回顧・・・大学時代 仙台・東北大学 (1970年4月〜1975年3月)
高校時代はいわゆる新左翼とは全く縁が、あるいは具体的関係はなかった。
駅前で大学生が街宣をしていたのを見たくらいである。
私は地元の大学を通学で毎日登下校時通っていたが、テレビでみるような華々しいシーンは一切見た記憶がない。
また私の知る限り私の在学していた高校では紛争の経験や活動家とかビラとか一切みた記憶がなく、少なくとも学内では
平和で牧歌的な印象しかない。
わずか下駄履き禁止で少々議論があった程度であった。
下駄履きというのはエリート意識のひとつのいわゆるバンカラ風の象徴であるが、これが電車通学で他人の迷惑になる
から等の理由で禁止というものであった。
そのほかバンカラでは帽子で靴を磨いてわざと汚くするなど良く行われていたことであるが、さすがに岩手の某高校の
ように応援団がボロボロの学生服を着て闊歩するというような田舎じみたバンカラは消え去りつつあった。
テレビで当時の「新左翼」の派手な街頭活動が話題になり、ホームルームでもどう思うかというような話題になると、
多くの人は言うことはわかるが行動はどうもという要領のいい傍観者的意見が主で、私のように行動ぬきに言うことは
わかるというのは無意味というような意見をいうものはごく少数派だった。
ただし70年安保で大学がストに入ったとき帰省し高校までいってみたら学校の坂下からデモが行われ、地元大学あたりから
地元私大の銀ヘルがついてくるような状況だったのには驚いた。
大学では寮に入った。
1年から院生までいる寮で典型的なノンポリ寮であった。
教養部ではラジカルに行動しても学部にいくと急にガリベンという切れ者・分別をわきまえた連中が多かった。
教養部生だけだと寮全体が過激になりやすいが、上下関係の厳しい寮で学部にいき真面目になった上級生がいたせいで
当初は寮をセクトで利用するということは不可能であくまでも個人的行動のレベルだった。
有朋寮の解放派等のように集団で勢力をもっていたわけではないので集団の力が利用できる状況にはなかった。
大学では教養部は有朋寮を拠点とする解放派が中心で、解放派とフロント(統社同)が仲良くやっており、生協あたり
では1年のころは革マルやMLも機関紙を売っていた。
まもなくMLは消え、革マルも姿をあらわさないようになった。
寮では明善寮が民青の拠点といわれていた。
仙台全体としては、解放派が東北大教養部、フロントが東北大教養部と福祉大、革マルが福祉大、農業短大、東北大
(散在)、中核が学院大、(宮教大?)、4トロ(第4インター)が宮教大、工大、(東北大?)という布陣でやがてこれが
解放−フロント連合と中核−4トロ連合に別れ、まもなくフロントが消滅、4トロは内ゲバから撤退していった。
ただしこの辺の私の情報は中核側からのものが多いので正確さに一途の疑念はある。
仙台市議会選には解放派と4トロが出、どちらも当選できなかったが、4トロのほうが票数は多かったと記憶している。
仙台中郵ではいつも解放派と4トロがけんかしているというような話も聞いた。
私が大学に入ったときはすでに68−69年の学園紛争は伝説の時代となりつつあった。
その当時血気盛んだった人々は学部へ入り、分別を持つか、深入りした人は学校を去っていた。
さて大学に入って驚いたのは全く学生運動に縁があると思えなかった高校の同級生たちが活動家として積極的活動
を始めたり、東京で市街戦に参加したりしていたことである。
私は大学に入ったら学生運動に係わりたい気持ち満々であったが、実際の活動家と運動の様子を見て即座に疑問を
感じざるを得なかった。
そのため私自身は中途半端にしかなりえなかった。
当時は思想的にはやや解放派に近い感じ方をしていたが、これは一つはなんといっても私の幼少時からの社会党への
愛着のなせる技でもあった。
寮内では中核派の人物と仲良くし、学校にいけば解放派とうまくやるという状態であった。
私と一緒に寮に入ったアンチ・民青はほとんどそうであった。
寮生の関係は中核とが主であった。
しかしあとになると中核と解放が仲が悪くなり、教養部ではなにかあると解放がテロルぞと脅すので寮生の多くはどちら
にも深入りはしなかった。
深入り(中核)したものはすべて教養部にいけなくなり卒業できなくなった。
(高校の同級生や寮生などで中退というハンディを乗り越えそれなりの、やり直しをとげ、また最近(2011年)知った
ことであるが立派に立身出世とげた人物もいることを知った。はたして彼らにとってそのような経験は一体どのような意味を
