病床読書日記

病床に一月以上いて、よかったことは、約5年ぶりに仕事に追われない時間がもてたことだった。集中的に本や雑誌が読めた。ここでは病気中に読んだ本を紹介することにする。

「密室」

マーチン・ベックシリーズの1冊であり、哀感と皮肉が交差するこのシリーズの中で、推理小説としての側面が強い作品だ。

種を明かさないのが推理小説の感想文の仁義だ。一見別々のふたつの殺人事件が起こる。一つは銀行強盗が起こした殺人と、もう一つは年金生活者の孤独な自宅でおこった密室殺人である。

主人公=マーチン・ベックは、丹念に「地味」な密室殺人をこつこつと捜査し、一方「はで」な銀行強盗は、警察署長以下の近代的警察組織が総力を挙げて取り組む。

共通して一人の容疑者が浮かび上がり、起訴され、裁判で有罪とされる。

皮肉なことに有罪判決そのものは、実はえん罪である。

ここには作者のスウェーデン社会、あるいは近代社会そのものに対する批判がこめられているように思える。

日本のテレビドラマに登場する有名な刑事たちが、いかに人情家であろうとも、結局「何が何でも真犯人を逮捕する」ことに束縛される能吏を半歩もでないのにたいして、フィクションである作品の上でカタルシスを与えるこうしたスタイルに魅力を感じる。

井田真木子著「もう一つの青春 同性愛者たち」文春文庫

入院中あるHIV感染者のことで連絡をして相談をしなければならない状態が出来た。まだ絶食中だったが、お見舞いをかねて古くからの知人kさんは来てくれた。その時一冊の文庫本を手渡された。それがこの本である。

絶食と黄疸の時期には、さすがに読む気力はなかったが、ようやく手術が終わって読み始めた。

「動くゲイとレズビアンの会(アカー)」が東京都教育委員会が管理する「府中青年の家」で合宿したときに、他の団体がいやがることを理由に宿泊を拒否された。そのため「アカー」は1991年2月、東京都を相手に訴訟を起こした。

著者はこの裁判に興味を持ち、取材を開始した。彼女の取材は、「アカー」の主要メンバー5名の生い立ちから、性への目覚め、自分が同性愛者であることを知り、自らの殻に閉じこもる鬱々たる日々。そしてさまざまな紆余曲折を経ながら、仲間を求め、仲間に手をさしのべるために自らの自助組織である「アカー」を設立する経緯。エイズ問題との直面。仲間からHIV感染者=大石博之氏を出したことへとさかのぼる。

この本は同性愛者であるこの5名の若者の青春の記録であると同時に、異性愛者である作者=井出真木子の、同性愛を理解しようとするための、魂の軌跡でもある。

彼女はアカーのメンバーと共にサンフランシスコに出向く。ゲイの権利擁護の先進地であり、年に一度のゲイパレードが行われる場所でもあるサンフランシスコで、彼女は異性愛者である自己が突然少数派に転落していることにきづく。同性愛者社会で、異性愛者として差別される擬似的非差別体験を通して、作者はより深く同性愛者の心に接近していく。それは我々が生活するこの社会が、異性愛者のみで構成されるという幻想にたつが故に、思春期を迎えた同性愛者が、アイデンティティークライシス(自己が何であるかという自己認識、自己愛の危機)に直面させられることを書き通した、卓越した取材力に直結しているのだと思えた。

この本は、エイズだけではなく、より広く性の問題に関心のある人に読まれるべきだと思う。

ただ残念ながら、性やエイズに関する記述に、いくつかの誤りがあることも指摘しておかねばならない。

一つは、筆者は性的指向(セクシュアリティー)を、異性愛(ヘテロセクシュアル、ストレート)と同性愛(ホモセクシュアル、ゲイ、レズビアン)に分類してしまっていること、すなわち両性愛(バイセクシュアル)の存在を、意識的にか無意識的にか除外してしまっていることがあげられる。そのため昔の修道にふれてもそれがどの分類にはいるのかが明らかに出来ず、またかつてのキンゼー報告で、一度でも同性とセックスをした人間を、みな同性愛者の分類に入れてしまうことになる。

