| 1861 | 日普修好通商条約締結 | ヒュースケン暗殺・堀の自刃 |
| 1870's | プロイセン(/Prusso-Germany=普独)、欧州情勢に集中する為に、東アジアへの政治的野心を
見せず、受動的な政策を貫く。 明治日本の普独への判断基準の確立。(ヴィッピヒ) | |
| 1871-1873 | 岩倉遣欧使節団 | ビスマルク演説 日本近代化プロセスの方向性の決定 |
| 1880's | 英仏米から普独への関心の推移。諸外国使節団に日本は“ドイツ麻疹”を患っていると称されるほどの普独の影響力 | |
| 1889 | プロイセン式明治憲法の発布 | 日独(普)間の友誼的関係の最高潮 |
| 1895 | 三国干渉(露仏独) | ドイツの干渉を予測していなかった日本に衝撃。東京=ベルリン間の蜜月の
終焉 ⇔大衆の日本賛辞(新聞の『東アジアのプロイセン』/『プロイセンよりアジアの真珠』戦勝祝辞) |
| 1895~ | Weltpolitik | ドイツの帝国主義的海外膨張 膠州湾奪取。中国をめぐり、日独間の関係のさらな る悪化。ロシアを日本に嗾けることで、東国境防御を利する目論見。 |
| 1900 | 義和団の乱鎮圧 | ロシアの満洲占領。日露間の緊張昂揚。 |
| 1902 | 日英同盟締結 | 実質対露同盟。ドイツは極東情勢の悪化を齎すものとしてこれを歓迎。 |
| 1904-05 | 日露戦争 | ドイツは中立を装うが、バルチック艦隊へ石炭を供給。青木周藏や桂太郎ら親独派の 日独関係改善の努力はすべて失敗。 |
| 1904 | 英仏協商 | ドイツは衝撃を受け、ロシアとの同盟を試みるが失敗。 |
| 1905-06 | 第一次モロッコ事 | ドイツ、フランスに圧力かけるが失敗、英独間の緊張亢進。 |
| 1907 | 英露が植民地について合意 | 日本、仏露へ接近。ドイツは、英露仏に対抗して独日米同盟を目論む が失敗。 |
| 1910 | 第二次日英同盟更新前年 | ドイツ、日英同盟更新を前にメディア工作を通じて日独関係修復を試み るが失敗。 |
| 1912 | 明治天皇大喪の礼 | ハインリッヒ王子を派遣。友好を顕示するが、成果はなし。 ドイツ皇帝、 日独軍事同盟を示唆するが、日本側は即座に拒否。 |
| 1913,14 | 親独派、桂太郎・青木周藏逝去。 | 日独関係修復の鍵を失う。 |
| 1914-20 | ww1 | 独墺の数千の兵を日本で戦争捕虜として拘留。 |
| 1919 | ヴェルサイユ条約 ワイマール体制 | 独:国際連盟での日の影響力が欲しい。 日:ww1に積極参 戦しない間に遅れた軍事技術が欲しい。 |
| 1923 | 日英同盟失効 | 日本、軍事技術の更新の道を絶たれる |
| 1920's | 軍事面を端緒に日独関係修復が図られる。 青島戦が戦争初期であったこと、日本がドイツ 捕虜を厚遇したことから、互いに蟠りが少なかった。 | |
| 1936 | 日独防共協定 | (ヒトラー:反ソ親英⇔リッベントロップ:反英親ソ) 欧州北アフリカアジア での互いの軋轢を避けるという以後の日独関係の基本理念。 中国の軍事顧問はそのまま対日戦略にあたる。 日本、イギリスへのアプローチを続ける。 |
| 1937 | 伊の防共協定参加 | 反西欧色を強める。 |
| 1939 | 独ソ不可侵条約 | 日本、日独間協力に対する裏切りと見做す。内閣総辞職 |
| 1940 | 三国同盟 | 日本、ドイツに歩み寄り |
| 1941 | 独ソ開戦・日ソ不可侵条約締結 | 行き違う防共協定。日独(伊)間の共通の軍事戦略の欠如 |