イエス・キリストの来ること、到着、到来(ギリシャ語エルコマイの諸変形)

ものみの塔 2004/3/1 p16 に「イエスはいつ来るか」と題する次のような囲み記事が掲載されました。
全文を引用すると

「マタイ24章と25章で、イエスはいくつかの異なった意味で「来る」と言われています。イエスは「来る」ために物理的に移動する必要はありません。人類又は追随者たちに対して、多くの場合、裁きのために注意を向けると言う意味で「来る」のです。

例えば、1914年には、即位した王として臨在を始めるために『来ました』。(マタイ16:28;17:1。使徒1:11)

1918年には、契約の使者として『来て』、エホバに仕えていると唱える人たちを裁きはじめました。(マラキ3:1―3。ペテロ第一4:17)

ハルマゲドンの時には、エホバに敵する者たちに裁きを執行するために『来ます』。―啓示19:11−16。

マタイ24章29‐44節と25章31‐46節で何度も言われているのは、「大艱難」の時に到来する(もしくは、到着する)ことです。(啓示7:14)

他方、マタイ24章45節から25章30節で何度も言われているのは、1918年以降、弟子であると言う人たちを裁くことと関係のある到来です。

例えば、忠実な奴隷に報いを与え、愚かな処女たちを裁き、主人のタラントを隠しておいた不精な奴隷を裁くことは、イエスが大艱難の際に「来る」時に起きる、と言うのは道理にかなった見方ではないでしょう。
もしその時だとしたら、油そそがれた者の中にはその時点で不忠実と判明し、それゆえに取って代わられることになる人も少なからずいるでしょう。

しかし、啓示7章3節によれば、キリストの油そそがれた奴隷たちは全員、その時までに恒久的に『証印を押されて』いるのです。」

先ずは、裏付けとして引用されている聖句について調べてみたいと思います。


マタイ16:28;17:1 
(1914年?)

これは変ぼうの幻に関する部分ですが、一つ前の節の16:27を含めて引用すると、

27『人の子は、自分の使いたちを伴って父の栄光のうちに到来することに定まっており、その時各々にその振る舞いに応じて返報するのです。
28あなた方に真実に言いますが、ここに立っている者の中には、人の子が自分の王国をもって到来するのをまず見るまでは決して死を味わない者たちがいます』。
17:1六日後、イエスはペテロとヤコブ及びその兄弟ヨハネを伴い、彼らだけを広大な山の中に連れて来られた」。

マタイ16:27はマタイ24:30、31「30またその時、人の子のしるしが天に現れます。そしてその時、地のすべての部族は嘆きのあまり身を打ちたたき、彼らは、人の子が力と大いなる栄光を伴い、天の雲に乗って来るのを見るでしょう。31そして彼は、大きなラッパの音と共に自分の使いたちを遣わし、彼らは四方の風から、天の一つの果てから他の果てにまで、その選ばれた者たちを集めるでしょう」

テサロニケ第二1:6−8「これは、あなた方に艱難をもたらす者たちに艱難をもって報い、一方艱難を忍ぶあなた方には、主イエスがその強力なみ使いたちを伴い、燃える火のうちに天から表わし示される時、わたしたちと共に安らぎをもって[報いる]ことこそ、神にとって義にかなったことであると言えるからです。その際[イエスは]、神を知らない者と、わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者に報復をするのです」
に対応していると思いますが、如何でしょうか。

27節と28節を切り離してよいのでしょうか。

ついでに言うと、「父の栄光のうちに」の「うちに」と「自分の王国をもって」の「もって」は同じギリシャ語エン(英語のinに極めて近い)です。新世界訳英文でも両方ともinになっています。
(勿論両者がエンであるからといって、それが27,28節が一連のものである筈だということの証拠になるわけではありませんが)。


使徒1:11 
(1914年?)

使徒1:9−11では
彼らが見守る中で、イエスは挙げられ、雲に取り上げられて彼らから見えなくなった。――
11
『――あなた方のもとから空へ迎え上げられたこのイエスは、こうして空に入って行くのをあなた方が見たのと同じ様で来られるでしょう』。」
とあります。

協会はこの聖句を適用する際に、常にイエスの昇天は弟子たちにしか見えなかったと言う点を強調し、従ってその到来も弟子たちにしか認識できないのだと論じています。

しかしその点を補強する他の聖句は見当たらないのではないでしょうか。

少なくともわたしは協会が引用しているのを見たことがありません。

むしろ、「同じ様」は第一義的には「雲」に関連していると思われます。

人の子が雲と関連して来ると言えば、マタイ24:30と26:64の「天の雲に乗って来る」と各々の並行聖句、及び啓示1:7の「雲と共に来る」でしょう。

これらの聖句は明らかに1914年ではなく大艱難を指し示しているのではないでしょうか。

興味深いことに、マタイ26:64と啓示1:7は「同じ様」の相互参照として挙げられています。

上記変ぼうの幻も雲と関連しています。

もう一つダニエル7:13がありますが、これはダニエル7章の項で改めて論じることにしたいと思います。

ついでに言うとここで「空」と訳されているギリシャ語は、他の箇所では殆どの場合「天」と訳されている語です(参照資料付き脚注)(上記マタイ24:30等の「天の雲」の「天」もそうです)。

マラキ3:1−3 (1918年?)

