臨在(パルーシア)
洞察-2 「臨在」 p1188にはこうあります。
「バインの旧新約聖書用語解説辞典」(1981年,第1巻,208,209ページ)はこう述べています。「パルーシアは……到着,およびその結果としての臨在の両方を意味する。例えば,ある婦人は[ギリシャ語で書かれた]パピルスの手紙の中で,ある場所にあった自分の財産に関係した事柄を処理するため,そこでの自分のパルーシアが必要であると述べている。……その語は,教会が天に運び去られる時のキリストの再来に関して用いられる場合,単にキリストが聖徒たちのために瞬間的に到来することだけではなく,キリストがその瞬間から,世界に表わし示される顕現の時まで聖徒たちと共に臨在することを意味している」」
臨在は到着ないし到来から始まると言うことは道理にかなっていると言えます。
ある時点から臨在が始まったと主張するためには、その時点で到来があったと言うことができなければなりません。
だからこそ協会は「[イエスは]1914年には、即位した王として臨在を始めるために『来ました』」と主張しているのです。
しかし到来の項でこの解釈には無理があり、聖書中でキリストの到来と呼ばれているものは、大艱難中に起こる裁きのための到来だけなのではなかろうかと論じました。
だとすれば、臨在はその到来から始まることになります。
これは端的に言えば、臨在は現在既に始まっているのか、それとも未だ始まっていないのかと言うことです。
クリスチャンギリシャ語聖書中パルーシアは24回出て来るとリストアップされていますが、そのうちキリストの臨在と目されるものは16回です。その他に「エホバの日の臨在」が一回あります。
これら16の聖句を逐次検討してみましょう。
マタイ24:3
「そのようなことはいつあるのでしょうか。そしてあなたの臨在と事物の終結のしるしには何がありますか」
ご存知「あなたの臨在と事物の体制の終結のしるし」です。
イエスの神殿崩壊の預言(24:2)に対して、弟子たちは、神殿の崩壊=あなたの臨在と事物の体制の終結、と考えて質問したのですが、イエスの答えは文脈から見ると、「人の子の臨在と事物の体制の終結についての特別のしるしなどはない。何のしるしもなく、あなた方の思いもよらない時にいきなりやって来るのだ」であったように思われます。
この解釈は、協会がそのすべての出版物で強調している、「戦争、食糧不足、地震、迫害、全地で宣べ伝えられること等からなる複合のしるし」という解釈とは大きく異なっています。
では文脈から見てみましょう。
イエスは戦争や食糧不足や地震(24:6,7)に言及されていますが、それらは「必ず起きること」ですが、「終わりはまだなのです](24:6)と説明されています。
つまり、これらは昔から起こっていることであり、今後も断続的に起こり続けることであるが、終わりと直結しているわけではないということでしょう。
(「終わり」と「事物の体制の終結」の関係については事物の体制の終結の項をご覧ください)
迫害が起こったり(24:9)、全地に宣べ伝えられたり(24:14)するでしょうが、これらは終わりが来るまでに必ず起きることの一部であり、それらがどの程度まで進行すれば終わりなのかの目安は何も述べられていません。
その後、70年のエルサレムと神殿の崩壊を思わせる記述が続き、再度偽キリストや偽預言者によるキリスト到来との誤報に対する警告が語られています。神殿がイエスの預言通り崩壊しても、それはユダヤ教の事物の体制の終結に過ぎず、サタンの事物の体制全体の終結には直結しないのです。
そして次に取り上げる24:27の稲妻の話になり、天の異兆を伴う(24:29)人の子キリストの到来(24:30)と続きます。
誤報に対する警告(24:26)から稲妻(24:27)までの間には何の記述も無く、信頼できるしるしについては何の示唆もありません。
人の子はいきなり到来し、その時点から臨在が始まるのです。
そして24:36の「その日と時刻についてはだれも知りません」へと続きます。
結論は「それゆえ、ずっと見張っていなさい」(24:42)です。
何を見張っているのですか。世の情勢ですか。
確たるしるしが何一つ語られていないのですから、見張りようがないのではありませんか。
見張るとは、その時行われる裁きに際してそれが何時来ようと言い開きが出来るよう、自分自身を見張っていなさいという趣旨ではないかと思われます。
(「それで、起きる事が定まっているこれらのすべての事を逃れ、かつ、人の子の前に立つことができるよう、常に祈願をしつつ、いつも目ざめていなさい」ルカ(21:36))
以上マタイ24:3の質問に対するイエスの答えを文脈から追って見ました。
臨在はもう始まっていると思われるでしょうか。まだ始まっていないと思われるでしょうか。
マタイ24:27
「稲妻が東の方から出て西の方に輝きわたるように、人の子の臨在もそのようだからです」
洞察-1 「稲妻」 p243では、「イエス・キリストはご自分の臨在が、「東の方から出て西の方に輝き渡る」稲妻を隠すことができないのと同様、秘密にしてはおかれないことを示されました」と述べています。
秘密にしてはおかれないのは信仰の目で見る弟子たちだけに対してでしょうか、世全体に対してですか。
