輸血問題

輸血拒否問題は一般の方々から見た時、エホバの証人問題の焦点と言えるでしょう。

したがってエホバの証人に批判的なサイトでは、必ずと言って良いほど輸血問題が取り上げられています。

正直もう良いやという気持ちで、あえてこの問題を取り上げることは避けていましたが、ゲストブックで見解を求められましたので、ゲストブックで回答するよりは正式に取り上げた方が良かろうと思い今更ながらではありますがわたしの考えを取りまとめてみました。

この問題の聖書的根拠を論じている協会の一番最近の資料は2004年6月15日号のものみの塔です
(もっとも、それ以前の資料に比べて新しいところは何もありませんが)。


まず第一研究記事「命という賜物の価値を正しく認める」の5,6節(p14,15)では、創世記9:4「ただし、その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」を引用して、「ここで神が禁じておられるのは命を支えるために血を摂取することであり」と解説しています。

しかし「命を支えるために血を摂取する」という考えがこの聖句から読み取れるでしょうか。

ここで神が禁じておられるのは単に「その魂つまりその血を伴う肉を食べること」であり、「命を支えるために」とか「摂取する」という概念は協会が独自の考えで読み込んだものです。

(「命を支えるために」は救命処置としての輸血を意識していますし、「摂取する」は食物として経口的に食べることだけでなく、血管に注入する輸血を含ませることを意識しているのは明白でしょう)。

神がここで命じておられるのは、動物を食用に屠ったら、その肉を食べる前にまず神のものであるその命(魂)を神に返せ、つまりその動物の命の本来の所有者である神に「有難うございます。いただきます」という感謝の表明をせよ。命の象徴は血であるから、血を地面に注ぎ出すことでそれを表せということだったのではないでしょうか。

血液という物質を食べてはいけないということではなく、血抜きという儀式を行えと言うことだったと理解することの妥当性は、どの程度血抜きすれば良いか等と言うことは何も規定されていないことから分かります。

少々丁寧に血抜きしたところで肉の中にはかなりの血液が残っていることは当時の人々でも十分知っていた筈です。

次いで律法時代に入ると、動物の血は贖罪のために祭壇に供されました。
しかしここでも焦点は物質の血液ではなく犠牲にされる動物の命でした。

犠牲にされる動物は殺される(屠られる)ことが必要でした。
何匹もの動物から少しずつ血液を採取して祭壇に供し、少し血液を取られた動物はそのまま生かしておいたなら、そのような血に犠牲としての効力があったと思われますか。
「血が、[その内にある]魂によって贖罪を行うからである」(レビ記17:11)という聖句の趣旨からしても、そのようにして集められた血液は贖罪をなし得る血とは見なされなかったのではないでしょうか。
重要なのは物質としての血液でなく、血が象徴していた命(魂)であったことは明白でしょう。

律法により、血抜きをしていない肉を食べたり、血そのものを飲んだりすることは、律法に対する重大な違反と見なされるようになりました。
しかしここでも依然として血抜きの程度は大雑把なもので良しとされていました。

時代が下って、イエス・キリストが贖いの死を遂げられると血が命を象徴する故に、キリストの血、イエスの血という表現が新約聖書中に頻繁に出てきます。
そのうちのいくつかがp18の囲みの中で列挙されています。

勿論これらの聖句で言われている血は命のことであり、物質の血液ではあり得ません。
キリストの血とは、犠牲として捧げられたキリストの命、その贖いとしての価値のことです。

17節(p17)で「ご自身の血を携え、ただ一度かぎり聖なる場所に入り、[わたしたちのために]永遠の救出を得てくださったのです」(ヘブライ9:12)が引用されていますが、物質の血液を携えて天の至聖所に入ることなど出来ないのはあまりに自明のことですから。

一寸気になるのは18節(p18)で引用されているローマ3:25の翻訳です。
新世界訳は「神はこの方を、その血に対する信仰によるなだめのための捧げ物として立てられました」と訳しています。
英文新世界訳は"God set him forth as an offering for propitiation through faith in his blood."となっています。

この"through faith in his blood"を一繋がりの句と見なす訳し方は欽定訳を踏襲して(文法的には自然な訳ですから)いますが、W.E.Vine はそのFAITHの項のNotes(4)の中で、ここは"through faith, by his blood"とthrough faith と by his blood をそれぞれ別個の句として訳すべきだと言っています。
つまり、日本語にすると「神はこの方を信仰によって、その血によるなだめのための捧げ物として立てられた」とでも言ったニュアンスでしょうか。

実はここはまだ奥があって、「信仰」と訳されているギリシャ語「ピスティス」は文脈により「忠実」とも訳される(ローマ3:3)語ですが、ここは信仰ではなく忠実の方ではないか、つまり信者の側の信仰の意味ではなく、神の側の忠実の意味ではないかと言う説もあるのです。

ともかく、「血に対する信仰」という訳には、いかにも物質としての血液を聖なるものとする協会の思想が反映されていると思われます。
18節(p18)でこの聖句を「クリスチャン各人が「その[イエスの]に対する」信仰を持つべきであることは明白です」というコメントと共に(わざわざ血という部分をブロック体にして)引用しているのはその表れでしょう。

