3-3、昭和三陸地震津波とチリ地震津波
1933年(昭和8年)3月3日のひな祭りの夜。明治三陸地震津波から37年後、またも昭和三陸地震津波は3000人以上の犠牲者を出す惨事となりました。明治三陸津波ほどの惨事にならなかったのは、震度5の強震があったこと、37年前の明治三陸津波の被害を覚えている人がたくさんいたこと、またこのとき津波の来る前に海水がものすごい勢いで引き潮になったため、津波の危険が大勢の人々に伝わり、いち早く逃げることが出来たためでした。地震の規模がマグチュード八・一で、やや小さかったことも幸いしました。津波研究家の山下文男氏はこのとき小学校三年生で、命からがらはだしで走って助かっています。「津波ものがたり」山下文男 童心社 1990年
1960年(昭和35年)チリ地震津波。この津波はなんと1万7000キロメートルかなたの南米チリ沖の地震による津波が、22時間かけて三陸沿岸にやってきたのです。日本ではまったく地震を感じることはありませんでした。引き潮も一時間以上もかけて非常にゆっくりしたものでした。これまでの津波とはまったく違う津波がやってきたのはそれからで、5メートルもの波が都合8回も押し寄せ、三陸を中心に全国で125人の犠牲者を出しました。
このような三陸津波の状況を見ても、津波の前にかならず大きな地震があるとは限りません。小さな地震しか感じなかったのに大きな津波災害となったのが、歴史上最悪といわれる明治三陸地震津波です。
3-4、早ければ三分
津波は襲ってくるまでしばらく時間があるというのも誤りです。地震の震動が地中を伝わる早さは、最も早いもので秒速8000メートルです。それに比べ津波は海底の深さで異なりますが、秒速は数十メートルくらいです。この違いがあるため、地震の震源地から遠い場合は、地震の振動は津波よりずっと早く伝わるので、地震を感じてから津波がやってくるまでの時間が長くなります。震源地が近い場合は、地震の振動と津波があまり差が開かないうちに到着するので、地震を感じてから津波がやってくるまで、ほとんど時間がありません。
震源が遠ければ地震を感じてから津波がやってくるまでに30分以上時間のあるときもあれば、震源が近い場合、津波は数分でやってくることになります。
東海地震のとき静岡県内ではかなりの地域の海岸線に、5分から7分ほどで津波の第一波が押し寄せると予測されています。遠いところでも、30分から40分後には第一波がやってくると予測されています。
現在気象庁では、津波警報は地震がおきてから3分以内で出すことを目標としていますが、どんなに早くても3分かかるのですから、津波警報を待っていては逃げる時間がありません。
地震がおきるとすぐにテレビで速報が流れ、津波の情報が知らされます。大変便利で大事な情報なのですが、テレビの地震警報だけに頼ることはできません。
3-5、北海道南西沖地震
1993年北海道南西沖地震のとき、北海道奥尻町では地震がおきるとすぐ停電しました。午後10時17分過ぎ、テレビはおろか、照明も消えてしまい、真っ暗になってしまいました。津波情報は地震発生7分後にテレビで速報が放送されましたが、奥尻町ではもう知る由もありません。
こうして震源地の海底に最も近く、津波災害の最前線に立たされて、最も情報の必要な奥尻町の人々は真っ暗闇の中、津波に襲われることになりました。
奥尻町役場は地震を感じてから3分後に、自主的に防災行政無線で避難警報を出しました。その2分後に10メートルの地震が襲ってきたということです。同じ時、気象庁は地震津波監視システム(エトス)を動かして、当時としてはかなり早く、地震発生から5分後に津波警報を発令し、NHKが緊急警報放送を2分後に行いました。
それでも地震発生からすでに7分がたっており、奥尻島では停電で、ほとんどの人はテレビを見ることはできませんでした。そしてテレビの警報がでたときは、すでに津波の第一波が到着した2分後でした。
この北海道南西地震で、とくに大きな被害を受けた奥尻島青苗地区の津波災害について、東京大学社会情報研究所の廣井研究室によって、亡くなった人、助かった人がどのような行動をとったかを調査報告されています。
その報告によると
亡くなった人の大部分は、体が弱っていて走ることが出来無かった人、津波がそんなに早く来るとは思わなかった人、家族全員で逃げようと誰かを待っていた人、動けない家族をおいてゆくことができず家に留まった人、車に家財を積んで逃げ出すのが遅くなった人、まだ大丈夫だと車を取りに行った人、近所に注意を呼びかけ一緒に逃げようとした人、貴重品を取りに家に戻った人、でした。
さらに細かく生存者の話を聞いています。助かった人は、風呂上りにバスタオル一つで逃げた人、財布一つ握って着がえもせずに全速力で走って逃げた人、家財道具はもたずに真っ先に高台に車を走らせた人、でした。
