田原城


所 在 地 愛知県田原市田原町巴江
  (上の地名をクリックして下さい。地図が表示されます)

築  城 田原城は文明12(1480)年、三河の戸田宗光が現在地に築いたのが始まりです。この城は本丸に城館を置き、二の丸との境に空掘を掘った程度であったと推測されています。

その歴史 天文16(1547)年、岡崎の松平竹千代(のちの家康)が人質として今川方に送られる途中、戸田宗光が奪って織田方に渡しました。このため今川義元に攻略され戸田氏は減亡、今川氏の城代が入りました。

 桶狭間の戦いの後は徳川家康の勢力下となり、天正18(1590)年、田原城は吉田城主池田輝政の支配となり、家老伊木清兵衛によって石垣が築かれました。

 池田輝政のあとは戸田尊次が父祖伝来の地に返り咲まきますが、3代で肥後天草に移封、替わって三宅康勝が1万2千石で三河挙母(現在の豊田市)から田原城主となり、以後、三宅氏が12代続いて明治維新を迎えました。

 


別  名 巴江城、今宮城

遺  構 現在残っているのは石垣、堀、空堀、井戸、郭跡などで、復元された二の丸櫓、桜門、古井戸などがあります。

 上の写真は復元された桜門と袖堀です。

 桜門を正面から見たのが左の写真です。

 門をくぐると右手は三の丸、左手に二の丸、正面に本丸があります。

 






復元二の丸櫓 本丸に天守閣はなく、二の丸櫓が天守閣に代わって城のシンボルの役目を果たしていました。

 現在の城址には立派な白壁作りの二の丸櫓が再建され、田原市博物館の一部となっています。

 右の写真が二の丸櫓で、左側の門が大手門に当たる桜門で、これも復元されたものです。

 いずれも立派すぎて、往時のものとはかなりかけ離れた形、構造のようです。

 






二の丸櫓の石垣 二の丸櫓の石垣は池田輝正時代のものと思われる野面積みのもので、地元産出の石灰岩も混ざっています。

 訪れたのが新緑のきれいな頃とあって、緑いっぱいでなかなか風情がありました。

 本丸跡は現在は巴江神社となっており、元々天守はありませんでしたので時代をしのぶ建築物は何もありません。

 また三の丸跡は護国神社となっています。





搦め手の空堀 左の写真は二の丸の北側、搦め手にある空堀の跡で、現在は整備されて散策路のようになっています。

 写真の中央、奥の方に門が見えますが、その先が駐車場になっています。

 マイカーなどで訪れた観光客、見学者は搦め手から入り、空堀跡をたどって二の丸などに行くことになります。






 板張りの散策路の突き当たりが左の写真の石段になります。この石段の踊り場から振り返って撮ったのが上の写真です。

 田原城は渥美半島の三河湾側にある蔵王山から続いている丘陵地にあります。その丘陵地の小高い丘の上にあるわけです。

 空堀跡の散策路をたどり左の写真の石段を上がっていると田原城が丘の上に築かれていることがよく分かります。

 



古井戸 上の写真の石段を上がっていくと途中に古井戸があります。遺構の1つで、整備されて右の写真のように標柱が立てられていました。



渡辺崋山 田原藩といえば渡辺崋山が有名です。崋山は天保3(1832)年、家老になりました。田原藩がもっとも窮乏した時のことです。

 崋山は西洋事情を学び、その知識を生かして藩政を改革、功績を挙げたのですが、「蛮社の獄」で高野長英らとともに捕えられ、自刃して果てました。

 二の丸跡にある田原市博物館には崋山の絵画や生涯を紹介する資料などが展示されています。また博物館とは道路を挟んだところに崋山神社があります。

写真は2002年5月12日撮影。
2002年5月21日記す。
 2005年4月5日追加、修正






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