もっているのだろうか。)
わたしは小学校高学年のころから熱心な社会党支持でそういう意味では早熟で頑固な政治的人間であったが、
高校時代にマルクス・エンゲルスを読むような早熟ではなかった。
そのため大学に入って、マルクス・エンゲルスの著作を読むようになったとき、周りでそんな本は高校時代に読んだとか、
高校でやりすぎて停学処分を受けたというような人物に逢いすごいなと思ったが、そのような早熟な秀才はほとんど学部で
ガリ勉となり、やがて体制内エリート目指して就職していった。
私はまず同期寮生と中核派氏から誘われて破防法研究会に出た。
そこでは中核・4トロと解放派が米国のベトナム侵略は侵略だ反革命だと議論し合って清水医師らを困らせていた。
あるいは「何をなすべきか」の学習会なども始めたが続かなかった。
それから1年下の寮生がやはり中核派氏にさそわれ東北大部落研を旗揚げしたのでそれにつきあうようになり、宮教大
や工大の4トロ、中核をちらりとかいま見た。
このように書くといかにも寮で中核派の影響力があるように思えるが実態は大多数の寮生はノンポリだったのであり、
中核派にはいった人物もいたが、ほとんど寮では影響力はなく、なぜいつの間に彼らが中核派にというような感じであった。
他のセクトがいなかった、たまたま中核がいたというのが主な理由だろうと私には思われる。
ただし解放派はいかにもいいかげんであった。その点中核はまめで行動力があった。
同室の中核君は朝早く起きて本山支援に出かけていたが、解放派は早起きが苦手でいつも遅れてくるというような話
を聞いた。
我々にとって最初の中核派への導き者は大学を出て当然のように即座に戦線離脱・転向した。
寮は丁度建替えが問題になっており(71年の2年次新寮完成)その当時は光熱費の負担区分と入寮選考権と入寮の
届出・願出の問題や新寮の個室か大部屋かなどで学校ともめており、議論もあったように記憶するが、結局建替えの
ため学校のいうことを呑んだように記憶している。
寮の総会で威勢のいい情勢分析を載せその後大学教授になった人物に批判されシュンとしたようなこともあったと記憶する。
そのころはまだ良識が通じる状態であった。
私が寮に導入した森永牛乳の値上げ問題から寮生は中核派氏に示唆された森永砒素ミルク中毒問題にもかかわる
ようになり、生協との交渉などにも参加した。
卒業間近には教養部の自治会選挙に解放派と一緒の候補名簿にのるような人物も出始めていたようだが、寮では
ほとんど議論を聞いたことがなく唐突な感じを受けた。
このような状況であったので後に寮が中核派の拠点と聞いてどうしてそうなったのか不思議であった。
私の同期は比較的関心派・無関心派の差が小さかったが、後輩は学生運動を極端に忌避する連中が増えていたように
思えるだけに、その極端な両極化と内容の薄さに疑問を感じていた。
内容のない連中ほど簡単に、極端に威勢よくなっていたような気がする。
私の身近でいわゆるセクトに入った人は何人かいるが、なぜセクトに入らねばならなかったのかは私には不明である。
私は寮内で政治的・イデオロギー的議論をよくした部類であるが、いわゆるセクトに入った人は寮内で議論をすることは少なく
具体的にどういう動機で何のためにそのような行動に至ったのかはわたしにはよく理解できない。
ほとんどある日突然という感じであった。
わたしのような生い立ちの人間からすると、そのような人の多くは私より上層階層の出身に見え、それほど社会矛盾、階級
矛盾を体感しているようには思えなかった。
数年後に寮を訪れ便所の汚さと寮内の乱雑さが気になった。
私が最初に入った寮は古くて便所は消毒剤でくさかったが、いつも小奇麗に掃除されていた。
当時、東北大寮連は民青が握っていたが、始めの頃は有朋の連中は出席せず、我寮のアンチ・民青諸氏も意見をいうことなく
賛成していた。
学館問題で裁判所の傍聴にでかけたこともある。
大学の学寮専門委員のメンバーとの夜遅くまでの団交に参加したこともある。
もと寮生が学寮専門委員となり寮生の批判を受けているのは皮肉なことである。
前後するが、入った年は70年安保でまともに授業がはじまらないうちにストに入り、やがて夏休みとなり、まともな授業は
ほとんどなかった。
学生大会では解放派案がスト期間が長いというだけの理由で採択された。
学生大会に学生がまともにあつまるというのは少なく、ひどいときは有朋寮生分が大量に委任状として加えられたりした。
