大群衆

油そそがれた者小さな群れ、ほかの羊、と取り上げて来て、大群衆が残ったままになっていました。

ゲストブックでもご指摘があり、今回はこの問題に対するわたしの見解をまとめてみることにします。

啓示7:9

「これらのことの後、わたしが見るとすべての国民と部族と民と国語の中から来た、誰も数えつくすことのできない大群衆が、白くて長い衣を着て、み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には、やしの枝があった」

「これらのことの後」とは、何を指しているのでしょうか。
7:4の「証印を押された者たちの数を聞いた」ことだと思われます。

7:5−8まで「○○の部族の中から1万2千人が証印を押された」とありますが、原文は「押された」は分詞で表現されており、行間逐語訳では「○○の部族から(は)1万2千人の証印を押された(者たち)(out of tribe of ○○ twelve thousand (ones) having been sealed)」となっています。
従って、ここで言われているのは証印を押されること自体ではなく、あくまで証印を押された者の数を聞いたことのように思われます。

つまり、ヨハネは単に、「数を聞いた」そして「その後(群衆を)見た」と言っているだけです。

聞いたこと(つまり証印を押された14万4千人)を見たのか、聞いたこととは別のこと(つまり証印を押された者たちとは別の人々)を見たのか、どちらとも取れるのではないでしょうか。

協会は勿論別のことと考えていますし、洞察2 p100 「大群衆」の「一般的な見解」という副見出しの中でも、多くの注解者も(その実体に対する解釈は様々でも)別のことと考えている点では共通であるかのような書き方をしています。

本当に証印を押された14万4千人と大群衆は別の実体なのでしょうか。

証印を押された者と大群衆を別の実体と考える根拠は、証印を押された者の数は1万2千人*12=14万4千人と非常に明確なのに対し、大群衆の方は数えられない(新世界訳英文 no man was able to number)と描写されていることにあります。

数えられないほどの数というと夜空の星の数(創世記15:5)を連想するかも知れませんが、肉眼で見える星の数は6等星まで数えて8千個強と言われています。ある箇所から同時に見えるのはその半分以下ですから、意外と僅かな数と言えます。昔の人は視力が良く、人工的な光で妨げられることがなかったとしても、小型望遠鏡で見えるとされる9等星まで数えても全天で12万個くらいだそうです。

人数で言えば、例えば大きな大会で数万人の人々を見れば、印象とすればとても数えきれないと思うのではないでしょうか。

大群衆と言う言葉自体(一語ではなく、群集(群衆)と言う名詞に、多くの、夥しいと言う意味の形容詞が付いているだけ)は聖書中に何度も出てきますが、もっと小規模でも適用され、イエスの後に大群衆が従ったとしばしば書かれているように(マタイ19:2等)、恐らく数百人規模の群集であっても大群衆と言われているのではないかと思います。
(奇跡的な食事をさせた場合は男だけで4千人とか5千人いたと記されていますが、これだけの人数の群集がいつもイエスの後について歩き回っていたとは一寸考え難いので)

つまり、先ず数を聞き、ついで幻で見た。

一口に14万4千と言うとそんなに多くないように聞こえるかもしれないが、実際に目の前に見せられると(勿論幻で見たわけですが)圧倒されるほどの数で、つい「こりゃすごい。誰も数えつくすことはできない」と感嘆したと言うことではないでしょうか。

次に「大群衆」を描写している言葉を考えて見ましょう。
14万4千人を描写する言葉と同じ言い回しが用いられていることが分かると思います。

「すべての国民と部族と民と国語の中から来た」(啓示7:9

とあるので、14万4千人の出身母体である「イスラエルの子ら」(啓示7:4)とは別の出身母体から来た人たちであり、異なる実体だと論ずる人もいるようですが、
この表現は、啓示5:9,10
あなたは・・・自分の血をもって、あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取ったからです。10そして、彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし、彼らは地に対し王として支配するのです」
とあるように、14万4千人の祭司級も大群衆も同一の出身母体から出て来ていると言っているだけなので、ここから別の実体であると主張するのは見当外れでしょう。

さらにこの「すべての国民と部族と民と国語の中から来た」と言う表現は、その直後に「長老」からもたらされた情報(7:13,14)ではなく、ヨハネが大群衆を見た時点ですでに知っていた情報として扱われています。

つまり、啓示5:9,10を既に書いていたヨハネは、大群衆を見た時、「ああ、これは自分が2章ほど前に書いた(霊感によって書かされた)あの買い取られた人々だ」と察したことを示しているのではないでしょうか。

