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| クロール専科 (より速く泳ぐために) | きれいに泳げる スマートスイミング | |
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| クロールの歴史 水泳の歴史 |
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内容 古代の泳ぎ (外国の古代の泳ぎ 日本の古代の泳ぎ) 近代ヨーロッパの水泳 近代オリンピックでの水泳 参考 (人類の泳ぎの起源 海の哺乳類の泳ぎ 他) |
| 石器時代の水泳の壁画は、エジプトの南西のWadi Sora の「泳者の洞窟」(the cave of
swimmers)でみつかりました。これらの絵は平泳ぎか犬かきだといわれています。 エジプトの 6,000〜11,000年前のものとされる粘土板(clay seal)には、クロールを泳いでいると見られる4人のスイマーが描かれています。 6,000年前のエジプトのナイルの谷の象形文字はクロールに似た水泳のスタイルを示しています。 ケビール(Kebir)砂漠で見つかった水泳の図は6,000年前のものとされています。 ナゴダ(Nagoda)の浅浮き彫り(bas-relief)の水泳の図は5,000年前のものとされています。 4,800 年前のインドのモヘンジョダロ宮殿には、60mX30mのプールがありました。 古代エジプトの王子は、水泳教育が義務付けられていました。 バビロニア(Babylonian)の浅浮き彫り(bas-relief)やアッシリア(Assyrian)の壁画(wall drawing)には平泳ぎと見られる水泳の図が描かれています。 4,000 年前に描かれたアッシリアの絵は、弓の射手から逃れる3人の泳者を示しています。1人はクロールらしく、 他の2人はエアバッグを 抱いて泳いでいます。足まである長い服を着ているので泳ぎにくそうです。 4,000年前のクレタのクノッソス宮殿には泳げる風呂がありました。 4,000年前のエジプトの墓にはクロールに似た絵があります。 泳者の描写はHittites、Minoans、中東、マヤ族の文明のテオティワカンのTepantitla下院、ポンペイのモザイクなどに見られます。 4000年前の、ギルガメシュ、イーリアス、オデュッセイア、聖書(エゼキエル47:5、条例27:42、イザヤ25:11)、ベーオウルフ、 に水泳のことが書かれています。 4000年前のエジプトの時代のパピルスに貴族の子供がクロールのような水泳の練習をしている絵があります。 アフリカのAuenat Mountainsの岩に泳者の図が描かれています。 古代の水泳の図や絵が今のイタリアのあたりからたくさん出てきます。古代エトルリア(Etruscans)のタルクィニア(Tarquinia)のものは その中でも古く2,600年前のものです。 2,500年前のギリシアの古代の墓には水泳や飛込みの絵が描かれています。 2,400年前に、ツキジデス(Thucydides)が水泳について書いています。 世界の古代文明のエジプト人、フェニキア人、ペルシア人、ローマ人、ギリシア人の多くが泳いでいました。 プラトンは、「泳げない者は適切な教育を欠いる者だ」といいました。 古代ギリシャ・ローマ時代では、水泳は、教養として重要な体育の科目だったそうです。 ローマでは歴代皇帝がプール(浴場: Bath)の建設に力をいれていました。 ジューリアス・シーザーは水泳がうまいことで有名でした。 バチカン市国、Borgian、ブルボンcodicesに泳者に関する多くの言及があります。 古代の泳ぎ 参照→ History of swimming - Wikipedia, the free encyclopedia Swimming – news reports, Sydney results, ancient origins, Olympic history History of swimming section 泳者の洞窟 参照→ The Gilf Kebir, Part I Cave of the Swimmers The Gilf Kebir, Part II Cave of the Swimmers * Fliegel Jezerniczky Expeditions Wadi Sora "Cave of Swimmers" * < Fliegel Jezerniczky Expeditions Caves of Egypt: The Cave of Swimmers |
