私が高校に入った前年1965年はまさに激動の時代の幕開けだった。中国では文化大革命がはじまり、アメリカが全面北爆を開始したのがこの年だった。日韓条約が締結されたのも1965年だ。 中学三年の卒業式寸前にちょっとしたレジスタンスをやって、強面の社会科教師から「卒業させてやらない」と脅されながらも、何とか地元の進学校に通うことになった私だが、時代の空気を肌で感じながら、それでもごくふつうの学生生活を送っていた。 転機が訪れたのが2年生になったときだ。その年倫理社会という教科を担任したのが山口重人先生という一風変わった教師だった。かれは最初の授業でこの「倫理社会」という単元が文部省(当時)が押し進めてきた道徳教育復活の足がかりであることをおしえ、[もし手元に兄弟が使っていたふるい教科書があれば比較をして内容がどう変わってきたかを見てみるように]と私たちに話した。 社会科といえばやたら年表がでてくる日本史か、いったこともない地名を丸暗記させられる地理かで、いい加減うんざりしていた私には、彼の授業はきわめて新鮮に映った。 この年はまたキューバ革命の指導者であったエルネスト・チェ・ゲバラが、ゲリラ闘争中にボリビアの山中で射殺されるという事件が起きた年でもあった。なぜ一国の大臣にまでなった人が他国の山の中でゲリラ闘争をやったのだろうか。私は彼に少なからぬ興味を持った。相談が出来そうな大人は私の周りには一人しかいなかった。私は迷わず職員室に行き山口先生にゲバラのことが知りたいとうち明けた。 その時の彼の表情までは記憶していないが、彼は私に自分が単身生活している職員住宅に来るようにといった。そこで私はゲバラのことを書いた「世界革命情報」というぺらぺらのパンフレットを手渡された。 それがきっかけで私は山口氏の家に週に二三回は遊びに行くようになり、学内でも図書部に所属する後輩と勉強会をするようになった。 1968年になると多くの大学で学園闘争がさかんになってきた。私もその渦中に早く飛び込んでいきたいと思っていたが、熱心に勉強するよりは本を読んでいたいたちで、その上物理がからっきし出来ないため志望校にとうとう入れずに浪人する羽目になった。このとし山口先生もふるさとである筑後に戻りそちらの高校に赴任することが決まった。 (12月5日記)続く。 浪人時代は北九州市の門司にある門司学館という当時全国唯一の公立予備校ですごした。ごくたまに高校の後輩達と連絡を取り合ったり、社会科学系の本を読んだりしたが、さすがにほとんどの時間は勉強に費やした。おかげで翌年の入試では福岡の大学に滑り込むことが出来た。 入学して一月も経たないときだ。筑後の山口氏からすぐに来るようにという連絡があった。とんでもないことが起こりそうだという。 山口氏の新しい赴任先(それが福岡県柳川市にある県立伝習館高校という名だというのもその時に知った)で地域ぐるみの陰謀が持ち上がったという。 もともと伝習館高校というのは江戸時代柳川藩の藩校であった。当然地域の名門校であり国立大学に多くの合格者を出すことが期待されていた。ところが1967〜8年の学園闘争の余波がこの高校に波及した。佐世保でおきた米軍航空母艦エンタープライズ寄港反対運動に、伝習館から高校生が参加し、地域の保守派から「伝統校が荒れている」という懸念がわいてきた。その上国立大学への合格者数が減少するようになったため、危機感を募らせた保守派は批判の矛先を、高校生を「あおっている」赤教師に向けた。 1969年の夏頃から柳川市内では伝習館高校の複数の教師を、「偏向教育を行っている」と誹謗する怪文書が出回るようになった。 この怪文書を県議会で取り上げたのがたしか当時の民社党の県議で、これに対して県教育委員会が調査を約束した。もちろん裏で連んでいたと思われるが、こうして全国初の教師の教育内容を理由にした処分が具体化されてきた。 私が初めて柳川市に行ったのは、処分が今日明日にでもでそうだという緊迫したときだった。高校に潜り込んだ私は、高校生達のクラス討論を聞くことが出来た。そこではきわめて白熱した議論がおきていた。もちろんふつうの授業など出来る雰囲気ではなかった。私はそれを見ながらこの高校で達成されてきた教育の質の高さと、だからこそ保守派が恐怖した真の理由を理解した。 (12月15日記) 福岡県教育委員会が下した処分は三名の教師(茅島洋一氏、半田隆夫氏、山口重人氏)を「偏向教育」の咎で懲戒免職にするという厳しいものだった。こちらの事前の予想はせいぜい停職一年ぐらいと踏んでいたので、この最大級の処分には度肝を抜かれた。 処分が下った直後、各新聞は一斉に伝習館でいかに「とんでもない教育」が行われてきたかという記事を書き立てた。そのほとんどが保守派がばらまいた怪文書か、町中のうわさ話に尾ひれを付けた、根も葉もないものだった。ある新聞には「伝習館ひどい 毛語録で授業か」という見出しが踊った。 詳しい処分理由が明らかになると、そこには信じがたい言葉が並んでいた。曰くプリントや新聞の切り抜きを使ったことが、教科書を使用しなかったことに当たる。曰く、反体制思想を流布したから偏向教育だ。曰く授業内容が学習指導要領から逸脱している。ある教師がいったように、これが懲戒免職の理由になるなら、日本のほとんどの教師はいつ首になっても不思議ではない。今日に至る学校の管理主義をねらった処分だったことが明白になった。 