天的級と地的級

よく知られているように、協会は救いの形態として、天で不朽の命を得て王、また祭司として支配する者(以下天的級)と、地上での永遠の命を得て、天的級の支配を受ける者(以下地的級)の二つがあり、これらの二つの級は、最初から別個のものであり、別個のものとして自覚されていると主張しています。

しかし本当にこれらの級は最初から二つの別個のものなのでしょうか、また本人の自覚がそんなに当てになるものなのでしょうか。

それとも、召された時点では、天的級も地的級も含めた神の民と言う一つの級だけがあって、ある時点、おそらく地上での生涯を終える時に初めて天的級であるか地的級であるかが確定するのでしょうか。
(或いは本人は自覚のないまま死の眠りに入り、復活する時始めて自分がどちらであったかが分かるのでしょうか)

協会の主張によれば、新しい契約に入った者、神のイスラエル、召された者、聖なる者、神の子、神の霊を受けた者、約束の相続人等々の表現は皆天的級を指しており、
一世紀当時の会衆の信者たちは皆天的級であったと言うことになっています(塔 04 3/1 p10 9節はそのほんの一例)。
また天的級を指す語として、油そそがれた者や霊的イスラエルという名称が使われています。

毎年記念式の季節になると、記念式の表象物にあずかる者は新しい契約に入っている者、すなわち天的級に限られる(べきだ)と言う趣旨の記事がものみの塔誌に掲載されます。
そしてエホバの証人は皆この指針に忠実に従っています。

ところで、一世紀の信者たちに語りかけられた、召された者、聖なる者、神の子、神の霊を受けた者、約束の相続人等々の表現は、信者全体を指しているように見受けられます。
新しい契約に入った者、神のイスラエルという表現も同じ実体、つまり当時の信者(会衆の成員)全体、つまりクリスチャン全体を指していると言えるでしょう。

この信者(会衆の成員)、クリスチャン全体は「神の民」とも呼ばれています。(ペテロ第一2:10)。

聖書中で、上記したような召された者等々の表現が神の民を対象としてなされているのは、協会が主張しているように一世紀は「神の民」=天的級で、地的級は存在していなかったからなのでしょうか。

それとも一世紀にも地的級は存在し、上記のような表現は、天的級だけでなく地的級にも適用されるものだったからなのでしょうか。
つまり、「神の民」等々の表現は天的級と地的級の双方を未分化のままに総称する表現だったのでしょうか。

焦点は結局のところ、「神の民」及び上記したような同じ実体を指す様々な表現を、天的級そのものと考えるか、天的級を輩出する母体と考えるかの違いに帰着します。

「神の民」は全員天的級であったのか、それとも神の民の中からさらに一部の者だけが結果的に天的級として選び出され、残りの大部分は結果的に地的級として地上で永遠の命を受けるのかということです。

協会が「神の民」という語を使う場合、一世紀に適用する時は天的級のみ、現代(協会の教理では1935年以降)に適用する時は天的級+地的級とニュアンスを変えています。

協会は一世紀には地的級が存在しなかったという前提ですから、こうならざるを得ないでしょう。

しかし、律法契約時代と新しい契約時代とでは「神の民」の実体も変化し得ますが、
同じ新しい契約時代である一世紀と現代で、同じ「神の民」という言葉(概念)の適用が変化するのはおかしいのではないでしょうか。
一世紀が天的級だけなら、現代も天的級だけ、現代が地的級を含むのなら、一世紀も地的級を含むはずです。

天的級のみと考える場合の神の民を「狭義の神の民」、地的級も含むと考える場合の神の民を「広義の神の民」と呼びましょう。

協会の見解では、
新しい契約の当事者=神のイスラエル=召された者等の表現=狭義の神の民=天的級=王国のための契約の当事者
但し現代に限り、広義の神の民=狭義の神の民+地的級
ということになります。

しかし、神の民は一貫して広義であると考えるなら、
新しい契約の当事者=神のイスラエル=召された者等の表現=広義の神の民=天的級+地的級(ただし大部分の当事者にとって地上での生涯中は未分化状態)
王国のための契約の当事者=天的級
となります。
一世紀も現在もこの構図に変化はありません。
この方がすっきりとするのではありませんか?