71年は沖縄返還闘争の年で、衆議院で強行採決があったときは学生大会中でこのときだけは民青もアンチ民青もなく
ほぼクラスごとに川内から片平まで無届デモにでた。
これが本来の姿であってほしかったがこのようなことは私の体験でこの一回だけである。
当時の仙台は一般にデモでは民青の方には東北大看学や国立看学の女性たちが大量に参加しておりうらやましい限り
であった。
アンチ民青では福祉大あたりの女性が少々いたような気がする。
沖縄返還闘争に関しては片平で抗議の焼身自殺をした学生もいた。
そのほか、入管とか叛軍闘争とかで苦竹基地までいったこともある。
管野教養部長の監禁事件のときは、当初教授室でノンセクトの連中がなにやら批判などしていたらしいところへ解放派が
のりこんできて教室まで連れて行った。
最初の2年の終わりは授業料値上げ反対で期末試験前に無期限ストに入った。
学校は先手を打って臨時休校にしたのだが、思いのほか学生が集まってストは成立した。
そのあとは校舎封鎖、民青が自主解除に動いているからということで深夜教養部まで雪のなかでかけたが遅くなっても
なにもなく、教室に泊まった連中もいたが、私は寮に戻ったというようなこともあった。
その後は機動隊導入による封鎖解除、校舎を金網で閉鎖し、機動隊常駐での期末試験強行、大量留年といたる。
このなかでバリケード封鎖された学内で学園の荒廃を愁えるといって自殺した学生もいた。
この闘争以降学園紛争は沈静化する。
東北学院大も授業料問題でストを行ったが、このときは右翼・体育会系が封鎖解除しようとしているというので支援しようと、
隣接する片平に集まったことがある。
学院のほうからはワーワーという歓声が聞こえてくるが、結局東北大生の出番はなかった。
宮教大は当時教授会が反対声明をだすなどしていた。
また4トロの女性が自治会委員長になったりし、そこへ解放派などの教養部の連中が何の意味かデモをかけたりしたこともある。
この情勢は後に多摩地域のほうで市議になったようである。
当時の宮教大の学長は林竹ニ氏で、我々の寮の裏の官舎に住んでおり、私たちの追いコンのときだと思うがひょっこり顔を見せ
うれしく思った記憶がある。
授業料値上げ紛争以降、解放派等は騒動を起こすため下っ端の教官連中をつるし上げ機動隊の導入を招き、退学処分者
もでたがこんなことをしても最早煙はたたなくなった。
このころから新左翼は過激派と呼ばれるようになり中核派は粉砕にかえて爆砕などという言葉を使用するようになり、
明治公園での機動隊への爆弾投下などが起こった。
この明治公園事件のすぐあとの仙台でのデモは厳しく警察にやられた。
当初は交差点でジグザグデモを始めてもほとんど機動隊は動かず、変だなと思っていたが、片平校舎近くで機動隊に行く手を
阻まれ、デモ隊は歩道に乗り上げ、気着いたら回りを機動隊に囲まれ、ヘルメットが飛び交い次々にデモ隊員が機動隊に引っ張
られていった。
私も観念したが、幸いに体勢を整え再びデモに出て行く連中がいたのでそれについていった。
機動隊が両側を取り巻き拳骨の雨のなか必死だった。私は眼鏡を奪われた。
このデモでは10名前後参加した寮生の半数が戻ってこなかった。
この留置所経験者の多くは現在は体制内でそれなりの地位についているはずである。
私が機動隊との市街戦を始めて経験したときはデモが終点の片平校舎についても中核派と4トロがなにやらゴソゴソやって
おりみんな期待する雰囲気で解散しなかった。
そのうち両派の宮教の女性たちがコーラ運搬の箱(?)に石を入れて運んだりし始めやがて、片平からでた一番町終わりの
十字路で路上集会をはじめ機動隊が来るのを待ち、市街戦となった。
この後何回か市街戦があった。
宮下公園事件のあとだと思うが仙台でも内ゲバが始まった。
解放派と中核派が仙台で最初に内ゲバを行ったときは川内から片平にデモで行くとき解放派は車に竹棹を積んでいた。
片平についたとき中核派が少数で集会をしていたが解放派はこの連中に難癖をつけやがて追い散らしたが東北学院大を
拠点とする中核派が体制を整えて戻ってきて解放派は粉砕された。
内ゲバは圧倒的に中核が強かった。
このあとしばらく片平は中核・4トロ連合に制圧され解放は片平にいけなくなった。
それと同時に中核は教養部にいけなくなった。
私の同室の中核君が革マル襲撃に加わり、我が寮が革マルから睨まれ始めた頃私は寮の非常口のすぐそばの部屋で
毎晩少々いやな思いをしていた。
幸い壁への落書き程度ですんだが。
