ヨエルのいなご

協会はしばしばキリスト教世界を背教したユダやイスラエルになぞらえています。

例えばアモスの預言を扱った塔 04/11/15 19ページでは20節で「背教したイスラエル王国に神の裁きが執行されたことは、神がキリスト教世界に滅びをもたらされることの保証となっています」と述べています。

しかし同時に同じページの23節では「後に、捕囚になっていたイスラエルとユダの人々を再び集めて祖国に帰還させ、豊かな安全と繁栄という祝福をお与えになりました」とも述べています。

これではキリスト教世界からの残りの者が最終的な祝福を受けることになりませんか?

ユダとイスラエルは堕落、背教していても最後まで(西暦1世紀にクリスチャン会衆にとって代わられるまで)神の民でした。
エホバは背教したご自分の民を徹底的に打ち懲らしめられますが、残りの者を残して回復させ、これを祝福されるという構図はヘブライ語聖書の預言の多くに見られるもっとも基本的なパターンとなっています。

一方諸国民は滅びに定められており、回復はありません。
しかし、滅びの前にそれから出ることが呼び掛けられており、出た個別の者はやはり諸国民と呼ばれ、神の民の残りの者と共に祝福を受けます。
この構図もヘブライ語聖書の預言の多くに見られるもう一つのパターンとなっています。

そのまま残って滅ぼされる大多数の者も諸国民、出た事によって救いに与る少数の者も諸国民なので、文脈に注意する必要があります。

ついでですが、日本文新世界訳では naions は「諸国民」ですが、all the nations は「あらゆる国民」、「すべての国民」、「すべての国の民」などと訳されていることが多いので注意が必要です。
一貫性を保つなら「すべての諸国民」又は「あらゆる諸国民」とすべきでしょう。

キリスト教世界を背教したユダやイスラエルに、そしてエホバの証人を回復に与り、最終的に祝福を受ける者になぞらえたいのであれば、
神の民=クリスチャン全体=結果的に滅ぼされるキリスト教世界+結果的に回復され祝福を受けるエホバの証人
とでも位置付けなければならないのではないでしょうか。

そして、結果的に滅ぼされるキリスト教世界も結果的に救われるエホバの証人も、ともに徹底的な神の懲罰の災厄をこうむるとしなければならないのではないかと思います。

また回復され神の祝福に与る者たちは、試練の期間中滅ぼされる者たちの中に散在して忠実を保っているのであり、
一つのグループとして試練の来る前から、結果的に滅ぼされる者たちとは別枠でまとめられているようには描写されていないことも認めざるを得ないだろうと思います。


では、今の協会の適用だとおかしなことになるいう典型例をヨエル書から見てみましょう。

ものみの塔 98/5/1 に「エホバの日は近い」というヨエル書の解説記事があります。

p9からp10にかけての9節では「現代のいなごの軍隊は、エホバの油そそがれたいなごの軍勢にほかなりません。これには今、約560万人を数えるイエスの「ほかの羊」が加わっています」との記述があり、いなごをエホバの証人と同定しています。

勿論ユダの宗教指導者たちはキリスト教世界の僧職者に同定されています(p10(11節))。
「現代における神のいなごの軍隊は、キリスト教世界という「都市」で徹底的な証しを行なってきました」というp11(19節)の記述もあります。

またp11(14節)にあるようにいなごの災いはエホバの日の前触れとされています。

引き続く「「安全に逃れる」のはだれですか」という記事では、
p18(14節)で「1919年、エホバはご自分の民に熱心さと同情を示し、彼らを回復させてご自分の霊的な活動の領域に導き入れました。これこそまさしく霊的パラダイスです。ヨエルはそれをこのように見事に描写していました」としてヨエル2:21−24を引用しています。

さて、
ヨエル 1:4−7

毛虫が食い残したものは、いなごがこれを食べた。いなごが残したものは、はい回る翼のないいなごがこれを食べた。そして、はい回る翼のないいなごが残したものは、ごきぶりがこれを食べた。
「大酒にふける者たちよ、目を覚まして泣き悲しめ。ぶどう酒にふける者たちすべてよ、甘いぶどう酒のゆえに泣きわめけ。それはあなた方の口から絶たれたからである。
わたしの土地に上って来た国民がいるからである。それは強大で、数知れない。その歯はライオンの歯であり、それにはライオンのあご骨がある。それはわたしのぶどうの木を驚きの的とし、わたしのいちじくの木をただの切り株とした。それを全くむき出しにして投げ捨てた。その小枝は白くなった」

いなごに食い荒らされるのは「わたしの土地」、「わたしのぶどうの木」、「わたしのいちじくの木」であると書かれているのではありませんか。
わたしとはエホバのことであるのは言うまでもありません。

ですから協会の解釈では災厄をこうむるのはキリスト教世界とされていますが、
災厄をこうむる者こそが、堕落して大酒にふけっているとはいえ、エホバの地、エホバの国民なのです。