これは単なる間違いではないだろうと思われる。ひとつには、著者=井出真木子氏は、みずからが異性愛者であるという強烈な自己認識、自己愛(アイデンティティー)をもっている。しかし私は、筆者と同じく、未だかつて同性と性的関係(クリントンによれば不適切な関係)をもったことがないが、それでも自分は異性愛者かと聞かれれば、躊躇する。きわめて性的に魅力のある同性が現れたとき、自分がどうするのか全くわからないからである。

また同じような間違いでは、フィスト・ファックや、アナル・セックスを同性愛者に特有な性行動であるかのような記述もある。フィスト・ファックを性器を用いない性行為の総称であるというのも誤解を生む記述である。

しかしこの部分はまだ実害が少ない領域だといって良い。問題はエイズを巡る不確実で、部分的に誤った記載である。

まず、日本でエイズ第1号として男性同性愛者があげられたことが、薬害隠しであったことにふれたあと、筆者は、それが、特殊日本だけの問題ではないと述べる。

同性愛者の存在が他のHIV感染の原因追及の力を弱める要素として利用される事情は日本に限らない。それはほかの国にも共通してみられる傾向なのである。たとえば、アメリカでも一九八三年に同性愛者がHIV感染者の第一号として認定されたが、実際にはそれ以前に感染がひきおこされていた非加熱製剤経由の患者を認定したのは、同性間の性行為感染の認定から三ヶ月たったときだった。

ここにいわれる原因追及の力を弱める要素として利用されたという記述が、具体的にどのような事実を起訴にしているのやら不明だが、少なくとも私の理解する限り、原因追及の力を弱める要素として利用されたどころか、HIV感染症の原因を明らかにする上で決定的な事実が、血友病患者の間でのエイズの発生だったことは、だれもが認めることだ。

一九八三年とは、同性愛者ばかりではなく、麻薬常用者にも血友病患者にもエイズが広がったことを受けて、エイズが人から人へ、性行為や血液を介して感染する病気であることが明らかになった年であった。

たしかにアメリカでも血友病患者のエイズは大きな社会的関心を呼ばなかった。それはエイズ患者全体に占める血友病患者の数がせいぜい一%程度であったためであって、一九八〇年代中期の日本のように、感染者の実に九〇%以上を占める血友病患者の対策が採られなかったのとは決定的に異なるのだ。だいいち一九八三年段階ではまだHIVという言葉は存在しないし、当然ながらHIV感染者として認定されるというようなこともなかったのだ。

さらにエイズ予防法の問題点についても、筆者の見解は事実認識の誤りと、解釈の誤りをふたつながら犯している。

なにより同性愛者を社会的に不利な立場にたたせた要因は、(エイズー引用者註)予防法にほどこされた修正案をめぐってひきおこされた。これは非加熱血液製剤経由の感染者に関する修正案である。すなわち、製剤によって感染した人々については、氏名、居住地以外の情報の通知義務が除外されるというものだ。

これは本来、同性愛者など性感染者と製剤による感染者を区別する目的で作られた修正案ではないのだが、結果的に製剤によって感染した血友病患者は同情に値する”よい感染者”、性行為、とりわけ認定第一号患者に指定された同性間性交渉で感染した人は”悪い感染者”というイメージが流布するきっかけとなった。

この記述だけを読むと、エイズ予防法が血友病患者をその対象にしなかったことから、血友病患者への影響がなかったような誤解を生む。しかし事実はそうではない。エイズ予防法によって形成されたものは血友病患者を含む患者管理であり、患者を「危険な汚染源」であるとする差別、偏見の思想である。

エイズ予防法の持つ政治的意味、その背景については、菊池治著「つくられたエイズパニック」に詳しい。ここでは”よい感染者””悪い感染者”について一言だけ述べる。エイズ予防法は、筆者が語るのとは逆に、「本来、同性愛者など性感染者と製剤による感染者を区別する目的で作られた修正案ではない」どころではない。むしろエイズ予防法の一つの目的は、性行為感染者と血友病患者を分断することにあった。その意味で製剤によって感染した血友病患者は同情に値する”よい感染者”であるという建前が作られては来た。しかし私の知る限り血友病患者が”よい感染者”として同情された例はない。むしろ血友病だからエイズだろうという差別こそが一般化していたのだ。