しかし、p18の囲みに例示されているような諸聖句でのイエスの血という言い回しには、物質としての血液という概念は全く消失してしまっているとは思われないでしょうか。

 

次に第二研究記事「生ける神の導きに従う」に移ります。

6、7節(p20)で使徒15章の会議のことが述べられていますが、引用されているようにその決定は「偶像に犠牲として捧げられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていること」(使徒15:29)です。

協会は7節で「明らかに統治体は『血を避けること』を、性の不道徳や偶像崇拝を避けるのと同じほど道徳的に肝要なことと見なしています」と断言しています。
どこが明らかなのでしょうか。

この使徒会議を統治体と呼べるかどうかは別問題として、血や絞め殺されたものと同列なのは偶像に捧げられた物であり(共に当時のユダヤ教の食物規定)、偶像崇拝と同列なのは、その節で引用されている啓示21:8や22:15に明示されているように、殺人なのではありませんか。

わたしは使徒15章の決定は、当時律法の遵守に熱心なユダヤ教出身のクリスチャンが大勢いたわけですが(使徒21:20)、彼らに対して律法遵守はもはや必要なしと宣言するには及ばないと判断したヤコブを筆頭とする主流派が、非ユダヤ教出身(諸国民)のクリスチャンに対して原則として律法遵守は求めないが、あまりにもユダヤ教出身のクリスチャンを刺激することがないように、いくらかの事項については当面の(結果的には西暦70年に自然消滅するのですが)譲歩を求めたものと解釈しています。

従って必要な譲歩事項は、諸国民のクリスチャンにとっては比較的譲歩しやすい事がらであり、一方律法遵守派のユダヤ人クリスチャンにとっては特に神経を逆撫でされる事柄から選ばれたと思われます。

こう考えることの主要な根拠は、会議は諸国民のクリスチャンに割礼を求めないということに同意したという事実です。
割礼は律法以前にアブラハムに求められたことですから、律法の規定よりもっと基本的なことです。

にも拘わらず割礼不要を認めるということは、後日パウロが詳述しているような
「外面の[ユダヤ人]がユダヤ人ではなく、また、外面の肉の上での割礼が[割礼]でもないからです。内面の[ユダヤ人]がユダヤ人なのであって、[その人の]割礼は霊による心の割礼で、書かれた法典によるものではありません。」(ローマ2:28,29)
という論議を認めたということに他なりません。

しかしヤコブたちはこれを認めはしましたが、その事を律法に熱心なユダヤ人の大勢のクリスチャンに向かって明確に宣言しようとはしませんでした。
(この辺の事情に関しては、洞察 U p24 の「誓約」の項で肯定的に紹介されているバーンズという聖書学者の注解をご覧ください)

そのため、現実の問題としてはダブルスタンダードになってしまったわけですが、これがユダヤ人クリスチャンの中で公然たる論議とならないように、諸国民のクリスチャンに対して若干の譲歩を要請したということだと考えます。

従って、その手紙は全クリスチャンに宛てた統一的な公式見解ではなく、諸国民のクリスチャンだけに宛てた一種ローカルなものとして発行されました。
ユダヤ人クリスチャンに対してはなにも発表せず、事を穏便のうちに収めようとしたわけです。

このような、現在から見れば、いわば姑息な事なかれ主義と言わざるを得ないようなやり方が容認されたのは神慮であった、と言うのが前述のバーンズの見解ですが、わたしもそうだと思います。

さて10節から主要成分と分画の話に入ります。

基本的な疑問は何故主要成分と分画の間に明確な線が引けるのかということです。

聖書時代には全く知られていなかった、従って聖書中には何も言及がないという点では、主要成分と分画との間には何の区別もありません。

なぜ主要成分は「受け入れられない」と、まるで聖書中に明示されているかのように頭から決め付け、一方分画は聖書中に明記されていないから良心の問題だ(読者からの質問p30右欄)とするようなことができるのでしょうか。
全血と主要成分の間に線を引くのなら分からない事もないのですが、主要成分と分画の間に線を引く根拠は聖書的には全くありません。

14節、15節(p23)には血抜きの程度について興味深いコメントがなされています。
「受け入れられる血抜きの程度についてラビの審議会に決めて貰うのですか、エホバはそのようには指示されませんでした」と皮肉たっぷりの書き方をしていますが、主要成分は真っ黒、分画は灰色と決め付ける協会はまさしくラビの審議会以上と言えるのではないでしょうか。

このような事態に陥ったのは、血の神聖さという象徴的な概念を血液という物理的な概念にすり替えてしまったことの結果だと思います。
輸血問題は出発点が間違っているので、行けば行くほど泥沼にはまってしまっているというのが率直な感想です。

ノアに対する命令、動物の犠牲に関する律法の規定、そして新約聖書中の重要概念であるキリストの血、という聖書中の記述の流れを考察する時、輸血禁止命令に結びつくような思想はどこにも見出すことができません。

血の神聖さを守り、血の罪を犯さないとは、
自分の今ある命を尊重すること、
他人の今ある命を尊重すること、
自分の来るべき命を尊重すること、
他人の来るべき命を尊重すること
の四つに尽きるのではないでしょうか。

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