奴隷級と統治体

この問題に関しては、エホバの証人やものみの塔に対して多少とも批判的な言説を展開する人々の大部分が取り上げていると思われるので、何を述べても誰かの二番煎じ、三番煎じになることは避けられないでしょうが、やはり素通りするわけにも行かないので一応まとめてみます。

マタイ 24:45−51

45主人が、時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため、彼らの上に任命した、忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。

46主人が到着してそうしているところを見るならば、その奴隷は幸いです。
47あなた方に真実に言いますが、[主人]は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。

48しかし、もしそのよこしまな奴隷が、心の中で、『わたしの主人は遅れている』と言い、
49仲間の奴隷たちをたたき始め、のんだくれたちと共に食べたり飲んだりするようなことがあるならば、
50その奴隷の主人は、彼の予期していない日、彼の知らない時刻に来て、
51最も厳しく彼を罰し、その受け分を偽善者たちと共にならせるでしょう。そこで[彼は]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするのです」

食物を与えさせるために召使いたちの上に任命された奴隷として頭に浮かぶのは、使徒6:1-6に出てくるステファノたち「霊と知恵に満ちた確かな男子」七人でしょうか。
それともエジプトの食糧管理官として任命されたヨセフでしょうか。彼も「思慮深くて知恵のある人」と認められています(創世記41:39)。

しかし、この例えの趣旨は食糧供給の仕事そのものではなく、
忠実で思慮深そうだと見込まれて選ばれた奴隷が食物供給係としての特命を受け、
主人が帰って来て検分した時に、もし期待通り忠実に思慮深く働いているなら更に上の地位に任命され、
期待を裏切っていることが暴露されるなら、最も厳しく処分されるということであるのは明確でしょう。

つまりこれは続くマタイ25章14−30節のタラントの例えと全く同じ構図です。
(同じ構図ということに関してだけは協会の見解も同じです。塔04 3/1 p15 参照)

イエスがこの例えを語られた時その目的は、直前のマタイ24:44「あなた方も用意のできていることを示しなさい。あなた方の思わぬ時刻に人の子は来るからです」を、新たな例えを使って更に強調することにあったのではないでしょうか。

タラントの例えもその直前のマタイ25:13の「ずっと見張っていなさい。あなた方は、その日もその時刻も知らないからです」を、新たな例えを使って更に強調されたものでしょう。

一世紀の会衆にも成員を霊的に養うための指導者が立てられていました。
彼らは成員一般よりも当然より重い責任があり、委ねられた任務に対して言い開きをしなければなりませんでした。

しかも検分の日、言い開きを求められる日は何時来るか分からないのです。

そのことは、
ヘブライ13:17「あなた方の間で指導の任に当たっている人たちに従い、また柔順でありなさい。彼らは言い開きをする者として、あなた方の魂を見守っているのです」
ヤコブ3:1「わたしの兄弟たち、あなた方の多くが教える者となるべきではありません。わたしたちがより重い裁きを受けることをあなた方は知っているからです」
等にも示されています。

この言い開きの責任は、「奴隷」と「召使いたち」の代わりに「家令」と「従者団」と言う表現を使った同様の例えであるルカ12:42−46の後に、「だれでも多く与えられた者、その者には多くのことが要求されます。そして、人々が多くをゆだねた者、その者に人々は普通以上を要求するのです」(ルカ12:48)が付け加えられていることからも判るでしょう。

またペテロはその第一の手紙の5:1−4で、神の羊の群れを牧する年長者に対して、自ら進んで真剣な態度で牧するなら、主要な牧者が現わされる時あせることのない栄光の冠を受けると言っています。

これらから考えれば、「忠実で思慮深い奴隷」は、会衆の上に任命された年長者、監督、牧者、教える者、指導の任に当たっている者であり、「召使いたち」は、神の羊の群れ、会衆の成員ということになるのではないでしょうか。