最後に、この本には横浜国際エイズ会議について全くふれていないが、その理由が全くわからない。

櫻井よしこ著「エイズ犯罪 血友病患者の悲劇」中公文庫

この本は文庫本に収録される以前から読もうと思っていたのだが、書かれている内容の多くを半ば当事者の一人として知っていると思い、延び延びになっていたものだった。

本の大枠は特に目新しいところはなかった。薬害エイズという稀代の大犯罪がどのように行われ、だれが責任者であり、その結果血友病患者とその家族がどのように苦しんだのか、作者の筆はジャーナリストらしく冷静に、しかしその奥に被害者に対する深い同情をもって、丹念に描き出してくれている。

この本の圧巻は安部に対するインタビューである。かつて自分が治療をした血友病患者からエイズ発病者がでたとき、彼は

病原体のない日本の血液から作った血液製剤がなかったからであるとしても、実際に彼をこのエイズの病気に罹患させた下手人は私である」(264ページ)

一人の血友病患者の病状の変化に驚き、自らを「下手人」と最大限の懺悔をした人物が、その千倍以上の血友病患者に危険な血液製剤を勧めた。彼=安部英氏という人物が、エイズ問題に取り組み続けた私にとって最大のなぞである。

櫻井氏のインタビューを読んでも、彼という人間の異様さは浮かび上がったが、なぜ彼が、日本でもっとも早く日本へのエイズの上陸を知った医師が、その危険な製剤を不安を抱く血友病患者に押しつける役割を積極的に果たしたのか、ついに理解できなかった。この異様さは、ナチに協力した医師たちにさえ感じなかったことである。

おそらく安部英の異様さを解く鍵は、エイズ騒ぎのただ中に開かれ、非加熱製剤の継続使用を詠ったストックホルムの世界血友病協会総会であろうが、未だに解かれない疑問である。

吉本隆明著「わが転向」(文春文庫)

私にとって20数年ぶりの吉本である。これでも学生時代は硬派でならした私は、吉本のような文芸評論家の文章を読んで革命を云々するような趣味はもっていなかった。「もう一つの青春」に文庫の紹介があり、表紙に吉本の見慣れた顔があったため、思わず買ってしまったというのが正直なところであった。

それでもなんという吉本だろうか。

彼の問題意識の背景は理解出来る。ソ連型社会主義は崩壊し、資本主義もマルクスが思い描いていたような姿から大きく変貌した。それなのに、未だに何らの反省もない一部文化人と自分は違うのだということはいいたい。

柄谷行人とか浅田彰とか、「週刊金曜日」の本多勝一から社会党護憲派の國弘正雄、上田哲まで全部同じで、一度もロシア・マルクス主義にたいして否定的な批判をしたりしないできて、またぞろ自分の理念を水で薄めれば通用すると思っているのです。(24ページ)

吉本がこうした頑迷左翼文化人をさして「勝ち組」(59ページ)と呼んだのには思わず笑ってしまった。もちろんこれは、日系ブラジル移民の間で、第2時世界大戦で日本が勝ったという説を支持する人々が存在したことを指している。

私にとって理解できないことは、吉本の現代批判がどのような視点をもっているのかだった。たしかに吉本は、

日本の現状をなしくずしに肯定するつもりはありません。(60ページ)

と、繰り返し断ってはいる。しかし

「体制ー反体制」といった意味の左翼性は必要も意味もないと言っていいと思います(26ページ)

といいながら、結局

第三次産業の従事者の人数のほうが第二次産業よりも多くなって(19〜20ページ)

くる

従来の資本主義が生産本位のものであったのに対して、現在の資本主義はむしろ消費本位とでもいうべき産業形態に再編され、高度化した・・・超資本主義、あるいは消費資本主義(36ページ)