| この絵に海女がクロールで泳いでいる絵が描かれています。 ちょっと見ると手足がバラバラに見えるので「何だろう」って目を引きます。しかし、よく見ると次第にちゃんとつながっている事がわかってきます。 リカバリーの手とか足とかがユーモラスで、海女の泳ぐ様子が想像しやすいです。 首と肩の所の背骨をそらせて、顔を水面上に出し、左右交互に水を掻いています。 重要なのは、水平姿勢になっていて、下半身が沈んでいない事です。この錦絵の主人公は海女です。北斎自身が海女があまりにもうまく泳ぐので、見とれていたのかもしれません。 二人の両足が水面から出ているのは、足が速く動いている様子を表現するためだと思います。2ビートでなくて6ビートの可能性が高いです。それとも 平泳ぎや横泳ぎと区 別するためにわざと強調して両足を出して描いたのかもしれません。よく見ると左下の人は右足だけが出ています。(右足の横に見えるのは、上の人の右手で す。スカーリングの終わりで外側の水面に飛び出してくる所です。)左下の人は左手がスカーリングの途中で、手は肩の位置で体の中心に来ています。右手はリ カバリーの始まりになっています。(リカバリープルになっています。)上の人は、片手だけで泳いでいます。片手でアワビを持ち上げれば下半身は更に浮きま す。右下の人の手は左右対称の動き(リカバリープル)になっています。水着は下半身だけに付けています。 北斎は3人の海女によって、クロールの泳ぎのポイントをすべて表現したかったのだと思います。泳ぎを相当よく見て、その動きを完全に頭の中に入れてからでないと描けない絵だと思います。 平泳ぎや横泳ぎは疲れるので、業として泳ぐ場合はクロールの方が適しています。 競技でも平泳ぎは200mまでですが自由形は1500mまであります。 オープンウォーター(5000m〜)やマラソンスイミング(2万m〜)もクロールです。 参照→ オープンウォータースイミング プロマラソンスイマー松崎裕子 |
![]() 参照→国立国会図書館 |
| 葛飾北斎(1760年10月31日?
- 1849年5月10日) 葛飾北斎の魅力 より 森羅万象何でも描き、生涯に3万点を越す作品を発表した。その功績は海外で特に評価が高い。 74歳の時に『富嶽百景』を完成。そのあとがきに彼はこう寄せた。 -- 「私は6歳の頃から、ものの姿を絵に写してきた。50歳の頃からは随分たくさん の絵や本を出したが、よく考えてみると、70歳までに描いたものには、ろくな絵はない。73歳になってどうやら、鳥やけだものや、虫や魚の本当の形とか、 草木の生きている姿とかが分かってきた。だから80歳になるとずっと進歩し、90歳になったらいっそう奥まで見極めることができ、100歳になれば思い通 りに描けるだろうし、110歳になったらどんなものも生きているように描けるようになろう。どうぞ長生きされて、この私の言葉が嘘でないことを確かめて頂 きたいものである」。北斎展 1期から6期までの作品説明 北斎展 1期から6期までの展示品リスト(世界中からの500点) 葛飾北斎 art random 葛飾北斎 88歳 信州小布施町編 信州小布施・北斎館 The Hokusai Museum 参議篁(さんぎたかむら) 小野篁(802〜852) 参照→ 小野篁 - Wikipedia 遣唐使を拒否したため39歳の時隠岐(海士町豊田)へ流罪となり2年後に返り咲いて出世して46歳で参議(重要な大臣)になった人。 小野篁は小野妹子の子孫です。小野篁の孫には小野道風や小野小町がいます。小野一族は名門です。 出航地は、難波の八十島で、アワビ捕りの行われている瀬戸内海を通って行ったとされています。 高貴な方だから使用人の他、家財道具や米などの食料をたくさん船に積んでいったと思います。 187cmの美男子で名門で文武に優れていて女性たちにもてたそうです。隠岐島でも阿古那(あこな)と恋に落ち、京に帰る時、悲しみで自殺を決意した阿古 那に思いとどまらせようと木彫りの像を自らの分身として託し、隠岐島を去りました。その像は阿古那地蔵として祀られています。 参照→ 隠岐白島海岸 格言 参照→ 八十島祭は今の大阪の淀川の河口で行われた祭りです。 歌語り風土記八十島祭 遣唐使〜その歴史的経緯と役割〜 |