これに加えて、律法契約時代の神の民は生来のイスラエル国民でした。
では、生来のイスラエルは広義の神の民に相当する者たちだったのでしょうか、狭義の神の民に相当する者たちだったのでしょうか。
(この問題については
神のイスラエルも見てください)

アブラハム契約を考えて見ましょう。

「そして、あなたの胤によって地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう。あなたがわたしの声に聴き従ったからである」(創世記22:18)

パウロは
「さて、その約束はアブラハムとその胤に語られました。それが大勢いる場合のように、「また[多くの]胤に」とではなく、一人の場合のように、「あなたの胤に」と述べてあり、それはキリストのことなのです」(ガラテア3:16)
と言っているので、主要な胤がキリスト・イエスであったことは明確です。

しかし旧約聖書の歴史の展開を見ると、胤(副次的な胤)が約束の子イサクを通してヤコブ=イスラエルに受け継がれ、生来の(肉の)イスラエル国民全体が神の民となったのも明白です。

律法契約が新しい契約に取って代わられた時、この副次的な胤は新しい神の民=神のイスラエルに取って代わられたはずです。

協会は狭義の神の民説ですから、副次的な胤は天的級だけであり、地的級はこの副次的な胤によって祝福される「すべての国の民」の一員ということになります。

広義の神の民説を取ると、地的級すなわちキリストの贖いに信仰を持つすべての者(クリスチャン)も胤の側に含まれますから、彼らによって祝福される「すべての国の民」は彼らとは別に(いわば、彼らの外側に)非クリスチャンとして存在することになります

パウロはガラテア3章で引き続き
26現にあなた方は皆、キリスト・イエスに対する信仰によって神の子なのです。
27キリストへのバプテスマを受けたあなた方は皆キリストを身に着けたからです。
28ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男性も女性もありません。あなた方は皆キリスト・イエスと結ばれて一人の[人]となっているからです。
29さらに、キリストに属しているのであれば、あなた方はまさにアブラハムの胤であり、約束に関連した相続人なのです」(ガラテア3:26−29)
と論じています。

協会はこの記述は当然天的級のみに当てはまるとしていますが、
広義の神の民説に従えば、地的級にも当てはまると考えられます。

キリスト・イエスに信仰を持つ人は、天的級も地的級も、キリストを身に着け、キリストと結ばれ、神の子との自覚を持ち、アブラハムの胤となるのです。

地を継ぐ相続人となるか、天に入る相続人になるかはいわば結果です。
天的級は、地的級をも含む広義の神の民の中から改めて選ばれることになります。

したがって神の民を広義で考えるなら、彼らは天的級に選ばれると決まったわけではないが、その可能性を持つ者として召されているはずです。

つまり、召された時点で自分が天的級になるのか、地的級になるのかは分からないということです。

天的級になる人に、どの時点でその(天的級であるとの)自覚が生じるのかは明示されていません。
死の時点でもまだ分からないのかも知れませんし、その時には分かるのかも知れません。

協会の言うように、天的級と地的級の区別がすでに決まっていて、霊によって油そそがれたという自意識の有無がその区別を明示しているというようなものではないのではないでしょうか。

パウロは
11何とかして死人の中からの早い復活に達しえないものかと[努めているのです]。
12わたしがそれをすでに受けたとか、自分がすでに完全にされているとかいうのではありません。わたしはただ、そのためにキリスト・イエスがわたしをとらえてくださったものを、自分がそのとおりとらえ得ないものかと追い求めているのです。
13兄弟たち、わたしはまだ、自分が[それを]とらえたとは考えていません。それについては一つのことがあるのみです。すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、
14キリスト・イエスによる神からの賞である上への召しのため、目標に向かってひたすら走っているのです」(フィリピ3:11−14)
と述べています。

