この世代
この世代とは勿論、マタイ24:34、マルコ13:30、ルカ21:32で
「これらのすべての事が起こるまで、決して過ぎ去りません」と言われている「この世代」のことです。
07/12/26にこの項を発表してから2度の追記をして来ましたが、どうも根本的に理解を改めるべきであると感じるようになり、今回全面的に書き換えました。
しかし、今までに公表してきたものを抹消してしまうのはフェアでないと思いますので、旧稿として本稿の末尾に残しておきました。
旧稿では、「これらのすべての事」が起こり始めたら、一世代のうちに「これらのすべての事」が起こり終わると解釈していましたが、どうもかなり的外れだったようです。
問題は世代と訳されているギリシャ語ゲネアの定義です。
世代という訳語に引っ張られて、親の世代、子の世代というイメージから、たかだか数十年の期間を想定していましたが、ギリシャ語のゲネアはもっと意味の幅が広いようです。
個人のライフスパンに限定されることなく、ある特徴(その文脈において注目されている特徴)を共有する同時代人すべてを指す事もあるということから、
もしその特徴が長期に及べば、それに付随してゲネアの方も個人のライフスパンとは関係なく長期に及び得ることになります。
さてイエスの言葉は
「これらのすべての事が起こるまで、この世代は決して過ぎ去りません」
です。
これは裏を返せば、「これらすべての事」が起これば(或いは起こる時)、「この世代」は「過ぎ去る」ということです。
ある世代が過ぎ去るとは、その世代特有の(他の世代と異ならせる)特徴も過ぎ去るということでしょう。
この預言の背景を考えれば、過ぎ去るのは「この事物の体制」に他なりません。
ですから「この世代」とは、このサタンの事物の体制下で生きることを余儀なくされている人々を指していると考えるのが良いのではないでしょうか。
邪悪な等の限定的形容詞が何も添えられていないので、「この世代」とは、義者であれ不義者であれ「この事物の体制」下で生きる人々すべてを指すと考えるしかないでしょう。
「この世代」が過ぎ去る時、「新しい世代」が出現することになります。
この場合「新しい世代」とは義の宿る新しい地(ペテロ第二
3:13)で生きる人々からなる世代、つまり千年統治の世代でしょう。
(ペテロの文脈では新しい地が来る直前に天が「過ぎ去る」とあります(ペテロ第二
3:10))
(同一人物が両方の世代の構成員となる事もあり得ます。着目されている時期・時代の特徴が違えばです)
ではそれが起こらなければこの世代は過ぎ去らないと言われた「これらのすべての事」とは何でしょうか。
共観福音書の文脈では直前の記述である、「天の異兆を伴い、み使いたちを引き連れて人の子が到来する事(及びこれに付随するすべての事)」を指しているということになるのではないでしょうか。
(この点も旧稿では見過ごしていました)
つまり人の子が到来するまではこの世代は過ぎ去らない、新しい世代に代わることはないと言われていたのです。
従って「この世代」はこの言葉が発せられた時既に存在しており、それが実際に「過ぎ去る」迄続くということになるでしょう。
このように考えることによって、諸国民の定められた時や事物の体制の終結の項の論考ともより整合性が取れて来たと思います。
終末に関係したすべの聖書預言の焦点は、人の子の到来なのです。
その日と時刻を誰も知らない(マタイ4:36、マルコ
13:32)人の子の到来まで、この世代、つまりこの事物の体制、は過ぎ去らないのですから、
終わりのしるしなどに気を散らすことなく、
いつ人の子が到来してもその前に立つ事が出来るように、いつも目覚めていなさい(ルカ
21:36)
というのがイエスの言葉の趣旨ではないでしょうか。
旧稿
塔 08/2/15 で協会の「この世代」に対する解釈がまた変わったことが話題になっているようです。
事実 p23の10節では95/11/1の見解が変更されていると明記しています。
今回の新解釈では、「世代とは弟子たち(いわゆる油そそがれた者たち)である」という解釈を採用しています。
「ですからイエスは、「これらのすべての事が起こるまで、この世代は決して過ぎ去りません」と述べた時、弟子たちのことを言っていたに違いありません」(p24 13節)。
「それら油そそがれた者たちが一つの級として、「これらのすべての事が起こるまで」過ぎ去らない、現代の「世代」を構成しています」(p24 15節)
と言うわけです。
つまり、「この世代」とは「イエスの臨在のしるしの意味を協会の1914年史観に沿って理解する者」と言う定義にしてしまったのです(p24 15節)。
95年の解釈では、
「この世代」とは「イエスの臨在のしるしの意味を協会の1914年史観に沿って理解しない者」と言う定義でしたから、まさしく逆転ですね。
そのために記事の前半で、「臨在」、「事物の体制の終結」と言った言葉の1914年史観に基づく理解をおさらいしています。
これらに対するわたしの理解は臨在、事物の体制の終結をご覧ください。
また1914年と言う年に聖書的根拠がないことはエレミヤの70年に示しています。
さて聖書本文を素直に読めば「この世代」とは何を意味するのでしょうか。
マタイ24:32−34=マルコ13:28−30
「32では、いちじくの木から例えとしてこの点を学びなさい。その若枝が柔らかくなり、それが葉を出すと、あなた方はすぐに、夏が近いことを知ります。33同じようにあなた方は、これらすべてのことを見たなら、彼が近づいて戸口にいることを知りなさい。34あなた方に真実に言いますが、これらのすべての事が起こるまで、この世代は決して過ぎ去りません」(節の番号はマタイによる)
ルカ21:28−32
「28しかし、これらの事が起こり始めたなら、あなた方は身をまっすぐに起こし、頭を上げなさい。あなた方の救出が近づいているからです」。