| ヨーロッパでは、暗黒の中世の間に、古代までに築いた文化のほとんどが失われてしまいました。 1000年くらいたった後になって、イスラム圏との交流によってヨーロッパには中世より遥かに進んだ古代文化が有った事を知ったそうです。 (暗黒という表現は適切でないそうです。) 参照→ 教えて!goo ヨーロッパ暗黒の中世について |
| 1844
年のロンドンの水泳競技会で驚くべき出来事がおきました。 イギリス人は平泳ぎで競走をしていましたが、この時、アメリカのインデアンが何人か参加しました。 彼らは、アメリカや西アフリカや太平洋の島の原住民と同じようなクロール泳法で泳ぎました。 この時アメリカのインデアンのFlying Gullという人がイギリス人を負かして金メダルを取っので、平泳ぎより速い泳ぎに驚きました。 (130 フィート=39.624mを30秒で泳いだそうです。)(1.3028m/s)彼らの泳ぎは腕を風車のように動かして足を上下に蹴っていたと記述されました。 ところが、イギリスの紳士たちは、「水泳は頭を水面に出したまま泳ぐものだ」と考えていて、このクロールを「水しぶきが上がり、野蛮(barbaric)で、ヨーロッパ的ではない」と結論付けました。 以後もイギリス人は、1873年まで平泳ぎだけを29年間泳ぎ続けました。既成概念は一度できてしまうと簡単には変わらないのかもしれません。 1862年に最初の屋内プールがイギリスで建設されました。 |
| 1880
年に英国にAmateurスイミング協会が設立されメンバーは300人以上いました。 主な水泳スタイルは、平泳ぎと、その頃開発された「横泳ぎ」でした。 1895年に、イギリスのJ.H.セイヤーは、横泳ぎで、100ヤード(91.44m)1分2秒50の新記録を樹立しました。(1.463m/s) |
| 1870
年と1890年の間(1873年とされています)、ジョン・アーサー・Trudgenは南米のインディアンのクロールから学んだ泳法をイギリスに紹介しました。 彼の泳法はインディアンのクロールを平泳ぎで慣れている「2掻きに1回のはさみ足」に変えたもので、トラジオン(Trudgeon)と呼ばれました。 1901年にF.V.C.レーンは、トラジオン泳法で100ヤード(91.44m)を1分の新記録で泳ぎました。(1.524m/s) このことによって、トラジオン泳法は急速にポピュラーな泳ぎとして普及しました。 |
| イギリスの水泳選手:フレデリック・キャビルFrederic
Cavill(1839-1927),が1878年頃、オーストラリアに移住して、水泳(多分トラジオン泳法)の普及をしました。(
Cavillは、日本語で、キャビル キャビール キャヴィル カビルともかかれています。) フレデリック・キャビルの9人の子供は全員すばらしいスイマーでした。 彼らは、トラジオン泳法を改良して(あおり足をバタ足にして)初期のオーストラリアン・クロールとして好成績を上げました。 Cavill, Frederick (1839 - 1927) Biographical Entry - Australian Dictionary of Biography Online 1 Ernest (1868-1935) ニューサウスウェールズの1000ヤードのチャンピオンであり、ロンドンの選手権のチャンピオンでありました。 2 Charles (1870-1897) 1896年にアメリカのサンフランシスコのゴールデンゲートを初めて泳ぎました。 3 Percy (1875-1940) 1895-98年に4回の州と4オーストラリア人選手権に勝ちました。1897年にイギリスのAmateur Swimming Association Championshipsで、 440ヤードと5マイルで勝ちました。 4 Arthur (1877-1914)=1898年に220ヤードのオーストラリアのチャンピオンのタイトルを取りました。 Tums 500と1000ヤードのニューサウスウェールズのアマチュア選手権に勝ちました。1901年にゴールデンゲートを泳ぎました。 5 Sydney (1881-1945) オーストラリアの220ヤードのアマチュアチャンピオンであり、バタフライ・ストロークの創始者でした。 