言語と意識
差別表現とは何か

376号(8月24日発行)の「週刊金曜日」は永久保存ものだ。このマイナーな雑誌を定期購読している物好きはのぞいて、普段手に取ることのない方も、今度だけは是非とも買っていただきたいものだ。いえ別に私が取り上げられているという話ではない。

今回のテーマは「性と人権」、以前私が取り上げたことのあるすこたん企画と「週刊金曜日」編集部の「オカマ」という言葉を使った記事を巡るやりとりが取り上げられている。(すこたん企画では主な文章を公開している。残念ながら本多氏の文章は掲載を拒否されたそうだが、こちらを参照していただきたい。特に伊藤悟、梁瀬竜太両氏が書いた「私たちが声を上げたわけ」は、差別と表現についてきわめて示唆に富む深い内容だ。一方本来彼らの問題提起を受けてかかれたはずの、本多勝一氏の「文脈の問題であり中身の問題」という一文は、彼の頑迷固陋さ、人からものを学ぼうとする姿勢の欠如をきわめて雄弁に表している。特に伊藤悟、梁瀬竜太両氏がわざわざ「当事者とメディアが使うのは違う」と指摘しているのに、

東郷氏(自らを「オカマの東郷健」と呼ぶ有名な先駆的同性愛者;引用者註)に対しては、ほかのメディアでもオカマと公言しないでほしいことを要求すべき

であると切り返しているのは、あまりに下品だとしかいいようがない。蛇足だが、こうした差別された者どおしの違いをあおり、対立を作ろうとするのは、差別者の常套手段でもある。

私が例の筒井康隆の断筆問題でメディアに対して感じた「なぜわからないのか、そんなことをいっているのではない」といういらだちが、またぶり返してきた。

東郷健氏が自分のことを「オカマの東郷」といっているのは、彼がほかの同性愛者をさげすんだり、自らを卑下するためにしているのではない。それは彼が差別された同性愛者としての自らのアイデンティティーを確立するために、侮蔑されてきた言葉をあえて差別と戦うために使っている。だからその発言で傷つく同性愛者はいない。しかしだからといってきちんと差別と戦う姿勢もなく、差別された経験もない人間が、不用意に使うことまで肯定されるわけではない。

またあえていっておかねばならないが、彼ら「週刊金曜日」編集部が同性愛問題で差別的表現をあえてしたのは、今度が始めてではない。そのときも「ホモ」という差別的表現をした発言を掲載した上で、私の抗議に対して、「これは私が言ったのではない」「これが『金髪碧眼の白人』」といっても差別発言になるのか」という品のない居直りをしたあげく、私の抗議そのものを握りつぶした。そのとき私に手紙を書いてきたのが当時の副編集長で、いまだにいろいろ言い訳を書き連ねる現編集長=発行人=黒川宣之氏である。

私の抗議は当事者からでたものでなかったからあえて無視することも出来たが、今回はそうではない。また記事によれば、やりとりの中で伊藤悟氏が泣いたという。一度大分県で開かれた講演会に参加し話もしたことがある。「しなやか」という言葉がぴったり来る生き方を選んでいる彼が、悔し涙を流したという話に胸を打たれる思いだ。

だが問題はもっと深いところにあると私は思う。それは被差別者からの抗議に対して「表現の自由が侵害される」と感じるメディア側の反応をどう防ぐか、あるいは差別問題を単なる放送禁止用語問題にすり替える傾向=言葉狩り=をどうやって防ぐのかと言うことにもなる。

思い出してほしいのだが、筒井康隆の断筆騒ぎがあったとき、日本中のメディアは保守派から進歩派まで(「週刊金曜日」を含めて)ほとんどが筒井康隆の側にたった。それは落合恵子氏が証言しているように、被差別者からの抗議に対応することを

表現の自由の放棄

と考える姿勢が、メディアに属する人々の間に幅広くあることを意味する。このゆがんだ被害者意識(差別報道・差別表現でいつメディアの人間が人権を侵されたことがあったのか)は、しかし彼らが表現の自由の担い手であると確信しているが故に根強いものがある。しかし特定の集団が基本的人権の具体的な担い手と言うよりは独占的な担い手であったり、ましてやそれで生計を営むという現実は、そこで実現されている表現が、ふつうの市民レベルの人権としての表現の上に立つどころか、場合によれば対立する可能性があることを意味する。

100万部の新聞にいつでも意見が載せられる人間、全国ネットのテレビでコメントをいい、それによって高額な収入をえる人間が、自分たちの表現を守ることこそが国民の人権を守ることであると言うことは、特権の擁護でなければ自らと他者をともに偽る自己欺瞞である。

自分の表現の自由を享受する事と他者の表現の自由を擁護することは別のものである。これを混同してはならないというのが、ここでの教訓の第一である。しかし問題はこれだけではない。

唐突だが、私などのでたラジオ番組をおこした本が出版された。中西和久「ひと日記」(海鳥社)である。九州で様々なテーマで活動する人々を「人権」というテーマでインタビューした番組の記録である。私が気になったのが、永六輔氏へのインタビューだ。芸能人あるいはいわゆるタレントと呼ばれる人たちの中では、被差別者に最も近い立場をとってきたと思う彼が、ここでとんでもないことを言っている。