助かった人と犠牲になった人の差は、高台に近いか遠いかではありませんでした。高台から一番遠いところの家の人が助かっている反面、高台に最も近い一角でも逃げ遅れて亡くなった人がいます。
何が生死を分けたか
奥尻島ではこの地震の10年前、1983年日本海西部地震で津波被害にあっています。そのときは地震があってから30分後に奥尻島は津波に襲われました。
この経験がどう生かされたかが、とっさのときに生死を分ける行動となりました。
助かった人は、地震が10年前の地震より激しかったことから、これは10年前の地震よりもっと大きな津波が来るに違いないと判断して、とるものもとりあえず全速力で走って高台に逃げました。
逃げ遅れた人については、生き残った人の証言から推測すると、10年前の津波は地震を感じてから、30分後にやってきたので、こんども30分くらいあるだろうと考えたようです。そのため、ゆっくり歩いて避難したり、途中で何か取りに帰ったり、自動車に家財を積んでいたため逃げ出すのが遅れ、島の狭い道が渋滞して動けなくなり、車のまま津波にのまれ犠牲になってしまいました。
このとき偶然居合わせたNHKの取材班のカメラには、暗い中を歩いて避難している人々が撮影されています。このなかで犠牲になった人があり、このシーンはすぐに放送されなくなったそうです。
「巨大津波と避難行動奥尻島青苗地区で何が起こったかー北海道南西沖地震調査報告」(1993年)東京大学社会情報研究所の廣井研究室
4、津波からの避難
4-1、津波の恐ろしさ
津波の前には大きく引き潮になるというのも、必ずしも正しくありません。海底が陥没することで津波がおきる場合はいったん引き潮がありますが、プレートの跳ね返りによる東海地震の場合、引き潮がない可能性があります。また、同じ地震による津波でも、ところによって引き潮があったり、無かったりする場合があるようです。
三陸でも、安政と昭和の津波のときは引き潮があったようです。安政の時は昼間だったこともあり、はっきりと目撃されているようです。しかし、明治三陸津波や奥尻島では夜だったこともあり、引き潮を目撃するゆとりもなかったと思われます。いずれにせよ同じ津波でも場所によって引き潮はあったりなかったりするのであてになりません。
津波は急に海面が盛り上がり、岸に近づくにしたがって波の高さが急速に高くなります。
津波は10メートルを超える高さで、突然海が立ちあがって押し寄せてくるのです。海がそのまま立ち上がり、海底の巨石や港の船を丘の上まで持ち上げ人家を打ち壊してゆきます。そして、引いてゆくときにはもっと強い力で、ほとんど全ての家屋を引き倒し海に持ち去ってゆきます。
津波のスピードは水深の深い太洋では、ジェット機並か、新幹線と同じスピードといわれます。陸地に近づいた津波の速度は、人間が全速力で走る程度に遅くなるという説もありますが、海岸の状況次第でもっと早い場合もあるので、走って逃げ切れるかどうかわかりません。
津波に襲われて泳いで逃げるということはほとんどできることではありません。津波は海底の泥を巻き上げた泥水と、なぎ倒した家屋の木材が一緒になって、大人が走って逃げられるかどうかの速さで襲ってくるのです。津波による犠牲者は普通の溺死者とは異なり、打撲による死亡がほとんどです。明治三陸津波の犠牲者の遺体は激しく損傷し、体の一部が失われている場合がほとんどで、青黒いあざが全身に浮き出ているものが多く記録されています。
「第二十八話 |
石応寺は町の北側の高いところにあったので、海嘯の難を免れることができました。 |
恐ろしいほどの力で、壊れた家屋の材木が襲い、家具や、壁や,地面にたたきつけられて亡くなり、波にほんろうされ悲惨な状態の遺体が多かったということです。
津波の高さというのは海上での波の高さと考えられますが、検潮器で測ることの出来る高さだけではありません。津波は、しばしば考えられないような高さまでやってきます。明治三陸津波でも波高20メートルと記録されているところで、海抜50メートル以上はあろうかというところに建っていた民家にも、波が打ち寄せたという証言があります。津波は、時には川をさかのぼって思わぬところを洪水にします(遡上高ともいわれます)。
「大津波に襲われた」秋田県つり連合会編 自費出版 |
「あの何トンもある重いテトラポットがおもちゃでも転がしたように、道路に転々としていた。波の威力は対したもんだと驚くばかりだった。」 |
