裁きの日

協会は裁きの日を千年統治の期間としています。
(例えば、「聖書は実際に何を教えていますか」 p213−215)

しかしその聖書的な根拠は毎度のことですが薄弱と言わざるを得ません。

「裁きの日」という表現自体が現れるのは次の7箇所です。

マタイ 10:15、11:22,24
「裁きの日には、その都市(弟子たちの宣教の言葉を聴き入れようとしない所)よりもソドムとゴモラの地のほうが耐えやすいでしょう」(10:15)
「裁きの日には、あなた方(コラジンやベッサイダ)よりティルスやシドンの方が耐えやすいでしょう」(11:22)
「裁きの日には、あなた(カペルナウム)よりソドムの地の方が耐えやすいでしょう」(11:24)

これらイエスの音信を聴き入れようとしなかった諸都市は、裁きの日には過去に神によって処断された都市よりも重い裁きを受けるだろうと言われていますが、これが千年統治期間中の裁きを意味しているでしょうか。

答えは明白でしょう。

(勿論「都市」とは地理的な区画ではなく、その都市で支配的であった考え方、行動の仕方を示した大部分の住民を指しています。例外的な人たちはどの都市にもいくらかは居た筈です)

マタイ 12:36
「人が語るすべての無益なことば、それについて人は裁きの日に言い開きをすることになります」

ここで言われているすべての無益な言葉とは千年統治中に語るであろう言葉でしょうか、それともこの事物の体制下で、つまり復活前に、語る言葉でしょうか。

これも答えは明白でしょう。

ペテロ第二 2:10
「肉を汚そうとの欲望を抱いてそれに従い、主たる者の地位を見下す者を、切り断つ目的で裁きの日のためにどのように留め置くかを知っておられるのです」

不義の人々(前節2:9末尾)を切り断つ裁きの日のことを述べています。

これが千年統治中の話だと思われますか。

ペテロ第二 3:7
「その同じみ言葉によって、今ある天と地は火のために蓄え置かれており、不敬虔な人々の裁きと滅びの日まで留め置かれているのです」

ここに来るともう間違いようもなく明白に裁きの日とエホバの日(同 3:10)を等置しています。

ヨハネ第一 4:17
「それは、わたしたちが裁きに日に、はばかりのない言い方ができるようになるためです。なぜなら、わたしたちはこの世にあっては、かの方と全く同じようであるからです」

これも同じく今の現実の中でイエスの追随者としてとがめの無い者であれば、裁きの日に有利な言い開きが出来るということでしょう。


以上すべての直接的な聖句が裁きの日を、イエスが天からみ使いと共に雲に乗って来られる(マタイ24:30)ことに引き続く裁きの意味で使っているのに、協会はこれらの聖句をすべて無視して、間接的な聖句をひねり回して、裁きの日とは千年統治のことだと主張しているのです。

イエスの到来に引き続く裁きとは、二人の男の間で(マタイ24:4)、二人の女の間で(同24:41)、忠実を示した奴隷と不忠実を示した奴隷の間で(同24:46、50)、思慮深い処女と、愚かな処女の間で(同25:10、12)、タラントを増やした忠実な奴隷と何もしなかった不精な奴隷の間で(同25:21,26)、羊とやぎの間で(同25:34,41)起こると比喩的に言われた裁きのことでしょう。

この裁きで不利な判決を下された者は引き続いて起こるハルマゲドンの際に滅ぼされるのです。

 

協会の論理の基礎になっている聖句を一つだけ検討しておきましょう。

ローマ6:7
「死んだ者は[自分の]罪から放免されているのです」

協会はこの聖句を根拠として、死者が生前の行いによって裁かれることはない、復活後の行いによって裁かれるのなら、裁きの日は千年統治中のこととなるという論を展開しています。

しかしこの聖句の「死んだ者」とは文字通りの死者のことでしょうか。

パウロはその直前の6:2で「わたしたちは罪に関しては死んだ」と述べています。
また次の6:8では「キリストと共に死んだのであれば」と言っています。

つまりこの文脈では文字通りの死のことを述べているのではなく、比喩的な意味で罪に関して死ぬことを言っているのです。

さらに「放免されている」と言う訳語にも問題があります。

これは原語ではディカイオオーつまり義と宣するという語の受身形です。

すべての死者が義と宣せられるということは考えられません。

「罪に関しては死んだもの、しかし神に関してはキリスト・イエスによって生きているもの」(同 6:11)が義と宣せられるのです。


付記

もう一つ、ヨハネ5:29です。

ヨハネ5:29
「良いことを行った者は命の復活へ、いとうべきことを習わしにした者は裁きの復活へと[出て来るのです]」

協会は復活して来る人々の裁きの根拠となる、良いことを行ったり、いとうべきことを習わしにしたりする期間は生前ではなく、復活後千年統治中のことだと主張しています。

しかし英文新世界訳では
and [will] come out, those who did good things to the resurrection of life etc.

となっており、行間逐語訳では
will come out the (ones) the good (things) having done into resurrection of life etc.

となっています(having done と訳されている部分はアオリスト分詞という形です)。

問題は良いことを行ったのは出て来る前か後かということですが、特に行間逐語訳の動詞の時制の使い方から見れば、良いことを行ったのは出て来る前であることは明らかなのではないでしょうか。

全く同じ時制の使い方が、ヨハネ5:25にも見られます。
「死んだ人々が神の子の声を聞き、[それに]注意を向けた者たちが生きる時が来ようとしています」

英文
those who have given heed will live.
行間逐語訳
the (ones) having heard will live. (こちらも having heard の部分はアオリスト分詞です)

注意を向けたのが先でしょうか、生きるのが先でしょうか。

この場合はどう見ても注意を向けたのが先ですよね。

同様に5:29でも復活によって出て来る前の行為によって、命の復活に出て来るか、裁きの復活に出て来るかが決まるのではないでしょうか。

もし死によって生前の行為がすべてご破算になるのだったら、「神は不義な方ではないので、あなた方がこれまで聖なる者たちに仕え、今なお仕え続けているその働きと、[こうして]み名に示した愛とを忘れたりはされないのです」(ヘブライ6:10)という聖句はどうなるのでしょうか。

では裁きの復活へと出てくる者にとって復活とは何でしょうか。

おそらく、体や意識のないままに生前の行為によって裁かれ、命に値すると判定された者だけが体と意識を与えられて命の復活へと出て来るが、命に値しないと判定された者は体や意識を伴った復活を経験することなくハデス(記念の墓)からゲヘナ(第二の死)へと直行するのではなかろうかと思います。

「み座の前に立つ」(啓示20:12)という言葉は、どのみち裁きの対象となるという意味の比喩的な表現ですから、必ずしも体と意識を持っている必要はありません。

(ちょうど体と意識を持って生きている者たちが裁かれる羊とやぎの例えで、すべての国の民が彼の前に集めれ、羊と見なされた者が右にやぎと見なされた者が左に置かれる(マタイ25:32,33)と言っても、現実に肉体を持った人々が一箇所に集められたり右や左に移動したりする必要がないのと同じです)

「死とハデスもその中の死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いにしたがって裁かれた」(啓示20:13)という表現はやはりこの見解を支持しているように思われます。

パソコンに例えれば、ごみ箱を一掃する前に中身をチェックし、救済しようと思うファイルは受信トレイのような生きているフォルダーに移し、救済する必要がないと判断したファイルは一括して「ごみ箱を空にする」で完全に抹消するという操作のようなものです。

如何思われるでしょうか。

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