「差別用語」という言葉を持ち出してきて言葉を整理しようとする意識を、僕は一番軽蔑する。言葉そのもので差別は生まれてきません。意識の中にでてくるものですからね。

この発言は、「水平社宣言」を持ち出しているだけに手が込んでいて、かなりやっかいなものだ。

彼が言うように、言葉というまか不思議なものから差別が生まれ出てくるわけではない。そしてこの文脈はいわゆる「言葉狩り」に反対する根拠として、しばしば語られてきた点でもある。たとえば瀬戸内寂聴氏の以下の発言などがそうだ。

(差別の問題は)知性と想像力の問題なんです。だから、私は、差別の問題がどうして言葉の方向に行くのかわからない。(「創」1994年10月号61ページ)

たった今「差別は言葉から生まれてこない」と言う、きわめて知的な発言を聞いた私たちだが、その直後、今度は差別が意識や知性、あるいは想像力という、言葉以上にまか不思議で足が地についていない、いわば霊的なものから生まれて来るというお告げを聞かされることになる。

差別を、もっぱら人の頭の中の出来事であるように思いこむ傾向は、差別の社会的性格やその暴力的帰結を捨象する、きわめて浅薄な認識を土台にしているものであり、知性を売り物にするはずの多くの「文化人」(!)に共通したものである。これについては井上ひさし批判でふれたのでここでは繰り返さない。

問題を整理すれば、永氏ないし瀬戸内氏の高説は、差別をその社会的構造から切り離し、もっぱら個々人の意識(心がけ)の問題に切り縮めたあげく、言葉を差別との関係から分離して、結果として言葉を《差別の担い手》という惨めな地位から救い出そうというもくろみであると考えておけばいい。

ではそもそも言葉を社会生活や意識から切り離すことなど出来るのだろうか。出来ると言い切った人がいる。それがレーニンよりはるか前に権威を失ったスターリンである。彼はその論文「マルクス主義と言語学の諸問題」で次のように語っている。

問 言語は土台の上に立つ上部構造であるというのは正しいか?
答 いや、正しくない。
(略)最近の三十年間に、ロシアでは古い資本主義の土台が根絶され、新しい社会主義の土台が建設された。(略)だが、それにもかかわらず、ロシア語は基本的には10月革命前と同じであった。(「弁証法的唯物論と史的唯物論」国民文庫141〜142ページ)

彼は言語はすべての人に等しく奉仕するという意味で、生産用具と同じ位置にあると規定している。ここでスターリンの言う言語は、もっぱら交通手段としての言語という意味づけを出ていない。

彼が軽視している点は、言語が人間の意識とともに生まれ、意志の表出手段である(だからこそ交通手段となる)ばかりか、意識内容そのものを生み出す、形成するないしは成形するものであるという根本的な性格である。人は言葉でものを考える。言葉でものを考えるからこそ人間であると言い換えてもいい。言語の歴史は人間の歴史そのものである。

言語が持つ体系性は、人間と自然の交流の中で意識に上ってきた限りでの自然の法則性、論理性の反映そのものでもある。「ある」という言葉が「ない」という言葉の反対語であるのは、特定の物が特定の場面で「ある」と同時に「ない」という現象が通常存在しないからである。私たちが信じがたい物を見たり体験したりするときに「夢のようだ」というのは、生きている現(うつつ)の世界には固有の論理性があることを私たちが認識しているからだ。

私たちが物事を論理的に考えられるのは、その土台に個々の単語の意味内容が一定の範囲で明確であり、また単語相互の区別と連関が意識的に掴まれていること、およびそこから組み立てられる文章の統一性、一貫性が、文法という形で、私に対してだけでなく他人に対しても、保証されているからだと思う。

人間は言語によって意識を形成し、同時に意識的に言語を形成もしてきた。その意味で言語は、あくまで私という身から離れることのない物でありながら、決して個人の気まぐれや言い逃れのために私することの出来ない、私を超越する物である。

この点で言えば、先日「日本は単一民族」という発言をした鈴木宗男氏の言い訳は、日本語に対する裏切り行為そのものである。彼によれば「日本民族」と言ったのは、「日本国民」という意味だという。では彼の言うアイヌ民族の同化は、アイヌ民族が日本国籍を取得したことによって成就されたという意味なのだという馬鹿話になる。ここまで共通語を馬鹿にする人間が「国民としての誇り」など言ったら大いに笑ってやろう。

言語が全人類の歴史が作り上げた物であるということは、あくまで一人一人の特定の時代に生きた個人の人生を離れて未だかつて存在もしなかったし、逆に特定の個人ないし集団の恣意によっても形成はされなかったことを意味する。これはたとえばエスペラントのような人工言語においてもそのまま当てはまる。その意味で言語は、そもそものはじめから、社会的な生き物としての人間の性格が、色濃く刻印されている。

