
所 在 地 愛知県清須市朝日城屋敷1−1
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築 城 室町時代初期、尾張の守護職であった斯波義重が清須市と隣接する稲沢市にあった下津城の別郭として城を築いたのが清洲城の始まりとみられています。
この城には守護代として織田敏定が入りましたが、文明8年(1476年)下津城が戦火で焼かれたことから清洲に守護所が移り清洲が尾張の中心となりました。
とはいうものの織田一族は勢力争いに明け暮れておりました。弘治元年(1555年)織田信長が一族であり守護代でもあった織田信友を攻め滅ぼして那古野城から清洲に移り、ようやく安定してきます。右の写真は清洲城天守(模擬城)です。
力をつけた信長はやがてこの城から出陣して桶狭間で今川義元を破り天下に名を挙げます。信長は約10年間清須に居城しましたが、この後、小牧山城、岐阜城、安土城と居を代え天下統一の道を歩みました。

本能寺の変のあと、信長の後継者を決める、いわゆる清洲会議が開かれました。豊臣秀吉が推す信長の孫秀信が後継者となり、次男の信雄は尾張国を相続し清洲城主になりました。
信雄は天正14年(1586年)城を大改築し三重の堀を構えた大城郭としました。天守、小天守なども設けられた豪壮な城にしたといわれますが、詳細は分かっていません。
徳川時代に入り清洲城は廃止され尾張の拠点は名古屋城に移りました。町並み、町民もそっくり移転したわけで、いわゆる「清洲越し」です。廃城となった清洲城は天守の資材が名古屋城築造に使われ、また水害などもあって完全に形を失ってしまいました。
天守は模擬城、城址は公園 現在の天守は旧・清洲町の町制100周年を記念して平成元年(1989年)に再建されたものです。資料がほとんど残っていないため外観は想定して作られました。

上の案内図(クリックすると別ウインドウで大きく表示されます)をご覧頂けばよく分かりますが、建造された場所も本来の古城址・天守台跡とは五条川を挟んで対岸となっており、史実とは関係のない朱塗りの橋で城址と結ばれています。
左の写真が天守の望楼から見た城址です。五条川に架かる朱塗りの橋の向こうが城址を整備して出来た清洲公園です。都市化、宅地化で破壊され、かろうじて公園として残っていますが、さらに写真の右上から左下に走る東海道線、同新幹線で東西に分断されています。
朱塗りの橋を渡った向こうの林が天守のあった場所で清洲古城跡公園となっています。
その左の線路を挟んだ反対側の森も城址の一部です。清洲公園となっております。

大手橋・大手門 右の写真は古城跡公園の一角に建つ「ふるさとのやかた」前から見た大手橋と天守です。
天守の建っているところは一応、本丸跡のようですが、実際の天守跡は撮影位置の背後になります。史料がないので天守台跡に立てることが出来なかったようです。
大手橋と称している朱塗りの橋も実際にあったのかどうかは分かりません。古城址と天守を結ぶために作られたもので、俗受けを狙って作られた形、色のようです。とはいうものの模擬城とあいまって、それ相応の雰囲気は出しています。

左の写真は大手門越しに見た天守です。鉄骨鉄筋コンクリート造3層4階建手です。なかなかに見栄えがします。

御殿 右の写真は、上の写真の天守の左側に続いて建てられている芸能文化館です。御殿風の外観をしており、かつて清洲城内にあった「黒木書院」を模した和室、「芸能の間」などがあります。
この写真の撮影位置の後ろが搦め手門になります。

搦手門をくぐり天守の東側にある広場に出て撮ったのが左の写真です。画面左端に搦め手門があります。

天守閣内部 右の写真は天守閣内部です。コンクリート作りの城ながら内部は木造の感じを出して建てられています。
画面左の窓は出窓になっていて、写真ではちょっと分かりにくいですが、石落しが設けられています。
展示品としては遺跡出土品、郷土の歴史や文化の資料、武具、手作りの甲冑などがあります。

また信長を中心にした人形たちで桶狭間出陣の模様を伝える展示もあります。
出陣に際して信長は能を舞い高ぶる心を静めたあと馬に飛び乗り熱田の社で戦勝を祈願してから桶狭間に向かったと伝えられますが、左の写真のように能を舞う場面を再現しています。
濃姫が鼓を打ち、そばに家臣や小姓が控える中で敦盛を舞う信長、そういった人形が展示されています。
写真はいずれも2009年9月25-26日撮影。
2009年10月26日記す。
2009年11月30日追加更新。
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