この中核君は寮の警察による家宅捜査の原因をもつくり、その後大学教授になった法学部の方が必死に警官と対応して
いたのを覚えている。
大学祭では大内秀明指導下(?)の協会派学生が鎌倉孝夫(当時私は彼の本を愛読していた、大内の八方美人ぶりに
比べ彼はかなり政治性がはっきりしていて好きだった、今の彼にはとてもついていけないが)をも招いて講演会を開いた
ことがあったが、うしろでは解放派がにやにやしながら聞いていた。
一度川内で民青とアンチ民青が対立し投石戦となったが、アンチ民青は校舎(理科実験棟?)の特に窓ガラスのある部分
をバックとし周囲を全学から集まってきた民青が囲むという状況で対峙した。
もちろん窓ガラスが割れるのを遠慮して民青が投石できないというのを見込んでの姑息な作戦である。
革マルは一度、川内に隊列を組んで太い竹ざおもって情宣に来襲したのを見たきりである。
他のグループでは、あるデモのとき私は中核の隊列のうしろについていたが、そのときブントが後ろで「蜂起貫徹、内戦勝利」
などと勇ましい掛け声で十数名デモッテいて、ジグザグのときは単独でデモれず、わたしたち(寮生2名)の後ろにくっついて
腰がたかいのなんのと文句を行っていたので、文句があるならくっつくなといった覚えがある程度である。(71年)
数が少ない割りには女性が数名いて、警官がびっくりしていたことを覚えている。医学部周辺のグループと聞いたような覚え
がある。
そのほか原理・勝共連合が暗躍していた。一番町ではよく議論した。
同期の寮生に生長の家会員がいた。生学連とか民族派全学連など盲動していたようだが。
三島由紀夫の自決事件に加わった連中がそうである。
彼の部屋には生学連の機関紙(?)などがあってよくみていたが、原理・勝共連合と手を組んで民族派全学連などのでっち
上げ策動をしていたが、反共だけで文鮮明の原理・勝共連合と手を組むのはいかにも無理があったし、そもそも大学生等への
影響力で差がありすぎたろう。
同期の寮生も2年の頃学生大会でYP体制打倒とかやったこともあるが、なにせアジが下手で、しかも多勢に無勢で回りが
なんのこたやらわからないうちにコツンとやられて終わりになっていた。
この人物は後にいつも一緒に行動していた同志(?)に殺されつまらない週刊誌の醜聞の餌食になった。
余談になるが、当時吉本隆明の本を持ち始める転向するぞと言う人がいたが、私に、入学当初私の
知らない知識を披露して驚かせていた人物が学部に行くころになって、そのようにして普通の真面目な学生に変身していった
のには、そこまでもして体裁を繕わなくてもいいのにと苦笑せざるを得なかった。
73年に学部にいってからの教養部の情勢はわたしには分らない。
私自身は大学後期は思想的には彼らのいう社民の道を歩み始めていた。
私は資本論の体系を理解したいと思った。しかし私には歯が立たなかった。
なんとなく体系がおぼろげにわかったような気がするのは宇野理論のおかげである。
しかし勿論正統派にいわせればそれはマルクスのものでないというであろう。
もっとも彼ら(特に市民社会派や神秘的マルクス派−広松、梯ら)が自分たちの考えをこれはマルクスの真意であると
いう形で主張するのと、宇野がマルクスのあやまりや十分に解明しなかったことを自分なりに解明したというのと実態はかわらない、
違いはマルクスの顔を立てる形で自分の主張をしてるかどうかの違いだけなのだが。
私は宇野理論の美しさに魅せられた。なんと美しい理論体系であることか。
正直いって民青のほうがはるかにいいやつ、まともな連中が多かった。
私は反日共系といわれる連中にはついていけなかった。
(ちなみに学校卒業後、職場でつきあったのは民学同系の人たちと共産党の人たちだけである。
民学同系の運動は大阪を中心にどちらかというと社会党のやや右派よりの人たちを利用しなかがら主に
市職組等に依拠していた人たちであったようだった。
どこにもいたのが元全共闘で企業では会社派として組合幹部をやってるという連中である。)
ところで、全共闘運動は大学の前近代的体制や権力主義的体制への批判が起点というまっとうな論理が始めはあったが、
最近は大学の大衆化に伴う非エリート大学生のルサンチマンなどという説もでているようだが、少なくとも私が見聞きした
現実は先頭をひっぱっていたのは暴れたい、目立ちたいという粗暴な連中であった。
ともかく彼らは自分の育った故郷で家族や親族、幼馴染・近所の人々とはできない議論・行為あるいは披瀝できない
思想を、故郷を離れた大都市の大学内やその周辺で行っていたのであり、それらの論理、行為は当然大学を出て企業で
