新しい契約
天的級と地的級で提起した問題に関して、いわば特論Tとして新しい契約から検討してみます。
エホバの証人と新しく交わり始めた人たちが一番奇異の念を抱くのは、一年で一番重要な行事とされている記念式において、殆どの人が表象物にあずからない(回されて来るパンとぶどう酒を食べたり飲んだりしない)ことでしょう。
殆どの会衆で誰もあずからない表象物を、なぜうやうやしい態度で次々と手渡して行くのでしょうか。
記念式の表象物に関しては、
「19また、[イエス]はパンを取り、感謝を捧げてそれを割き、それを彼らに与えて、こう言われた。「これは、あなた方のために与えられるわたしの体を現しています。わたしの記念としてこれを行いつづけなさい」。
20また、晩さんがすんでから杯をも同じようにして、こう言われた。「この杯は、わたしの血による新しい契約を表わしています。それはあなた方のために注ぎ出されることになっています」(ルカ22:19,20)
との記述が鍵になります。
ここで新しい契約と言われている以上、表象物にあずかるのは新しい契約の当事者だけであるはずだ、というのが協会の論理であり、それ自体は納得できるものでしょう。
では、新しい契約の当事者は(勿論当事者のもう一方はエホバ神であり、仲介者はイエス・キリストですが)
本当に天的級だけで、地的級は含まれていないのでしょうか?
まず、聖書中で新しい契約に言及されている8箇所全部を調べて見ましょう。
エレミヤ31:13
「見よ、日がやって来る」とエホバはお告げになる、「わたしはイスラエルの家およびユダの家と新しい契約を結ぶ」
この預言は前後関係も含めてヘブライ8章で解説が加えられているので、そちらで詳細を論じることにします。
ルカ22:20
「また、晩さんがすんでから杯をも同じようにして、こう言われた。「この杯は、わたしの血による新しい契約を表わしています。それはあなた方のために注ぎ出されることになっています」」
ここで新しい契約の当事者は「あなた方」であることが明らかになっています。
協会の解釈では、「あなた方」にはその場に出席していた11人の使徒たちだけでなく、その後集められる天的級すべてが含まれるが、地的級は含まれないということになっています。
しかしマタイやマルコの平行記述では、
「これはわたしの『契約の血』を表わしており、それは、罪の許しのため、多くの人のために注ぎ出されることになっているのです](マタイ26:28)
「これはわたしの『契約の血』を表わしています。それは多くの人のために注ぎ出されることになっています](マルコ14:24)
となっており、「多くの人」のためと記されています。
「多くの人」とは地的級をも含んでいるのではないでしょうか。
少なくともマタイによれば、「罪の許しのため」とあるように、イエス・キリストの贖いにより罪が許されるすべての人を含んでいると考えるのが自然だと思われます。
事実イエスは
「ちょうど人の子が、仕えてもらうためではなく、むしろ仕え、自分の魂を多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たのと同じです」(マタイ20:28)
「人の子でさえ、仕えてもらうためではなく、むしろ仕え、かつ自分の魂を、多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たのです」(マルコ10:45)
と言われたのです。
一方、イエスが1年前に語られた類似の言葉に、
「53きわめて真実にあなた方に言いますが、人の子の肉を食べず、その血を飲まないかぎり、あなた方は自分のうちに命を持てません。
54わたしの肉を食し、わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち、わたしはその人を終わりの日に復活させるでしょう。
55わたしの肉は真の食物であり、わたしの血は真の飲み物です。
56わたしの肉を食し、わたしの血を飲む者は、ずっとわたしと結びついているのであり、わたしもその者と結びついています。
57生ける父がわたしをお遣わしになり、わたしが父によって生きているのと同じように、わたしを食する者、その者もまたわたしによって生きるのです」(ヨハネ6:53−57)
があります。
塔 86 2/15 の読者からの質問で、協会はこの言葉を従来の天的級のみに当てはまるという解釈から、天的級にも地的級にも当てはまるという解釈に軌道修正しています。
この軌道修正は妥当なものだと思われます。
