汝、信仰の柱立てるべし


桜咲く丘の上で・・

コロンブスの卵
「コロンブスの卵」とは、最初にその価値を発見し、最初にその行動をとるということがいかに難しいか、ということの説明に用いる故事でありますが、それを自分の身の丈に合わせて考えるときになかなか気づかないのが、我々凡人の常であります。

 例えば「霊的世界の実在」一つをとってみても、信じる人と信じない人の人生はその実りにおいて大きく違ってきます。
 前者はこの人生を不安なく生ききることとなります。すなわち今世の経験は全て魂の糧となり、苦しみも喜びも失敗も成功も、己が魂に叡智として蓄えられることを知っているからです。
  来世の幸福のみを願う弱々しい善人として生きることはありえません。信仰篤い人々をみてごらんなさい。顔は輝き喜びにあふれて幸福そのものです。死への恐れがなく、裏表なく正しく生きる者への仏神の加護あるを知っているからです。ここでいう信仰とは、全てを己に帰さんとする御利益的、先祖供養のみの誤てる信仰ではなく、自らが仏(神)の子であることを信ずる信仰を指します。
 
 私の祖母は信仰篤い方でしたが実に堂々としていました。夜半の台風で家が半壊してずぶぬれになりながらも、私の父が迎えに来るまでその暴風吹きすさぶ暗闇の中、畳の上で真言を唱えながら平然と待っていたそうです。信ずるものが弱いなどという輩は、実行の伴なわない小心者であり、また身近にそのような方を見たことがない不幸な人々です。
  信仰者が「常に不安におびえる」ようなことは断じてないのです。そのような言説を吐くものに対して逆に私は問いたい。「あなたはいったい何のために営々と生きているのか?あなたのやっていることは何だ?信仰を持たず、食うもの食って、出すもの出して死んでったならば、動物とたいして変わらないではないか、あなたが人間であるというその崇高な証明を示してはくれないか。」そう言いたいのであります。
 
 信仰についての証明は、私が申すまでもなく過去の偉大な聖人が数限りなく証明してきたことであり、その意味で信仰とは「コロンブスの卵」であると言えます。

 
 あまり知られていない事ですが以前、ビート○けしとオーム真理教の麻原が対談したことがありました。その対談で○けしは麻原のことを「天才だ」と絶賛していたことを今でも忘れません。その禊をどうするのか?そのことについて詫びたという話を私はまだ聞いていない。彼はその程度であるというのが私の感想です。映画も暴力的で後世には残して欲しくないと思います。精神構造的には救済の対象者であり、そのような者の言説を人にすすめるなど私には到底できないことです。間違ってもわが子に見せることはありえません。最近またその類の映画を世に放ち、害悪を流しているようです。
 彼を評価する者の深層心理を考えるときに、それはつまり「みたことのないものへの関心、怖いもの見たさ」であると思いました。その証拠に「自らも同じ行動を取りえるか、そのようになりたいか?」と問うた時に99%答えは、「否」であると思うからです。
 


 私の故郷に酒乱のおやじがいました。私の先輩の父だったのですが、酒が入ると決まって暴れて刃傷沙汰、暴力沙汰は日常茶飯事でした。子供心にも昼間から酒の臭いを漂わせ、虚ろな目をしていたその姿をみて「あのようにはなりたくない」と思ったことを覚えています。どのような心の闇が酒にむかわせたのかは知りませんが、結局嫁さんに逃げられ、子供も寄り付かなくなり寂しい晩年を今も過ごしているそうです。 「あなたはそのようになりたいか?」それが答えであります。
 
 過日も乗り合わせた飛行機の中で大言壮語を吐き、周囲の客を睨みつけている酔っ払いのやくざがいましたが、皆一様に不快な表情を浮かべていて子供達は怯えていました。暴れるなら退去してもらうという乗務員と押し問答を繰り返した結果、出発が大幅に遅れてしまいました。それはあの映画の主人公となんら変わらないはずです。そのどこが純粋な人間であるというのか、それはアダルト・チルドレンであり、かつ阿修羅地獄に通じた者の行動であるといえる。仏教的には六大煩悩にまみれて生きている状態をいう。阿修羅地獄に通じる映画を世に送り出したその罪を指摘したいと思います。
 
 過ぎたる酒は理性を麻痺させ、悪霊の完全憑依を許し、それがまた色町へといざなう悪循環となり、いったい本人が飲んでいるのか憑きたる者が飲んでいるのか分からない滑稽な事となって、およそ幸福とは反対の人生を歩み始めるのです。よって戒を教えることによって、人々の人生の防波堤としての幸福を守る役目をも宗教は担っているのです。

 真なる信仰は素晴らしいものであることを、ここにあらためて述べたいと思います。


 
                                               
映画「永遠の法」始まる。2006年秋の夜長に記す
  小泉政権も終焉を迎え、安倍新内閣が発足しました。
伊藤一刀斎の生まれ変わりである小泉純一郎を霊指導していたのは不成仏の東条英機であるというからまた、面白いものである。
戦いに生きる魂にはまたそのように阿修羅の心を持つものが忍び寄り耳元でささやくのである。
そして、同じく阿修羅への獄門を持つ創価の者供と一蓮托生だったのは波長同通の法則のままに、うなずける事であり、後世、この政権はこの一点によって日本国の命運を大きく捻じ曲げた政権であったと後の時代に評価されることでしょう。


