洞察1の「終わりの日」の中の「事物の体制の終結」(p502)という副見出しでは、
「キリストの臨在が目に見えない様で霊において始まった後に、またその時存在している「事物の体制の終結」の期間中に、明確な分離と区分が明らかになることになっていました。
「雑草」、すなわち「邪悪な者の子たち」は「人の子の王国から集め出される」ことになっていました。
真のクリスチャン会衆はこうしてきれいにされて、清い小麦の畑になり、見せかけだけの偽のクリスチャンは、真のクリスチャン会衆から除外されるのです。
雑草のような者たちは最終的に「火の燃える炉」に投げ込まれますが、小麦のような者たちは「その父の王国で太陽のように明るく輝く」ことになります。
このことはサタンの邪悪な支配下にある事物の体制の、滅びに先立つ終結の部分を明確に指し示すものでした」
とされています。
本当に事物の体制の「終結」は「期間」、あるいは滅びに先立つ「部分」なのでしょうか。
それともサタンの支配下にある体制の滅びそのものなのでしょうか。
洞察1の「事物の体制」の中の「不義の時代、もしくは不義の事物の体制」(p1086−7)という副見出しでは以下の記述が見られます。
「そのため、ここで収穫の季節として描写されている事物の体制の終結は、この場合、ユダヤ人の事物の体制の終結や、「小麦」と「雑草」が妨げられずに一緒に成長する「状態」の終結ではなく、後にパウロが言及しているのと同じ事物の体制の終わり、つまりサタンの支配によって印づけられた「今の事物の体制」の終わりを指しているに違いありません。(テモ一6:17)」
「「小麦」と「雑草」が妨げられずに一緒に成長する「状態」の終結ではなく」の意味は不明ですが、「サタンの支配によって印づけられた「今の事物の体制」の終わりを指している」のは間違いないでしょう。
「「今の事物の体制」の終わり」=「「小麦」と「雑草」が妨げられずに一緒に成長する「状態」の終結」としか思えないのですが。
なお事物の体制の終結は収穫の季節(マタイ13:30)ではなく、収穫(マタイ13:39)です。
収穫の季節は収穫にふさわしい季節であり、かなり長期に亘り得ます。
一方収穫は収穫の季節内の特定の日(時)に行なわれる行動であり、短期間に終わってしまうでしょう。
ともあれ、サタンの事物の体制の終結という意味でこの言葉が用いられているのは、マタイ13章の小麦と雑草の例えと引き網の例え、マタイ24:3の終末預言の冒頭の質問、及びマタイ28:20のイエスの保証の言葉だけです。
順次調べてゆきましょう。
マタイ13:39,40
ご存知の小麦と雑草の例えです。37節から43節まで通しで引用すると
「37りっぱな種をまく者は人の子です。38畑は世界です。りっぱな種、それは王国の子たちです。それに対し、雑草は邪悪な者の子たちであり、39それをまいた敵は悪魔です。
収穫は事物の体制の終結であり、刈り取る者はみ使いたちです。
40それゆえ、雑草が集められて火で焼かれるのと同じように事物の体制の終結の時もそのようになります。
41人の子は自分の使いたちを遣わし、彼らは、すべてつまずきのもとになる者や不法を行なっている者を自分の王国から集め出し、42それを火の燃える炉の中に投げ込みます。そこで彼らは泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう。43その時、義人たちはその父の王国で太陽のように明るく輝くのです」
「事物の体制の終結の時も」は英文新世界訳では
in the conclusion of the system of things つまり「事物の体制の終結においても」です。
ものみの塔81/12/1 p23では、シンテレイア(終結)とテロス(終わり)の違いを説明し、
シンテレイアの方はバインの「この語は終末を示すものではなく、物事が定められた頂点へと向かって行くことを示す」という見解を採用しています。
一方テロスの方はバウエルの「終末、中止、−−最後の部分、終止、特に最終的な事物の終結、宇宙的ドラマの最後の行動という意味における」「終わり」を引用しています。
テロスについてはバインもほぼ同じ見解を示していますし、他の希英辞典、希和辞典もほぼ同じようです。
しかしシンテレイアについてはバウエルは「completion、close、end」と定義しています。
つまりものみの塔が同ページ2節で一部の翻訳がそうだと言っているように、テロスとシンテレイアを実質的に区別していないのです。
この傾向は一部の翻訳ではなく、殆どの翻訳、殆どの希英辞典、希和辞典に見られ、バインが例外と言えるのではないかと思います。(勿論根こそぎ調べたわけではないので断言はできませんが)
新世界訳自身が「終結(英文新世界訳では conclusion )」の脚注で、「終結。または、共通の終わり;合同の終わり;一緒に終了すること」と明記しています。