アメリカにいって水泳を指導し、リアリーや、ダニエルスを出しました。 6 Richmond Theophilus = Dick (1884-1938) 1899年にクロールで100ヤードの州選手権に勝ちました。1902年にクロールでイギリスの大会で100ヤード(91.44m)を、58.6秒(1.560m/s)の 新記録で優勝しました。 他の3人の娘も泳ぎが得意でした。その内の Freddaの息子の Richard (Dick) Eve は1924年のパリのオリンピックの飛び込みで金メダルを取りました。 シドニー・キャビルの教え子のダニエルスCharles M. Danielsはそれまでのオーストラリアン2ビートを6ビートにして第3回(1904)第4回(1908)のオリンピックに優勝し、後で「スピード・スイミング」という本を出しました。日本人はそれを教科書にしたそうです。 |
| オーストラリアのソロモン島のアレック・ウィッカム Alick Wickham(1886-1967)(ヨーロッパ人の貿易商とソロモン島の女性の間に生まれた子供)が、教育を受けるために、1898年(又は1891 年)に、家族と一緒にオーストラリアにやって来ました。 参照→ Australian crawl@Everything2.com ‘Look at That Kid Crawling’ アレック・ウィッカムは原住民から習ったクロール泳法で、シドニーのブロンテで行われた競泳大会に出場しました。その時、ウィッカムのコーチの ジョージ・ファーマーGeorge Farmerはウィッカムの泳ぎを見てそのすばらしさに非常に驚き「あの子供が水の上でクロールするのを見よ!"look at that boy crawling over the water!"」といいました。これが原因で「クロール」という呼び方がされるようになりました。そしてジョージ・ファーマーはその泳ぎを他の人にも教えました。(ソロモン島の原住民はこの泳ぎ方を‘Tuppa Ta Pala’といっていました。) |
| アレック・ウィッカムの泳ぎはオーストラリア人に大きな衝撃を与えました。 アレック・ウィッカムは東シドニー・スイミングクラブのFlying Squadron チームとして活躍し、数回の国家と州の水泳選手権に勝ち、マスコミに取り上げられて人気スイマーになりました。 1903年から 1915年まで、50ヤードの非公式の世界記録を保持しました。 |
‘Look
at That Kid Crawling’ |
| フレデリック・キャビルの息子たちも、アレック・ウィッカムの泳ぎに影響されて、クロール泳法を改良していきました。 |
| ハワイのデューク・カハナモクは、原住民の6ビートのクロール泳法で、第5回(1912)オリンピックで100m金1個、銀1個を取りました。 次の1916年のオリンピックは戦争で中止になりましたが、第6回(1920)のオリンピックでは金2個、 第7回(1924)のオリンピックでは銀1個、第9回 (1932)のオリンピックでは銅1個を取りました。 ワイキキのデューク・カハナモクビーチにはDuke Kahanamoku の像があります。 |
Duke
Kahanamoku - Wikipedia |
| 続いて、ワイズミューラー Johnny
Weissmuller
が6ビートのオーストラリアン・クロールで第7回(1924)、第8回(1928)のオリンピックで優勝するなど、100m、1分(1.667m/s)の壁を破って、 クロールは完成されたと言われました。 5個のオリンピックのメダルと36回の国内選手権を獲得しました。 引退後、 ワイズミューラーはターザンの映画に出ました。 |
Amazon.co.jp:ジョニー・ワイズミュラー ターザン・フィルムズ コレクターズ・ボックス 〈4枚組〉: DVD:
ジョニー・ワイズミュラー,W・S・ヴァンダイク二世,リチャード・ソープ,セドリック・ギボンズ,モーリン・オサリバン |

人類にとって水は非常に重要なものです。
東アフリカの大地溝帯周辺の湖(ツルカナ湖トゥルカナ湖 Lake Turkana)の近くから新人類や旧人類や原人の化石がたくさん発掘されています。
もともと東アフリカは、アマゾンや、インドネシアの熱帯雨林と同じように、雨がたくさん降る熱帯雨林でした。赤道付近は空気が縦に上昇するので一般的に高温多雨地帯になります。
