『テロリズムと救済』
ゴドノフ、という響き、粒来哲蔵の描くゴドノフはカフカのオドラデクにも似た理不尽な形象である。それは、「私」に対して究極の暴力を働く。充分に「私」を待っていたらしい「彼」は、ただ嗜好のためにきみが好きだといい、自らの名を名乗ったさきから「私」の肉を咀嚼し、痛みを感じない「私」の五体を食い破り、砂を這いずる「私」の腹腔をからっぽにする。
〈ゴドノフが私の肉から這い出て私の隣に坐った。私は食われ残った頭を彼の肩に凭せかけた。万事悪くなかった。そう思うことにしてゴドノフを見ると、彼は眠っていた。目の下に涙のしみをつけて、ゴドノフは眠っていた。彼は哀しかったのだ、自らが――。そう思いながら私も目を瞑った。明日は砂上に霜が下りるだろう……。〉
ロシアは、この冬、二ヶ月近くに亙ってひとときも日照のない日々が続いた。記録的な暖冬だといわれながら、年が明けた今も、引き続き雲が重たく垂れ込め、氷雨が断続的にやって来る。そんな鬱屈した気象のなかで、この散文詩に行き会って、ゴドノフという響き、その響きによって痛烈に牽引される暴力の表象を再び見出した気がした。
コズロフ、二〇〇六年の九月十三日スパルタック・サッカー場の駐車場で中央銀行の筆頭副総裁だったアンドレイ・コズロフが射殺された。コズロフは、マネーロンダリングに耽るロシアの銀行業界の近代化に注力し、マフィア系銀行の摘発を進め、二〇〇六年だけで四十四の銀行を閉鎖した。彼を殺したのは、これまでに二つの銀行を設立し、そのいずれもがコズロフによってライセンスを剥奪されたアレクセイ・フレンケル。ポリトコフスカヤ、同じ年の十月七日、チェチェン紛争などをめぐって「ノヴァヤ・ガゼッタ」で反プーチンの舌鋒を担っていた事実探求型のジャーナリストであるアンナ・ポリトコフスカヤがスーパーマーケットからの帰りがけに自宅のパートで射殺されたのが発見された。この日はプーチンの五十四歳の誕生日だった。クレブニコフ、コロドフ、リスティエフ、ユーディナ、、、、、、一九九二年の体制転換以降十五年で、ロシアでは、アルジェリア、イラクに次いで最も多く四十二人のジャーナリストが暗殺されている。リトヴィネンコ、元KGBのスパイであり、クレムリンのインサイダーからアウトサイダーへと転じたかに思われていたアレクサンダー・リトヴィネンコは滞在先のロンドンで十一月一日、ピカデリーのメイフェアーホテルのバー、その後、寿司バーで二人のプライベート・エージェントらと会ってから急速に体調を崩し、その月の二十三日に死亡した。彼の尿から大量のポロニウム二一〇が検出され、世界に類例の無い「核テロリズム」の疑いが濃厚となっている。リトヴィネンコは「プーチンさん、これで、あなたは一人の男を黙らせたのだろうが、世界のあなたへの反発が何時までも残響するのだ」と死の直前に言い残したといわれ、一方では、彼の行動とネットワークの最後の痕跡から体制転換以降の端緒かつ最大のオリガルヒの一人であるボリス・ベレゾフスキーの関与が喧伝され、ベレゾフスキーはひたすらそれを否定している。因みに、ベレゾフスキーは物理数学の博士号を取得、八〇年代にコンサルタントとして製造業界に乗り出し、エリツィン政権をサポート、やがて、航空業界、メディアに関与してプーチン政権を批判、今では、プーチンによるオリガルヒ攻撃の矢面に立つ。だが、彼は、プーチン政権の生誕に一役買ったことで、命脈を確保しているようである。一方、共産主義青年同盟から出発し、体制転換のヴァウチャーを利して、やがてロシア最大の石油会社ユーコスを支配、二〇〇五年六月には純資産百五十億ドルをフォーブス誌に録されたホドロコフスキーは、政権に興味を示してから徹底的にプーチンによって弾圧され、殆ど故の無い脱税容疑などでユーコスは実質的に清算、彼自身も投獄されて、自他共に破滅に至った。