「白くて長い衣を着て」(7:9

啓示6:9-11では復しゅうを求めて祭壇の下から叫ぶ、証しの業のためにほふられた者たちの魂が「白くて長い衣」を与えられ、仲間の奴隷また兄弟たちの数が満ちるまでしばらく休むようにと告げられています。
この者たちは協会もそう解釈しているように、14万4千人に属する人々と考えるのが妥当でしょう。
従ってこの表現も14万4千人と大群衆共通の表現となります。

そして決め手となるのは彼らのいる場所、つまり

啓示7:15

「その神殿で昼も夜も神聖な奉仕をささげている」

です。

ゲストブックでも「ジョン・ミッチェル氏が夙に指摘されている」ことが紹介されていますが、
ここで使われている「神殿」の原語はナオスで、祭司だけが入ることのできる聖なる所を意味し、中庭を含む神殿構造物全体を意味するヒエロンとは別の言葉です。

ものみの塔 80/11/15 p15 5節の「ナオスが奥の聖所だけを意味するのではなく、その造営物すべてを含む神苑全体を意味することは明白です」という記述は明らかな事実誤認ですが、新世界訳を作ったほどの人たちがどの辞書にも明記されているこのようなギリシャ語の語義を誤解していたということは考え難く、(ミッチェル氏は1960年のものみの塔(英文)ではナオスとヒエロンは的確に区別されていたと述べています)意図的な歪曲ではないかという疑いが非常に強くなります。
信じ難い話ですが、同誌同ページの下段の囲みには、「イエスが両替屋を追い出されたのは、外の神殿[ナオス]からであったと」との記述がありますが、これはナオスではなくヒエロンの誤りです。
(行間逐語訳でご確認ください。尚、地上におられた時のイエスは祭司ではなかったので、地上の神殿のナオスには入れなかったのです。)
この記事はどうかしているとしか言えません。

例えばルカ1:21で祭司ゼカリヤが入っていたところは「聖なる所」ナオスであり、ルカ2:27,37でシメオンやアンナが幼子のイエスと出合ったのは「神殿」ヒエロンです。

勿論イエスが両替人たちを追い出された神殿はヒエロンですが(ヨハネ2:15、マタイ21:12、マルコ11:15、ルカ19:45)(祭司でもない両替人たちがナオスに入れるわけがありません )、
ご自分の体を神殿に例えられた時(ヨハネ2:21)の神殿はナオスです。
(イエスのこの驚くべき宣言を聞いたユダヤ人たちが「この神殿(ナオス)は四十六年もかけて建てられたのに」(ヨハネ2:20)と言ったのは、着手後46年経ってもまだヒエロンの工事が続いていたことを指しているようですが、ナオスにも時々手が入れられていたのかも知れません)

マタイ27:5でユダが銀を神殿(ナオス)に投げ込んで引き下がったと記されているのは、祭司ではないユダはヒエロンには入れたがナオスには入れなかったので、ヒエロンの非ナオス部分からナオスの中に銀を投げ込んだと言う意味です。

ついでながら啓示にはヒエロンは一度も出て来ず、すべてナオスが用いられています。

啓示11:2に中庭が出てきますが、「神殿[の聖なる所](ナオス)の外側にある中庭は・・・諸国民に与えられている」と書かれています。
諸国民に与えられている外の中庭はナオスの外側であり、ナオス、つまり7:15の大群衆のいるところ、には含まれないのです。

新世界訳は概してヒエロンを神殿、ナオスを聖なる所と訳し分けていますが、たまに両者が錯綜するところがあり、この啓示7:9は「神殿」ではなく、「聖なる所」と訳すべきところです。

ナオスで神聖な奉仕をささげることができるのは当然祭司級だけです。

つまり協会の主張とは全く逆に、「大群集」とは14万4千人以外の者ではなく、天で王、祭司として働く14万4千人そのものを指しているのではないでしょうか。

 

今までに、油そそがれた者小さな群れ、他の羊、大群衆と取り上げて来て、それらの語が聖書中の文脈とは異なった意味で協会によって用いられていると論じて来ました。

聖書中から特定の語を取り出して来ても、それを非聖書的な教理に合わせて用いようとする限り、その意味付けは文脈から逸脱した恣意的なものにならざるを得ません。
(ここで論じたものみの塔 80/11/15は極端な例ということでしょうが)

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