「主人が到着する」のは、ペテロ第一5:4で言う主要な牧者が現わされる時であり、「すべての持ち物をつかさどらせるべく任命する」とは、栄光の冠を受けさせる、つまり天に復活させ従属の王また祭司とするということでしょう。

ただし留意すべきは、例えの要旨はあくまで、何時言い開きの時が来るか判らないのだから、常に目覚め見張っていて忠実さを保ちなさいという点にあるということです。

勿論この見解はなんら目新しいものではありません。

すでに、塔81 6/1 p24で
「この『奴隷は』クリスチャンの奉仕者、あるいは会衆の霊的必要を世話する責任を伴うその監督の職務を指していると言う人がいます。『主人の』到着はキリストの二度目の到来か個々の奉仕者の死を指していると言われています。それで、クリスチャンの奉仕者はこのたとえ話に促されて自分たちにゆだねられている者をよく世話しなければならないと言うのです」
と述べて、この見方が古くからの常識的なものであることが示されています。


それに対し、塔04 3/1 p10 の9節では

「したがって、「忠実で思慮深い奴隷」という表現は、西暦33年から今までのどの時代であれ、地上に存在する一団としての油そそがれた霊的国民の全員を指します」

「ですから、召使たちもやはり、油そそがれたクリスチャンでした。ただしここでは、一団としてではなく、個々のメンバーとして見ています」

と述べています。

食物を与える者と与えられる者が同じ実体であり、一団として見たら与える者となり、個々のメンバーとして見たら与えられる者となるという論理は、その難解さにおいて三位一体級と言えるかもしれません。

協会は統治体とは油そそがれた者たち全体である奴隷級を代表する代理機関であるとしています。

しかしこの定義に関しては、建前と実態が乖離していることは否めません。

現在油そそがれた者たちと見なされているのは、記念式で表象物にあずかっている人たちです。

これは完全な自己申告ですから、建前上は奴隷級でありながら実態としては何の権威もありません。
協会の運営にも、教理上の決定にも、自らの代表である筈の統治体の選出にも、これらの自称油そそがれた者たちは全く参画する機会はないのです。

統治体の一員として任命される時だけ、突如として自称油そそがれた者たちの一員であることが必須の要求条件になるというわけです。

もっとも、会衆の一般成員の目に触れないところで、自称油そそがれた者たちが真の油そそがれた者たちと、本人が自分でそう思い込んでいるだけの文字通りの「自称」油そそがれた者たちに密かに判別されていて、協会から真の油そそがれた者たちと認定された人々は密かに建前通りの機能を果たしているのかも知れませんが、これは当事者でなければ何とも分かりません。

実態は、奴隷級=統治体であり、召使いたち=統治体の成員以外の油そそがれた者たち+ほかの羊なのです。

一団の人々のうち、選ばれた少数者が与える者となり、残りの多数者が与えられる者となると普通に解釈してはなぜいけないのでしょうか。

この点についても、上記塔81 6/1 p24は
「「奴隷」と「召使いたち」は同じ級<クラス>を表わしており、一方は複合体としてのその級を、他方は個々の人としてのその級を表わしているとする考えに異議を唱える人もいるかもしれません。異議を唱える人々はキリストの油そそがれた弟子たちすべてが霊的食物を準備するわけではないので、「奴隷」は指導的な人々だけを表わしており、「召使い」は会衆で奉仕している人々を表わしていると論ずるかもしれません」
と述べて、古くからの常識的反論であることを示しています。 

古くからの常識的反論ではあっても、そのために有効性が減少するわけではありません。
どちらの解釈が聖書的に見て妥当かだけが判断基準となるでしょう。

 

とは言え、協会の見解に関しての最大の問題点は
主人が到着してそうしているところを見るならば、その奴隷は幸いです。
あなた方に真実に言いますが、[主人]は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう」
というマタイ24:46,47の記述が1914−1919年に成就してしまったという主張です(塔04 3/1 p12 等)。