では、災厄が終わった後はどうなるでしょうか。

ヨエル 2:20−25
20そして北方から来た者をあなた方の上からはるかに遠ざけ、その者をまさに追い散らして水のない地と荒れ果てたところに行かせ、その顔を東方の海に、その背部を西方の海に向けさせる。そして彼の悪臭はまさに立ち上り、その異臭は絶えず上って行く。[神]は自分の行なうところにおいてまさに大いなることを行なうからである。

21「地よ恐れてはいけない。喜び、かつ歓び楽しめ。エホバは自分の行うところにおいてまさに大いなることを行なうからである。
22開けた野の獣たちよ、恐れてはいけない。荒野の牧草地は必ず緑になるからである。樹木はまさしくその実りを出すのである。いちじくの木とぶどうの木は必ずその活力を出すことになる。
23そして、シオンの子らよ。、あなた方の神エホバにあって喜び、かつ歓び楽しめ。[神]は秋の雨を必要なだけ必ず与え、あなた方に豊かな雨を、秋の雨と春の雨とを初めの時のように降らせるからである。
24そして、脱穀場は[清められた]穀物で満ち、搾りおけは新しいぶどう酒と油で満ちあふれることになる。

25こうしてわたしは、いなご、這い回る翼のないいなご、またごきぶりと毛虫、すなわちわたしがあなた方の中に送ったわたしの大いなる軍勢が食い荒らした年月に対して償いをする」

協会が霊的パラダイスの描写と見なした21-24節の前後には、上記のように20節と25節があります。

20節の追い散らされる者が、前後の文脈ことに25節から見て、いなごの軍勢を指しているのは明らかでしょう。

また25節の「こうして」とはいなごを追い散らした後、災厄をこうむった神の民「シオンの子ら」(2:23)にもたらされる回復と祝福の描写、つまり21-24節、のことなのも明らかでしょう。

回復され償いを受けるのはだれですか。まさにいなごの災厄を受けた国民、つまり、全体としては堕落し、背教したイスラエル国民から出て来る残りの者ではありませんか。

いなごは神の民を懲らしめるためにエホバが用いられるむち棒です。
そして用済みのむち棒は追い散らされて舞台から去って行き、
その後で、懲らしめられた神の民の中の残りの者が回復させられ祝福を受けるのです。

いなごが祝福を受けるわけではありません。
災厄をもたらしたいなごが回復され償いを受けるなどという発想はどこにもありません。
いなごは単に神に用いられるその場限りの使い捨ての道具に過ぎません。

もし今熱心に良いたよりを宣べ伝えているエホバの証人が「いなご」の役割を果たすに過ぎないのだとしたら---、
ああ、何たる皮肉でしょう。

しかし実は協会はこのことをちゃんと知っているはずです。

洞察1−p919 「ごきぶり」の項には

「預言者ヨエルは、地を荒廃させる昆虫の大群による壊滅的な猛攻撃を予告し、他の昆虫が食べ残したものを何でも食い尽くす昆虫としてごきぶり(ハースィール)を最後にあげています。(ヨエ 1:4)
後にこの預言者は、祝福と許しの与えられる時のことを述べています。
侵入者は追い返され、ごきぶり(ハースィール)や神の「大いなる軍勢」の他のものたちが食べた物に対する償いがなされるのです。(ヨエ 2:25)」
とありますし、

「聖書全体は神の霊感を受けたもので有益です」のヨエル書の項 p147にも

「祝福と許しが与えられ、侵入者は退かされるでしょう。
それは恐れの時ではなく、喜びの時、歓び楽しむ時となります。果実と果物と新しいぶどう酒と油とがあるからです。
エホバはご自分のいなごの大軍勢が食い荒らした年月に対する補償をしてくださるでしょう」

と書いてあるのですから。


ちなみに洞察(英文)は1988年、霊感(新版)は1990年、本項で引用したものみの塔は1998年、そしてこのものみの塔が2004年8月の奉仕会で再度強調されたのです。


追記

協会はしばしばヨエルのいなごと啓示9章のいなごを同一視しています。
(「啓示の書の最高潮」 p142 2節、p143 6節等)

しかし啓示のいなごとヨエルのいなごを同一視する事が出来るのでしょうか。

啓示9:3,4

そして、その煙の中からいなごが地上に出てきた。それらには権威が与えられた。地のさそりが持つのと同じ権威である。
そして、地の草木を、またどんな緑のものも、どんな樹木も[損なわないように]、ただ、額に神の証印のない人々だけを損なうようにと告げられた」

この4節の記述と既に引用したヨエル1:4,7の記述を比較して見れば、啓示のいなごとヨエルのいなごがその損なう対象において全く正反対であることに気が付かれるでしょう。

また啓示9:7−10のいなごの描写も、ヨエルのいなごの描写と似ているのは、9節の「彼らの翼の音は、多くの馬に引かれれる兵車が戦闘に走り行く音のようであった」という部分だけであり、その他の描写に共通点は全くありません。

啓示のいなごが何を表しているにせよ、それがヨエルのいなごと同じものだとは考えられないでしょう。


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