後者に対してであれば、世の人々の大半はそんなことは全く認めないのに、エホバの証人が、いわば一方的に、広く宣べ伝えさえすればこのことは成就するのでしょうか。
やはりこれは敵対者も含めてすべての人に明らかになると言うことでしょう。
つまり啓示1:7「彼を刺し通した者たちも見る」状況を指しており、これは「彼は雲と共に来る」とあるとおり、マタイ24:30の到来を指しているとしか考えられません。
ここで言う臨在は最高潮のことだけですか。臨在の開始と同時にこの特徴が現れるのでしょうか。
直前の26節「それゆえ、人々が、『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行ってはなりません。『見よ、奥の間にいる』と言っても、それを信じてはなりません」からの続きであることを考慮すると、
27節で言う「人の子の臨在」は、臨在の開始すなわち人の子の到来直後からの状態を指していると言う結論になるのではないでしょうか。
マタイ24:37,39
「人の子の臨在はちょうどノアの日(複数)のようだからです。洪水前のそれらの日(複数)、ノアが箱舟に入る日(単数)まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。そして洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが、人の子の臨在[の時]もそうなるのです」
臨在は洪水前のそれらの日(複数)に対応し、箱舟に入る日(単数)が臨在の最高潮に対応すると考えるとスッキリするので、ここは既に臨在が始まっていると考える強力な根拠とされています。
またルカ17:26「また、ノアの日(複数)に起きたとおり、人の子の日(複数)もまたそうなるでしょう。人々は食べたり、飲んだり、めとったり、嫁いだりしていて、ついにノアが箱舟の中に入る日(単数)となり、洪水が来て彼らをみな滅ぼしました」
に対比すると人の子の臨在=人の子の日(複数)となってちょうど具合が良いという訳です。
(例えば洞察-2 「臨在」 p1188)
しかしこの言葉の要点は「人の子の臨在もそうなるのです」です。
「そう」(ギリシャ語フートース)とはどんな出来事を指しているのですか。
ノアの日(複数)全体を指しているのでしょうか。
それとも人々が注意していない時に洪水が不意に来ることに焦点が合わされているのでしょうか。
そもそもイエスがノアの日を引き合いに出されたのは
「このゆえに、あなた方も用意のできていることを示しなさい。あなた方の思わぬ時刻に人の子は来るからです」(24:44)と言う警告を強調するためであったのは明らかです。
つまり人々が注意していない時に、突然人の子が来て臨在が始まると言うことではないでしょうか。
臨在が始まっているから(あるいは始まったら)注意しなさいではなく、臨在がいつ始まるか分からないから注意していなさいです。
注意すべきなのは誰でしたか。20世紀、21世紀の人々だけですか。
一世紀の弟子たちも全く同じ注意を払うよう警告されていたのではないでしょうか。
この話の冒頭の言葉「その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も知らず、ただ父だけが知っておられます」(24:36)のその日と時刻は、人の子キリストの到来の日と時刻であるのは明らかです。
だからと言って、だれも知らないのは最高潮の時だけであって、臨在の開始時点は事前に予測でき(1914年以前から1914年を予測していました)、事後には最高潮が来る前から確認できたと考える(協会は現在臨在継続中であると確信しています)のは道理にかなったことでしょうか。
臨在はその日をだれも知らない到来に引き続く出来事なのです。
コリント第一15:23;テサロニケ第一4:15;テサロニケ第二2:1
このグループの聖句は、臨在の間に天への復活が起こることを述べています。
したがって臨在が既に始まっていると考えれば、天への復活も始まっているであろうと言うことになり、未だ臨在が始まっていないと考えれば天への復活は未だ始まっていないと言うことになります。
誰かが天で復活したかどうかは地上の人間には分からない以上、これらの聖句は臨在がすでに始まっているのか、未だ始まっていないのかを判断する材料にはならないと考えられるかも知れません。
しかし文脈を見ると臨在の開始は大艱難の開始に先立つものではないことが分かります。
コリント第一15:51,52は「わたしたちはみな[死の]眠りにつくのではありませんが、わたしたちはみな変えられるのです。一瞬に、またたくまに、最後のラッパの間にです。ラッパが鳴ると死人は朽ちないものによみがえらされ、わたしたちは変えられるからです」と述べています。
死の眠りにつかなかった人々だけでなく、死人の場合も復活するのはラッパの鳴る時とされています。
テサロニケ第一4:16「主ご自身が号令とみ使いの頭の声また神のラッパと共に天から下られると、キリストと結ばれて死んでいる者たちが最初によみがえるからです」も全く同様です。
ラッパの鳴るのは何時ですか?
