神のイスラエル
天的級と地的級、新しい契約で、新しい契約の当事者は「旧いイスラエル」すなわち「イスラエル国民」に取って代わる「新しいイスラエル」すなわち「神のイスラエル」だが、この「神のイスラエル」には協会の解釈とは異なり地的級も含まれる筈であると論じました。
ここでは天的級と地的級の特論Uとして神のイスラエルという観点から考察してみます。
旧いイスラエル、イスラエル国民は新しいイスラエル、神のイスラエルを予表しているわけですから、協会が新しい契約の対象者(すなわち新しい神の民、神のイスラエル)を天的級のみと考える理由の一つに、律法契約は王また祭司を整えるための契約であったという考えがあります(論理的一貫性を保とうと思えばそう考えざるを得ないでしょう)。
その根拠は、
「5『それで今、もしわたしの声に固く従い、わたしとの契約を本当に守るなら、あなた方はあらゆる民の中にあって必ずわたしの特別な所有物となる。全地はわたしのものだからである。
6そしてあなた方は、わたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる』。これがイスラエルの子らにあなたの言うべき言葉である」(出エジプト19:5,6)
にあります。
これをイスラエル国民はもし律法契約を守ることができれば、国民全員が王、祭司となると解釈するならば(協会はそう解釈しているようです。例えば 塔 89 2/1 p13 18節、p18 16節)、律法契約は単に神の民を作り出すための契約ではなく、王、祭司級を作り出すための契約となり、律法契約に取って代わる新しい契約は、新たな王、祭司級(すなわち天的級)を作り出すための契約ということになります。
この解釈は
「あなた方は、「選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民、特別な所有物となる民」であり、それは、闇からご自分の驚くべき光の中に呼び入れてくださった方の「卓越性を広く宣明するため」なのです」(ペテロ第一2:9)
に裏付けられているとみなされています。
しかし、出エジプト19:6もペテロ第一2:9も、民全員が王や祭司になると言っているのではなく、王や祭司の輩出母体となる特別な(取り分けられた、すなわち聖なる)民になると言っているのではないでしょうか。
(追記参照)
そもそも旧約聖書中のイスラエルという言葉には、天を連想させるものは何もありません。
天を連想させる言葉は、イスラエルではなく、エルサレム(シオン)なのです。
エルサレム(シオン)はイスラエル(全イスラエルのこと。南北分立後はイスラエル(しばしばエフライムとも呼ばれる)及びユダとなった)の一部であり、主要部であり、統治部なのです。
ですから、天でキリストの花嫁となった状態の天的級が「新しいエルサレム」(啓示21:2ほか)と呼ばれているのはもっともなことです。
従って、
イスエラルで象徴されるもの=神の民=予型的には律法契約の対象、すなわち王祭司級+その他の神の民、=対型的には新しい契約の対象、すなわち天的級+地的級=神のイスラエル。
エルサレム(シオン)で象徴されるもの=予型的には王祭司級=対型的には王国のための契約の対象、すなわち天的級=新しいエルサレム
と言う構図が妥当であろうと思われます。
そもそも144,000人に言及した唯一の箇所、啓示7:4−8で、これら天的級はイスラエルの子らの諸部族「の中から」選ばれると明記されているのです。
エクいろいろをご参照ください。
この事からも、イスラエルで象徴されるものである神の民は、広義の神の民とならざるを得ないのではないでしょうか(天的級と地的級参照)。
さて、神のイスラエルについて具体的に調べて見ましょう。
「15割礼も無割礼も重要ではなく、ただ新しく創造されることが[重要]なのです。
16そして、この行動の基準にしたがって整然と歩むすべての人、その人たちの上に、そうです神のイスラエルの上に、平和と憐れみとがありますように」(ガラテア6:15,16)
「神のイスラエル」という表現はここだけしかありません。
また「新しいイスラエル」とか「霊的イスラエル」という表現はどこにもありません。
律法契約が廃されたので、割礼とか無割礼とかいう区別は意味がなくなり、新しい契約によって新しい律法を思いの中に置かれ、心の中に書き記された人たち(ヘブライ8:10)、すなわち新しく創造された人たちが「神のイスラエル」だとされています。
新しい契約について記された諸聖句と同様ここでも、天とか、王、祭司とかいうことには何も触れられていませんし、地にも触れられていません。
すなわち、「神のイスラエル」を直接天的級だけと結びつける記述はないのです。
考えられる唯一のつながりは、「新しく創造される」=「神のイスラエル」であるわけですから、新しく創造された者たちとは天的級だけなのかどうかという点です。
新しく創造された者という表現でぴったりした聖句は一つしか見当たりません。
(意味的に通じる表現としては、「再び生まれる」(ヨハネ3:3)及びその類似表現がありますが)
それは、
「したがって、キリストと結ばれている人がいれば、その人は新しい創造物です。古い事物は過ぎ去りました。見よ、新しい事物が存在しているのです」(コリント第二5:17)
です。
ここでも、天とか、王、祭司とか言うことは何も触れられていません。
すなわち、「新しい創造物」を直接天的級だけと結びつける記述はないのです。
興味深いのは「キリストと結ばれている人がいれば、その人は新しい創造物です」との記述です。
これは新しい契約の項でルカ22:20に関連して引用した
「わたしの肉を食し、わたしの血を飲む者は、ずっとわたしと結びついているのであり、わたしもその者と結びついています」(ヨハネ6:56)