ところが、1,000万年前頃から東アフリカ東部の端を南北に走る大地溝帯の活動で、大地溝帯の縁に高い山がいくつもできて、インド洋から来る湿った風は、それらの山の付近でたくさんの雨を降らせるようになりました。
そ
の結果、アフリカ東部の熱帯雨林だった地帯(エチオピアのあたり)には、雨を降らせた後の乾燥した風が降りてきて、雨が少なくなり、次第に熱帯雨林がサバ
ンナとなっていきました。しかし高い山で降った大量の水は川になって流れてきますので、アフリカ東部には大きな川や湖ができるようになりました。
このときアフリカ東部の熱帯雨林にいた猿人がサバンナに出てきて人類の祖先になったという仮説が一時優勢でしたが、2001年に中央アフリカでトーマイが発見されたことによって否定的になっているそうです。
中央アフリカまでいけば、山の影響が少なくなり、雨がたくさん降りますので、その地帯の熱帯雨林の猿人たちは水に不自由しませんでした。
大 地溝帯からはるかに離れた中央アフリカの熱帯雨林のあたりのチャド湖の湖岸で、600-700万年前の猿人の化石:サヘラントロプス・チャデンシス(愛称 トゥーマイ)が発見されました。当時のチャド湖は、現在の約80倍も大きく、魚やワニの化石が一緒に発掘されています。トゥーマイは原人の祖先らしいで す。wiki
その後、原人になった人類の祖先は、中央アフリカの熱帯雨林を出て、東アフリカのサバンナ地帯に出てきたそうです。
な ぜ、原人は中央アフリカの水辺から、わざわざ遠く離れた東部の水辺に出てきたのでしょうか。その頃の東部には川や湖ができていたので、水の問題はありません。雨の日の多い熱帯雨林よりも、天気のいいサバンナの方が活動する上で都合が良かったのかもしれません。
いずれにしても、猿人や原人は、水辺に暮らしていたので、夏の暑い時になれば、子供の頃から自然と泳いだりしたのではないでしょうか。
所で人類は、熱帯の湖や川や谷で暮らしていたから、体毛が少なくなったという説があります。
水辺で暮らすカバには体毛がまったくないところから、出た説らしいです。
しかし、カバの場合は、何億年も前からそういう動物だったのかも知れません。
5,000万年前ころ[カバ類]から派生して海に出て行ったクジラやイルカにも全く体毛がありませんが、もともとカバ類です。
水中を泳ぐ哺乳類でも、ビーバーやアシカやアザラシには体毛があります。水辺で暮らせば体毛が少なくなるとは言いきれないと思います。
動画→ 動物-ビーバー
人類は脳のエネルギーの消費量が大きい上に、体も大きく、起きている間中いろいろと動き回り、走ったりしますので、ますます消費エネルギーが大きくなり、そのエネルギーを汗として発散させるために、主に筋肉の多い所の体毛が退化したのかもしれません。
でも、夜になって寝ると、寒くなるので体毛が無いと体温を維持できません。ケニアのサバンナ地帯の年間平均気温は19℃で、エチオピアの大部分を占める高原地帯の年間平均気温は13℃だそうです。
暑い昼間に動き回る時の冷却方法と、寒い夜に保温する保温方法が両立しなけ れば、他の動物以上に活発な活動ができません。
汗をかいて体温を下げることと、火を使ったり服を着たりできるようになることが、昼間他の動物よりも多く行動するためは必要だった のかもしれません。
(火の歴史ははっきりしないそうですが、160万年前の南アフリカ、スワルトクランス洞窟に火を使った痕跡が見つかっているそうです。)
(服の歴史は証拠が無いので諸説あるそうです。火を使えて道具を使えれば動物の毛皮を着るのはそう難しいことではなかったような気もします。)
退化したといっても、よく見ると細くて小さいうぶ毛がかなり生えていますし、体毛の多い人もいますので、体毛は保温や皮膚の保護のためにある程度は必要なものかもしれません。
体
毛はもともとホルモンのバランスによって変わるといわれていますので、ホルモンと退化のバランスで変わるのかもしれません。男性の口の周りのひげは、淡水
魚にも触覚としてのひげのある魚がいるし、猫や犬にもひげが触覚となっているので、もともと退化しにくいものだったのかもしれません。
ですから単純に体毛が少なくなったのは泳いでいたからとはいいきれないと思います。
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