という吉本流の現代資本主義論は、酷な言い方かもしれないが、60年代の大衆資本主義論の焼き直しにすぎない。

ここでは現代資本主義論を展開する余裕はないが、吉本のいうこと、彼の関心の範囲内に現れた事象そのものが、「超資本主義論」を否定していることだけは指摘しておきたい。

吉本は小浜逸朗のようなエピゴーネンとは異なり、<超資本主義>が、日本一国で存在しているという幻想からは無縁である。やや長くなるが大事な部分であるので引用する。

しかし、いざそうなったときに、食料や機械をだれが生産するのかという問題が生じてきます。おそらく現状では必然的に、具体的なモノ作りは第三世界が担当して、というようになってゆくでしょう。そうしたら、これまでの利潤とか利益という概念を変えていかなければならないのではないか、というのが僕の考えです。
端的に申しますと、これまで等価交換をベースにして成り立っていた資本主義を、対第三世界の関係においては、ある種、″贈与″をベースにしたあり方に変えていかざる をえないのではないか、と思うのです。
今だってすでにアメリカや日本は、第三世界に多額のお金を貸し付けていて、その総額は、すでに債務国の国家予算全部をもってしても払いきれない、利子すら払いきれないという状況になっています。返済は不可能だ。にもかかわらず、融資は続いています。これはすでに、潜在的な″贈与”というかたちになっていると思えるのです。
日本国内を見ても、キタナイ、キツイ、キケンの三K職業、主に第二次産業の肉体労働を、日本の若者たちはしたがらなくなっています。その部分を日本人の代わりに支えているのが、外国人労働者たちですね。彼らには早急に労働ビザを与え、健康保険を含む「外国人保険」のようなものを″贈与″というかたちでもうけるべきだと思います。(64〜65ページ)

吉本はなぜ等価交換という資本主義の大原則が「対第三世界の関係においては」「ある種、″贈与″をベースにしたあり方に変えていかざるをえない」状態になっているのかを説明できない。

ここで吉本のいう”贈与”、より端的に言えば経済援助が、発展途上国の経済なり文化なりをどのように破壊してきたのかについては、いくつもの詳細なルポが存在するが、ここでは触れないでおこう。また3K職場で働く外國人労働者に「外国人保険」を保証することがなぜ”贈与”なのかと言うことにも、話が長くなるので触れないでおこう。

しかし原理的にいって、発展途上国の人間が生まれついての怠け者であるとか、経済を運営する能力がないといった人種的偏見をとらないのであれば、元々現在の資本主義というシステムには、世界を全一に支配する能力がない、あるいはなくなったことを認めないわけにはいかないだろう。

吉本の描く世界をやや意地悪に書き改めれば次のようになる。世界は次のような範疇に二極分解している。すなわち一方で先進国の巨大な都市空間と慾望の肥大化、もう一方で発展途上国の経済の破綻と外國への出稼ぎ労働。この二極分解した世界構造は、高度資本主義、あるいは吉本のいう超資本主義からは、解消の道はない。なぜならば先進国と等価交換では対応できない発展途上国には、資本主義としての自立した発展の道が閉ざされているからである。吉本の指摘する”贈与”という処方箋では、金持ちになることは不可能なのである。こうして吉本のいう「消費が即生産になっている。現在の高度資本主義のあり方をさぐると、すでにそうした状態に最先端のところから入りつつある、という兆候が随所に見えるわけです。ゆくゆくは先進地域から順に全員がそうなるでしょう。」という「全員」には第三世界は入るはずがないことが明らかになる。

吉本がこの本を書き上げたのはバブルの最中だったのだが、その後の事態は、吉本の予想とは逆の方向に進んでいることが明かである。第三世界、特にラテンアメリカの経常赤字は、いまや世界恐慌の発火点になる危険をはらみ、東京、大阪などの巨大プロジェクトは自治体の大きな足かせになってきている。

