
所 在 地 愛知県新城市長篠字市場22−1
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築 城 永正5年(1508年)今川氏の部将菅沼元成が築城し、代々菅沼氏が居城としていました。
城は豊川本流(寒狭川)と宇連川がY字形に合流する50メートルもの断崖上に築かれています。
信濃と三河を結ぶ交通、戦略上の要衝に位置しており、武田、今川、徳川の勢力が奪い合いをしていました。
右の写真は二の丸跡に建つ長篠城址史跡保存館の2階テラスから本丸を見たところです。
木立の向こうに明るく広がる芝生の広場が本丸跡です。
武田勝頼が1万5千の兵で城を囲んだときの城主は徳川家康の将・奥平貞昌(後の信昌)で、守っていたのはわずか5百の兵でした。

二の丸跡の長篠城址史跡保存館 右の写真が二の丸跡にある長篠城址史跡保存館です。
館内には長篠城の攻防戦、それに続く設楽原の合戦などの様子を記した絵巻、地図など、まだ火縄銃などが展示されています。
武勇の誉れ高い鳥居強右衛門 武田軍に囲まれた長篠城から脱出、徳川、織田軍に援軍を伝え帰城の際に武田軍に捕らえられた鳥居強右衛門の逸話も関連する絵図や旗などで展示されています。
強右衛門は城の対岸から援軍は来ないと偽りを伝えるように命じられましたが大声で援軍が来ると叫び、その場で磔になります。厳重な囲み、急流を泳ぎ渡っての脱出、そして命をかけての援軍の知らせなど三河武士の武勇の鏡と後世にまで名を残しました。
徳川、織田の援軍が来たため武田軍は囲みを解いて近くの設楽原に馬を進め、当時の近代兵器・鉄砲と戦国時代最強といわれた騎馬軍団が激突、この戦いに負けた武田家は滅亡することになります。
長篠、設楽原の合戦後、奥平信昌は近くの新城に城を築いて移ったために長篠城は廃城となります。資材は新城城の築城に使われました。
遺 構 本丸跡、野牛郭跡など郭跡、土塁、堀など。

本丸入り口に立っていた縄張図 一番上の写真で傘を差して歩く二人の間に城の概要を記した説明板と縄張図が立っていました。
左の写真は、その縄張図の一部を拡大したものです。説明を読んでいるときに位置がよく分かるようにと縄張図は上が南になっいます。
元々はかなり広い城のようですが、現在は大手門をかすめ大手郭を横断して搦手門脇にまで国道151号が通るなどしており、往時を偲ばせるのは本丸とその周辺だけです。
画面中央にある二の丸帯郭跡が現在は駐車場になっていて、そのすぐ右側に長篠城址史跡保存館が建っています。

本丸を囲む土累 一番上の写真で画面中央にある本丸への入り口の左側に石段が見られます。これは上がると本丸を囲む土累の上に出られました。
石段を上がって直ぐのところが左の写真です。長篠城址の石碑が建っていました。
石碑の直ぐ後ろが堀になっています。今は空堀ですが、合戦当時は水が湛えられていました。右側が本丸になります。

水堀として使われた矢沢渓跡 一番上の写真で、傘を差して歩く人の進行方向・直ぐ先が右の写真の矢沢渓跡です。
現在は空堀のような形になっていますが、本来は渓谷で、水堀として利用していたわけです。
堀の左側が本丸、右側は弾正郭になります。
渓谷は少し先で寒狭川に流れ落ちます。
本丸の全景 本丸入り口から入って直ぐ右の方に回って写したのが下の写真です。


本丸から武田軍の砦を望む 本丸を突き切って南端に行きますと宇蓮川越しに小高い山々が見えます。
宇蓮川越し・・とはいうものの実際に本丸跡に立っても樹木が茂っていて川も、また断崖も見られません。
城を包囲した武田軍の武田兵庫頭信実(信玄の弟)ら各武将は、この山の1つ1つに砦を築きました。
徳川・織田の援軍が来たたため武田軍の本隊は設楽原へ進出しますが、この砦の部隊は長篠城の押さえとしてここに残りました。
説明板が立っていて山の1つ1つに、どの武将が陣取ったかの説明があります。

野牛郭跡とJR飯田線 本丸跡の南端には少し低いところを東西にJR飯田線が通っています。
さらに一段低くなったところに野牛郭跡があります。
左の写真が野牛郭跡とJR飯田線です。
野牛郭跡は整備の工事中なのでしょうか小型のパワーショベルが入って作業中でした。

断崖の上に建つ城 左の写真は長篠城址史跡保存館に入場した際にもらったパンフレットにあるものを転載しました。
下を流れる寒狭川から50メートルもある断崖の上にある城址の様子をよく現しています。
鉄橋を渡ってJR飯田線の列車が走っています。その先頭、画面の中央あたりが野牛郭でしょう。さらに一段高くなって本丸になるはずです。
訪れた日はあいにくの雨、もやっていましたので今度は天気のよい日に来て断崖の写真や大手門辺りなど周辺写真も撮りたいものです。
写真はいずれも2006年12月9日撮影。
2006年12月11日記す。
2007年1月7日追加更新。
