沓掛城


所 在 地 愛知県豊明市沓掛町東本郷11
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遺  構 本丸跡、二の丸跡、諏訪曲輪、侍屋敷跡、土塁、堀など

築  城 鎌倉時代末期の正中2年(1325年)近藤宗光が後醍醐天皇に召し出されたといわれ、この頃すでに城があったようです。

 その後、近藤氏が代々続き、9代景春は初め岡崎城の松平広忠に仕えていましたが、織田氏の勢力がこの地におよぶと織田氏につきました。さらに織田信秀が没すると鳴海城主山口義継が今川氏に寝返ったために景春も今川氏に属します。

 右の写真は発掘調査に基づいて整備されている沓掛城の本丸跡です。









 永禄3年(1560年)桶狭間の合戦前夜、今川義元がこの城に宿泊し諸将を集めて軍議を行ったことでよく知られています。

 合戦の後、景春は城に戻りましたが、織田勢による城攻めを受け落城、景春は討死して近藤氏による支配は終わりました。

 このあと桶狭間の合戦で功のあった信長の武将・簗田政綱に城が与えられ次いで織田信照、川口久助が城主を勤めました。

 関ヶ原の合戦で川口機久助は石田方について敗れたために城は没収され廃城となりました。






本丸跡 右の写真は大手門跡から見た本丸跡です。一番上の写真とは反対方向から撮影しています。

 周囲には土累が巡らされ、かなりの広さがあります。今川義元が桶狭間の合戦前夜に宿泊し軍議を開いたというのもうなづける規模です。






空堀跡 右の写真は本丸西側にある空堀です。

 上の写真の左側にある土累の向こう側が、この写真のような空堀になっています。

 幅、深さとも十分にあり防御は固かったようです。

 写真右側の石垣、城塀は隣接する寺院のもので城とは関係ありませんが城址という感じを引き立てています。






 右の写真は本丸東側の空堀です。

 西側の堀よりも一段と幅が広く深さもあります。点々と見える人物の大きさから規模がお分かりになるでしょう。

 一段低くなったところは現在、ショウブ、カキツバタが植えられて整備が進んでいました。






二の丸跡 本丸南には二の丸跡があります。写真では一部しか写っていませんが、もう少し広い部分が残っています。

 実際にはもっと広かったようで、写真に少し見える住宅地の先までが二の丸だったようです。







諏訪曲輪跡 左の写真は本丸の西側にある諏訪曲輪跡です。

 本丸とは堀で隔てられていて少し高くなっており、現在は雑木が茂っています。


 この他に現在はただの空き地ですが、侍屋敷跡も残っています。一部は現在、城址用の駐車場になっています。

城址公園 この城址は昭和56年(1981年)から3年がかりで豊明市が発掘調査をし、その資料に基づいて城址公園として整備されました。

 いま見られるのは桶狭間の合戦後に城主となり城の整備などを進めた簗田政綱時代の縄張りということです。

写真は1999年2月23日撮影。
1999年5月18日記す。
2003年6月6日更新。
写真の一部は2007年6月25日撮影。
2007年6月27日追加、更新。