  ところで、我ら幸福の科学の信者一同はあいも変わらず人類幸福化運動に邁進しているのですが、この度、救世の法三部作である「永遠の法」が映画となって今秋封切られる運びとなり日本国通津浦々に主の慈悲が法雨となって降り注いでいます。
今回の映画は前作を遥かに凌ぐ内容となっておりお薦めです。
どんな内容かといえばそれは霊界の探訪記ということになりますが、面白いことに、教えの中身を知らない一般の人が見ても「反省させられた」「よい人間にならなければと思った」とストレートに幸福の科学の主張が理解される点がこの映画の最大の特徴です。

通常であれば80年の人生で決して教わることのない話が映像で簡単に見られるとはたいへん有難い事です。
魂の真実を知らず、死後の世界など薄ら笑いを浮かべて笑う人々にリアリティを持ってお見せできるというのですから。これは大変な慈悲であると言えます。
よってあなたは必ず見たほうがよい。死後死んでもなくならない自己の思考と実在感に愕然とし、この事態に驚愕し、狼狽し、親族に泣きすがり、叱責し、罵声を浴びせ、哀願し、懇願する多くの死者の混乱と絶望感をなくす為にも、この映画をあなたは見た方がよい。

  死という無常の風は何人たりとも吹かない事はなく、それはすなわち人間がこの世の永遠不滅の住人ではなく、実在界とも呼ばれる霊界こそが真実の住処であり、本当の大安心を得ることのできる安寧の常寂光の都であるということを表しているのです。だから80年という短い人生がこの世の掟なのです。



  丹波哲郎氏が先般大往生されましたが氏の幸福はいかばかりだったでしょう。世の批判に臆せず霊界の宣伝マンを自称したその勇気と叡智は王冠となって、頭上に光輝いていることとお喜び申し上げます。
  私の祖父が亡くなる前、その当時幸福の科学では今回のような映画もなく絵もありませんでしたから丹波氏の出版された大霊界を見せてあの世の説明をしたものです。そして2年後、祖父は私の夢に現れ、自分の霊界に私を案内し生前と同じような畑を耕している姿を見せてくれました。ただし、生前と違ったのはその畑が地上のどれよりも立派で輝いていて几帳面な性格そのままに山が段々畑のピラミッドのように整然と耕されていたことでした・・・


映画「永遠の法」百聞は一見に如かず。

興味を持たれた方はぜひ足を運んでみてください。
スマトラ島沖大地震
奇しくもこの論考の何ヶ月か後に福岡県沖地震、米国ハリケーン禍、パキスタン大地震と天変地異がドミノのように起きてしまいました・・・。

(2005.1.21更新)
M9.0という近年では最大級の地震により22万余(その後26万)の犠牲者がでたことはたいへん痛ましく、また死後の世界で現在どれほどの混乱が起きているかということを思うときに、人々への「魂の永遠性」と「死後の世界の実在」の流布が急務であると考えます。
この天変地異に関し、総裁先生はこのようにお説きくださっています。

地球というものは、単なる土の塊ではない。
地球には、手も足も、目も鼻もないように見えるが、
この丸い球体の中に生命が宿っている。
地球そのものが生きているのだ。
生きている地球の上で、髪が生えるように植物が生え、
その生命から、地上の動物たちも生まれてきている。
人間もまた、その中の一つである。
五十数億の、全世界に広がっている人間が、その地球自体
を、地球自身を、破壊する方向に動いていたら、あなた自
身がもし地球だったら、どうする。
それを許しておくか。放置しておくか。 
 (中略)
これに対して、仏のすることは何であるとあなたがたは思うか。
まずは警告である。
あなたがたは、間違った生き方をしている。
 (中略)
悔い改めて、仏の前に謙虚に生きなさい。
人を愛しなさいと教えたはずだ。
なぜ、奪うことばかり考える。
 (中略)
そして、さまざまな地に転生輪廻している仲間であるにもかかわらず、どうして民族主義の枠を超えることができないのか。
 (中略)
なぜ憎しみあう。同じ仏の子であろう。なぜ憎む。  
 
      −大川隆法著「宗教選択の時代」より抜粋−

地球生命の意思と宇宙を司る大霊との調整によって天変地異は起きているのです。
震源に最も近いアチェ州はインドネシアからの分離独立を唱えて数十年にわたって、闘争と破壊と憎しみの想念を蓄積してきたわけですが、この闇の総量が限界を超えたためあのような大地震を引き起こしたという事なのです。
新潟中越地震にしても、あの地域の自殺者数は全国トップレベルであり。その悪想念の蓄積は相当なものであったはずです。
阪神大震災にしてもその引き金を引いたのは、山口組本部の存在であるとお教えいただいています。
このようにその地域に住む人々の心の状態と密接に関連していることをお分かりいただけると思います。
また、このようにも同著には書かれています。

エドガー・ケーシーは今から半世紀以上前、アメリカにて、
「1998年、日本の本州の一部が海面から没する」と予言している。
確かに、戦後五十年の、日本人の心の荒廃、誤てる価値観、唯物論、そして、宗教の迫害を見る限り、日本列島の一部が海面下に沈んでも、驚くに値しない。

これに驚いた該当県の信者の必死の伝道活動によりその事態は回避されていますが、完全に悪想念の蓄積が払拭されたわけではないので、これから後どのような事態が起きうるか予断を許さないのが実情です。
また、幸いにも1999年に起きるとされていた地球規模の天変地異は回避された形となっていますが、同じように全て払拭されたわけではないので、今世界各地で起きているように様々な形で小出しに起きています。

今年もそれらをニュースで見、あなた自身が当事者として体験するかも知れません。

まず、あなた自身の心の浄化をはかること。そして周りの人々の心の安寧をはかる。
これが災害をなくす王道であります。

                                               ハリー


戻る