パウロはイエスから直接奇跡的な仕方で使命を受け、第三の天の幻(コリント第二12:2)まで与えられていたのですから、当然天的級としての自覚が生じていたと想像されるにもかかわらず、
幾多の艱難を忍んですでに大きな成果を挙げていた、フィリピ人への手紙執筆時点で、なお死人の中からの早い復活、上への召しを確定的なものとは考えていないことを示しているのです。

彼が
わたしは戦いを立派に戦い、走路を最後まで走り、信仰を守り通しました。
今から後、義の冠がわたしのために定めおかれています。それは、義なる審判者である主が、かの日に報いとして与えてくださるものです」(テモテ第二4:7,8)
と書いたのは、
「わたしはすでに飲み物の捧げ物のように注ぎだされているのです。わたしの解き放たれる定めの時は目前に迫っているからです」(テモテ第二4:6)
と認識した時点、つまりフィリピ人への手紙を書いた数年後の、テモテへの第二の手紙執筆時点でした。

この事実から見ると、いくら「聖なる兄弟たち、天の召しにあずかる人たちよ」(ヘブライ3:1)という呼びかけの言葉が使われていたとしても、呼びかけたパウロが、ヘブライ人への手紙の受取人すべてが天的級であると考えていたとは思えません。

「天の召しにあずかる人たちよ」という呼びかけは、「天的級となる可能性と希望を持っている人たちよ」という意味であろうと思われます。
そしてこの可能性と希望は、個人的に濃淡の差はあっても、広義の神の民全員が共有していたものと思われます。

(しかし多分彼は一々そんなことを考えるまでもなく、単に「神からの召し」の同意語として「天の召し」と表現しただけだったという可能性のほうが強そうですが)

ともあれ、ここで「天の召し」と訳されている語は字義的には「天的な召し」です。
つまりエプーラニオスという形容詞が使われています。

興味深いのはヘブライ11:16でこのエプーラニオスが「天に属する[場所]」と訳されていることです。
つまりアブラハム、イサク、ヤコブと言った古代の信仰の人々がとらえようとしていた場所(これは11:14の場所(原語はパトリスで、父祖の地、ホームランドの意)を指しています)のことを、エプーラニオスな所、「天に属する[場所、パトリス]」と呼んでいるのです。

したがって、アブラハム等々が天的級ではなかったと同じく、ヘブライ3:1の「天の召しにあずかる人々」も天的級と限られているわけではないと考える方が道理にかなっているでしょう。

更に日本語新世界訳ではヘブライ6:4の「エプーラニオスな無償の賜物」を「天からの無償の賜物」と訳している事実があります。

ここから見ても、ヘブライ3:1は天への召しではなく、単に天からの召し、神からの召し、上からの召しだと考えた方が素直だと思います。

エプーラニオスはまた、
「神はわたしたちを、キリストとの結びつきのもとに、天の場所において、霊のあらゆる祝福をもって祝福してくださったからです」(エフェソス1:3)
「また、キリスト・イエスとの結びつきにおいてわたしたちを共によみがえらせ、天の場所に共に座らせてくださったのです」(エフェソス2:6)
等でも用いられています。

ここで「天の場所」と訳されている原語は、問題のエプーラニオスという形容詞に中性複数の定冠詞を付したもので(同じ場所と訳されていてもこちらはパトリスではありません)、天に属する(或いは天的な)物事(或いは事柄)というのが字義でしょう。

この書の執筆時点で、当然地上で未だ生きていた手紙の受取人に対して、「わたしたちを天の場所に座らせてくださった」と述べているのですから、この天の場所が文字通りの天を指している筈はありません。

これらのエフェソスの聖句のエプーラニオスが、一世紀の神の民がキリスト・イエスと結びついた霊的な祝福を受けている状態(文字通りの復活ではなく、霊的なよみがえり)をエプーラニオスな状態と表現していることは確かでしょう。

 

