王国
協会は「神の王国とは、エホバ神によって設立され、神が選んだ王を持つ政府です」と言い切っています(同趣旨のことはいたるところに出て来ますが、この文例は「聖書は実際に何を教えていますか」の77ページの文言です)。
しかし本当に王国とは政府なのでしょうか。
洞察−1 p619 「神の王国」では「分析的ギリシャ語辞典」を引用して、「クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で「王国」と訳されているギリシャ語はバシレイアで、この語は「王国、領土、一人の王の治める地域もしくは国;王権、権威、支配、統治;王威、王の称号や栄誉」を意味しています」と説明しています。
W.E.Vineは
「'basileia' is primarily an abstract noun, denoting, "sovereignty,
royal power, dominion"; then by metonymy, a concrete noun,
denoting the territory or people over whom a king rules.」
と説明しています。
つまり先ず王(バシレウス)が「王として支配(バシレウオー)すること」という能動的意味、
及びその「王の支配を(自発的にせよ、強制的にせよ)受け入れること」という受動的意味があり、
その受動的意味から王の支配を受け入れた人々、すなわち臣民、或いはその支配が及ぶ領域(領土範囲)という派生的意味が生じたということのようです。
政府とはいわば支配手段の一形態みたいなものですから、上記能動的意味の中の一つの派生的意味という位置付けになるのでしょうか。
また新世界訳で何度か政府と訳されている語(殆んどの場合権威という語と並置されている)はアルケーであって、バシレイアとは異なる語です。
つまり「王国とは政府です」はあまりにも断定的な言い過ぎで、「王国は政府を意味する事もあります」と言うのが正しい説明でしょう。
例えば「王国に入る」を言う場合、政府と解釈するとその支配階層(政府役人)の一員になるという意味になりますが、支配領域と解釈すると支配下に入る、つまり臣民となる、という意味になります。
協会は神の王国を天的政府と解釈しているので、王国に入るのは天的級だけであるという解釈に繋がります。
しかし、イエスが王国に入ると言われる時、天的級か地的級かを意識しておられた様子はありません。
王国に入るとは、イエスに信仰を持ち、神の霊を受けて広義の神の民になることを言われていたと解釈すると無理なく理解できます。
また王国の支配する時期についても、一世紀当時の会衆内における支配と考えられる聖句も、ハルマゲドン後の新しい天と新しい地(つまり千年統治)における支配と考えられる聖句もあります。
更に王国という言葉で、王国に入る資格について述べたり、王国の支配下での新しい価値体系について述べたり、事物の体制の終結時に起こる人々の選別について述べたりと、その用法は多彩です。
とても「王国とは」と一口で言えるようなものではないようです。
あえて「王国とは」という問いに答えるとすれば、王による支配ですと答えれば一番多くのケースがカバーできるのでしょうか。
これからいくつかの聖句に対するわたしの見解を記しますが、何しろ王国という言葉の出例は非常に多いので取り上げられるのはごく一部だけです。
更に論ずる必要があると思われる聖句があればゲストブックでご指摘ください。逐次追加してゆきたいと思います。
ルカ 17:21
「見よ、神の王国はあなた方(すなわちパリサイ人たち)のただ中にあるのです」
ここで言われている王国はどの意味の王国でしょうか。
「ただ中に」と訳されている言葉はエントスで、これは辞書では本来「内側に」という意味の副詞が前置詞的に使われているのだと説明されています。
マタイ23:26では中性単数の定冠詞を付けて「杯と皿の「内側」を清めよ」という使い方がされています。
エントスの反対はエクトスで、これは外側です。同じくマタイ23:26に出てきます。
(ついでですが、前節の23:25に出てくる内側、外側はエソーテ(th)ン、エクソーテ(th)ンでちょっと違った語です)
神(により王とされるイエス)の支配に服そうとしないパリサイ人の内側に神の王国があるのでは辻褄が合わないというので、パリサイ人たちのただ中に王であるイエスが現に立っているのだと解釈しようとする人たちも多いようですが(協会もその解釈を取っています。例えば「知識」の本のp91 6節)、王であるイエスのことを王国と言うのはやはり意味がずれてしまうのではないでしょうか。
(ちなみにヨハネ1:26の「あなた方のただ中に、あなた方の知らない方(つまりイエス)が立っています」の「ただ中」はメソスであり、全く違った語が使われています。メソスは真ん中という意味ですからまさしく「ただ中」です)
さて、このイエスの言葉はパリサイ人たちの「神の王国はいつ来るのか」という質問(ルカ17:20)に対する答えです。
それに対してイエスは王国とは王の支配に服することであり、人の内側(心の中)の問題(王の支配を受け入れるかどうか、受け入れようとするかどうか)だと言われたのだと思います。
つまり「神の王国はあなた方の内側の問題です(内側にかかっています)。どうせあなた方は王国を受け入れようとしないのだから、王国がいつ来るかを論じても意味を持たないでしょう」と言うことでしょう。
(クリスチャン会衆という形での王国はこの問答の半年後に「来た」のですが)
王国バシレイアとは王として支配するバシレウオーすること、或いは支配される(支配を受け入れる)つまりバシレウオーされることという原義に立ち戻れば、この理解の方が自然なのではないでしょうか。
マタイ 25:34
「(いわゆる羊級の人たちに)世の基が置かれて以来あなた方のために備えられている王国を受け継ぎなさい」
協会はここで描写された羊級はいわゆる地的級、ハルマゲドン後の新しい地に迎え入れられる人たちであるとしています。
とすれば、ここの王国はイエスおよび14万4千人のいわゆる王国政府ではあり得ないことになります。
つまり新しい地も王国と呼ばれているのです。