29そうして[イエス]は彼らに一つの例えを話された。「いちじくの木やほかのすべての木をよく見なさい。30それらが既に芽ぐんでいれば、あなた方はそれを観察して、もう夏の近いことを自分で知ります。31このようにあなた方はまた、これらの事が起きているのを見たなら、神の王国の近いことを知りなさい。32あなた方に真実に言いますが、すべての事が起こるまで、この世代は決して過ぎ去りません」」
言われていることは極めて単純です。
要するに、「これらの事」が起こり始めるのを見た世代一世代のうちに、「これらの事」は全部起こり終わリますよと言うことです。
協会は「これらの事」の起こり始めた時を1914年と決め込んでいるために、1900年代の終わり近くになるとどうにも辻褄が合わなくなり、ついに1995年にこの単純な解釈を捨てざるを得なくなりました。
つまり、ものみの塔 95/11/1 p19 12節に要約されているように「「この世代」とはキリストの臨在のしるしを見ながらも、自分たちの道を改めない、地のもろもろの民である」と言うことにしたのです。
この解釈だと何百年経とうが、1914年にキリストが臨在を始めたという協会の教理を信じない人々は皆「この世代」だということになります。
こうして1914年を見た世代が過ぎ去っても「これらの事」が起こり終わらない(つまりハルマゲドンが来ない)という窮地を脱することができたと言う訳です。
しかし、実は単純な解釈がおかしかったのではなく、「これらの事」の起こり始めを1914年と断定したことがおかしかったのです。
「世代」(ゲネア)とは、この08/2/15の記事のp25の囲みに協会自身が書いているように、「ある特定の時期に生きている、もしくはある特定の出来事を経験する、人々」を指す言葉です。
同時代人と言っても良いでしょう。
一つの世代は親の世代から子の世代に移行するまでの期間、普通約30年くらいを指すと考えて良いでしょう。
明治世代、大正世代、昭和世代と言った感じです。
場合によってはもっと短い事もあり得ます。焼け跡世代、団塊の世代等。
ある出来事が「これらの事」の発端だと思われたとしても、それから一世代を経ても「これらの事」が起こり終わらなかったなら、つまりハルマゲドン及びそれに引き続く新しい天と新しい地が到来しなかったなら、その出来事は「これらの事」の発端ではなかったとして捨て去らなければならないのです。
ところが今回の08/2/15の記事によると、
何百年経とうが、1914年にキリストが臨在を始めたという協会の教理を信じる油そそがれた人々は皆「この世代」だということになりました。
捨て去るべき1914年を固守し、辻褄を合わせるために逆に言葉の定義の方を勝手にいじくり回すと言う協会のやり方は、諸国民の定められた時の満了に関する事情とよく似ています。諸国民の定められた時の項をご覧ください。
また世代とはその世代に生きているすべての人々ですから、弟子たち(いわゆる油そそがれた者)だけに限定するのは邪道と言わざるを得ません。
この記事は協会の教理の2大欠陥、1914年と油そそがれた者、が集約的に現れた好例だと思います。
このサイトはこの2大欠陥を指摘するために開設されたと言っても過言ではありません。
要するにイエスの言われた「これらの事」はまだ起こり始めていないのであり、単にそれだけの話です。
この事実はわたしたちの目覚めていて、見張っている必要性を弱めるものではなく、一層肝要なものとしているのではないでしょうか。
いつ「これらの事」が起こり始めるのかだれも知らないのです。
追記
では聖書的には「これらの事」とは何を指しているのでしょうか。
ルカの配列が一番分かり易いようです。
そこでは28節で、いちじくの木のたとえの前に、「これらの事が起こり始めたなら、あなた方は身をまっすぐに起こし、頭を上げなさい。あなた方の救出が近づいているからです」との記述が挿入されていて、「これらの事」が予め提示されているからです。
28節の「これらの事」と31節の「これらの事」は同じ事を指していると考えるのは自然なことでしょう。
協会はものみの塔 97/4/1 p15でこう述べています。
「8−−「太陽と月と星にしるしが....あるでしょう。同時に人々は、人の住む地に臨もうとする事柄への恐れと予感から気を失います」(ルカ21:25,26)
9ルカ21章28節の預言はその時のことを述べています。イエスはこう言われました。「これらの事が起こり始めたら、あなた方は身をまっすぐに起こし、頭を上げなさい。あなた方の救出が近づいているからです」。神に敵対する者たちは、起きている超自然の出来事がエホバからのものであることを知って、恐れおののくことでしょう。しかしエホバの僕たちは、自分たちの救出が近づいたことを知って歓びます。」
極めて明確に「これらの事」は、超自然の異兆を伴ってイエス・キリストが雲のうちにあって来ることによって始まるとしています。
ここからハルマゲドンまではあっという間ですから、当然まる一世代もかかる訳がありません。
この解釈は現在に至るまでの協会の諸解釈の中では一番まともだと思います。
追記2
僅か2年でまたまた迷走を重ね、ものみの塔 2010/4/15 の「エホバの目的が遂げられてゆく過程での聖霊の役割」 14節 (p10)では、
「では、「この世代」についてのイエスの言葉をどのように理解すべきでしょうか。
それは、しるしが1914年に明らかになり始める時に生きている油そそがれた者たちの生涯と、大艱難の始まりを見る油そそがれた者たちの生涯とが重なる、という意味であったようです」
ということにされてしまいました。
イエスは「この世代」と単数で言われたのに、この解釈では「この世代」は2世代に跨ることになります。
もう、まともに論評する気にもなれません。
それに後何十年か経っても大艱難が始まらなければ、1914年に生きていた者たちの生涯と大艱難の始まりを見る者たちの生涯は重ならなくなってしまいます。
その時迄には、又変更が試みられることになるのでしょう。