さながら、「殺人百科」である。彼らを殺す「力」は、余りにもあからさまに政治をめぐる権力からやってくるので、そのさえぎるばかりの輻射を誰も正視出来ないのである。殺す勿れ、という天上の声が地上の強大な権力によって超越されてしまう。超越されてはならないものが超越されてしまうために、大地には痛烈なアンニュイが漂って止まない。天上の報いを地道に受容し地上で均衡させる目途が殆ど立たない。ニヒリズムは、そのまま、あらゆる生産活動の胎内にコドノフの侵入を許し、やがて、地上がコドノフなるものの胎内と化したのである。
マーシャル・I・ゴールドマンは邦題『強奪されたロシア経済』で次のように述べる。
〈ロシアにおけるショック療法は、ほかの改革路線をとったときに予想されるどんな場合よりも、もろもろの条件を悪化させた。そればかりか、オリガルヒやマフィアの出現を許し、国有財産の強奪とそれにともなうマネー洗浄をもたらした〉〈他国では国が果たすはずの数々の機能をマフィアが果たしはじめたこともあって、ロシア人の多くがマフィアにはいささか寛容な態度をとるようになった。政府がかつての権力の一部でも取りもどすと、ロシアが過去にあまりにも繰りかえし経験してきた、権力を濫用する政府という代物が帰ってくるかもしれない〉〈ロシアの歴史を通じてひとつの倫理が低奏音のように貫いてきた。それは国家をだました者をほとんど英雄視する心意気だった。いまのポスト・ソ連になってからのちがいは、それにくわえて暴力が倫理の一部になったのではないかという恐れが広くゆきわたっていることである〉(鈴木博信訳)
ヘーゲルのダイアレクティックを地上に化肉させたマルクスは「力」への思想を展開した。その「力」とは、人間が原生的な自然に及ぼしうる「力」、その作用によって自然を「価値」へと変成する「力」だった。その人間だけが成し遂げうる当為は「生産」と呼ばれた。ところが、人間の「力」の表象である「生産」は、「生産手段」と「土地」がその所有者、資本家によって予め収奪されているために疎外される他なかった。だからこそ、「生産」に集約される人間的な「力」、「価値」へのダイアレクティックを実現するために「革命」が選び取られた筈である。つまり、「革命」とは「生産」がその本来性、人間の「力」の表象へと回帰するための契機だった。
ソ連の崩壊は、「革命」をめぐるコンテクストの総体が否定された出来事ではない。それは、市場メカニズムが到達される装置が殆ど整備されていない状態で西側の市場原理を導入しようとしたゴルバチョフの失政に起因する。西側と違って、生活破壊者ゴルビーの不人気は相当なものだ。体制転換十五年以上を経ても、統計値においてロシアの総生産はソ連時代の水準に到達しておらず、外国資本への対応も当時の方が整備されていたといわれる。一方、マルクスもレーニンも依然としてロシアではヒーローである。もともと、彼らが偶像ではなかったという意味を含めて、ソ連からロシアへの体制転換の全体像は、例えばテオ・アンゲロブロスのフィルム「ユリシーズの瞳」に現れたマルキシズムの葬送という非連続性よりも、連続性を見出そうとする位置から鳥瞰されていい。つまり、ソ連の崩壊はイデオロギーの崩壊というよりも、一国経済の破綻現象に尽きた。その連続性の伏線、ソ連がロシアとなることによって、逆説的に貫かれたのは、マルクス・レーニンが本来は象徴性として画定した筈の「力」が、唯物的な「力」へと後退するかたちで、いまや倫理にさえも加担しつつあるということである。
レーニンは「暴力革命」を唱導した。だが、たとえ、その「革命」がロマノフ
王朝の転覆を唱導したとしても、レーニンのいう「暴力」は思想の抽象性を確保していた。すなわち、「暴力」は歴史に参加する、公共性に到達するために行使される「力」だった。それは、自然を「価値」へと変成する「力」と確かに通低していた筈である。
ところが、現在のロシアで頻繁に行使される唯物的な「力」は、コズロフ、ポリトコフスカヤ、リトヴィネンコらに振るわれたような、収奪を直接的に実現するための極私的な「暴力」である。「暴力革命」が収奪による疎外を解消するためのステップ、本来的な「生産」に回帰するための処方だとすれば、このモスクワで頻発する「暴力」の表象は、自らを「生産」なるものから遠隔する共同的心性の鏡だといえる。