メシア、キリストなる王の支配は新しい地に対するものなのですから当然と言えば当然ですが。
コロサイ 1:13
「[神]はわたしたちを闇の権威から救い出し、ご自分の愛するみ子の王国へと移してくださいました」
この聖句はコロサイ書執筆時点で「愛するみ子の王国」は既に支配を始めていることを示しています。
洞察−1のp629はそのことを確認しています。
この時点では未だ天の政府は樹立していないので、支配しておられたのは天で神の右に座しておられた王イエス・キリストただお一人です。
つまり支配体制および被支配領域としての王国はペンテコステ時のクリスチャン会衆発足時点でスタートし、子羊の結婚による新しいエルサレム発足時にリニューアルされるということでしょう。
リニューアルはあくまでリニューアルであって、王国そのものはCE33年以来一貫して存在していると考えるのが自然でしょう。
マタイ 4:17
「あなた方は悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」
マルコ 1:15
「定めの時は満ち、神の王国は近づきました。あなた方は悔い改めて、良いたよりに信仰を持ちなさい」
これはイエスの宣教の第一声です。
何が近づいたのか。
上記コロサイ1:13に言う「愛するみ子の王国」という形での王国の樹立が数年後に迫っていたということでしょう。
天の王国も、神の王国も神の権威による支配、天的原理による支配、天に(神に)属する王国ですから同じことです。
「天の」王国を天に所在する王国(或いは政府)と解釈するとおかしなことになります。
「愛するみ子の王国」の臣民は天的級も地的級も未分化な神の民全体でしょう。
マタイ5:3、10
「天の王国はその人たちのものだからです」
イエスは幸いな人たちの条件を列挙されていますが、「天の王国はその人たちのものだ」と言われた時、協会が言うようにいわゆる天的級のことを示唆されていたのでしょうか。
その人たちのものとは、その人たちが入ることのできるもの、その人たちの所有物、その人たちの相続財産、どの表現を取っても同じ事で、王なるキリストの支配下に入り、その支配のもたらす祝福に与ることを言っているではないでしょうか。
マタイ5:5では「その人たちは地を受け継ぐ」と言われています。
この地は新しい地であり、王国を受け継ぐも、地を受け継ぐも、王国に入るも、神を見る(或いは王国を見る)も、皆同じことだと思います。
「幸いです」と列挙されている項目は、どの項目も全部同じことをいろいろな表現で言っているだけのことではないでしょうか。
要するにその人たちとは天的級も地的級も未分化な神の民全体であり、その人たちのものであると言われている王国は新しい天と新しい地にまたがるキリストの支配領域すべてを指しているのでしょう。
マタイ8:11
「天の王国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に食卓について横になるでしょう」
ルカ13:28
「アブラハム、イサク、ヤコブ、およびすべての預言者が神の王国にいるのに」
アブラハム、イサク、ヤコブはどこにいるのでしょうか。
天の王国(=神の王国)を天上に存在する政府と考えると非常に難解になってきます。
(イエス・キリスト以前の忠実な人たちも天に行くと考えるのなら話は簡単ですが)
ものみの塔86 12/1 p9(=「偉大な人」36章)では「アブラハム、イサク、ヤコブは神の王国の取り決めを表します」
と述べています。もっと詳細には、
ものみの塔90 3/15 p31「霊によって生み出された人たちの小さな群れは、エホバ(大いなるアブラハム)やみ子(イサクによって表されている)と共に天で食卓に着いて横になっているヤコブになぞらえることができました」
と言うことだそうです。
いかにも苦し紛れという感じはしませんか。
天の王国を「天に属する王国」(つまり天地にまたがる王国、天的部分(支配部分)はごく一部で、大部分は地的部分(被支配部分)で構成される)と考えると話は簡単です。
(ヘブライ3:1の「天の召し」とヘブライ11:16の「天に属する[場所]」については、天的級と地的級で触れていますのでご参照ください)
ヨハネ3:3
「再び生まれなければ、だれも神の王国を見ることはできません」
ヨハネ3:5
「水と霊から生まれなければだれも神の王国に入ることはありません」
協会は王国を政府と考えているので、この聖句を再び生まれなければ、つまり水と霊から生まれなければ、天で王、祭司となってキリストと共に支配することは出来ないという意味に解釈しています(ものみの塔09 4/1 p7、8)。
本当にそうでしょうか。
まず再び生まれるという表現について上記記事のp3の脚注では、ゲンナオーという言葉に注目していますが、ここでのキーはゲンナオーにあるのではなくアノーテ(th)ンにあります。
ゲンナオーは生まれるという意味に過ぎず、アノーテンが「再び、新たに」或いは「上から」、更には「最初から」という意味を持っているのです。
アノーテンが上からを意味している箇所としては、ヨハネ3:31;19:11、ヤコブ1:17;3:15,17等があり、再びを意味している箇所にはガラテア4:9があります。
ニコデモとの問答において、イエスは「上から」の意味にで語られたのをニコデモが「再び」と勘違いしてトンチンカンな応答をし、イエスが「霊から」生まれると言い直すことにより彼の誤解を正されたということだと思います。
霊から生まれるは、ローマ8:14の「(神の)霊に導かれる」と同義でしょう。
従って神の王国を見る、神の王国に入るは神の子となると同義でしょう。
油そそがれた者(いわゆる天的級)という教理の結果エホバの証人は、自分が王、祭司となる14万4千人の一員であると考えない限り、自分は「上から」(つまり霊から)生まれたとも、霊に導かれているとも、神の子であるとも考えることができなくなっています。
しかし何度も言うように、この教理は聖書的裏付けを持っていません。
上記塔09 4/1 p3−12の記事も例によって多くの聖句を引用しているとはいえ、真に裏付けとなり得る聖句は一つもありません。つまり文脈を無視した適用となっているのです。ご自身でご確認ください。