そうでなければ、例えば
「そして彼はわたしたちの罪のためのなだめの犠牲です。ただし、わたしたちの[罪]のためだけではなく、全世界の[罪]のためでもあります](ヨハネ第一2:2)
「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え、だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで、永遠の命を持てるようにされたからです」(ヨハネ3:16)
等の聖句と調和を保つのが難しくなるでしょう。
「この方は、すべての人のための対応する贖いとしてご自身を与えてくださったのです」(テモテ第一2:6)とある通り
イエスは天的級のためだけではなく、地的級のためにも贖いの犠牲となられたのですから。
しかし上記の協会の軌道修正は、ヨハネ6章の記述と記念式に関する記述を、時期と文脈が違うからという理由で、切り離すことによりなされています。
記念式に関して述べられた「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」もまた軌道修正可能なのではないでしょうか。
ヨハネ6:56でもう一つ興味深いのは、結びつくという表現が使われていることです。
「結びつく」という語は in union with という英語を日本語に訳したものですが、元のギリシャ語はエンという前置詞で、直訳すれば英語で
in であり、日本語なら「のうちに」或いは「において」とでも言った感じでしょう。
be 動詞や留まるという動詞と共に用いられて、直訳すれば「のうちにある」とか「のうちに留まる」という表現となっています。
この「結びつく」はきわめて親密な関係を表わす表現で(辞書等では霊的内在という説明がなされているようです)、例えば
「神はわたしたちを、キリストとの結びつきのもとに、天の場所において、霊のあらゆる祝福をもって祝福してくださったからです」(エフェソス1:3)や
「また、キリスト・イエスとの結びつきにおいてわたしたちを共によみがえらせ、天の場所に共に座らせてくださったのです」(エフェソス2:6)のように、
天的級を強く連想させるような使われ方もされているからです。
(訳文がそう連想させるだけで、原文はそうではありません。天的級と地的級のエプーラニオスに関する部分をご覧ください)
「結びつく」という表現が地的級にも適用されるとすれば、天的級を連想させるほかの表現も地的級にも適用可能なのではないでしょうか。
コリント第一11:25
「晩さんをすませた後、杯についても同じようにして、こう言われました。[この杯はわたしの血による新しい契約を表わしています。それを飲むたびにわたしの記念としてこれを行ってゆきなさい」」
これは上記ルカ22:20と全く同じなので、新しい情報は出て来ません。
コリント第二3:6
「実際に神はわたしたちを新しい契約の奉仕者、つまり書かれた法典ではなく霊の奉仕者として十分に資格を得させてくださいました。書かれた法典は死罪に定めますが、霊は生かすのです」
次のヘブライ8章が詳しく論じているように新しい契約は、旧い契約つまり書かれた法典に取って代わるものであり、言葉として石の書き板や紙に書かれたものではなく、思いや心に直接働きかける霊の影響力なのでした。
従ってここで「新しい契約」が、「書かれた法典」との対比において「霊」と言われているのはもっともなことです。
この霊は天的級のみでなく、地的級にも働きかけるはずです。
興味のある方は、奴隷級と統治体の末尾で紹介した 塔
96 6/15 読者からの質問 もご覧ください。
そこでは、「天的級も地的級も、同じ量の神の霊を持っている」と主張されています。
ヘブライ8:7−13
「7もしその最初の契約がとがめられるところのないものであったなら、第二のもののための余地が求められることはなかったでしょう。
8ところが、こう述べて民をとがめておられるのです。「『見よ、[その]日が来ようとしている』とエホバは言われる。『そしてわたしは、イスラエルの家およびユダの家と新しい契約を結ぶ。
9それは、わたしがその手をとって[彼らの父祖たち]をエジプトの地から連れ出した日にその父祖たちと立てた契約によるのではない。彼らはわたしの契約のうちにとどまらなかったからである。そのためわたしは彼らを顧みることをやめた』と、エホバは言われる」。