一方(こちらは予想されていたことだったが)三名が所属する福岡県高教組の執行部(社会党)は、組合員に下った戦後はじめての大弾圧に、きわめて冷淡な態度をとった。彼らは自らを「ハイエナに対抗して円を作るシマウマの群」になぞらえ、一部の跳ね上がり分子が団結を乱した=群を離れた=ので、ハイエナ=県教委にねらわれたという立場をとった。その上で高教組は組織として処分撤回闘争は戦わない(組織決定にしたがったものではないから)といいはなった。また共産党も「極左教育論批判」という論文を「前衛」に掲載し、処分を受けた教師を「トロツキスト」と罵倒した。 組織からも既成政党からも支援が得られない状況で、被処分者は独自で裁判を戦いながら、生活をしなければならない。まず求められたのが支援の組織作りだった。私も休みを利用して豊前で高校の時の同級生と集会を企画したり、よその大学に出かけていって処分の不当性を訴える学習会をしたりしたが、私の周囲ではなかなか支援の輪が広がらなかった。 真っ先に処分の不当性を訴え、被処分者の実践を擁護したのが、当時「RADIX」という雑誌を作っていた大学変革者会議に所属する九大の三名の教官=瀬口常民、金原誠、滝沢克己の各氏だった。私は特に当時いた教養部で数学を教えていた瀬口先生と親しくさせてもらった。 一方地元柳川では、処分が出る以前から怪文書に反論するパンフレットを作っていた塾教師=武田桂二郎氏が有力な支援者だった。彼は学習塾の傍ら文学サークルをやっていて、茅島氏ともきわめて親しかった。 さらに全国の教員のなかでも処分の不当性に驚き、組合が支援しないという決定をしたことを批判する多くの人が現れた。(新左翼系の学生も当初はやってきたが、すぐに興味を失った。)こうして全国救援会が柳川に事務局を置いて作られることになった。ここで三名がやってきた教育実践を続ける場として「柳下村塾」というものを作ることも宣言された。 私はというと、このころから学生自治会に深く首を突っ込み、自治会の執行委員長を引き受けてしまったため、伝習館問題からは一歩引く形となった。 (12月17日記) ここで伝習館処分が出た1970年とはどんな年だったかをざっと振り返っておきたい。私見だがこの処分の社会的、時代的背景を押さえておかないと、なぜこの後運動が混迷したのかが理解できないと思われるからだ。 私にとって1970年は、まずよど号ハイジャック事件の年だ。ちょうど私が福岡に入学手続きにいった日に、ハイジャックされた日航機「よど号」が、現在の福岡空港、当時の板付空港に着陸している。後に大学で知り合った同級生のなかに、このとき人質になった人がいた。このことに象徴されるように1970年は全共闘運動と反戦青年委員会に象徴される新左翼系の運動の大きな曲がり角となった年だ。 1967年から始まった大学闘争は、1969年各大学に警察機動隊が相次いで入りバリケード封鎖を解いて学生の運動拠点を奪って急速に終熄に向かった。一方ベトナム反戦運動とつながっていた安保反対運動の方も、70年6月の安保条約の自然延長で腰砕けに終わった。かくして目標を失った急進的な青年の運動のエネルギーは内輪の指導権争いに注がれ、その結果、もとより様々な傾向を持ったセクトの野合であった運動は四分五裂の状態となった。一方でそれは革マル・中核の文字通り血で血を洗う凄惨な内ゲバ事件のエスカレートであり、もう一方でそれは赤軍派・京浜安保共闘などによる武装闘争への純化であった。 1970年はまた日本の高度成長路線の矛盾が吹き出した時代の真ん中にもあたった。四日市公害訴訟や水俣病などに象徴される公害問題の深刻化は、現在に至るエコロジー運動の先駆であると同時に、三里塚闘争と並んでその後の住民運動の雛形を形作るものでもあった。 しかし三里塚農民の空港反対運動がその後分裂と弱体化の道をたどったことに象徴されるように、住民運動、市民運動は政治運動(それは旧左翼もいわゆる「新左翼」も含めての話だが)との関係をきちんと整理出来なかった(後に伝説化することになるベ平連(ベトナムに平和を市民連合)にしても、事務局長を務めた吉川勇一氏は共労党という革命政党の現役の大幹部だった)。 ベ平連の場合は「幸福な例外」だという評価も出来るかもしれないが、往々にして住民運動という新しい運動形態に持ち込まれたのは旧態然としたボス政治であり、政治運動への系列化か、さもなければ「既成政治」への反発を持った「思想家」の珍奇な戦略の実験場となった。 私はこのころ住民運動や薬害反対運動が「そのまま」革命運動だとか、反権力の戦いの先頭を走っているという威勢のいい空論にうんざりしていたが、それが実践の場で「試されている」(それも多大な犠牲を払って)と言うことに気がつかなかった。そのあと私は自分ののんきさの罰を受ける羽目になった。 (1月20日記) この頁へのご意見、批判、質問は電子メールでどうぞ。原則として、この頁上で公開する予定です。もし公開をお望みでなければそのむね明記下さい。
第1章 高校時代
第2章 事件前夜
第3章 社共の裏切りから全国救援会設立まで
第4章 伝習館問題の背景
お品書きの頁へ
E-Mail: pwaaidgp@poem.ocn.ne.jp
無断転載、無断引用はお断りします。
又何らかの形で批判をなされる場合も、西村有史宛てに、ご連絡をお願いします。