マタイ24:31「そして彼は、大きなラッパの音と共に自分の使いたちを遣わし、彼らは四方の風から、天の一つの果てから他の果てにまで、その選ばれた者たちを集めるでしょう」以外に考えられますか?
勿論これはマタイ24:30の人の子の到来に引き続いて起こることなのです。
人の子の到来を告げるラッパと共に死人の復活があり、生きている残りの者が、朽ちないものに変えられ雲のうちに取り去られて空中で主に会う(テサロニケ第一4:17)という形で、地の四隅から集められるのです。
テサロニケ第二2:1、2は「1わたしたちの主イエス・キリストの臨在、またわたしたちがそのもとに集められることに関して、あなた方にお願いします。2エホバの日が来ているという趣旨の霊感の表現や口伝えの音信によって、またわたしたちから出たかのような手紙によって、すぐに動揺して理性を失ったり、興奮したりすることのないようにしてください」と続いています。
これは既に検討したキリストの到来の誤報に対する警告であるマタイ24:23−26に酷似していませんか?
ご存知のようにギリシャ語聖書現存写本の本文ではエホバは全く使われておらず、すべて主又は神となっています。(行間逐語訳のギリシャ語本文参照)
従ってここの「エホバの日」もギリシャ語本文では「主の日」です。
また英文新世界訳ではハルマゲドンを指すペテロ第二3:10の「主の日」がJehovah's
Dayであるのに対し、ここの「主の日」はthe day of
Jehovahとなっています(ギリシャ語本文での定冠詞の有無がtheの有無で訳し分けられており、それに伴ってof
になったり ’s になったりしています)。
日本文新世界訳ではどちらも「エホバの日」です。
ここ(テサニ2:2)の主の日はハルマゲドンに先立つマタイ24:30の人の子の到来であると解釈するのが自然でしょう。
ハルマゲドンを指す主の日は当然エホバの日と訳すことができますが、ここの主の日はそのまま主の日と直訳しておいた方が良かったのではないかと思います。
そんなことはさて置き、このグループの聖句も臨在が始まり、天的な復活が起きるのはキリストの到来に引き続く出来事だと言うことになるでしょう。
テサロニケ第一2:19;3:13;5:23
臨在の際に、天的な復活にあずかるにふさわしい者とされる祝福について述べていますが、直接の文脈からはその時期を判断することができません。
しかし同じ手紙の中で同じ言葉が使われているのですから、これらの臨在も上記テサロニケ第一4:15の臨在と同じ事態を指していると考えるのが自然でしょう。
テサロニケ第二2:8
「まさにその時になると、不法の者が表わし示されますか、主イエスはその者を、ご自分の口の霊によって除き去り、その臨在の顕現によってこれを無に至らせるのです」
この臨在の顕現は、最高潮であるハルマゲドンと考えてよいでしょう。
臨在の開始はそれより前ではあるが、どれだけ前かはこの聖句からは判別できません。
興味深いのはこの臨在の項の最初に引用した洞察中のバインの注解です。
こうなっていました。
「その語は,教会が天に運び去られる時のキリストの再来に関して用いられる場合,単にキリストが聖徒たちのために瞬間的に到来することだけではなく,キリストがその瞬間から,世界に表わし示される顕現の時まで聖徒たちと共に臨在することを意味している」
どうやらバインはキリストの臨在はマタイ24:30の到来に始まり、テサロニケ第二2:8の臨在の顕現で終わると考えていたように思われます。
ヤコブ5:7,8
「7ですから兄弟たち、主の臨在の時まで辛抱しなさい。御覧なさい、農夫は地の貴重な実を待ちつづけ、早い雨と遅い雨があるまで、その[実]について辛抱します。8あなた方も辛抱し、心を強固にしなさい。主の臨在が近づいたからです]
辛抱するのは臨在の始まり迄ですか、それとも臨在が始まってもまだ最高潮まで辛抱するのですか?