この解釈はシンテレイアをテロスの強調形と見なし、「何もかもが同時に完全に終わること」と理解していることを示しています。
終結(conclusion)という訳語自体はこの脚注とも一致していますし、翻訳や辞典の大勢とも一致しています。
さて、収穫すなわち事物の体制の終結において、み使いたちは小麦と雑草を一緒に刈り取り、雑草はより分け束にして炉の中に投げ込み、一方小麦はより分けて倉に収めます。
このことすべては短期間で行なわれる筈です。
1914年に事物の体制の終結の期間が始まった(例えば塔 00/10/15 p26、97/1/1 p13等)後、1919年から収穫すなわち分離と区分が始まり(ものみの塔81/12/1 p24)、ハルマゲドンにおいて雑草が最終的に炉に投げ込まれるまで続くというのが協会の見解ですが、イエスは「収穫は事物の体制の終結である」言っておられるので、収穫と事物の体制の終結の始期が違うというのはそもそもおかしいのではないでしょうか。
刈り取る時点では小麦も雑草も混在したままであり、刈り取ってから分離と区分が行なわれるのだということも指摘できるでしょう。
み使いたちが刈り取ることを始めるのは、人の子が自分の使いたちを伴って雲に乗って来た直後に始まると見るのが道理にかなっています(マタイ24:30,31;25:31,32)。
結論として言えることは、現在はまだ収穫も事物の体制の終結も始まってはいないということです。
マタイ13:49
47から50節まで通しで引用すると
「47また、天の王国は、海に下ろされてあらゆる種類の魚を寄せ集める引き網のようです。48それがいっぱいになったとき、人々は浜辺にたぐり上げ、腰を下ろして、良いものを器に集め、ふさわしくないものは投げ捨てました。49事物の体制の終結のときにもそのようになるでしょう。み使いたちは出かけて行って、義人の中から邪悪な者をより分け、50彼らを火の燃える炉にほうり込むのです。そこで[彼らは]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう」
これも良いものと悪いものを区別せずに根こそぎ集め、それから良いものと悪いものをより分けるということを強調しています。
「それ(引き網)がいっぱいになったとき」が収穫の季節に、「引き網を浜辺にたぐり上げる」が刈り取ることに対応しています。
それから選別が行なわれるのです。
これはマタイ25:32「そして、すべての国の民が彼の前に集められ、彼は、羊飼いが羊をやぎから分けるように、人をひとりひとり分けます」を連想させるものとなっています。
すべての国の民が彼の前に集められるのが引き網を浜辺にたぐり上げることに対応しています。
それからひとりひとり分けられます。
その時はものみの塔95/10/15 p23で示されているように、大艱難が始まった後の人の子の到来直後に始まると考えるのが自然でしょう。
マタイ24:3
「あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」
臨在の項で述べたように、弟子たちの質問の趣旨では、これは始まったしるしではなく、近づいているしるしです。
そしてそれに対するイエスの答えは、弟子たちが期待しているような意味でのしるしは何も無いであろうです。
終結を「何もかもが同時に完全に終わること」と解釈すれば、サタンの事物の体制の終結は臨在の期間中に起こることになりますから、両者は実質的に同じことです。
要するに臨在の始まりは人の子の到来であり、それは大艱難中の出来事であって、まだ生じてはいないということです。
マタイ28:20
「そして、見よ、わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」
[の時]は日本語新世界訳の補足で、原文も英文新世界訳も単に「事物の体制の終結まで」となっています。
いずれにせよ、現在もイエスが共にいてくださっていることは確かです。
これはヨハネ13:15の「わたしは、彼らを世から取り去ることではなく、邪悪な者のゆえに彼らを見守ってくださるようにお願いいたします」というイエスの祈りを連想させます。
この祈りと調和して、小麦のような者たちと邪悪な者の子たちである雑草のような者たちとの混在が終結するまで、イエスご自身が共にいて見守ってくださるのです。
既に述べたように、協会は1914年に事物の体制の終結が始まったと解釈しています。
しかし、協会の言う
「事物の体制の終結」は始まってから既に何十年以上も継続しており、ここで言われている「終結まで」は終結の最高潮(あるいは終結の完了)までを意味する」
等という解釈は果たして道理にかなったものでしょうか。
「終結」そのものが完了なのであり、「終結」の完了(終結)などということは素直に考えればおかしいのではないでしょうか。