的な希望を持つ人と同じだけの神の霊を受けることができます」
との説明があります。

同様に、塔96 6/15 p31の読者からの質問でも、
「ほかの羊級の忠実な兄弟姉妹は、油そそがれた者たちと同等に神の聖霊を受けることができます」
と答えています。

また、塔98 2/15 p21の13節では、
「天的な希望を与えられたクリスチャンは聖霊で油そそがれています。しかし、地的な見込みを持つ神の僕たちにも、霊の助けと導きがあります。――ですから、神の霊を持っているとは、必ずしも天の召しにあずかっているという意味ではありません」
と述べています。

しかし、神の聖霊を受けた者の中に、聖霊で油注がれた者とそうでない者がいるという解釈は、聖書的かどうかを問われる前に、そもそも論理的と言えるのでしょうか。

聖霊を受けるという言葉と聖霊で油注がれるという言葉は、同じことを指しているのではないでしょうか。

どちらの解釈を取るかは、天的級と地的級で述べた狭義の神の民説をとるか広義の神の民説を取るかに依存していると言えるでしょう。

それにしても、地的級も天的級と同じだけの神の聖霊を受けていると言う協会の解釈は非常に興味深いものがあります。
もしそう解釈するのなら論理的には、天的級も地的級も共に神の民として取り分けられた聖なるもの、神の民として召された者、すなわち聖霊で油そそがれた者という広義の神の民説に導かれざるを得ないと思うのですが、皆様はどう思われますか。

付記

塔 07 1/1 の読者からの質問に「啓示7章3節に出てくる証印とは何ですか」と言う記事があります。

そこでは
「とはいえ、油そそがれた者たちに証印を押すことには二つの段階があります。最初の証印を押すことと最終的な証印を押すことは、(1)目的と、(2)時の点で異なっています。
最初の証印は、油そそがれたクリスチャンのグループに加えられる新たな成員を選定するためのものです。
最終的な証印は、それら選ばれて証印を押された個々の成員が忠節を十分に実証したことを確証するためのものです」
と説明されています。

これはいわば当たり前のことを確認しただけで、協会の見解が変化したわけではありません。
協会は依然として最初の証印を押されるのは天的級だけという狭義の神の民説を固守しています。

しかし、証印を押すことに二段階があるように、油そそぐことにもその結果として聖なる者とすることにも二段階があると考えるとどうでしょうか。

つまり、証印を押されることも、油そそがれることも、聖なる者とされることも、召されることもみな実質的に同じことを指しており、みな第一段階は天的級となる可能性を含んだ広義の神の民の一員とされることであり、第二段階は忠節を実証し(啓示の七つの会衆への音信で言えば征服した者と見なされ)、天的級の一員とされることだと言う解釈です。

このサイトでは一貫してこの解釈を推進しています。

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