この主張を裏付けるために、協会はイエスの到来を何度かに分けると言う解釈を取っています。

果たしてそのような解釈が成立するのでしょうか。
イエス・キリストの到来の項を見てください。

このサイトの主要な項はすべてこの解釈(1914、1918、1919年説)が無理であることを示しています。
諸国民の定められた時エレミヤの70年事物の体制の終結臨在、皆そうです。
これらは相互に関連し合っているのでぜひ通してお読みください。

統治体が忠実で思慮深い奴隷であると主張するのはよいとしても、すでに検分に合格して、「すべての持ち物をつかさどらされている」と主張するのは明らかに無理であり、イエスの例えの趣旨からしても逸脱しているとしか思えません。

検分に合格したら、もうずっと見張っている必要は無くなった筈であり、1919年以降見張っている必要が無くなったとは到底言えない(勿論協会も言っていない)のは明白だからです。

「奴隷」級を「地上で神の王国を代表する唯一の是認された経路」と主張する(塔81 6/1 p24)神がかった権威付けの根拠は、マタイ24:46を1919年に主人イエス・キリストがすべての持ち物を奴隷級に委ねたと解釈するところから来ているので、この問題は軽視できないものがあります。

 

ところで、ひとつ興味深い記事をご紹介しましょう。
塔96 6/15 p31 読者からの質問
「地的な希望を持つ今日の神の僕たちは、霊によって油そそがれたクリスチャンと同じ量の神の霊を持っていると言えますか」です。

協会は「基本的に言って、持っているというのが答えです。ほかの羊級の忠実な兄弟姉妹は、油そそがれた者たちと同等に神の聖霊を受けることができます」と答えています。

そして塔(英文)52 4/15 の読者からの質問を引用し「今日ほかの羊は、残りの者と同じ霊的食卓で養われ、同じ食物を取り入れ、同じ真理を吸収します。ーーー彼らが得る理解の程度は、ひとえに一人一人がどれほど研究に打ち込むかによって決まります。主の霊は、いずれの級にも等しく配分され、知識と理解は両者に等しく与えられますし、それを吸収する機会も同等です」と述べています。

油そそがれた者たちも他の羊も同じ量の神の霊を持つのなら、なぜ油そそがれた者たちだけが、そして油そそがれた者たち全部が奴隷級、霊的食物の供給係、なのでしょうか?

また、霊によって油注がれた者と霊によって油そそがれていない者が、同じ量の神の霊を持つのならば、霊によって油そそがれるとは一体何なのでしょうか?

追記。

上記した建前と実体の乖離については協会も気にしているらしく、奴隷級の成員(つまり協会の言う油そそがれた者たち)全部が霊的食物を供給しているわけではなく、食物を供給するのは奴隷級の中の統治体だけである。だから奴隷級、つまり油そそがれた者であっても統治体に従順に服しなさいという趣旨の記事を何度か出しています。
その代表が、09年6月15日号の第4研究記事「忠実な家令とその統治体」です。

しかしこのいわば言い逃れは、論理矛盾に拍車を掛けるものと言えるでしょう。

イエスが例えの中で言われた言葉は、「主人が、時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため、彼らの上に任命した、忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか」(マタイ24:45)ですから、
この例えの中で「奴隷」と呼ばれているのは食物を与えるべく任命された者であり、
その仕事に関与しない者は、「召使いたち」ではあっても「奴隷」ではないのは明白だからです。
(奴隷という言葉自体にはそのような象徴的意味合いは全くなく、単に奴隷階級の者を指すだけの語です)

ローマ8:14の「神の霊に導かれる者はみな神の子」と言う記述に当てはまる者たち
(協会は狭義の神の民説ですから、神の霊に導かれる者はすなわち天的希望を持つ者、油そそれた者と考えています。
一方このサイトで強調しているのは広義の神の民説ですから、神の霊に導かれる者はすなわち天的級、地的級未分化にキリストに真の信仰を働かせるクリスチャン全員と考えています)
が全員霊的食物を与えるわけではないというのは事実ですが、
ということはこれら神の子(たち)のうち霊的食物を与える事に関与していない者たちは、イエスのこの例えの用語では、主人の「召使いたち」に相当するという事であって、「奴隷」には相当しないのは明白なのではないでしょうか。