だからこそ単語には、その単語が指し示す具体的な意味内容だけでなく、それに固着する特定の価値判断を含んでいる。たとえば「白い」という言葉には、美しいとか純粋なとか正しいという価値判断を含んでいる。これはただ単に日本語だけでなく、多くの言語に共通してみられる点である。それはおそらく、白が日光が降り注ぐ昼間を意味し、安全や生産を意識させるからだろう。逆に黒という言葉は、醜いもの、邪悪、不安などをうちに含んでいる。それは勿論黒が不安な夜を連想させるからなのだろう。

私たちがしばしば用いる「比喩」という表現手段も、この単語とそれが持つ特定の感情ないしは価値判断という関係があるからこそ成立する。

こうした言語の社会的な性格を削り落とすことによってのみ、差別と言語を切り離し、あたかも言語が社会からも人間の感情からも独立した、純粋で中立な存在でもあるかのように思いたがるのが、もっぱら言語を操ることで生計を立てているジャーナリストや作家たちのいまの姿だとすれば、私には何とも寒々とした物だと思える。

ここまで延々と言葉と差別、あるいは言葉と意識の問題をたどってきたが、そろそろ問題が見えてきたように思う。言語には人間がくぐってきた歴史が深く刻み込まれている。それはひとつひとつの単語の歴史であるし、文体の歴史でもあるし、また生み出され保存されてきた文章=特に文学作品=の歴史でもある。一方で文明の歴史はまた差別の歴史でもある。そこには差別を意識する言語表現や相手を侮蔑しさげすむ表現も生まれてくる。

もう一方で言葉には、人間が共通して持つ意識の基材という性格があると同時に、生きている個別の人間の意識と切り離せないと言う性格がある。そこでは言葉を送る側、受け取る側で言葉の持つ意味内容の理解が食い違うことがつねに起こる。人を侮辱する言葉をそれと知らずに使うことは起こりうるし、侮辱されているととれない場合も起こる。たとえば若き日のマルカム・Xは、「ニガー」という言葉を白人の教師が使うのを聞いても、それで侮辱されたとは感じなかった。

問題はおそらくこうだ。今までの言葉の歴史には、差別を肯定し固定化する言語はあっても、差別と戦う言語表現がほとんどなかった。「女々しい」、「雄々しい」という言葉は、本質的には、永氏や瀬戸内氏のご高説によるまでもなく、男女差別の反映ではある。しかし逆にその言葉が生み出すイメージが、受け取った人間の意識の中に基材として固着する。言語によって人が差別され傷つくと言うことが現に起こっていること、それは話し手の主観的意図とも別個だと言うことを、事実として認めるところからしか始まらない。

では私は言葉狩り(いやな表現だが)やPC(ポリティカルコレクトネス)を肯定するのかととわれればそうではないと答えたい。これは差別を回避する、差別から目をそらす行為であって、差別と戦う表現ではない。いくら放送禁止用語を増やしても、差別という現実はなくなりはしない。それどころか新しい差別表現が生まれてきてもいる。

差別の現実を打つ表現は、「みんな仲良く」というようなきれい事には終始しないだろう。そこにはどんな言葉で侮辱され傷つくのかという記述も入らざるをえない。しかしそういった表現活動は誰によって実現されるのだろうか。少なくとも、「水平社宣言」に差別用語が使われていることを「発見」してうれしがる、悲しい精神によってでないことだけはたしかだ。

(8月29日記)


追記:8月31日発行の「週刊金曜日」第377号に本多勝一氏を支持する投書が載っていた。そこにこんな仰天発言を見つけた。

言葉というのは、使い方によってすべての言葉が差別語になりうる。したがって、文脈と関係なく言葉だけを取り上げれば、表現そのものが成り立たなくなる

こんな投書を「我が意を得たり」と掲載した編集部の卑小さは言葉に出来ないくらいだ。これが差別語を使わなくても差別表現をする事が出来るという意味ならば、何とか理解は出来る。しかしもしそうなら今まで「週刊金曜日」がやってきた石原裕次郎の兄の「支那」や「三国人」発言問題はいったいどうなるのだろうか。これではまるでひいきの引きたおし。自分で自分の首を絞めているのではないか。

まず認めておかねばならないことは、言葉には歴史的にもっぱら相手を罵倒し侮辱する単語が存在するということだ。日本語には「チャンコロ」とか「半島人」とか「三国人」などというものがあり、英語にも「ジャップ」とか「ニガー」という人種差別に結びつく単語がある。よほど特殊な状況えない限り、そうした言葉をかけられて、いい感情をおこすことはない。あいてから「mother fucker」といわれてにこにこ出来る人間はまずいない。

しかし一語で、いわれた方に屈辱感と憤りを引き起こすものだけが、差別表現なのではない。日本てんかん協会という団体が筒井康隆の小説に抗議をしたのは、彼がてんかんという言葉を使ったからでは勿論ない。そこでの表現がてんかん患者を遺伝的な病気であり不治の病であり、車の運転に適さない危険な存在であると描いたからに他ならない。

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