と同じ表現であるということです。
直訳すれば、
「だれでもキリストのうちにある者は新しい創造物です」(コリント第二5:17)
「わたしの肉を食し、わたしの血を飲む者は、わたしのうちに留まっており、わたしはその者のうちに留まっています」(ヨハネ6:56)
となります。
ものみの塔 86 2/15 の 読者からの質問はヨハネ6:53は天的級のみでなく、地的級にも適用できると答えており、6:53と一連の文脈である6:56も当然地的級にも適用できるとされています(同号 p19 15節)。
再びイスラエルについて考えて見ましょう。
協会は頻繁に霊的イスラエルということを言いますが、霊的イスラエルという言葉は聖書中にありません。
考えられる聖句は
「28外面の[ユダヤ人]がユダヤ人ではなく、また外面の肉の上での割礼が[割礼]でもないのです。
29内面の[ユダヤ人]がユダヤ人なのであって、[その人の]割礼は霊による心の[割礼]で、書かれた法典によるものではありません。その人に対する賞賛は、人間からではなく、神から来ます」(ローマ2:28,29)
です。
ここではイスラエルではなくユダヤ人という表現を取っていますが、言っていることは同じです。
(新しい契約は「イスラエルの家およびユダの家と結ばれる」と書かれています。エレミヤ31:31、ヘブライ8:8)
つまり、書かれた法典である律法契約が廃されて、思いの中に置かれ、心の中に書き記された新しい霊の律法による新しい契約が有効になっているということです。
したがって、真のユダヤ人とは新しい契約の当事者、神のイスラエルのことであるのは明らかでしょう。
しかしこのことによって、神のイスラエルは天的級に限られると言えるのでしょうか。
一世紀のクリスチャン会衆の成員が全員復活後天に行くという必然性は見出せません。
彼らの中からも当然天的級が選ばれますが、全員が天的級だという根拠はありません。
律法契約時代の神の民、肉のイスラエル人のうち、王や祭司になった人々はごく一部であったように、
新しい契約時代の神の民、神のイスラエルのうち、王また祭司として天で支配するようになる人たちはやはりごく一部であろうと結論するのが自然でしょう。
尚、まとめは天的級と地的級をご覧ください。
INDEXへ。
追記:
洞察T の[祭司」の項の中で p971 の右下に
「イスラエルは長期間にわたり、「祭司の王国、聖なる国民」の成員を供給する機会を独占していました。(出 19:6) しかしその独占的な機会は、国民として神のみ子を退けたために終わりを告げました」
との記述があります。
この記述は「祭司の王国=聖なる国民=天的級」という発想を残している点で同意できるものではありませんが、
「祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト19:6)という聖句の意味を
「イスラエル国民全体が祭司の王国になる」という意味ではなく、
「祭司の王国の成員を独占的に生み出す母体となる、(その故に聖なる、つまり神専用に取り分けられた国民でもある)」という理解に道を開くものとは言えるでしょう。
ペテロ第一2:9は70人訳から引用しているため「祭司の王国」が「王なる祭司」と表現が微妙に変わっていますが、
出エジプト19:6での生来の(予型的)イスラエル国民に対する約束は、あなた方霊的(対型的)イスラエルの上に成就しているのだという宣言でしょう。
追記2:
ものみの塔 98 2/15 p12 「エホバは多くの子らを栄光に導く」の2節に、レビ記16章の贖罪の犠牲の解説が出ていますが、そこには
「年ごとの贖罪の日には、イエスの贖いの犠牲の適用が予型的に示されました。その日、イスラエルの大祭司は、罪の捧げ物としてまず雄牛を犠牲にし、幕屋の、後代には神殿の至聖所内の神聖な箱のところでその血をささげました。これは、大祭司自身とその家の者たち、そしてレビの部族のために行われました。
これと同様にイエス・キリストは、まずご自分の霊的な「兄弟たち」の罪を覆うために、ご自身の血の価値を神にささげました。
贖罪の日に、大祭司はさらにやぎを罪の捧げ物として犠牲にし、その血を至聖所でささげて、祭司ではないイスラエル12部族の罪のために贖罪を行いました。
それと同じように大祭司イエス・キリストも、人類のうち信仰を働かせる人たちのためにご自分の命の血を用い、その人たちの罪を帳消しにされます」
と書かれています。
この記述によれば、予型的な古代イスラエルには、大祭司とその家の者たちつまり祭司級と、それとは別に非祭司の一般12部族がいたのだから、
対型的にはキリストの霊的な「兄弟たち」つまり天的級である油そそがれた者がその祭司級に相当し、それとは別にイエス・キリストの贖いに信仰を働かせるすべての人つまり地的級が非祭司の一般イスラエルに相当すると言うことになります。
(なお兄弟たちという語をこの意味で使って良いのかどうかは別途論じます。キリストの兄弟たち参照)
これはリーゾナブルな推論であると言えます。
ところが同じ記事の残りの部分および引き続く第二研究記事では依然として従来通りの天的級と地的級の教理(つまり狭義の神の民説)が強調されています。
では、律法契約に入れられていたのは祭司たちだけでしたか、非祭司の一般12部族すべてに律法契約は与えられたのではありませんでしたか。
また、アブラハムの胤と称されたのは祭司たちだけでしたか、非祭司の一般12部族すべてではありませんでしたか。
上記引用した2節の論理からすれば、新しい契約はイスラエルの家およびユダの家と結ばれるのですから、
地的級とも結ばれなければならない事になりませんか。
アブラハムの胤は如何ですか。地的級もアブラハムの胤ということになりませんか。
予型と対型に関する協会の論理は首尾一貫していないと言わざるを得ないでしょう。