これらの記事で協会は(恐らく意図的に)用語の定義をあいまいにし、すり替えを行っているのです。

上記09年6月15日号の記事では、すり替えはp21 6節で新しい国民の成員を「奴隷」級と断定する事により行われています。
その前のp21 4節で古代イスラエル国民すべてを「僕」級と呼び、「しかし国民を教える者は祭司、レビ人だけでした」と述べており、もう少し前のp20 2節では「家令自身も「僕」です」と述べて、「奴隷」級は「僕」級の中から教える者、霊的食物を供給する者として選ばれた者であることを主張した直後にです。

新しい国民すべてが霊的食物を供給する者ではないと主張するのなら、以上の流れから当然新しい国民は古代イスラエル国民を後継する「僕級」である筈です。

追記2

それにしてもエホバの証人の間では、「地上で神の王国を代表する唯一の是認された経路」という考えに対する確信は信仰と呼べる域に達しているようです。

聖書理解は神が用いておられる忠実で思慮深い奴隷級に委ねられているのだから、我々が個々の聖書理解について論議するのは無益、僭越な行為であり、我々の務めは奴隷級のその時点での理解に従順に従うことだと信じ込んでいるのです。

彼らは奴隷級は神が用いておられるのだから、調整すべきところがあれば、神が然るべき時に然るべく調整されるだろう、現に調整されて来たではないか、奴隷級は神の調整に対して謙遜なのだ、と主張します。

神に従うとは奴隷級に従うことだと言い切る人さえいます。

これでは奴隷級を偶像視していると言わざるを得ないと思うのですが如何でしょうか。

彼らは奴隷級の偶像視に疑問を抱く人を長老の地位から外し、その疑問を公然と語る人を排斥してしまうのです。

真理に対する愛はどこに行ったのでしょうか。

そもそも聖書中には協会が言うような意味での経路という言葉も組織という言葉もありません。

また用いるという語はごく一般的な語ですから、神であれ人間であれ何らかの必要があればなんであれ使えるものを用いるというだけのことです。

また、これ(マタイ24:45)は例えですから(洞察ー2 p212)、例えの目的さえ達成できれば。食物分配係でなくても、召使いたちの面倒を見る特別の職務、「上に」任命したという表現にふさわしい職務でさえあれば何でもよかったのではないでしょうか。

丁度マタイ24:40、41で、二人の男が野にいて二人の女が手臼をひいていると記述されていますが、これは二人の男が漁をしていて二人の女が水を汲んでいるとしても何ら構わなかったでしょう。
野や手臼の意味をあれこれ詮索しても仕方がないのです。要は例えの要点が強調できれば良いのですから。

この問題は結局、自称奴隷級がマタイ24:36−25:46を一貫する文脈を無視して、24:45ー47だけを切り離して単独の預言と見なしてしまったという事でしょう。

文脈から見ればここも例えであることは明らかなのに、もうそんなことは考えもしないのです。


その点ルカ12:35−48の文脈も考え合わせれば事態は一層明らかになるでしょう。

主たる要点は主人がいつ到着するか分からないのだから、ずっと見張っていなさいということです。

副次的な要点は、多くを委ねられた者は、良い場合でも悪い場合でも、その結果に伴う報いが善悪共に大きいということです。

マタイ24:45−50の場合も、それ以上の意味を読み込むのは無理筋だと思います。

例えとはあくまで仮定の情況と、それに対応する仮定の結末が設定されて、その因果関係をもたらす原則に注意を向けるというものなのですから。

設定された仮定の情況をあれこれ拡大解釈しても著者の意図から離れて行くだけでしょう。


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