海からはるかに離れた高さの山の上にまで、押し寄せる波は驚くような高さまで達します。1958年アラスカのリツヤ湾では地震で崩れた氷河が崩れることで津波が起こり、つぼ型にすぼまった湾の奥で、標高520メートルを超えるところまでさかのぼりました。津波の駆け上がったところでは樹木がことごとくなぎ倒され、葉も樹皮もはがされてしまうほど丸裸になってしまうため、荒れ地になってしまいます。そのため樹木の生え方が帯のようになっていることから、何回もの津波がここを襲ったことが推測されています。活断層による地震が津波の原因で、数十年の間隔を置いて何度も津波が起きていることが明らかになっています。「世界の大災害」中公文庫1988年金子史朗
4-2、津波てんでんこ
岩手県の作家山下文男氏は「津波てんでんこ」という三陸地方の言葉を紹介しています。津波のときだけはてんでばらばら、親子といえども人を頼りにせず、走れる子どもは一目散で逃げろ、そして一家全滅、共倒れになることを防げ、という三陸地方の知恵だと説明しています。
同時に、「てんでんこでやろう」ということは最初から認め合っているという意味合いもあり、津波の時は人にかまわず逃げろ、自分だけ助かってもそれは非難されることではない。それだけ津波の避難は厳しいものだということ書いています。
実際に三陸津波でも、動けない家族を置いてゆくことができず、一家全滅になった例があります。また、奥尻島の避難の際にも、体の不自由な人を家族で囲んで家にとどまり、ほとんど犠牲になった例や、親戚や知り合いに避難を促そうと回り道をしていて助からなかった人の例があります。
山下氏はさらに、てんでに走って逃げられない人について、普段から足の弱いお年寄りや弱者は、家族でだれが助けるか話し会っておく。家族で助けて逃げることができないときは、近隣で助け合うことを決めておく。地域の防災力は日頃の話し合いや、助け合いによって高められるものではないかと主張されています。
津波からの避難は時間との勝負です。場所によってはどんなに津波警報が早くても間に合わないことがあります。
現在では気象庁は、津波警報を3分以内に出すことを目標としています。以前は地震が観測されるとそれまでの経験と地震波の計測から判断して予報を出し、それを放送局で流すために毎回番組を中断するという手順だったので、地震がおきてから速報が出るまで、平均で十数分かかりました。
現在では、地震波を感知すると自動的に津波予報を出し、マスコミで緊急警報放送を流すシステムとなっています。あらかじめ日本全国であらゆる地震を想定してシミュレーションし、地震波の感知すると自動的に津波の被害を計算することになっています。気象庁からの連絡から放送までの自動的な一連の動作が決められており、これ以上の時間短縮することは難しいようです。
最も津波の危険性の高く震源に近いところは、大きな地震被害を受け停電になってしまいます。テレビの津波警報に頼っているといちばん危ないところは、真っ先に情報が途絶えてしまいます。
テレビの津波警報に頼らず、とっさに自分で判断しなければいけないのです。
2003年5月と7月に続いて宮城県の海岸部で引き続いて大きな地震がありました。震度6強の強い地震で、強い前震をともなう珍しい地震でしたが、死者がでなかったのは幸いでした。いずれも内陸直下型の地震だったので、津波はありませんでした。
しかしこのときの津波に対する対応については、大変心配な状況があきらかになりました。
2003年7月17日の河北新報 |
2003年5月26日の三陸南で、発生直後に津波の発生の恐れがあった岩手、宮城両県の沿岸部の住民で実際に高台に避難した住民は一割だったことが、東北大学大学院工学研究科の今村文彦教授の調査で明らかになった。多くの住民は自宅でテレビの津波情報に見入り、迅速な避難行動には至らなかった。」 |
宮城県では「強い地震があったらまず高台に避難」という体制はとても出来ていないようです。想定されている宮城沖地震は海溝型地震で、大津波が襲ってくると予測されています。今回も大きな津波は襲ってきませんでしたが、いつまで幸運が続くでしょうか。いまのままではテレビの津波情報を見ながら津波に襲われるという事態になることは避けられません。
強い地震を感じたら、海岸地区のような津波警戒地区では、津波警報を待たずに急いで走って高いところへ避難することが唯一の助かる方法です。とるものもとりあえず、身ひとつで走って逃げるというのが原則です。家財や財産は置いてゆきましょう。じゅうぶん時間が過ぎ、津波警報が解除されれば、津波がなければ取りに帰ることもできます。津波がくるときは家財を持って避難することはできません。家財財産はあきらめるしかありません。
弱い地震であっても、長い時間ゆっくりした地震を感じたら、大きな津波になる可能性があるので、海岸から避難しましょう。
地震を感じなくても、津波警報がでたら海岸から離れましょう。
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