このような状態を意識するのは天的級だけではなく、地的級もまた同じ状態を意識できるのではないでしょうか。

現在地的級と自認しているエホバの証人がその意識を持てないのは、協会の天的級と地的級に関する教理(すなわち狭義の神の民説)を信じ込んでいるからに過ぎません。
地的級と自認しているエホバの証人が記念式の表象物にあずかろうとしないのと全く同じ理由です。

意識(自覚)ということでは有名なローマ8章があります。

14霊によって導かれる者はみな神の子であるからです。
15あなた方は、再び恐れを生じさせる奴隷身分の霊を受けたのではなく、養子縁組の霊を受けたのであり、わたしたちはその霊によって、「アバ、父よ!」と叫ぶのです。
16霊そのものが、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子供であることを証ししています。
17さて、子供であるならば、相続人でもあります。実に神の相続人であり、キリストと共同の相続人なのです。ただし、共に栄光を受けるため、共に苦しむならばです」(ローマ8:14−17)

この記述は前記のガラテア3:26−29とそっくりです。

協会は当然この意識を持てるのは天的級だけであり、この意識の有無が天的級と地的級を分けるものだとしています。

キリストと共同の相続人なら、天的級と考えるからです。

しかしパウロは「ただし、共に苦しむならばです」と付記しています。

これは啓示2,3章の七つの会衆への手紙を想起させます。

七つの会衆の成員の多くは何らかの点で叱責されていますが、それでもすべての成員が、もし「征服する者」となれば天的な祝福を受ける(天的級となれる)との可能性(希望、努力目標)を約束されています。

征服する者(天的級)となるには、その者たちの側での積極的な努力、そして功績が求められます。

神の過分のご親切に依存し、自らの努力や、功績には依存しない召された者たち(すなわち広義の神の民)とは別の級なのです。
ただし、征服する者は召された者たち(広義の神の民)の中から出てくるのであり、召された者ではない者から忽然と征服する者が出現することはあり得ません。

広義の神の民(すなわちクリスチャン)は皆霊に導かれる神の子であり、「アバ、父よ!」と叫びますが、自分の相続財産が天にあるか地にあるかは分かりません。
しかし相続財産にあずかることだけは確実に分かっています。

そしてキリストと共に苦しみ、征服を遂げたと神(実際は裁きを委ねられたキリスト)に見なされた者だけが、天での相続財産を受けるのです。

 

協会の狭義の神の民説と広義の神の民説では現実問題として何が変わってくるのでしょうか。

地的級を自認している人たちの意識が大きく変わってきます。
彼らも霊に導かれる神の子、召された者、聖なる者、アバ父よと叫ぶことの出来る者なのです。

天的級を自認している人たちの意識も変わってきます。
天への召しはまだ確定しているわけではないからです。

記念式の表象物で両者を区別することはナンセンスになります。
地的級も当然新しい契約の当事者であり、表象物にあずかるべきだからです。

奴隷級や統治体の権威の基礎となっている、すでに確定した天的級という協会の教理上の権威も無くなります。

要するに現在地上で生きている人たちの間で、だれが天的級で、だれが地的級かは誰にも(自分にも、他人にも)分からず、等しく(広義の)神の民との自覚があるだけなのです。

尚この問題に関連して、新しい契約、および神のイスラエルを、特論として項を改めて用意してありますのでそちらもご覧ください。

追記

ものみの塔 2006/6/1 p24 12節に
「しかし、召しを受けた各人が最終的にどうなるか(つまり14万4000人の一人になるかどうか)は、その人がどのような生き方を選ぶかということに依存しています」
との記述が見られます。

この記述は召された者の中にも最終的に天に行けない者が存在することを示していますが、
協会の意図は「召された者=天的級=狭義の神の民=最終的に14万4000人の一員になる者+離れ落ちる者(ヘブライ 6:4−6、同 10:26,27)」であろうと思われます。
(これは従来からの協会の見方であるに過ぎず、なんら新しいものではありません)。

しかし、「召された者=天的級+地的級=広義の神の民」である可能性を意図せずに示唆していると考えると興味深いものがあります。

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