10「『これが、それらの日の後にわたしがイスラエルの家と締結する契約なのである』と、エホバは言われる。『わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、それを彼らの心の中に書き記す。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。
11そして、彼らは決して、それぞれ仲間の市民に、またそれぞれ自分の兄弟に教えて、「エホバを知れ!」とは言わない。最も小なる者から最も大なる者に至るまで、すべての者がわたしを知るようになるからである。
12わたしは彼らの不義の行いに対して憐れみ深くし、彼らの罪をもはや決して思い出さないからである』」。
13「新しい[契約]」と言うことによって、[神]は以前のものを廃れたものとされました。そして、廃れたものとされて古くなってゆくものは、近く消えてゆくのです」
これがパウロによるエレミヤの預言の解説です。
すなわち新しい契約は律法契約に取って代わるものであり、イスラエル国民に取って代わる新しい「神の民」を作るものであるということです。
10節で、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」
と言われている通りです。
ここでは天のことや、王や祭司のことには何も触れられていませんし、地のことにも触れられていません。
天的級とか地的級といったことは、新しい契約とは関係がないと考えられます。
イスラエル国民はエホバの民でしたが、契約(律法契約)のうちにとどまらなかったので神の民という地位を失い、その代わりとして新しい神の民を興すのが新しい契約の目的なのです。
ところで、そもそも天的級とは協会が力説しているように、
「神およびキリストの祭司となり、千年の間彼と共に王として支配する」(啓示20:6)
人たちです。
旧い契約(律法契約)の時代には、神の民(イスラエル国民)を導く者として、その中のごく一部の人々が王として、或いは祭司として任命されていました。
当然ながら、彼らは地に身を置いてその職務を遂行していました。
新しい契約の時代になった時やはり、新しい神の民を導く者として、その中のごく一部の人々が王また祭司として任命されるのではないでしょうか。
ただし今度は、王また祭司は天に身をおいてその職務を遂行するようになるのです(勿論これはそのためのしかるべき時が来た時からですが)。
神のイスラエルをご参照ください。
ところでルカの記録によれば、イエスは新しい契約のための記念式を執り行われた後、「あなた方(11人の使徒たち)と王国のための契約を結ぶ」と言われました(ルカ22:29)。
ここは直訳すると「あなた方に王国を契約する」となります。
この契約するという動詞(ディアティテーミ)は目的語(対格)として契約という語をとって、厳密には「契約(ディアテーケー)を契約(ディアティテーミ)する」という形で「契約を締結する」(ヘブライ8:10、16)という意味で用いられています。
辞書的にはこのディアティテーミには契約するという意味以外に委ねるという意味があるようで、大部分の英訳ではルカ22:29を「王国を appoint する、或は assingn する(つまり委ねる)」と訳しているようです。
王国とは「王として支配すること」という意味ですから、この契約に入る人たち、つまり王国を委ねられた人たち(直接的には11人の使徒たち)が天で王となる人たちであるのは筋が通っていると言えるでしょう。王国もご覧ください。
それを裏付けるように王国のための契約(厳密には王国のための契約という表現ではありませんが)に入れられた人々は
「座に着いてイスラエルの12部族を裁くようになる」(ルカ22:30)
とされています。
こうして見ると「王国のための契約」は天的級とだけ結ばれますが、新しい契約は神の民(天的級および地的級の両者を含む)全体(ここで裁かれる者とされているイスラエルの12部族は、地的級を指していると考えられます)と結ばれると考えられるのではないでしょうか。
一方協会は、新しい契約の当事者も王国のための契約の当事者も共に天的級のみであるとしています。
だとすれば、なぜそのような類似した二つの契約が必要なのかという疑問が生じるのは当然でしょう。
ヘブライ9:15
「こうして[キリスト]は新しい契約の仲介者なのです。それは以前の契約下での違反から贖いによって釈放するための死が遂げられたことに基づいて、召された者たちが永遠の相続財産の約束を受けられるようにするためです」
ここでは新しい契約が、召された者たちが永遠の相続財産の約束を受けるということに関連付けられています。