かつて、人間ガガーリンを最初に宇宙空間に飛行させた「科学」の大国ソ連を継承したロシアは、今や殆ど何も「生産」しない。石油、天然ガスなどの地下資源によって極度に潤うことによって、ロシアは強大な消費市場となった。街区を風を切って闊歩する消費者に「科学」志向の余韻を見出すことは困難だ。しかも、「消費」が差延された「生産」であるというハイパー資本主義論の公理を一気に無化するかのように、ロシアでは、消費が剥き出しの「消費」に短絡される。剥き出しの欲望が剥き出しの「消費」に釣り合う。レーニンの「暴力革命」の「暴力」が秘めたイデアとしての「生産」へと媒介される「力」の抽象性は、現在のロシアでは、「生産」がぐんぐん切り下げられたことによって、同じようにプリミティヴな暴力へと切り下がり、そこですぐに勝負をつけるためのアクションとなった。暴力が倫理の一部となったというより
も、倫理の源泉である「価値」への超越性が、多分壊れたのである。
では、「力」の抽象性が「価値」の超越性とともに壊れてしまう契機は、資本主義的近代が牽引する凡庸な欲望の物語以外に無いのだろうか。つまり、西側の資本主義が、カーネギー、ロックフェラーら、まさにマルクスが批判した「生産手段」を占有する資本家によって果たされたのに対して、オリガルヒが「生産」とは無関係に共産主義時代あるいはそれ以前から蓄積された資産を詐取することによってロシア的資本主義を「力」の具象性として顕示しているシークェンスを発生的なロジックで解いていけないものか。
『オクシデンタリズム』(邦題「反西洋思想」)でイスラムの反近代的なバイ
アスや都市的エピキュリズムを否定する旧植民地の言説を粗雑に揶揄したブルマとマルガリートは、この本で唯一冴えているパート、ドストエフスキーの「ひねり」に言及してこう記した。
〈ドストエフスキーが典型的に示したようなスラブの世界観では、人間が知性によって問題を解決しようとするのは間違いで、その代わりに「救済」を求めるべきだとされている。理性では人生の悲劇的側面を理解することはできない。それは「心の知恵」によってのみ分かることである。パスカルが「心には心に固有の理性があり、それは理性によっては理解できない」と言ったように。そして「心の理性」は、自分自身の苦しみや他者が苦しむのを見ることによってのみ理解できる。苦しみは偉大な教育者であるが、西洋の心は幸福を追求するのに忙しく、それを拒絶する。快楽主義と知性への偏りが、西洋が最も必要としているもの、すなわち「救済への道」を妨げるのだ〉(堀田江理訳)
ドストエフスキーの大作群のドラマツルギーは金銭と殺人によって形成されている。著者たちのいう「ひねり」とは恐らく内面性を期待し得ない凡夫たちが神を恐れているという不整合に違いないが、むしろ、生活の機序に「救済」が宿るのである。その臨界で受苦と愉楽とはしっかり張り合わされている筈だ。ロシアン・フォルマリズムのシクロフスキーの顰にならうなら、「生活の理由付け」が構造的には「最後の審判」の函数となる。「大審問官」におけるイワンとゾシマ長老の確執に内包される合理主義と非合理の衝突が「救済」によって超越される可能的なシークェンスが日常に潜在する。
だから、実のところ、暴力が倫理の一部になったといって今さら恐れるまでもないのだ。国家を裏切るといった位相とは全く別なアスペクトにおいて、殺人という行為を介して、オネーギンもラスコーリニコフも英雄になったではないか。ヘーゲルは農耕社会が自然の猛威に対して共同的に受動し、治水、灌漑などの局面で集団的に能動せねばならなかったコンテクストを「アジア的」と呼んだ。しかし、更に苛酷なロシアの自然は、共同的な営みを断念させた代りに、むしろ、解決の不可能性、苦しみの独在に求心して「救済」を析出したのである。現実的に、ナポレオンもナチもモスクワの寸前に迫りながら、後退を余儀なくされ、モスクワは自らを蝕む苛酷な自然によって不如意に「救済」された。体制転換の直後、既往に占有していた住居の私有が許諾されたので、モスクワの中心に住んでいた多くの市井の老人たちがマフィアたちに殺されてモスクワ川に浮かんだという。また、サハリンを含むリージョンでは「自由」だから何をやっても咎めは無いという誤認が蔓延、官憲が全く機能しないままレイプとルーティングが恒常化した。