一方、吉本の批判の対象がエコロジー運動に向かうことは、上に述べた文脈からも予想されるところである。ここも大事な部分であるので、煩をいとわず引用することにしよう。

コンクリート・ジャングルは人間性を疎外する、こんなの息苦しくってしょうがない、だからできるだけビルを取っ払って、地面を土に帰し、緑を増やそうという発想は、旧式の「人間」の観念に引きずられた発想です。「人間」 の実体の中に「自然」を求める発想です。そうではなくて、「人間」の実体なんかないんだ、現実の「異化」しかないんだよという発想にシフトすれば、ビルが建つのは決して悪ではない。緑が欲しいのなら、ビルの中に森林を造ろう、それでいいということになりますね。
文明の進展というのは止められないし、止めることは間違いだろうと僕は思います。 ただし人間には可塑性がありますから、対策はいくらでも打てるでしょうし、適応性もかなりあると思います。
  いまだかつて人類は、環境に不適合を生じて滅びたということはないのです。ある人種が戦争で滅びたとか、殺し合いをして滅びたということはあります。けれども文明の進展方向に従ったがゆえに、滅んだということはないんです。歴史的に一度もない、ということはこれからもおそらくないと言えます。ですから文明が発達すれば、その精一杯の範囲内で人類は適応性を発揮して、新たに環境に適合する諸条件を必ずや見つけ出すと思います。そういう面に関しては、僕はひじょうに楽観的に考えます。

すでに私の小浜逸郎氏批判をお読みいただいている方には、ここで吉本のいう「『人間』の実体なんかないんだ、現実の『異化』しかない」と言う議論が小浜の

人間の文明の発達の歴史は、総体として、自然をどのように人間にとってなじみやすい「物質」として現れさせるか(「精神」のもとに統一せしめるか)という一貫した関心に基礎づけられてきたのであって、この関心こそは、人間精神の本質なのである。

と言う議論とうり二つであること、当然ながら小浜が吉本のエピゴーネンであるのだろうが、はたやすく見て取れることである。

確かに人類は自然を「異化」してきた。しかし自然は私たちが考えるようにたやすく「異化」されてはくれなかった。地表や地中から石油や石炭を掘りだした私たちは、化石エネルギーを消費して、地球の温暖化を招くことになるなどとは、ツユほども考えなかった。

目の前には人類の意思どうりに「異化」された、受動的な素材としての自然(人間精神の本質的な欲望=関心によってつくられ、枠づけされ、対象化され、まなざしのもとに押さえ込まれた物質、ひとことでいうならば、半ば「精神化」された産物;小浜)があったのだから。

しかし自然の前に、全知全能の神でもあるかのごとく「君臨」しているはずの人間が、その実きわめてもろいものであることも我々は知っているのだ。

どんなに大きな建造物を造ろうと、人間は必ず死ぬ。この恐怖から逃れられるものはいない。HIVという”へ”のようなウイルスの挑戦をうけた人類は、懸命の努力にも関わらず、未だに敗北を続けている。我々は地震も台風も砂漠化も、温暖化も防ぐ手段を持っていない。そして少なくとも人口爆発と温暖化は早急に対策を講じなければならない課題でありながら、いまだに問題の存在そのものを認めない指導者によって、世界の多くの国が指導されているという現実があるのだ。

吉本は「いまだかつて人類は、環境に不適合を生じて滅びたということはないのです。」という。当たり前だろう。総体としての人類が滅びなかったからこそ、今日があるのだから。

しかし「人類」ではなく、いくつかの文明が滅びたことはあったし、その原因が「環境に不適合を生じて滅びた」場合もあったに違いないと、私は考える。今日本の中で盛んにいわれている「少子化対策」なるものの愚劣さを考えるならば、その程度の間違いを人間が犯さなかったはずはないと私は思うのだ。吉本のいうほど人間に強い「可塑性」があるとは、私は信じられないからである。

それ故、もともとエコロジーの持つ思想的な広がりは、吉本のいうような「コンクリート・ジャングルは人間性を疎外する・・・だからできるだけビルを取っ払って、地面を土に帰し、緑を増やそうという発想」に矮小化されるべきではないのだ(もちろんエコロジー運動の中には、「地球に優しく」というスローガンに象徴されるような、資本主義的近代文明の非人間的な現実から逃亡する、「別荘」の発想をはらんでいたことはたしかだが)。

読了して、今まで吉本を読まなかったことは間違いではなかった。これからもよほどのことがない限り彼のものを読むこともないだろうと考えた。

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