これは契約の使者が来てレビの子らを精錬するという部分です。

2節には「しかし、彼の来る日にだれが忍べるであろうか。その現れる時に立っていられるのはだれであろうか。彼は精錬する者の火のようになる」という記述があります。

興味深いことに、この部分の相互参照として、

マタイ24:13「しかし、終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です」

ルカ21:36「それで、起きることが定まっているこれらのすべての事を逃れ、かつ人の子の前に立つことができるよう、常に祈願をしつつ、いつも目ざめていなさい」

コリント第一3:13「各人の業は明らかになります。その日がそれを示すのです。それは火によって表わし示されるからです」

が挙げられています。

これらの聖句は、1918年はさておき、そもそも裁きはじめる時を示唆しているでしょうか。

裁きが確定する時のことを言っているだけなのではないでしょうか。

その時は明らかに大艱難と結びついています。


ペテロ第一4:17 (1918年?)

[今]は、裁きが神の家から始まる定めの時だからです。さて、それがまずわたしたちから始まるのであれば、神の良いたよりに従順でない者たちの終わりはどうなるでしょうか」

この聖句は裁きが始まる定めの時について述べていますが、新世界訳が[今]を補っているように、それは明らかにペテロの時代を指しています。

この聖句を1918年の根拠とすることはできないでしょう。

エホバの僕たちは1世紀の使徒たちの時代であれ、現在であれ、裁きが確定する時まで、いつの日も裁きの下にあると言う緊張感を求められているのです。

ものみの塔のこの記事自体が次の17ページ19節でこの事を確認しているのではないでしょうか。


啓示19:11−16 (ハルマゲドン)

勿論これはハルマゲドンを描写している箇所ですが、ここに「来る」という語(エルコマイ)は含まれていません。


啓示7:14 (大艱難)

勿論これは大艱難に関する聖句ですが、人の子が来て裁きが確定した結果を示しています。

ここにも「来る」という語(エルコマイ)は含まれていません。


啓示7:3 (いつ?)

そこには「こう言った。『わたしたちが、わたしたちの神の奴隷たちの額に証印を押してしまうまでは、地も海も木も損なってはならない』。」と書かれています。

グループ(級)として恒久的に「証印を押してしまわれる」のは、マタイ24:31に述べられているように、人の子が「大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わし、彼らは四方の風から、天の一つの果てから他の果てにまで、その選ばれた者たちを集める」時でしょう。

(それまでに死の眠りについた者に関しては、各人が死の眠りについた時点が恒久的に「証印を押される」時点でしょうし、また誰が恒久的な証印に値したかは人間には分からない筈でしょう)

そして「地と海と木が損なわれる」時はハルマゲドンではないでしょうか。

 

このようにこの囲み記事に挙げられている聖句はどれも協会の論旨すなわち「マタイ24章と25章で、イエスはいくつかの異なった意味で「来る」と言われています」を裏付けるものとはなっていないと思います。

「マタイ24章29‐44節と25章31‐46節で何度も言われているのは、「大艱難」の時に到来する(もしくは、到着する)ことです。

他方、マタイ24章45節から25章30節で何度も言われているのは、1918年以降、弟子であると言う人たちを裁くことと関係のある到来です」

というのが協会の結論ですが、
マタイ24章29節から25章46節までは一貫して同じことを語っていると考える方が、はるかに道理にかなっているのではないでしょうか。

 

マタイ24:42「それゆえ、ずっと見張っていなさい。あなた方は、自分たちの主がどの日に来るかを知らないからです」
を大艱難の時としながら、

マタイ25:13「それゆえ、ずっと見張っていなさい。あなた方は、その日もその時刻も知らないからです」
が1918年以降というのはどう考えても無理筋でしょう。

忠実で思慮深い奴隷とよこしまな奴隷について語られているマタイ24:45‐51について言えば、46節の忠実で思慮深い奴隷に対する主人の到着と50節のよこしまな奴隷に対する主人の来ることとは同じ裁きの表裏の筈です。

その時、忠実で思慮深いことを示していた奴隷は、主人のすべての持ち物をつかさどる者として任命され(すなわち恒久的に証印を押されて、第一の復活を受けて天で王また祭司となる)、よこしまな行動を見出された奴隷は、最も厳しく罰せられる(すなわち第二の死に処せられ、永遠の滅びに入る)ということかも知れません。
或いは天とか、祭司とは関係なく、奴隷もその報いももっと広範囲の適用が考えれれるのかも知れません。

その時忠実と裁定される人数と不忠実と裁定される人数の比率など人間には誰にも分からないからこそ、「ずっと見張っていなさい」と強調されているのではないでしょうか。

十人の処女の例えも、タラントの例えも同じことを示していると思います。

要するに、いつ来るか(つまりいつ終わるか)が知らされていない中で、終わりまで忠実を保った人、つまり耐え忍んだ人が救われる者なのだということ(マタイ24:13)が様々な角度から強調されているのではないでしょうか。

さらにルカ12:35−40の主人の帰りを待つ奴隷も、その他主、主人、人の子が来て、すなわち到来、到着して(すべてエルコマイの変化形)裁きを下し、各々にしかるべき報いを与える形式の例えはすべて同じパターンとして理解できるでしょう。

これらのエルコマイはすべて
マタイ24:30「またその時、人の子のしるしが天に現れます。そしてその時、地のすべての部族は嘆きのあまり身を打ちたたき、彼らは、人の子が力と大いなる栄光を伴い、天の雲に乗って来るのを見るでしょう」
と同じ事を指しているはずです。

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