これは単なる「自由」の履き違えではない。罪と罰の機序が不意に解消するという「救済」の感覚に貫かれている。まるで、カラマーゾフの兄弟は元祖オリガルヒだといいたくなる批評的誘惑さえ湧いてくる無媒介な「力」がいっかんして受容されてきた。二〇〇二年の十月のモスクワ劇場占拠事件では、四十一人の武装勢力を殺害するために百二十人以上の一般観客が特殊ガスで死亡した。そのような「力」の行使が、一時的な世論の喧騒の後には、ロシアの大衆心性に溶解しているのである。
二〇〇六年春にモスクワの南に位置するオストロゴズフスクでヴェトナム系ロシア人が殺された事件で当時十五歳(十四歳以下は、審理対象外)の少年たちが四年から七年の懲役を科せられたことを報じる一月二十六日のモスコウ・タイムズは、その年中に、ロシアで黒人とユダヤ人へのヘイトクライムで四十八人が殺され、四百二十九人が負傷したと述べ、レイシズム、反ユダヤ主義を含む排外感情が急速に高まっているというインターファックスのレポートに言及している。
クレムリンまで徒歩十分ほどの目抜き通りトベルスカヤの周辺を毎日歩いている実感をいうなら、今にも襲われそうな恐怖感は無い。だが、路上に警官や泥酔者が多いこともあるが、近くから遠くからのオフェンシヴな視線に曝されている緊張は身近な場所に辿りつくまでなかなか消えない。
街角を歩行する印象について、あとちょっと言葉を足してみる。広大なモスクワ市街地の中心部にスターリンタワーと呼ばれる大型の尖塔型ビルが七つ、同様の小型尖塔がいくつか、スターリン時代の建築までが比較的豪奢でフルシチョフ時代以降のものは、やたらとつくりは大きいが美観には乏しい。人口千三百万を擁するロンドンよりもパリ、ベルリンよりも巨大なこの都市は、高層ビルが無いためもあって産業、商業地域は分散的であり、似たような街区が直径三〇キロの円内に散在するイメージである。
このモスクワを歩いてすれ違う殆どがロシア系、スラブ系の白人である。ときどき、知らず、ここはヨーロッパだろうかと問いかけている。ヨーロッパの地勢に全く疎いくせにいい気なものだが、この平板な問いは、近代なるものがヨーロッパに制覇されてきた思考のパースペクティヴを自省する定番のアクションである。ベルリンの壁崩壊直後に『ヨーロッパとは何か』を著したクシシトフ・ポミアンも、「境界」の画定認識をめぐって苦戦して見せるが、つまるところ、次のような「出現」が「現在」を貫くだろう。
〈ヨーロッパの出現とは、つまり、この時点では、古代の「境界線」の外部にとどまっていた民族――じつは、当初は君主と貴族と戦士に限られてはいた
が――の、ローマ・キリスト教、ラテン語、文字へという、三つの改宗を意味
する。これによって、ローマ人と異民族の間にあった相違は完全に廃棄され、多数の部族が宗教的に統合され、唯一の普遍教会と唯一の世俗文化に共通して所属する事実に継承されているとおり、共通の起源を彼ら全員が持つのだという意識が植えつけられたのである〉(松村剛訳)
だから、ポミアンは、弱体だったロシア軍の近代化を成し遂げたピョートル一世と彼の後継がトルコ併合、ポーランド分割を経てパリに攻め込み、国内ではデカブリストの乱を派生させたロシアを、宗教よりも独裁者ツァーリを尊重し、正教と「スラブ派」の存在が圧倒的であることを理由に「ヨーロッパの一部」として認めない。だが、むしろ、「ヨーロッパの出現」に無縁であったロシアは、最後までヨーロッパなるものの公準に加担しない筈である。地政的な「境界」の相克としてではなく、「救済」の確信において。
理不尽なゴドノフは、ヨーロッパが不可能であることの暗喩の暴力として、「理」に化肉された「私」の身体を食い破るのかもしれない。
(「樹が陣営」32号より転載)