主の臨在が近づいたからという表現は、臨在が始まるまでという意味合いを表わしているのではないでしょうか。
一世紀においてヤコブは臨在が近づいたと言っています。
これはイエスがマタイ24章で言われた「それゆえ、ずっと見張っていなさい。あなた方は、自分たちの主がどの日に来るかを知らないからです」とよく対応していると言えます。
一世紀でも現在でも、イエスの弟子たる者は常にいつ来るかわからない主の到来及びそれに伴う臨在の開始を辛抱して見張っているべきなのです。
ペテロ第二1:16
臨在の確かさを言っているだけで、時期を判断する材料にはならないでしょう。
ペテロ第二3:4
直前の3節を含めて引用すると、「3というのは、あなた方は先ずこのことを知っているからです。つまり終わりの日(複数)にはあざける者たちがあざけりを抱いてやって来るからです。その者たちは自分の欲望のままに進み、4「この約束された彼の臨在はどうなっているのか。わたしたちの父祖が[死の]眠りについた日から、すべてのものは創造の初め以来とまったく同じ状態を保っているではないか」と言うでしょう」
現在でも大勢見受けるあざける者たちは、霊的に目ざめていないゆえに臨在に伴う世の変化に気づかず、臨在が始まっているにも拘らず臨在は来ていないと言っているのでしょうか。
それとも既に検討したマタイ24:27の彼らにも分かる筈の稲妻がまだ輝き渡っていないゆえに、つまり人の子の到来が未だ起こっていないゆえに、イエスの到来や臨在といったことはただの作り話で、実際に起こるはずはないと言っているのでしょうか。
臨在は既に始まっていると信じる人には前者に見え、臨在は未だ始まっていないと考える人には後者に見えるでしょう。
しかし、前後の文脈を見るとペテロは遠い将来にあざける者たちが出て来るだろうと言っているのではなく、この手紙を受け取る人たちが現にあざける者たちに直面していると述べているのではないでしょうか。
11、12節で「これらのものはこうしてことごとく溶解するのですから、あなた方は、聖なる行状と敬虔な専心のうちに、エホバの日の臨在を待ち、[それを]しっかりと思いに留める者となるべきではありませんか」と呼びかけられているのはこの手紙の受取人たちです。
ここでも基調はイエスの「それゆえ、ずっと見張っていなさい。あなた方は、自分たちの主がどの日に来るかを知らないからです」という警告です。
その警告は一世紀から現在まで、そして実際に主が来るまで一貫して有効なのです。
ヨハネ第一2:28
「では今、子供らよ、彼と結ばれたままでいなさい。彼が現わされる時、その臨在の際に、わたしたちがはばかりのない言い方ができ、恥を被って彼から退かなくてもよいようにするためです」
これは基本的にはテサロニケ第一2:19;3:13;5:23と同様ですが、時間的な関係を見定めるに当たっては、「彼が現わされる時」と関連付けられている点が特徴です。
「現わされる」という言葉からはテサロニケ第二2:8の「臨在の顕現」が連想されます。
しかし、この聖句だけなら、臨在の最高潮である顕現という言い方もできるでしょう。
決め手にはならないようです。
上記諸聖句の検討結果からも、臨在はまだ始まってはいないが、緊急感を失わず油断なく見張っている必要がある(マタイ24:3に関連して既述したように、世の情勢をキョロキョロと伺っていなさいではなく、人の子がいつ来られてもその前に立てるように自分の信仰の質を見張っていなさいということ)という結論は動かないでしょう。