や生活空間で披瀝・展開できるものでもなかった。
故郷を離れ、多くは一時的通過者としての存在である学生を多く抱えた大学内でだけでできる行動・行為であった。
大学自治に縛られ理性を旗印とするか弱き知識人を相手に、そして通過者として、やくざを避けるようにかれらを避ける
他の学生大衆のなかで彼らには思う存分暴れまわることができたのである。
とにかく私自身彼らが怖くまともに議論する気にはなれなかった。
このような次第であるからその後同じようにstudent powerが荒れ狂った独仏などと異なり日本ではほとんど学生運動ないし
学生自治会というのが成り立たなくなった(ほんの一部のセクトでっち上げを除き)のは故なきとしない。
学生時代は色々あってもともかく無事就職した人間が、そのセクトの運動を就職先の特に民間企業で展開することはわたしが
見聞きしたかぎりではいわゆる当時の過激派には絶対にありえないことであった。
60年前の講和と安保はそれなりに意味があると思うが、全共闘、70年プレ安保、70年安保、沖縄返還といった一連の
騒動は一体なんであったのか。
私は私自身の育成環境から、単純に労働者が主人公となり支配者としての資本家のいない公平で正義の社会を夢見、
そして自分たちの、若者の行動で社会が変わりよりよき社会が建設されることを希望していた。
このような若者の変革的行動のなかで戦前思想の年寄りがいなくなれば日本はもっとよくなるだろうと思っていた。
ところが戦前思想の老人たちはしぶとく生き、その後継者をみごとに見出した。
戦後の日本社会の<民主化・近代化>に邁進した人々は日本の高度経済成長と大衆社会の前に自らの思想の行方の
困難さを見出しながら一人また一人と死んでいった。
現在の私にはかつての全共闘世代はかつて罵倒し乗り越えようとした丸山真男らのはるか下に醜悪にあるいは無気力に
あるいは惰性的にあるいはあまりに凡庸にのうのうと生きているとしか思えない。
後半の丸山は体裁がなかったといわれるが、その理由はかれらの啓蒙主義の敗北にあったのではなかろうか。
かれらが啓蒙の対象とした労働者・市民は保守化・体制化した。急進的学生は粗暴の頂点に達した。
片方の支えは瓦解し、片方の支えが逆に彼らに牙をむいた。もっとも大学内では牙が先でよりダメージが大きかったが。
それにしても大言壮語した旧急進的学生は社会に出て一体どうなったか。いまさら言う必要はないであろう。
以下は学生時代の範疇を越える最近の私の思想内容である。
マルクスの予言とくに労働者信仰に基づく予言は基本的にはずれた。
そもそもマルクスが資本論を労働者が読むものと考えて書いたことは理解しがたい。
マルクスを根拠とするレーニン主義の主体的行動も敗北した。
しかし資本論の本質の解明したところはますます増大していっているような気がする。
経済というものの人間社会への強い影響と、それへの人間の隷従ということである。
社会主義の敗北は究極において精神的動機付けの物質的動機付けへの敗北であり、経済というものへの人間の隷従性
を解明し、これを廃棄するには主体的に意志で資本主義を廃棄する必要性を明らかにしたのが資本論であろう。
ソ連の崩壊は資本主義の労働者への譲歩を後退させ、労働者という普遍軸を消滅させ、民族・宗教という分断性を増幅
させることとなった。
私が入った企業の企業内組合は民主主義を旗印に権力維持のためには民主主義と自由を抑圧するに必死な組合であった。
総じて日本の労働運動に中心となった組合は現業部門のいわゆるブルーカラーが中心で、組合幹部はそのような人たちの出世
コースであった。
それはまた職制的であり親分・子分的であった。
共産党が官僚的であるなら社会党の労働運動出身者は親分子分の世界であったと思われる。
そのような集団主義的労働運動の敗北から学んだ私の新しい道は人権を基礎とする自律した諸個人の意志による行動の
必要性である。
この点で大きな影響を受けた樋口陽一氏の名は学生時代、法学部の連中の口から聞いた。
知事選の候補となっているというような話であった。
それ以降ずっとその名が気になっていた。
私の社会党への心情は依然として強いものがある、しかし近づけば近づくほど落胆を呼び起こすところがあるのも社会党
である。
ふるさとは遠きにありて思うものという感じである。
なお大学卒業後については60歳以降に詳しく回顧するつもりである。
以上05.1.17.書き加え 06.5.28.追加 07.09.25再書き換え