永遠の相続財産という場合、天を指すことも地を指すこともあるので(例えば 塔 98 2/1 p20 10節)、ここでの焦点は「召された者たち」が天的級に限定されるのか、地的級にも適用されるのかと言うことになります。
日本語で召すと言うと何か特別な厳かなことに聞こえますが、原語(カレオー)でも、英語(call)でも単に呼ぶという普通の言葉が用いられています。
この原語の言葉は文脈により招ねく(英語 invite )と訳されることもあります。
ですから召されるとは、天的級であれ、地的級であれ、何らかの状態なり、役割なりに呼び入れられることであり、何らかのグループに参加するように呼ばれ、招かれた人であれば、「召された者(クレートス)」なのです。
したがって、召された者たちが天的級だけなのか、地的級をも含むのかは言葉だけでは判断できず、それぞれの文脈によって判断しなければならないという事になります。
新しい契約に招き入れられ、新しい神の民となる人が召された者たちなのですから、この聖句だけからはその者たちが天的級だけなのか、地的級をも含むのかは限定できないでしょう。
ヘブライ12:24
「新しい契約の仲介者であるイエス、そして、アベル[の血]よりさらに勝った仕方で語る振り注ぎの血に近づいたのです」
ここではイエスが契約の仲介者であると述べているだけで、契約の当事者への言及はありません。
以上新しい契約に関する聖句を調べたところでは、「王国のための契約」の当事者が天的級だけであるのは明確ですが、「新しい契約」の当事者が天的級だけであるという解釈を積極的に支持する根拠は見出せません。
むしろ新しい契約がイエス・キリストの贖いの血で発効する以上、その当事者はこの贖いに信仰を働かせるすべての人々、天的級及び地的級の両者を共に含むと考えた方が整合性があるという結論になります。
この問題については神のイスラエル、天的級と地的級もご覧ください。
追記
塔 98/2/1 に「ほかの羊と新しい契約」という記事があります。
ほかの羊は新しい契約の当事者ではないという協会の従来からの主張が繰り返されているわけですが、
p19の6節に興味深い記述があるので、長くなりますが節全体を引用しておきます。
6「さらに、ほかの羊は、昔の異国の者たちが律法契約をとらえたように、新しい契約をとらえます。
どのようにでしょうか。それは、契約の当事者となることによってではなく、契約に関連した律法に服し、その取り決めから益を得ることによってです。(エレミヤ31:33,34と比較してください。)
油そそがれた仲間と同様、ほかの羊も、エホバの律法を「心の中に」書き記されています。彼らはエホバのおきてと原則を深く愛し、それに従います。(詩編37:31;119:97)
油そそがれたクリスチャンと同様、エホバを知っています。(ヨハネ17:3)
割礼についてはどうでしょうか。新しい契約が結ばれる約1,500年前、モーセはイスラエル人に、『あなた方は自分の心の包皮に割礼を施さなければならない』と勧めました。(申命記10:16.エレミヤ4:4)義務づけられた肉の割礼は律法と共に過ぎ去りましたが、油そそがれた者とほかの羊はどちらも心に「割礼を受け」なければなりません。(コロサイ2:11)
最後に、エホバはほかの羊のとがを、イエスの流した「契約の血」に基づいてお許しになります。(マタイ26:28。ヨハネ第一1:9;2:2)
神は彼らを、14万4,000人の場合のように霊的な子として養子にされるわけではありません。しかし神は、アブラハムが神の友として義と宣せられたのと同じ意味で、ほかの羊を義と宣せられます。―マタイ25:46。ローマ4:2,3。ヤコブ2:23。」
ほかの羊は油そそがれた者と同じく、新しい契約をとらえ、エホバの律法を心の中に書き記され、エホバを知り、心に割礼を受け、そのとがをイエスの「契約の血」に基づいて許されると言うのです。
ここまで認めておいて、ほかの羊は新しい契約の当事者ではないとはどういうことでしょうか。
論理的だと思われますか。
エレミヤ31:33,34には(従ってヘブライ8:10−12も)新しい契約を結ばれる人々は、心の中にエホバの律法を書き記され、エホバの民となり、エホバを知り、そのとがを許されるとあります。
それで全部であり、それ以上のこと(油そそぎとか、天とか、祭司とか)は何も書かれていません。
上記の記事ではそのすべてを認めておきながら、なおかつ契約の当事者ではないと言い張っているのです。